2010年3月27日は、すばらしい晴れの中を栃木県国分寺町(現・下野市)の石仏巡りに出かけました。この国分寺町の石仏巡りも、ずいぶん前に石幢六地蔵を探しに一通りは巡っていますが、今回から今までの国分寺町調査をリセットしてゼロから調査することにしました。国分寺町という名の通り、今回は国分寺地区から、そして紫式部伝説のある紫地区から入りました。ほとんどの石仏所在地が分かっているので気が楽なもので、途中では咲き出したばかりの桜見物やら、姿川土手にひろっがっている菜の花を眺めたりと、のんびりした石仏巡りとなりました。それでも、特に今回の碑塔調査で真剣になって調査したのは、国分寺境内にある自然石で、それは旧石橋町の教育委員会調査で「天念仏塔」となっているもののの再確認で、昔の私の調査能力では何とも決着がつかなかったものです。そこで手拓を取り、現地で現物相手ににらめっこをした結果、それは「大念仏」の文字読み違いと判定しました。また、国分寺西小学校前にある笠付き四角柱も、像容確認等に行きましたが、報告書では地蔵像となっているものは阿弥陀如来様であり、両側面に浮き彫りされた勢至菩薩と聖観音像からも、それは阿弥陀三尊を表現した念仏等であることが確定しました。面白いのはその紀年銘で、書物には寛永六年云々と記されているとありましたが、読んでみれば簡単に寛文九己酉十月日と読めました。役所の特徴で、読めないものはその頭置き文字だけで古い年号を採用してしまう典型的な事例かと一人で笑ってしまいました。
そんな石仏巡り調査も午後三時過ぎには50基を超えてしまったので、今回はここまでとしてそれからは国分寺町の北側に接する旧石橋町へ入り、先月に逆光で写真が撮れなかった箇所へ寄り道して撮影してきました。今回、ここへ掲載した写真はその一つで橋本神社の西側にある碑塔風景です。いずれにしましても、次回以降も国分寺町へ入ることになるでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます