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私自身、
ベニシア・スタンリー・スミスさんに関しては、
かつてはそれほど興味も知識もなかったのだが、
何かの機会に彼女の著書を読んだことがあり、
そのときに配偶者が山岳カメラマンの梶山正氏と知り、大変驚いたことを憶えている。
雑誌「山と溪谷」などで山岳カメラマンとして活躍している梶山正氏は、
登山愛好家なら誰でも知っている有名人で、
9歳も年上のベニシアさんとどのような経緯で結婚したのか興味もあり、
それ以降、夫婦の共著などにも目を通すようになり、
NHKで放送されていた「猫のしっぽ カエルの手 京都 大原 ベニシアの手づくり暮らし」も観るようになった。
ところが昨年(2023年)6月にベニシアさんが亡くなった。享年72歳。
NHKのニュースでは次のように報じていた。
京都・大原の古民家で暮らし、自然を取り入れた生活などを発信してきた、イギリス出身のハーブ研究家、ベニシア・スタンリー・スミスさんが、誤えん性肺炎のため亡くなりました。72歳でした。
イギリス出身のベニシア・スタンリー・スミスさんは、1971年に来日し、京都市で英語学校を開くなどしたあと、1996年に京都市左京区の大原の古民家に移り住みました。
そして、庭でハーブを栽培するとともに、料理や生活雑貨などにハーブを取り入れた暮らしについてのエッセーや書籍を執筆しました。
また、NHKの番組「猫のしっぽ カエルの手」にも出演し、人気を博しました。
夫で写真家の梶山正さんによりますと、ベニシアさんはここ数年は体の不調を訴え、病院への入院や施設での生活を余儀なくされていましたが、最近は自宅に戻っていて、今月21日に誤えん性肺炎のため亡くなったということです。72歳でした。
夫の梶山さんは「大原の地を選んだ時に、彼女は『ここで死ぬ』と言っていたのを覚えています。自分のことより人のことを気にかける優しく愛の深い人だったので、多くの人に慕われ、ファンも多かったのだと思います」と話しています。
72歳で亡くなったことにも驚かされたし、
特に昨年(2023年)は70代で亡くなる人が多く、
私自身も、このブログで、
ミュージシャンの訃報相次ぐ ……70代で亡くなったミュージシャンたち……
と題して記事を書いたように、(コチラを参照)
「人生100年時代」など嘘っぱちで、
70代はとても危険な年代であることにあらためて気づかされた。
本書『ベニシアの「おいしい」が聴きたくて』は、
64歳で発症したPCA(後部皮質萎縮症)が進行し、
亡くなる72歳までの8年間のベニシアさんの日々の様子を、
夫である梶山正氏が綴ったエッセイ集だ。
ベニシアさんの目が徐々に見えにくくなり、記憶が薄れてゆく中で、
悪戦苦闘しながら介護を続けた正氏の葛藤の日々が赤裸々につづられている。
【目次】
まえがき
Chapter 1ベニシアを介護しながら歩んだ最期のとき
ベニシア64歳
ベニシア67歳
ベニシア68歳
ベニシア69歳
ベニシア70歳
ベニシア71歳
ベニシア72歳
Chapter 2ニシアの「おいしい」が聴きたくて僕は夢中で料理を作った
アイリッシュ・シチュー
シェーパーズ・パイ
フィッシュ&チップス
魚介のパエリア
サモサ
サンデー・ロースト
あとがき
本のタイトル『ベニシアの「おいしい」が聴きたくて』は、
Chapter 2の「ベニシアの「おいしい」が聴きたくて僕は夢中で料理を作った」の方から採られているが、内容的には、むしろ、
Chapter 1の「ベニシアを介護しながら歩んだ最期のとき」の方が相応しいように感じた。
何故なら、本書の8割以上(159頁中、132頁)はChapter 1だからである。
そして、本書を読んで感銘を受ける部分もChapter 1の方だからである。
(Chapter 2は料理にまつわるエッセイと料理のメニュー紹介になっている)
なので、本書のレビューもChapter 1に重きを置いたものになる。
先程、目次を紹介したが、
ここからは、Chapter 1の各項目の見出しを書き記しながら、
それぞれの内容を紹介したい。
[ベニシア64歳]2015年
目が見えにくくなり、不安な日々がつのるベニシア
2015年くらいから「目が見えない」とベニシアはしばしば口にするようになる。
眼科で白内障と診断され、手術するが、症状は変わらない。
セカンドオピニオンを求め別の眼科で診察してもらうと、
「目はきれいです。手術後の経過に問題はないようです。見えにくいのは目の問題ではないのかもしれません。つまり神経に原因があるのかもしれません」
と言われ、脳神経内科に行くように勧められる。
[ベニシア67歳]2018年7月
目が見えない原因はPCAだった
ベニシアは京大病院に8日間入院して検査を受ける。
医師はPCA(後部皮質萎縮症)と診断する。
PCAとは、後頭葉(大脳のうしろの部分)の萎縮をきたす進行性の疾患で、
後頭葉は視覚形成の中心を担うところなので、
萎縮したベニシアの後頭葉は、その情報を分析、認知することができず、
それで目が見えなくなったのだ。
PCAはアルツハイマー病の一種で、現在、PCAを治す薬や治療法はない。
[ベニシア67歳]2018年11月
介護サービスを受けるための必要な手続きに混乱の日々
地域包括支援センターのケアマネージャーに連絡し、ベニシアを審査してもらい、
要介護1に認定という通知を受ける。
[ベニシア68歳]2019年2月
それでも東京の展示会でお客さんに感謝の挨拶
この時期、週5回の訪問介護と看護を頼んでいたが、
2月に東京でNHKエンタープライズ主催の『ベニシアさんの手づくり暮らし展』が開かれ、
オープン時刻には顔を出し、
ベニシアは来られたお客さんたちに「ありがとう」と挨拶をしていた。
9月には京都で、12月には仙台で『ベニシアさんの手づくり暮らし展』が開催され、
その後の予定もあったが、新型コロナウイルス感染症の拡大により中止になった。
[ベニシア68歳]2019年11月
「人生の秋」を感じつつ2人で生きる
京都大原での23年間の暮らしの様子を綴った『ベニシアと正、人生の秋に』(風土社)を、
夫婦共著で出版。
結婚して30年が流れ、以前は自分の仕事や好きな登山のことばかりを見ていた正は、
自分のことよりもまずベニシアのことを考えなければ……と思うようになる。
[ベニシア69歳]2020年
視力が失われるなか、世間では新型コロナウイルス感染症が流行
ベニシアの病気であるPCAは治ることなくジワジワと進行を続ける。
69歳になったベニシアが「暗くて見えにくい」と言うので、
家中の明かりをLED照明器具に変える。
トイレへ行くのにも難儀するようになったベニシアのためにポータブルトイレも設置する。
ケアマネージャーの勧めでデイケアサービスにも参加するが、
「つまらなかった。ママゴトみたいな子供じみたことをするように言われる」
などと言って、結局2回参加しただけで終わった。
ベニシアは目が見えにくくなった上に、認知症の症状も出てきた。
正は、このまま家でベニシアの介護をしていくことに不安を感じ始める。
[ベニシア70歳]2021年3月
異国で齢を重ねる日々、家族や友人たちに支えられて
ベニシアの親しい友人たちが交代で毎日見舞いに来る。
ベニシアと52年間も友情を育んでいるチャールズは、病気が進むベニシアを見ていると、
辛くて涙が出るらしい。
実は、正も、トイレの入ったときなど、ひとりになるとよく涙がこみ上げてきた。
このままだと、家に閉じ込められ、仕事もできず、先が見えない。
そんな正を見かねたケアマネージャーが介護施設入所を提案する。
[ベニシア70歳]2021年4月
本腰を入れて高齢者介護施設を探しはじめる
「コロナ感染の危険があるので。月に一度の訪問はしばらく控えさせていただきます」
と、ケアマネージャーから知らせが入る。
ケアマネージャーと介護施設についての相談をしたいと思っていた正は、
自分で調べ始める。
[ベニシア70歳]2021年6月
追い詰められた僕にベニシアを思いやる余裕はなかった
ベニシアはポータブルトイレでも失敗するようになり、
「こんなトイレのことばかり、毎日やってられません!」
と、文句を言いながら正は汚れた畳を掃除する。
悲しい顔をしたベニシアは、正の言葉の暴力に耐えている。
〈お先真っ暗だ。認知症になった妻の世話に追われて、自分の人生を喪失していく〉
と、口には出さないが、正は思っていた。
今となっては、なんでもっと優しくできなかったのだろうと後悔するが、その頃は追い詰められて余裕がなかった。
この頃から、ベニシアも、
施設に入るのは不安だが、もう入る時期がそこまで来ているのを感じるようになる。
[ベニシア70歳]2021年7月
ついにグループ・ホームへ入居を決める
ついにベニシアは、7月半ばにグループ・ホームへ入居を決めた。
息子一家3人と、友人の康子さんと、正が付き添ってグループ・ホームへ行くが、
グループ・ホームの玄関に着くと、ベニシアは不安を隠せない固い表情となり、
「こんなところに居たくない。帰りたい。家が一番いい。私を追い出さないで」
と、言う。
それでも、一緒に来ていた4歳の孫が場を和ませてくれ、
ベニシアの表情も明るくなり、笑顔も見せてくれるようになる。
そのタイミングを見計らって、正たちは互いに何も言わずに、目配せして席を立った。
[ベニシア70歳]2021年8月
「すみません」という言葉を口にするようになった
入居した翌日、正はベニシアに会いに行く。
昨日は挨拶もせずに帰ったので怒っているかも……と心配したが、
笑顔で迎えてくれた。
ベニシアがグループ・ホームに入ったら、これまでのような毎日の介護仕事から解放されて、楽になるだろうと正は思っていたが、ベニシアを施設に置き去りにしたことで、罪に意識に苛まれるようになる。
ベニシアがグループ・ホームに入居して約1ヶ月が過ぎた頃、京都では4回目のコロナ緊急事態宣言が発令され、グループ・ホームでは面会禁止が続く。
緊急事態宣言が終わり、面会に行くと、
ベニシアは口数が少なく、話す言葉は英語ばかりで、ほとんど日本語は口にしなくなっていた。おそらく、グループ・ホームの利用者、スタッフとの会話があまりなかったのだろう。
「英語を話さないで下さい。何を言っているのか解りません」
と言われることから、
ベニシアは話す前に「すみません」と言うようになっていた。
かつてベニシアが「すみません」と口にするのを、正はあまり聞いたことがなかった。
人に助けてもらいたくて、ここで覚えたサバイバルであった。
驚かされたのはそれだけではなく、わずか40数日の間に、ベニシアはほとんど歩けなくなっていた。
[ベニシア70歳]2021年10月
奇跡が起こった! また歩けるようになったのだ
面会再開後、正は施設に通い、ベニシアと歩行訓練をする。
週末には息子一家も同行し、楽しく会話もするようになる。
そうやって毎日通ううちに、ベニシアはだんだん歩けるようになり、日本語会話も前と同じく話せるようになった。
[ベニシア70歳]2021年11月
新たに介護施設を探すも…
ベニシアがいるグループ・ホームに毎日通ううちに、正は、じわじわと不満がわいてくるのを感じていた。
利用者家族に対しての説明が統一されずにバラバラの印象を受けたからだ。
その上、ベニシアの顔は、いつも目ヤニだらけ、歯クソだらけ、そして爪は伸び放題。
「爪を切ってもらえないのですか?」「口腔ケアはしないのですか?」
と訊いても、
「ベニシアさんが怖がるからできません」「ベニシアさんが嫌がるのでできません」
との返答。
正は、
〈ここはずっと安心して居続けられる所ではないのでは……〉
と考えるようになる。
[ベニシア71歳]2022年1~3月
ベニシアと僕の青春期を書き進める
2019年に出版した『ベニシアと正、人生の秋に』の続編は、
若い頃に生き方を探してそれぞれが出向いた、インドの旅が中心テーマだ。
ベニシアは数年前に書き終えた原稿を眠らせていたが、
正の方はまだ原稿ができていなかった。
2月にスキーに行ったとき、膝を痛めた(変形性膝関節症)こともあって、
真面目に執筆を進めることにした。
[ベニシア71歳]2022年5月
アイスクリームで幸せになる日々の始まり
ベニシア用の車椅子を購入し、
車椅子を車に乗せて、公園に散歩に行くようになった。
賀茂川上流にある公園に行ったとき、
「アイスクリームが食べたい」
とベニシアが言うので、
コンビニでハーゲンダッツのストロベリー・アイスクリームを買う。
久しぶりに大好きなアイスクリームを口にして、ベニシアは幸せそうだった。
[ベニシア71歳]2022年7月
宝ヶ池公園を歩く幸せな時間が流れる
ベニシア専用の車椅子を手に入れたことにより、
ベニシアをどこへでも連れて行けるようになり、
ベニシアと正の思い出の場所でもある宝ヶ池公園に毎日散歩に行くようになる。
いま思い返すと、ベニシアが自力で歩けた最後の貴重な時期であった。
この幸せな日々は、ある日、突然打ち切られることになる。
新型コロナウイルス感染症によるクラスターが施設内で発生し、
再び面会禁止になったのだ。
[ベニシア71歳]2022年8月上旬
僕が山尾三省に夢中になった夏、ベニシアは肺炎になり入院することに
「ベニシアさんのコロナ陽性を確認しましたので隔離します」
と、連絡が入る。
7~8月の夏山シーズンは、正は、登山雑誌の取材で山へ行くのが通常の流れなのだが、
毎日面会に通っていたので、仕事はほぼやっていなかった。
そんな時期、正は、詩人の山尾三省の本を再読するようになる。
かつて屋久島に通っていた時期があり、(もうすでに亡くなっていた)山尾三省の家を訪ね、
彼の本を数冊手に入れ、読んでいたのだ。
読み進むうちに、正にとってある意味で衝撃的な文章を見つける。
「彼女の骨を食べたのは、火葬したその夜とそれから初七日が明けた夜と合わせて、今度が三度目である。(中略)観音様の前に正座しつつそれをゆっくり食べた。骨は焼け切れていて、部分的にピンク色をしており、せんべいのように軽く、カリカリと口の中に砕けて粉となった。少し塩からく、海の味がした。順子は、女というものは、骨になってまでも海の味をその内に宿している、という、有り難い感触があった」(山尾三省『回帰する月々の記』より抜粋)
〈同じ立場になれば、僕もそうしたいと思うだろうか……〉
と、正が考えていると、グループ・ホームから電話があった。
「ベニシアさんが肺炎になりました。入院する可能性もあるので来て下さい」
[ベニシア71歳]2022年8月下旬
「もう長くない」と言われ、覚悟を決めた。その夜、僕は泣いた
病院へ駆けつけると、ベニシアは痩せ衰えて死にそうな顔をしていた。
ほとんど口もきけなかった。
毎日元気に散歩していた7月上旬は体重が55kgぐらいあったのに、
今は37kgだという。
おそらくコロナに感染してからほとんど食べ物を摂っていなのではないだろうか。
〈無理矢理にベニシアを施設に入れた僕のせいだ〉
ベニシアが可哀想でたまらなくなり、自分を責める日々が続く。
帰宅してから溜め息をつきつつ、酒、酒、酒。
「これから先、どうするおつもりですか?」
と病院の先生から訊かれ、
自宅看護だと仕事ができなくなるので、どこか別の施設を紹介してもらえませんか?」
と答えると、先生は、
「私は自宅で看護することをお勧めします。仕事はしなければいい。辞めたらいいじゃないですか」
と、言ったので、正はビックリする。
そのときは、
〈この人は医者なので、働き続けないと食えない一般の人々の生活がきっとわからないのかもしれない〉
と思うが、
数日後、京大の脳神経内科の専門医から、
「ベニシアさんの命はそう長くないです。おそらく、あと2~3ヶ月です。これから先、どうするか考えていく必要があります」
と告げられ、覚悟を決める。
〈仕事なんか辞めればいい。自分のパートナーがもうすぐ死ぬのである。きちんとベニシアを看取ってあげよう……〉
と。
[ベニシア71歳]2022年9月上旬
バプテスト病院での介護トレーニングが始まる中、医師が提案した「延命」
「梶山さんはどこまで、ベニシアさんを延命させようと考えていますか?」
病院の先生から訊かれるが、正は延命の意味を理解しておらず戸惑う。
カテーテルか、胃ろうか、選択を迫られ、
末梢入中心静脈カテーテル挿入を決める。
[ベニシア71歳]2022年9月下旬
おかえりベニシア。最後まで楽しく幸せな日々が送れることを願って
36日間もお世話になったバプテスト病院を退院する日がきた。
グループ・ホームにいた期間も合わせれば、ベニシアは1年2ヶ月ぶりに自宅で生活することになる。
〈ベニシアは家でずっと過ごしたかったのに、これまで放り出して、ごめんなさい〉
正は心の中で謝る。
そして、これからは受け身ではなく、毎日来てくれるヘルパーや看護師を積極的に手伝って、
ベニシアが楽しく幸せでいられるように努力していこうと覚悟する。
[ベニシア71歳]2022年10月
大原の家で再び始まる介護の日々に、“介護ウツ”という言葉が頭をよぎる
介護を始めてから、正はよく眠れた日が一度もなかった。
自分をコントロールできない不安にかられた。
近いうちに自分が気が狂うかもという恐怖にも苛まれ、
精神病レベルに自分が近づきつつあるのを感じ、
病院の先生に相談し、薬を処方してもらう。
[ベニシア71歳]2022年10月~11月
「大原に帰ってよかった」たくさんの友人に囲まれて幸せをかみしめる
ベニシアが大原に戻ったその日から、友人たちが毎日のように見舞に来てくれた。
まったくこの世は広いようで狭い。いろんなところで出会った人が、なぜかどこかで自分の暮らしと繋がっていたりする。
そんな人との繋がりの大切さが、ベニシアの介護をしていると深く感じられる。
[ベニシア71歳]2022年11月
せん妄のなかで母や乳母を想い、“人を助けたい”と叫ぶベニシア
「あと2~3ヶ月の命だと医者から言われた」
と伝えたので、
ベニシアの長男、次男(とその配偶者)が英国から見舞いに訪れた。(正の子ではない)
病院の先生がベニシアの息子たちに延命することについてどう思うかを訊いていた。
欧米では普通、点滴や胃ろうで栄養を与える延命処置はしないという。
年老いて普通に食べることができなくなったら、回復を望めない人に過剰な医療措置をして死期を引き延ばすことはせずに、自然で安らかな死を待つのが普通だという。
理屈では解っているが、正はどうしたらいいのか解らない。
いま目の前にいるベニシアの点滴を止めたら、おそらく1ヶ月ぐらいで死ぬだろう。
尊厳死を望むならそうすべきだが、
〈今、ベニシアは生きているのだから、このままでいいのではないか〉
と思ってしまう。
11月に入ると、ベニシアの会話が減って、認知症が進み、せん妄により、頭の中の誰かと英語でやりとりしている時間が増えていった。
※この章に、ベニシアと正の間に起った重要な出来事が記されている。それをそのまま書き写す。
大人になって2度目の結婚で、ベニシアはようやく幸せを掴んだと思っていたのに、僕は彼女を裏切った。2005年に僕は大原の家を出て、岩倉の安アパートでひとり暮らしを始めた。新たな人生を、ある女性とフランスで始めようと思ったのだ。
(中略)
「悪いね、悪いね」と僕は心の奥底で叫んでいたが、自分を制御できなくなっていた。ブレーキのない車を運転しているみたいだった。周りの景色がいつもと違って、やたら美しく輝いて見えていたのは、恋をしていたのだろう。
でも終わらせた。恐くなったのだ。落ち着いて考えれば無理に決まっている。フランス語ができない47歳にもなるオッサンが、フランスで生活していけるはずがない。ベニシアのところに戻って、僕は謝った。
いま思うに、ベニシアがPCAになったのは、あのとき彼女を悩まし続けて傷つけたことが、遠因になるかも。こうやってベニシアを自宅で介護するのは「本当に悪かった」と、せめてもの罪滅ぼしである。(111~112頁)
[ベニシア72歳]2023年2月~6月
延命するとか、平穏死とか、理屈ではわかっているつもりだったのに…
年が明けた頃から、ベニシアの体温はずっと37度以上の微熱が続いた。
「カテ熱が出るようになりましたね」と病院の先生。
カテ熱とは、カテーテルの表面に細菌が定着して、発熱や悪寒などの感染症として症状が出ること。
カテーテルを装着して8ヶ月。使用期限がきたカテーテルを取り除く時期にあるという。
「もう延命はしませんよね」と、先生は平然と言う。
「胃ろうは……」と訊く正に、先生は、
「胃ろうはリスクが高いです。もう10ヶ月も胃から栄養を吸収していないので、胃が栄養を吸収してくれないでしょう。栄養が逆流して、気管に入る可能性があります。それならカテーテルを中心静脈に埋め込む手術をして、そこに栄養を入れる方がリスクは低いです」
と語る。
「じゃあ、そうして下さい」と正が言うと、
「いまベニシアさんは手術に耐える体力がないので、いったん家に連れ帰って、体力が回復した頃にどうしても……と言うのでしたら、そのときにやりましょう」
と先生は答えた。
[ベニシア72歳]2023年6月21日午前6時30分
ベニシアは永遠の旅に出た。生きることの尊さを伝えて
6月8日、ベニシアは病院を退院した。
ベニシアにゼリーとアイスクリームを食べさせる。
6月9日、ベニシアの体温が39度になる。
イギリスのベニシアの息子に電話して、「もうあまり長くないと思われるので、会いに来るように」と伝える。
6月10日、体温38度以上の高熱が続く。
6月11日、ベニシアが誤嚥性肺炎になる。酸素マスクを装着する。
「あの~、僕のせいなんです。僕がゼリーをたくさん食べさせたから……」
「あなたのせいではないです。ベニシアさんはおいしいと喜んで食べたのでしょう。だったら良かったじゃないですか。あなたは悪くない。誰も悪くない」
僕は泣きたいのを堪えていた。先生が僕を慰めてくれたのは嬉しかった。でも、ベニシアはもう長くない。やはり僕のせいだ。僕が悪い。ベニシアが死んだら、あとを追おうと、心の奥の奥の奥で僕は決めた。
6月12日、ベニシアはほとんど喋らなくなっている。
6月13日、ベニシアの喉を塞ぐように巨大な痰が張り付いていた。急いで吸引する。
6月15日、先生が手配してくれて、強力な酸素吸入器に変えた。
6月17日、ベニシアの長女が見舞いに来る。7年ぶりの来訪。ベニシアと長女はもめることが多く、距離を置いていたが、久しぶりの再会にベニシアは嬉しそうだった。
6月19日、口内の皮膚全体が白く薄い膜のようなものに被われている。
6月20日、昨日のベニシアの血圧は、最大血圧が71、最小血圧が48。そして今日の最大血圧は50以下であった。布団をめくると、手先と足先の皮膚が紫色にかわりつつあった。
ベニシアがもうすぐ死ぬことが正にもわかった。
6月21日、
朝の6時10分に目覚まし時計が鳴った。横に寝ているベニシアを見る。静かだ。酸素マスクをベニシアの顔からずらした。息をしていない。彼女が死んだことがわかった。
「よくやった。よく頑張った。最後の最後までよくぞ生き抜いた。おめでとう」
ベニシアに朝陽が射していた。
生き抜くことの尊さを、彼女は身をもって教えてくれた。人間として生まれ、この命に感謝しつつ、苦しくとも楽しいことに目を向けて、最期まで人生をまっとうしたあなたに強い存在を感じる。
彼女は天上へ旅立った。静かに光るベニシアを感じる。ベニシアは神様になったのだろう。
ありがとう。
本書を一度通読し、
レビューを書くために、各章を要約しながらもう一度読んだ。
なので、二度目の方がより深く読むことができた。
各章の要約は、あくまでも要約なので、すべてではない。
むしろ、要約した事柄以外の部分に、本書の重要な部分が潜んでいるようにも思う。
著書やTV番組の映像で想像していた、
一見、穏やかそう見えたベニシアさんと梶山正氏の生活も、
(当たり前のことではあるが)様々な出来事があり、驚かされることも多々あった。
私自身も親の介護は体験しているが、
配偶者の介護(するかされるかは別にして)はこれからであり、
身につまされる事柄も多くあった。
私自身も、「延命措置はしないように」と配偶者や子供たちに伝えるつもりでいるが、
配偶者や子供たちがどのような判断をするかは分からない。
そう言われているからといって、すぐに「延命はしないで下さい」とは言えない気もする。
その場になってみないと分からないことも多いし、
どう判断するかに正解はないようにも思う。
梶山正氏も本書を書くことは辛かったことと思われる。
著者は「あとがき」にこう記している。
この本を書き始めたのは9月1日。僕にとって辛い4ヶ月間だった。ベニシアが夏至の朝に死去して、7月と8月の間、僕は抜け殻状態だった。ベニシアのあとを追って、僕も死ぬつもりでいた。でも、できなかった。命を大切に思い、一生懸命に最後の最後まで生き抜くことの尊さを、ベニシアは身をもって僕に教えてくれた。僕も残りの人生を、ベニシアがやったように人々のために使うべきだ。そうすれば、神となったベニシアのそばに、僕も行くことができるだろう。
書くために記憶をたどる。思い出すと涙が流れた。本に載せるベニシアの写真を探していると、再び涙が流れた。また、発作的に「僕は悪かった」と思い、突然泣けた。人生でこれほど長い間、泣く回数が多い日々が続いたのは、泣くことと笑うことが仕事のような赤ちゃんの頃以降で初めてであった。
泣きながら本書を書くことで、立ち直り、
新たな人生を歩み始められたのではないか……とも思う。
私にとっても、様々なことを考えさせられた一冊であった。