一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

砂原浩太朗『冬と瓦礫』 ……悲しみをあらわせなかった方々の杖となれば……

2024年12月30日 | 読書・音楽・美術・その他芸術


砂原浩太朗という作家は、
私は、『高瀬庄左衛門御留書』などを読んでいたこともあって、
時代小説作家として認識していた。

【砂原浩太朗】
1969年生まれ。兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。2016年「いのちがけ」で第2回決戦!小説大賞を受賞。21年『高瀬庄左衛門御留書』で第9回野村胡堂文学賞、第15回舟橋聖一文学賞、第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。22年『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』『藩邸差配役日日控』『霜月記』『夜露がたり』『浅草寺子屋よろず暦』など。



図書館の新着図書のコーナーで『冬と瓦礫』を見かけたときも、
そのつもりで手に取ったのだが、
『冬と瓦礫』というタイトルが、時代小説にしては奇妙に思われたので、
パラパラと頁をめくってみると、それは、なんと、現代小説であった。


“あとがき”を読むと、こう書いてあった。

『冬と瓦礫』はご一読いただければ分かるとおり、一九九五年の阪神・淡路大震災をテーマにした作品である。原型となるものを執筆したのは作家デビュー以前、震災後十五年を目前にした二〇〇八年から九年にかけてだった。
いまの私は歴史・時代ものの小説を手がける作家であり、当時すでにそうなることを目指していたが、にもかかわらずこうした作品を書いたのは、震災に見舞われた神戸市の出身だからに他ならない。東京で暮らしていた主人公が帰郷し、家族を親戚のところに避難させるという大筋は私じしんの体験にもとづいている。


時代小説作家が手がける現代小説とはどんなものか……
早速借りてきて、読み始めたのだった。



1995年1月17日未明、阪神・淡路大震災が発生した。
神戸市内の高校から都内の大学に進学し、東京で働いていた川村圭介は、
早朝の電話に愕然とする。
かけてきたのは高校時代の友人・進藤忠之で、故郷が巨大地震に見舞われたという。
慌ててテレビをつけると、画面には信じられない光景が映し出されていた。
被災地となった地元には、高齢の祖父母を含む家族や友人が住んでいる。
圭介は、故郷・神戸に向かうことを決意した。
鉄道は途中までしか通じておらず、
最後は水や食料を背負って十数キロを歩くことになる……



地震が発生してから一週間の物語で、
第一日、第二日、第三日、第四日、第五日、第六日、第七日と、
7つの章に分かれており、
主人公の川村圭介が神戸に向かい、
家族を親戚のところに避難させ、帰路につくまでの7日間を描いている。
こう書くと、
家族や友人が亡くなったとか、家屋が損壊したとか、身の危険を感じたとか、
(体験を小説にするのだから)誰もがあまり経験したことのないような、
インパクトのある凄いストーリーを想像されると思うが、
そんなことはまったくない。

作中の主人公同様、私は震災を直接体験してはいないし、親族で死者はなく、家もどうにか残った。

“あとがき”に作者がこう記しているように、
作者自身が命の危機を感じるような体験をしたというわけではないのだ。
では、なぜ小説を書こうと思ったのか?

より大きな悲しみを味わったひとが数多(あまた)いらっしゃるのは承知しているから、ひとつしかない故郷の大事であっても、思いを吐露するのはためらうことが常である。おそらくこうした災害に際して、私とおなじように心もちを吞み込んできた方が大勢おられるのだろう。
作者の意図などは作品に込めるべきもののはずだが、あえていうと、当時の私を執筆に駆り立てたのは、報道などでは取り上げられない、そうした立場の者にもやはり痛みはあるという思いだった。それは小説というかたちでしか表し得ないのではないかと今も感じている。


阪神・淡路大震災で強烈な体験をした人の物語は、
体験談として、あるいはルポルタージュとして本になり、
それを元にドキュメンタリーやドラマとしてTVで放送されたり映画化されたりもしたが、
それほどの体験はしていない人(震災を直接体験してはいないし、親族で死者はなく、家もどうにか残ったという人)の声は、無かったかのように消されたままだった。
だが、そうした立場の者にもやはり痛みはあるという、そんな思いを小説にしたのが、
本書『冬と瓦礫』なのである。


1995年に起こった阪神・淡路大震災から、来年(2025年)で30年になる。
そういうこともあって、
今秋から来春にかけて放送されているNHKの朝ドラ「おむすび」も、
阪神・淡路大震災で被災した家族の物語となっているのだが、
節目の年となる来年には、さらに多くの企画ものが登場することが予想される。
と、同時に、30年も経てば(未曾有の災害も)そろそろ風化が始まる頃だ。
何しろ産まれたばかりの赤ん坊が30歳になるという長い年月なのだから。

震災後三十年というのも、刊行を決意する大きな理由だった。個人的な捉え方でしかないが、まだ歴史になり切らないぎりぎりのタイミングだという気がする。

と、著者も語るように、
災害に対して著者と同じような心もちを吞み込んできた大勢の方々の声を、
(歴史になる前に)残しておきたいということだったのだ。


震災を直接体験していなくて、親族で亡くなった人もいなくて、家もどうにか残っている人が書いた小説が、つまらなかったかというと、まったくそんなことはなくて、
むしろ、そういう人が書いたからこその、これまでとは違った視点の気づきがあったように思う。

崩壊した建物を見て、

百貨店の地下には、お気に入りのソフトクリーム屋があって、いつか彼女をつくってそこに連れていくというのが高校時代の夢だった。結局それは果たせないまま上京したのだが、いまや、ちっぽけな夢の跡すら絶たれてしまったのだ。(22頁)

という箇所や、
震災直後、有給休暇を取って神戸に帰ろうとするとき、
(ケーブルテレビの会社に勤めている)圭介に対し、会社の上司から、

「ビデオカメラくらい持ってったら?」(36頁)

と言われるところや、
公衆便所で、

汚物が巨大な卵のかたちになって盛り上がり、収まりきれずあふれだして白い和式便器に伸しかかっている。それだけではすまず、のたうちまわる怒りのように足を置くべきところまでぶちまけられ、広がっていたのだった。(67頁)

と、圭介が吐き気を覚える場面などに、
読む者も主人公と同じ気持ちにさせられるし、
大きな出来事の陰で見過ごされそうな小さな感情の揺れを体験できた。



神戸の家までの交通手段が断たれて、歩き続けなければならないときの描写にも心打たれた。

いまのじぶんにとっては一歩足を進めることがなによりも重要で、どんなたぐいのものにせよ、感慨にふけっている余裕はまったくなかった。
歩くこと、歩きつづけることだけがすべてだった。なぜ、なんのために歩いているのかという問いすら頭から消え去り、ただ足を前へ出す機械になったように歩きつづける。
(83頁)


親戚の家に母親を送っていくとき、
終点の小さな駅に降り立ったときのこと。

思わず足を止めたのは、階段の下で缶入り飲料の販売機がかすかなモーター音をたてていたからである。見なおすまでもなく、その販売機は生きていると叫んででもいるかのように白く発光していた。(135~136頁)

電気が切断されていた場所から、通じている場所へ来たときの感動が実に巧く表現されていて、何気ない文章なのに、心が揺さぶられてしまった。


進藤との別れの場面で、進藤が放った言葉。

「この街でやっていくしかない奴らが大勢おるんや」(161頁)

「おれたちは、ここにいたいんや」(161頁)

圭介は、進藤の言う「おれたち」に自分が含まれていないことを感じる。

̶̶いったい…….
いくつの死を目にすれば、このおれは、おれたちになるのだろう。
(170頁)

この思いが、ラスト一行に直結し、
読む者は戦慄させられる。

本書がたとえいくばくなりと、悲しみをあらわせなかった方々の杖となれば本望である。

という著者の言葉が心に沁みる秀作であった。

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