一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『巡礼の約束』……人生において何が大切なのかを知らしめてくれる傑作……

2020年06月28日 | 映画


かつて、人々は、田舎の“村社会”の“しがらみ”を嫌い、都会へと出た。
都会では、隣に誰が住んでいるかも知らないし、
他人を気にせず、一人でも気軽に暮らしていけると……
しかし、コロナ禍の日本を見ていると、
〈本当にそうだろうか……〉
と、疑問に思うことが多々あった。
なぜなら、コロナ禍にあって、大騒ぎしているのは、
一人暮らしを謳歌している筈の“都会の人々”の方が目立って多かったからである。
「電車やバスでの通勤なので、三密が避けられない」
「極力外出を控えているが、閉塞感が凄い」
「学校で授業がない、就職活動もできない、バイトもできない、帰省もできない」
などの問題点が浮上し、
「テレワークや時差出勤、三密を避ける就業環境」
「スーパーは1人または少人数ですいている時間に」
「寂しいときはリモート飲み会で」
「ビデオ通話でオンライン帰省」
などの解決案が出され、
「人間は一人では生きていけない」
「我々は一人ではない」
「こういうときだから助け合い、より深い“絆”を」
と励まし合っている。
このような都会人の反応を見ていると、
〈都会こそ濃密な“村社会”なのではないか……〉
と思えてしまう。
「他人とあまり関わらずに」生きていきたいと願っている人々が、
「人間は一人では生きていけない」と悟らされ、
新たな“村社会”を形成しているのが都会そのもののような気がした。

田舎に暮らしている私は……というと、
「村上RADIO」での村上春樹の言葉と、キャロル・キングの“You've Got A Friend”
と題して、5月31日のこのブログに書いた通り、

このコロナショックは私自身の生活にはあまり影響はなかった。
仕事ができなくなるということもなかったし、
生活が困窮するということもなかった。
映画館が休館し、新作映画を見ることができない……という不都合はあったが、
その他のことは、ほとんど問題なかった。
禁酒してから3年半が経つが、
酒を呑んでいた頃も、
一人で音楽を聴きながらとか、読書をしながら……というように一人酒が多かったので、
もし今、禁酒していないとしても、
オンライン飲み会(リモート飲み会)などというものはやらなかったと思うし、
そんな時間があったら、読書したり、ネットやDVDなどで映画を見ていたと思う。
外出自粛はしていたものの、裏山散歩くらいはしていたし(だって誰にも会わないし……)、
3月、4月、5月も、これまでとほとんど変わらない生活をしていた。

(全文はコチラから)

このような生活が可能だったのは、
やはり、私が、田舎に暮らしているからである。
田舎に暮らしていると、三密(密閉・密集・密接)を意識することはなく、
閉塞感を感じることもなかったし、自然体でいることができた。
田舎では、都会ほど仕事が細分化されておらず、
自分が何をしているのかがはっきり見える仕事が多く、
他人に頼らずとも「一人で生きていく能力のある」人々が、
それでも「人間は一人では生きていけないものだ」と謙虚な人生観を持ち、
他人と適度な距離を保ちつつ、慎ましく暮らしている。
他人とあまり関わらずに生きていけるのは、
現代ではむしろ田舎の方なのではないかと思った。
若いときに東京で9年間生活し、
福岡などでも6~7年間暮らしたことがあり、
都会の良さを十分に理解している私であるが、
65歳の今はそのように思う。
今では、何かの用事で都会へ行くと、すぐに田舎に帰りたくなる。
人混みの中にいると、すぐに人に酔ってしまうし、気分が悪くなる。
私はもう都会では生活できない躰になってしまっているのだ。


(いつものように)前置きが長くなった。(笑)
かように田舎暮らしをし、登山を趣味にしていると、
都会に対する興味はなくなり、
極端ではあるが、ヒマラヤやチベットに憧れを持つようになる。
特に、チベットは、
1901年(明治34年)3月に、河口慧海が日本人で初めてラサに入って以来、
常に日本人の興味の対象であった。
チベットを舞台にした映画はそれほど多くなく、
中華民国時代のチベットに迷い込んだオーストリア人登山家ハインリヒ・ハラーが主人公の『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997年)や、


ダライ・ラマ14世の半生を描いたマーティン・スコセッシ監督作品『クンドゥン』(1997年)が知られているくらい。


それらのほとんどは、アメリカで製作されており、
『農奴』(1963年)のような中国共産党によるプロパガンダ映画はあったものの、
チベット人監督による作品はこれまでなかった。
チベット人監督作品として、日本で初めて劇場公開された映画は、
ソンタルジャ監督の『草原の河』(2017年4月29日日本公開)であるが、
そのソンタルジャ監督の最新作が、本日紹介する、
聖地ラサへの巡礼の旅に出た妻と家族の姿を描いた映画『巡礼の約束』なのである。
自称アルキニストなので、(笑)
巡礼や、歩き旅を題材にした映画が好きで、
これまでにも、
『悼む人』(2015年公開)
『わたしに会うまでの1600キロ』(2015年日本公開)
『奇跡の2000マイル』(2015年日本公開)
などの作品のレビューも書いている。(タイトルをクリックするとレビューが読めます)
『巡礼の約束』は、今年(2020年)2月8日に公開された作品であるが、
全国順次公開予定が、
新型コロナウイルスの影響で、一時中断し、
佐賀での公開も6月までずれ込んでしまった。
“チベット”が舞台の、“巡礼”を題材にした映画『巡礼の約束』は、
はたしてどんな作品なのか……
ワクワクしながら映画館(シアター・シエマ)へ向かったのだった。



山あいの村で、
夫と、夫の父と暮すウォマ(ニマソンソン)は、


ある夢を見た朝に火をおこして供養をする。


そんなウォマの姿を見た夫のロルジェ(ヨンジョンジャ)は、
〈それは誰のための供養なのか?〉
〈ウォマは誰の夢を見たのか?〉
と、気になって仕方なかった。


病院で医師からあることを告げられたウォマは、
ロルジェに、
「五体投地でラサへ巡礼に行く」
と、決心を伝える。
妻からの突然の言葉に、ロルジェは反対するが、
ウォマの固い決意を前に、ラサ巡礼を受け入れる。


妻を心配し、後を追う夫。
さらに心を閉ざしていた前夫との息子ノルウも、
母ウォマに会いにやってきた。


血のつながらぬ父と息子は、
母を亡くした1頭の子ロバとともに聖地ラサへの巡礼の道を歩き続ける……




結論から先に言うと、「傑作」であった。
「あらすじ」では、映画の前半部分しか紹介していないが、
本作は私が予想していたものとかなり違っており、
後半は、思ってもみなかった展開となり、驚かされた。
チベットが舞台の映画だと、
チベットの美しい山河や古い寺院などの映像と共に、崇高な人間の営みが描かれる……
というイメージがあるが、
本作はまったく違っていた。
夫婦、親子関係における、愛や憎しみ、悲しみ、嫉妬、後悔など、
普段私たちが感じているものと同じ感情が描かれており、
実に人間臭いドラマが展開されていたのだ。
感動させられたし、レベルの高さも感じた。


ロルジェの妻・ウォマが行う「五体投地」とは、
両手・両膝・額(五体)を地面に投げ伏して祈る、
仏教でもっとも丁寧な礼拝の方法。
「しゃくとり虫のように進む」と表現されるが、
一度の「五体投地」で2mほどしか進まないこの方法で、
聖地ラサへ、聖山カイラスへと進むのだ。


本作では、ラサまでの行程を描いているが、
最終目的地のカイラスまで巡礼する人もおり、
それは「カイラス巡礼」として、
これまでNHKのドキュメンタリーなどで放送されているので、
私も知っていた。
この「五体投地」で巡礼する模様を描いた映画としては、
2015年製作の『ラサへの歩き方 祈りの2400km』がある。


こちらは、老若男女11人の村人が揃って聖地ラサと聖山カイラスを目指す、
ドキュメンタリー風ロードムービーであったが、
正直、私はあまり感心しなかった。
監督がチベット人ではなく、漢族の張楊監督ということもあってか、
外部から見たチベット人の生態を描くという感じで、
チベットらしさのオンパレードで、見ていて、
〈ほんまかいな?〉
という感情が沸き上がってきた。
この『ラサへの歩き方』のことを問われたソンタルジャ監督は、
某インタビューで、次のように答えている。


赤ん坊の誕生から老人の死までを盛り込む『ラサへの歩き方』では、チベットの死生観が概念的に撮られました。仰る通りラサ巡礼を客観視するその手つきが漢族の監督ゆえということはあるのでしょう。しかしこれに限らず過去の映画群に顕著であった《チベット》を記号化する傾向に対し、私たちはその必要がないと考えます。チベットの映画だからとマニ車やチベット寺院ばかり映るとすれば、日本が題材だから着物や富士山ばかり撮るのと同じレッテル貼りに過ぎません。信仰をめぐる表現についても同じことが言えますね。どんな宗教であれ、信仰を持てるということはとても幸せなことです。現代人の日常がかつての宗教的な作法から遠のいている点ではチベット人も世界の人々と変わりません。しかし敢えて記号化して描かずとも、スマホをいじりバイクに乗る私たちに近しいものとして信仰は依然ある。何かの主張のためでなく自明のものとしてそれらを撮ったので、政治的な検閲等をとくに警戒する必要も感じませんでした。

昨今の中国における宗教や芸術表現への抑圧を絡めての回答であるが、
チベット人監督としての表現の難しさもあったことと思われる。
直接的な中国批判はないものの、
チベット人の日常を特殊なものとしてではなく、
世界の人々に共通する普遍的なものとして描いたことにより、
チベット人の素晴らしさが表現されており、
これにまさるチベット映画はないように感じた。



本当は、ここまで読んでもらった時点で、
『巡礼の約束』を見に行ってもらいたいのだが、
(そして、以下は映画鑑賞後に読んでもらいたのだが、)
本作はどこででも上映している映画ではないので、
見る機会のない人も多いことと思われる。
なので、少々ネタバレ気味にはなるが、
本作の中盤、および後半部分のことを語っておこうと思う。


『巡礼の約束』中盤では、
妻・ウォマの唐突な巡礼の決意が、
医者による余命宣告と、前夫とのある約束を理由としていることが明かされる。
故人とはいえ別の男との約束を妻が胸に秘めていると知った夫・ロルジェは、
嫉妬心にかられる。


ロルジェはけっこう嫉妬深く、人間臭い人物として描かれているのだ。
ウォマの前夫との息子・ノルウが、
「おまえは僕が邪魔なんだろう!」
「僕はお母さんと一緒に暮らしたかったんだ」
とロルジェに言い放つシーンがあり、
ロルジェがウォマの連れ子であるノルウとの同居を拒み、
ノルウがウォマの両親に預けられた経緯が明かされる。


ロルジェはノルウに祖父母に家に帰るように諭すが、
ノルウは「最後まで母親と一緒にいる」と言い張り帰らない。
そして、夫・ロルジェと息子・ノルウを従えたウォマの巡礼がしばらく続く。


だが、ウォマの容態が重症化し、危篤状態となり、やがて死んでしまう。


死ぬ間際、ウォマは息子・ノルウにある願いを託す。


そのことを知って、妻・ウォマの巡礼をロルジェが引き継ぐことを決意する。
こうして、映画の後半は、
ロルジェと、血のつながらない息子・ノルウと、
途中で拾った母を亡くしたロバとの巡礼が続く。


旅の主役を切り替えることで、
単一的な巡礼のイメージを多層化し、
見る者を飽きさせない。
「見事!」と言う他ない。


ここまで書いて、
物語のすべてを書いたかというと、そうではない。
書いていない部分、
書けない部分も多くある。


あとは、できれば、自分の目で、心で確かめてもらいたい。
巡礼を通して、
人生において何が大切なのかを知らしめてくれる傑作『巡礼の約束』。
機会がありましたら、ぜひぜひ。

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