この江戸末期から明治期にかけての下野都賀郡地区にて最も活躍した儒者は、鴎村・森 保定として異論のないところだが、その森 保定と同郷そして同じ時期に同じ郷師について学び、竹馬の友として一生を共に過ごした今回の山士家翁は、学問は勿論のことだが郷土愛に溢れた人物である。そして故郷を愛する心から地元を始めとして多くの役職を兼務しながら常に学業と産業殖産に尽力した人物である。今回のこの石碑は、その彼が亡くなってからの森 保定の撰文である。篆額揮毫者は、西郷隆盛の弟である西郷従道。そして銘文揮毫者は、彼の金井之恭という内容であり、それを刻したのは地元で名高い高瀬鶴皐という人々によって出来ている。その内容、いつもの森 保定節は余り見られず、いつもらしくない平易な文字使いでその業績などを詳しく紹介している。一人でも多くの人に、山士家翁について記憶に残してもらいたい心からだろうと思う。
しかし、その石碑はいわゆる巨碑の部類に入り、高さは321㎝。幅が116㎝という大きさであり、それを調査し拓本を採るにはさすがの私も難儀した代物である。正直言って、75歳を過ぎた老体独りで、このような大きな拓本を採るには無理がある話である。篆額から銘文最下部まででも236㎝もあるので、早朝の8時からの碑面掃除から始まって、半切用紙で7枚(篆額部分は全紙の三分の二サイズ)と裏面の交名部分の全紙1枚余の手拓が終了したのは夕方の6時半(その間は休みなく昼食もパン類を立ち食いしながら作業続行するという、ここ何年か振りでの精魂・体力を使い果たした作業であった。しかも今回に限って、携帯電話を家に忘れてきたので、帰宅がいつもより大幅に遅れることの連絡も出来ず、結果的には家内に余計な心配を掛けてしまった。
最初に、全景写真を掲載したが、この写真は再度の撮影し直しが必要である。次が銘文を作字文字で掲載したが、夏場は石碑調査にも出かけられないのでじっくりと構えて5日間×8時間作業で成し遂げた。その一見無駄な努力を拓本画像と共に御笑覧下さい。また、拓本をパソコンで取り込むのに、A4サイズで60画面に分けて作業をしましたが、これも結構大変な時間を要する作業でしたが、幸いなことに銘文が素直に読めた分だけ助かりましたが…。今年は、このような巨碑の手拓作業はしたくない気持ちでいたら、何と今度は佐野市内でまたしても森 保定撰文の巨碑に出会ってしまいました。しかもそれは上部が大木の枝に掛かっていて、それを伐採しなければ手拓出来ない有様。嗚呼、どうしようと今から悩んでいる次第です。誰か、助手となって手伝ってっくれる方の出現を心から望んでいる。(笑)
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