一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『フェイブルマンズ』……ミシェル・ウィリアムズの演技が素晴らしい傑作……

2023年03月06日 | 映画


世界中で愛される映画の数々を世に送り出してきた巨匠スティーブン・スピルバーグ。


テレビ映画として撮られた『激突!』(1971年)に始まり、
『ジョーズ』(1975年)
『未知との遭遇』(1977年)
『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)
『E.T.』(1982年)
『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984年)
『ジュラシック・パーク』(1993年)
『シンドラーのリスト』(1993年)
『プライベート・ライアン』(1998年)
『A.I.』(2001年)
『宇宙戦争』(2005年)
『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017年)
『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021年)
など、時代の話題作を提供し続け、
半世紀に渡り、ハリウッド屈指のヒットメーカーとして君臨してきた。
前期高齢者の私は、
そのほとんどを映画館で(リアルタイムで)鑑賞しているが、
そこまでのスピルバーグのファンではない私としては、
〈話題作なので一応見ておこうか……〉
という程度の軽い気持ちで見ていたので、
それを幸運とは感じずに今日まできた。
私にとってのスピルバーグは、
映画の楽しみの最大公約数、
常に成功という命運を託された商業映画監督……といったイメージで、
(そうではない作品もあるが、「賞獲りのため」というイメージが強い)
正直、それほど好きな監督ではなかった。
なので、スピルバーグ監督の新作『フェイブルマンズ』にも、
それほどの興味はなかった。
ただ、
「スピルバーグの自伝的作品」
「人生の出来事、そのひとつひとつが映画になった」
というキャッチコピーに魅かれるものがあった。
「少年と映画」を描いた作品には名作が多いことも、
「見てみようか……」という気持ちを後押しした。
で、公開初日(2023年3月3日)に、
映画館(109シネマズ佐賀)に駆けつけたのだった。



初めて映画館を訪れて以来、
映画に夢中になった少年サミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)は、


母親(ミシェル・ウィリアムズ)から8ミリカメラをプレゼントされる。


家族や仲間たちと過ごす日々のなか、


人生の一瞬一瞬を探求し、夢を追い求めていくサミー。


母親はそんな彼の夢を支えてくれるが、
父親(ポール・ダノ)はその夢を単なる趣味としか見なさない。


サミーはそんな両親の間で葛藤しながら、
さまざまな人々との出会いを通じて成長していく……




映画は、本作の主人公であるサミー・フェイブルマン少年が、
両親と初めて(映画館で)映画を見るシーンから始まる。
その映画は、セシル・B・デミル監督の『地上最大のショウ』(1952年)。


この映画に、列車事故のシーンがあり、
その場面に衝撃を受けたサミーは、模型の列車で、列車事故のシーンを再現し、
それを8ミリで撮って、何度も繰り返し鑑賞する。



映画との幸福な出合いが描かれ、
〈こんな感じで最後までいくのかな……〉
と思っていたら、
そうではなかった。
両親の不和、祖母の死、母の悲しみ、父の苦しみ、差別、いじめ、暴力など、
光の部分だけではなく、闇の部分にもカメラは向けられ、
映像に撮られ、スクリーンに映し出される。



少年時代は「きれいごと」としてまとめられ、「美しき思い出」として処理されやすいが、
本作はそうなっておらず、監督の覚悟が感じられ、ちょっと驚いた。
スピルバーグ監督作品といえば、
ハリウッドの最新技術を駆使したスキのない巧みな映像……というイメージが先行し、
面白さ優先で、ドラマ性については希薄に感じられることが多かったが、
本作『フェイブルマンズ』は脚本が練りに練られ、
言葉が大事に扱われ、ドラマ性に重きが置かれていることに好感が持てた。



脚本を担当しているのは、スピルバーグ自身と、
『ミュンヘン』『リンカーン』『ウエスト・サイド・ストーリー』などのスピルバーグ作品で知られるトニー・クシュナー。
この映画の企画は、『ミュンヘン』(2005年)の現場での何気ない会話から始まったらしく、
クシュナーが、
「いつ映画監督になろうと決意したのですか?」
と訊いたのに対し、スピルバーグが、
幼少期の映画との出会いや両親のこと、それらが自身にどんな影響を与えたかなど、
本作の基となるエピソードを披露し、
これを発端に、脚本化を目指し、長年、話し合いを続けてきたらしい。
なので、表向きは、スピルバーグ監督自身を投影したサミー少年が主役なのだが、
「この映画のテーマは家族だ」
と、スピルバーグ自身も語っていたように、
サミーを取り巻く家族の物語であり、


女優偏重主義者の私からすれば、
サミーの母、つまりミシェル・ウィリアムズが主役の映画であった。



ちなみに、本作の「フェイブルマン」という姓は、クシュナーの発案だそうで、
ドイツ語の「Spielberg」の英訳が「play mountain」(芝居山)であることから、
戯曲のプロットを意味する古い演劇用語「fabel」を採用したとのこと。
ドイツ語の「fabel」には、「寓話」という意味もあるらしい。
そして、「フェイブルマン“ズ”」と複数形にしてあることからしても、
「家族」がテーマであることは明らかだ。



「家族」の中でも、とりわけ母親の存在に重きが置かれており、
(ネタばれになるので詳しくは書けないが)母親の心動きひとつで、
家族をまとめもするが、家族を壊してもしまう。


この母親を演じているのが、ミシェル・ウィリアムズで、


母として、妻として、一人の女として、
時には清楚に、時には愛情深く、時にはエロティックに、
様々な表情、心情を巧みに表現し、秀逸であった。


『ブロークバック・マウンテン』(2005年) アカデミー助演女優賞ノミネート
『ブルーバレンタイン』(2010年)アカデミー主演女優賞ノミネート
『マリリン 7日間の恋』(2011年)アカデミー主演女優賞ノミネート
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016年)アカデミー助演女優賞ノミネート
と、アカデミー賞に4度ノミネートされているが、
本作『フェイブルマンズ』でも主演女優賞にノミネートされており、
5度目にして初受賞なるか……と、注目されている。



サミー少年に多大なる影響を及ぼしたのが母親であるというのは、
間違いのない事実であるのだが、
もう一人、サミー少年に影響を及ぼした親族がいる。
それが、ボリス伯父さん(ジャド・ハーシュ)である。

ぼくの母方の親戚に、サーカスでライオンの調教や売店の掃除なんかをしていた人がいたんだ。彼は人が嫌がるそんな仕事をしながら、いつか出世して、サーカスに出演しようと考えていたらしい。強烈な個性の持ち主で、強いウクライナ訛りの英語で大声をあげて、その場を支配してしまうような人だったから、祖母や母はおびえていたよ。祖母が亡くなったとき、彼が弔問のためにアリゾナ州のぼくら家族が暮らす家にやって来た。このシーンは映画にもある。このとき、ぼくの中にあるショービジネスの才能がどこから来たのか、合点がいったんだ。その多くは、レストランでピアニストをしていた母から受け継いだものだけど、そこにボリス伯父さんの遺伝子も少し混ざっていたんだろうね。

スピルバーグもこう語っていたが、
このボリス伯父さんが、サミー少年の将来を予見するような言葉を残す。
ボリス伯父さんを演じるジャド・ハーシュの出演シーンは短いのだが、
見る者に強烈な印象を残す。
この短時間の演技でジャド・ハーシュはアカデミー助演男優賞にノミネートされており、
「さすが!」の一言だ。



もう一人、サミーの家族に(いろんな意味で)影響を及ぼした人物がいる。
それが、サミーの家族と同居する、父親の親友・ベニー(セス・ローゲン)である。
(ネタばれになるので詳しくは書けないが)父親とは正反対の性格なので、
異質の存在として最初から不穏さを感じさせる。
結局、
〈そういうことになるよね……〉
という結末になるのだが、
サミーが母親を単なる親としてだけではなく、
一人の人間として(あるいは女として)見ることができるようになるのは、
ベニーが居たればこそ……なのであった。



撮影のヤヌス・カミンスキー、
音楽のジョン・ウィリアムズなど、
スピルバーグ作品の常連スタッフが集結し、
安定の仕上がりになっており、
第95回アカデミー賞でも、
主演女優賞(ミシェル・ウィリアムズ)、助演男優賞(ジャド・ハーシュ)の他、
作品賞、監督賞、脚本賞、作曲賞、美術賞と、計7部門にノミネートされている。
151分と、前期高齢者にはあまり嬉しくない上映時間であったが、
時間を忘れるほど楽しく見ることができた。


映画の中のエピソードのひとつひとつが、
スピルバーグ監督のこれまでの作品のひとつひとつを想起させ、
〈このエピソードが、あの作品に活かされているのだな……〉
と、上映中は「何を見ても何かを思いだす」状態であったからだ。


スピルバーグ監督自身も、かつて、

ぼくの映画で、子どもの頃に体験したことが元になっていない作品は一つとしてない。

と語っていたが、
スピルバーグ監督ファンでない私でさえこうなのだが、
スピルバーグ監督ファンならなおのこと、
上映中は、頭の中がメリーゴーランド状態になること間違いなしだ。


そういえば、サミー少年が、初めて(映画館で)映画を見た作品が、
セシル・B・デミル監督の『地上最大のショウ』だったのだが、
この『地上最大のショウ』の上映時間が152分だった。
本作『フェイブルマンズ』が1分だけ短くしてあるのは、
同作へのオマージュであったのかもしれない。


忘れ難いシーンがある。
8ミリカメラで初めて映画を撮ったサミー少年が、
自分の手のひらに映画を映してみるシーンだ。
スマホなどで映画を見るようになる未来をも予見したようなシーンで、
実に美しく、映画の楽しさのすべてがこのワンシーンに映し出されているように感じた。


(「映画愛」というようなありふれた言葉はあまり使いたくないのだが)「映画愛」に満ちた、
「何度でも見たい」と思わせる傑作であった。

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