わざわざ、風が強くて手拓日には不向きな日に訪ねました。事前に、手拓許可を得てこの日に決めていたので意を決して出かけました。それも、高200.0×幅175.0cmの碑表を全面手拓に加えて、碑陰にある銘文も手拓しようという計画なので、それこそ眦を決して出かけました。職員の方に挨拶をしてから早速に両面とも水洗い。見たところではそれほど汚れも目立ちませんでしたが、流石に手拓するためと水洗いすれば結構な汚れでした(写真は、水拭きが終わった段階での撮影です)。本日は、邸内茶室で大きなお茶会があると聞いていたが、多くの紳士淑女が和服などで美しく着飾って、この前を通る。そこで、お茶会が始まるまでは、碑陰に回れば目立たないだろうと考え、まずは碑陰にある銘文から採択開始。半切画仙紙3枚丁度で手拓完了。この時点で昼食として1時間ばかり休憩。
午後1時丁度から、いよいよ碑表の手拓開始としたが、何しろ風が強く吹いているので画仙紙の中でも厚みのある用紙で採択することにするが(仕上がりが悪いので、本当は良い画仙紙で採りたかったが仕方なし)、手持ちの画仙紙長さは135cm。仕方が無いので、下部の何も刻まれていない一部を省略することにして、上部は65cmの長さの画仙紙で継ぎ足しすることにした。また向かって右側の一部は風が強くて画仙紙が独りでは貼れないので、少しだけだが一部画像手拓を断念せざるを得なかった。そして特に水張りに悪戦苦闘し、今度は風があって画仙紙の乾きが早く、加えて墨入れに四苦八苦。そんな状態を見ていた人々からは、拓本を採るのは大変な作業なのですね、と慰められる始末。それでも何とか3時間余り掛かって半切用紙で8枚分の碑表手拓が完成した(しかし、予想した通りに出来が悪い)。碑表の梅の絵は、田崎草雲の門人である小室貞である。そして碑表の題名を揮毫したのは、明治の三詩人の一人と称された小野湖山であり、時に九十六歳とあるから、亡くなる少し前(翌年の4月に歿)のものである。
碑陰には小野正弘撰文とあるから、多分に小野湖山の息子であろう。そして揮毫者は、下野の藤本周三であり、石工は井亀泉であるから、東京で作られてここへ運んできたものである。そうそう、肝心な建立日は明治42年九月とある。いずれにしても、拓本の良し悪しは別にして採れたので、その後の清書と拓本画像化等は当分お預けとなりそうである。
※念のために書き加えておきますと、一般の方の拓本採りは禁止となっています。