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馳星周といえば、
1996年8月に刊行された作家としてのデビュー作『不夜城』が有名で、
当時、ベストセラーになったので、ご存じの方も多いことと思われる。
日中混血の男女二人が、
新宿歌舞伎町に暗躍する中国人マフィアの抗争に巻き込まれるという内容で、
それまで日本にはなかったノワール小説として一世を風靡した。
その後も、
『鎮魂歌(レクイエム)不夜城II』(1997年刊)
『夜光虫』(1998年刊)
『漂流街』(1998年刊)
など、暴力的な描写の多い小説を連発し、
ニュータイプのクライムノベル作家として独自の路線を築き上げてきた。
私はといえば、
初期の頃の作品は読んでいたものの、
そのうち飽きてしまい、
その後の馳星周の作品はほとんど読んでいなかった。
それが、2014年頃からだろうか、
山岳雑誌で馳星周の名を見かけるようになり、
例えば『山と溪谷』(2014年9月号)では、
特別寄稿「天上の縦走路への道程」
作家・馳星周が歩いた常念岳紀行。
と題して、
新宿・歌舞伎町のゴールデン街から、北アルプスへと至った道のりを活写している。
〈あの夜の街の帝王のような馳星周が、登山を始めたのか……〉
と、驚かされたし、感慨深いものがあった。
その後、山を題材にした小説を何作か書いたようだが、
私はあまり関心を示さなかった。
少し山に登ったくらいで、すぐに優れた山岳小説が書けるとは思えなかったからだ。
それでも、昨年(2018年)の秋頃だったか、
行きつけの図書館で、馳星周の『雨降る森の犬』(2018年6月刊)という小説を見かけた。
何気なく手に取って立ち読みしていると、
その文章が、すっと心に入ってきた。
親との確執を抱えた少女が、
豊かな自然の中で、
ちょっと変わり者の犬と、
同じ悩みを持つ少年に出会い、
心を開いていく……
という物語だったのだが、
かつて読んだ馳星周の文章とはまったく違っていた。
文章がみずみずしく、読むだけで心が浄化されていくような感じであった。
その本を借りて読んだ私は、
〈馳星周の他の小説も読んでみたい……〉
と思うようになった。
そして手に取ったのが、
本日紹介する『蒼き山嶺』(2018年1月刊)だったのである。
元山岳遭難救助隊員の得丸志郎は、
残雪期の白馬岳で、公安刑事・池谷博史と再会した。
二人は大学時代、山岳部で苦楽をともにした同期だった。
急遽、白馬岳山頂までのガイドを頼まれた得丸が、麓に電話を入れると、
「警察に追われた公安刑事が東京から逃げてきている……」
という話を聞かされる。
「厳しい検問が敷かれ、逃げるには山を越えるしかない……」
と言われたその時、
池谷が拳銃の銃口を押しつけてきた。
「なにをやったんだ? なぜ追われている?」
「おまえはなにも知らない方がいい。おれを日本海まで連れていけばいいんだ。そうすれば、解放する」
白馬岳から北に延びる稜線はやがて栂海新道と呼ばれる縦走路に繫がっていく。
栂海新道の終点は日本海だ。標高3000メートルからゼロメートルまで、歩き続けることができる。
白馬岳に登ると言ったのはその場しのぎの嘘だったのだ。
「北朝鮮にでも行くつもりか」
得丸の問い掛けには取り合わず、
「早くザックを担げ。余計なことは考えるな。おれはやると決めたことはやるんだ」
と言い放つ池谷。
警察から追われ、刺客に命を狙われながら、
白馬岳を越え、栂海新道を抜けて、日本海を目指す。
荒れ狂う風、吹きつける雪、
体力は枯渇し、白い斜面が行く手を阻む。
果たして、2人は、日本海へたどり着けるのか……
白馬岳から、雪倉岳、朝日岳、栂海新道を経て、日本海へ。
かつて、この逆コースを歩いたことのある私は、(コチラを参照)
その当時のことを思い出しながら夢中で読んでいた。
読んで不自然なところや、いくつかの瑕疵はあるものの、
読者をグイグイと引っ張っていく筆力は本物で、
最後まで一気に読まされた。
あまり詳しく内容を書いてしまうと、
これから本書を読む人の楽しみを奪ってしまうので、これ以上は書かないが、
かつて、
白馬岳から、雪倉岳、朝日岳、栂海新道へと続く稜線を歩いたことのある人、
これから歩きたいと思っている人に、
ぜひ読んでもらいたい。
山岳小説では、山に関する文章が魅力のひとつになっているが、
本作にもアフォリズムがちりばめられている。
山に登り続けていなければ筋肉は衰える。都会でランニングをしたり、ジムに通ったりしているだけではだめなのだ。実際に登ることで、登るための筋肉が身についていく。(47頁)
山に強くなりたいなら、たくさん山に登ることだよ。
その通りだった。ランニングや筋トレに精を出すのもいいが、一番のトレーニングはとにかく山に登ることだ。(76頁)
布団に潜りこむと、すぐに睡魔が襲ってきた。どこでもいつでも眠れること。それもまた、山屋に必要な才能だ。(111頁)
森林限界を越え、稜線に出ると世界が変わる。遠くの峰々まで続く尾根の美しいライン、その上に広がる澄んだ青空。薄汚れた下界を離れ、己の足だけで天空に達した――そんな感慨に襲われるのだ。そうやって、人は登山に魅了されていく。(145頁)
山での一日には、下界の一ヶ月に相当するって言われてるんだ。(187頁)
山での遭難救助に携わる人間にとって、祈りは身近なものだ。事故の一報が入り、すぐに救助に向かえるならいい。だが、悪天候などで身動きが取れない時、我々にできるのは祈ることだけだ。瀕死の遭難者を背負い、ヘリが着陸できる場所まで運ぶ、あるいは、下山する。その途中で我々が口にするのも祈りだ。
頼む、生きていてくれ、死なないでくれ。
我々の祈りはたいていは届かない。しかしそれでも祈らずにはいられない。
頼む、生きていてくれ、死なないでくれ。
届かぬ祈りだとわかっている時もある。それでも祈る。
生きて、また山に戻ってきてくれ。(204頁)
脳は嘘をつく。もう無理だと体に偽りの指令を出す。それに騙されてはいけない。本当の限界はもっともっと先にある。体ではなく、心が限界を作るのだ。(231頁)
腐るほどご来光を見てきたが、飽きるということはなかった。同じ山頂に立っていても、同じご来光がやって来ることはない。太陽の位置、雲の形、そうしたものがほんの少し違うだけで日の出の様相は一変する。穏やかなご来光があり、峻烈なご来光がある。
ご来光を見る者の心のありようもその度に違う。(274頁)
どれほど痛くても、どれほど怠くても、足を前に出せばいい。一歩一歩が小さくても、歩みがのろくても、とにかく足を前に出し続けていれば、いつか、頂上に辿り着くのだ。(302頁)
登り続けてりゃ、どんどん脚ができていく。だが、体力や筋力がついたはずなのに、心肺の苦しさは変わらないんだ。登るペースが速くなるからな。だがある時、心肺もそんなに苦しくなくなる時がくる。それが、おまえが本物の山屋になった時だ。(326頁)
しばらく歩いていると、急に森の中が明るくなった。太陽を覆い隠していた雲が流れていったんだ。そうしたら、太陽の光が森の中に降り注ぐのが見えた。木々の間から、いくつもの光の線が降り注いでくるんだ。光芒って言うんだけどな、霧のおかげで光の降り注ぐ様子が見えるんだ。無数の光の筋が森に降り注いでいくる。あれは美しかったな。歩くのをやめて、ずっと見入っていた。(330頁)
「これが雲海か」
池谷が叫んだ。
「そうだ。雲海だ。こんな時にガスが晴れるなんて、おまえ、ついてるぞ」
「凄え、凄えぞ、おまえたち、こんな凄えものを何度も見てるのか」
「これから何度でも見られるさ」(332頁)
山岳小説を読むときは、
こうして、気に入った文章に付箋を貼りながら読むのが楽しい。
あなたも、ぜひ。
馳星周といえば、
1996年8月に刊行された作家としてのデビュー作『不夜城』が有名で、
当時、ベストセラーになったので、ご存じの方も多いことと思われる。
日中混血の男女二人が、
新宿歌舞伎町に暗躍する中国人マフィアの抗争に巻き込まれるという内容で、
それまで日本にはなかったノワール小説として一世を風靡した。
その後も、
『鎮魂歌(レクイエム)不夜城II』(1997年刊)
『夜光虫』(1998年刊)
『漂流街』(1998年刊)
など、暴力的な描写の多い小説を連発し、
ニュータイプのクライムノベル作家として独自の路線を築き上げてきた。
私はといえば、
初期の頃の作品は読んでいたものの、
そのうち飽きてしまい、
その後の馳星周の作品はほとんど読んでいなかった。
それが、2014年頃からだろうか、
山岳雑誌で馳星周の名を見かけるようになり、
例えば『山と溪谷』(2014年9月号)では、
特別寄稿「天上の縦走路への道程」
作家・馳星周が歩いた常念岳紀行。
と題して、
新宿・歌舞伎町のゴールデン街から、北アルプスへと至った道のりを活写している。
〈あの夜の街の帝王のような馳星周が、登山を始めたのか……〉
と、驚かされたし、感慨深いものがあった。
その後、山を題材にした小説を何作か書いたようだが、
私はあまり関心を示さなかった。
少し山に登ったくらいで、すぐに優れた山岳小説が書けるとは思えなかったからだ。
それでも、昨年(2018年)の秋頃だったか、
行きつけの図書館で、馳星周の『雨降る森の犬』(2018年6月刊)という小説を見かけた。
何気なく手に取って立ち読みしていると、
その文章が、すっと心に入ってきた。
親との確執を抱えた少女が、
豊かな自然の中で、
ちょっと変わり者の犬と、
同じ悩みを持つ少年に出会い、
心を開いていく……
という物語だったのだが、
かつて読んだ馳星周の文章とはまったく違っていた。
文章がみずみずしく、読むだけで心が浄化されていくような感じであった。
その本を借りて読んだ私は、
〈馳星周の他の小説も読んでみたい……〉
と思うようになった。
そして手に取ったのが、
本日紹介する『蒼き山嶺』(2018年1月刊)だったのである。
元山岳遭難救助隊員の得丸志郎は、
残雪期の白馬岳で、公安刑事・池谷博史と再会した。
二人は大学時代、山岳部で苦楽をともにした同期だった。
急遽、白馬岳山頂までのガイドを頼まれた得丸が、麓に電話を入れると、
「警察に追われた公安刑事が東京から逃げてきている……」
という話を聞かされる。
「厳しい検問が敷かれ、逃げるには山を越えるしかない……」
と言われたその時、
池谷が拳銃の銃口を押しつけてきた。
「なにをやったんだ? なぜ追われている?」
「おまえはなにも知らない方がいい。おれを日本海まで連れていけばいいんだ。そうすれば、解放する」
白馬岳から北に延びる稜線はやがて栂海新道と呼ばれる縦走路に繫がっていく。
栂海新道の終点は日本海だ。標高3000メートルからゼロメートルまで、歩き続けることができる。
白馬岳に登ると言ったのはその場しのぎの嘘だったのだ。
「北朝鮮にでも行くつもりか」
得丸の問い掛けには取り合わず、
「早くザックを担げ。余計なことは考えるな。おれはやると決めたことはやるんだ」
と言い放つ池谷。
警察から追われ、刺客に命を狙われながら、
白馬岳を越え、栂海新道を抜けて、日本海を目指す。
荒れ狂う風、吹きつける雪、
体力は枯渇し、白い斜面が行く手を阻む。
果たして、2人は、日本海へたどり着けるのか……
白馬岳から、雪倉岳、朝日岳、栂海新道を経て、日本海へ。
かつて、この逆コースを歩いたことのある私は、(コチラを参照)
その当時のことを思い出しながら夢中で読んでいた。
読んで不自然なところや、いくつかの瑕疵はあるものの、
読者をグイグイと引っ張っていく筆力は本物で、
最後まで一気に読まされた。
あまり詳しく内容を書いてしまうと、
これから本書を読む人の楽しみを奪ってしまうので、これ以上は書かないが、
かつて、
白馬岳から、雪倉岳、朝日岳、栂海新道へと続く稜線を歩いたことのある人、
これから歩きたいと思っている人に、
ぜひ読んでもらいたい。
山岳小説では、山に関する文章が魅力のひとつになっているが、
本作にもアフォリズムがちりばめられている。
山に登り続けていなければ筋肉は衰える。都会でランニングをしたり、ジムに通ったりしているだけではだめなのだ。実際に登ることで、登るための筋肉が身についていく。(47頁)
山に強くなりたいなら、たくさん山に登ることだよ。
その通りだった。ランニングや筋トレに精を出すのもいいが、一番のトレーニングはとにかく山に登ることだ。(76頁)
布団に潜りこむと、すぐに睡魔が襲ってきた。どこでもいつでも眠れること。それもまた、山屋に必要な才能だ。(111頁)
森林限界を越え、稜線に出ると世界が変わる。遠くの峰々まで続く尾根の美しいライン、その上に広がる澄んだ青空。薄汚れた下界を離れ、己の足だけで天空に達した――そんな感慨に襲われるのだ。そうやって、人は登山に魅了されていく。(145頁)
山での一日には、下界の一ヶ月に相当するって言われてるんだ。(187頁)
山での遭難救助に携わる人間にとって、祈りは身近なものだ。事故の一報が入り、すぐに救助に向かえるならいい。だが、悪天候などで身動きが取れない時、我々にできるのは祈ることだけだ。瀕死の遭難者を背負い、ヘリが着陸できる場所まで運ぶ、あるいは、下山する。その途中で我々が口にするのも祈りだ。
頼む、生きていてくれ、死なないでくれ。
我々の祈りはたいていは届かない。しかしそれでも祈らずにはいられない。
頼む、生きていてくれ、死なないでくれ。
届かぬ祈りだとわかっている時もある。それでも祈る。
生きて、また山に戻ってきてくれ。(204頁)
脳は嘘をつく。もう無理だと体に偽りの指令を出す。それに騙されてはいけない。本当の限界はもっともっと先にある。体ではなく、心が限界を作るのだ。(231頁)
腐るほどご来光を見てきたが、飽きるということはなかった。同じ山頂に立っていても、同じご来光がやって来ることはない。太陽の位置、雲の形、そうしたものがほんの少し違うだけで日の出の様相は一変する。穏やかなご来光があり、峻烈なご来光がある。
ご来光を見る者の心のありようもその度に違う。(274頁)
どれほど痛くても、どれほど怠くても、足を前に出せばいい。一歩一歩が小さくても、歩みがのろくても、とにかく足を前に出し続けていれば、いつか、頂上に辿り着くのだ。(302頁)
登り続けてりゃ、どんどん脚ができていく。だが、体力や筋力がついたはずなのに、心肺の苦しさは変わらないんだ。登るペースが速くなるからな。だがある時、心肺もそんなに苦しくなくなる時がくる。それが、おまえが本物の山屋になった時だ。(326頁)
しばらく歩いていると、急に森の中が明るくなった。太陽を覆い隠していた雲が流れていったんだ。そうしたら、太陽の光が森の中に降り注ぐのが見えた。木々の間から、いくつもの光の線が降り注いでくるんだ。光芒って言うんだけどな、霧のおかげで光の降り注ぐ様子が見えるんだ。無数の光の筋が森に降り注いでいくる。あれは美しかったな。歩くのをやめて、ずっと見入っていた。(330頁)
「これが雲海か」
池谷が叫んだ。
「そうだ。雲海だ。こんな時にガスが晴れるなんて、おまえ、ついてるぞ」
「凄え、凄えぞ、おまえたち、こんな凄えものを何度も見てるのか」
「これから何度でも見られるさ」(332頁)
山岳小説を読むときは、
こうして、気に入った文章に付箋を貼りながら読むのが楽しい。
あなたも、ぜひ。