一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『あちらにいる鬼』…寺島しのぶと広末涼子の演技が秀逸な廣木隆一監督作品…

2022年11月15日 | 映画


佐賀県には、メジャーな映画を上映する映画館は2館しかない。
イオンシネマ佐賀大和と、109シネマズ佐賀だ。
11月11日(金)から公開された映画『すずめの戸締まり』の上映回数が凄まじく、
イオンシネマ佐賀大和で1日25回、
109シネマズ佐賀で1日18回。
そのあおりを喰らって、
同じく11月11日に公開予定で、私が見たいと思っていた
『あちらにいる鬼』(寺島しのぶ、広末涼子が出演)と、
『土を喰らう十二ヵ月』(松たか子が出演)が、
イオンシネマ佐賀大和と109シネマズ佐賀では上映されないという事態に陥った。
ガッカリしていたところ、
ミニシアター系の映画館で、しかも大都市の映画館よりも遅れて上映することの多いシアターシエマ(佐賀市)で、両作とも11月11日に公開されることを知った。
喜んだのは言うまでもない。
で、まずは『あちらにいる鬼』を見に、シアターシエマに駆けつけたのだった。



1966年、
人気作家の長内みはる(寺島しのぶ)は、
戦後派を代表する作家・白木篤郎(豊川悦司)と、


講演旅行をきっかけに知り合い、
それぞれに妻子やパートナーがありながら男女の仲となる。


もうすぐ第二子が誕生するという時にもみはるの元へ通う篤郎だが、
自宅では幼い娘を可愛がり、妻・笙子(広末涼子)の手料理を絶賛する。
奔放で嘘つきな篤郎にのめり込むみはる。
全てを承知しながらも心乱すことのない笙子。


しかし、みはるにとって白木は、体だけの関係にとどまらず、
「書くこと」を通してつながることで、かけがえのない存在となっていく。
緊張をはらむ共犯とも連帯ともいうべき3人の関係性が生まれる中、
みはるが突然、篤郎に告げた。
「わたし、出家しようと思うの……」




本作『あちらにいる鬼』の原作(井上荒野・著)を読んだのは、
もう3年半前になる。


……井上光晴と、その妻と、瀬戸内寂聴の三角関係……
とサブタイトルを付してレビューを書いたのだが、
本書を読んだ人で「井上光晴」を知らない人が多かったようで、
「井上光晴」で検索して当ブログに行き着く人が増え、
私が書いたこのレビューは当ブログの訪問者数をアップさせるのに大きく貢献してきた。
映画化されると報道されてからは、一層、このレビューへのアクセス数が増えた。
このレビューから「井上光晴」に関する部分を引用してみる。


「井上光晴」(1926年5月15日~1992年5月30日)という作家がいたことを、
今の若い人はほとんど知らないのではないだろうか?



『虚構のクレーン』(未來社 1960 のち新潮文庫)
『地の群れ』(河出書房新社 1963 のち新潮文庫、旺文社文庫、河出文庫)
『心優しき叛逆者たち』(新潮社 1973)
『明日 一九四五年八月八日・長崎』(集英社 1982 のち文庫)
などで知られた作家であるが、
死後27年が経ち(2019年現在)、今ではすっかり忘れられた作家になっている。
原一男監督によるドキュメンタリー映画『全身小説家』(1994年9月23日公開)は、



井上光晴の、癌により死に至るまでの5年間を撮っており、
今となっては貴重な資料になっているが、
この『全身小説家』をDVDなどで観たことのある人でさえ、
若い人のレビューを読むと、井上光晴の作品を読んだことのある人はほとんどいない。
直木賞作家・井上荒野の父としての認識しかないのが現状だ。



(中略)

瀬戸内晴美が1973年に出家したときには、とても驚いたことを憶えているが、
まだ十代だった私は、
彼女の出家に井上光晴のことが大きく関わっていたことは知らなかった。

私は、中学時代までは野球少年で、体を動かすことを中心に生活していたが、
高校生になってから、本格的に本を読み出した。
長崎県佐世保市で生まれ育ったので、
最初は、長崎県を舞台にした遠藤周作の『沈黙』などの諸作品や、
郷土の作家の言われていた井上光晴の小説を多く読んだ。


篤郎がこれまで自称していた経歴のあちこちに嘘があることがわかったのだった。たとえば生まれは自筆年譜では旅順なのだが、実際には久留米だったし、故郷ということになっていた崎戸には三、四年しか暮らしておらず、少年時代に炭鉱で働いていたというのも、朝鮮人労働者に暴動を示唆して検挙されたというのも嘘だった。(294頁)

井上光晴の経歴の嘘については、
ドキュメンタリー映画『全身小説家』の公開されたとき時(1994年)に映画館で見て知ることになるが、
私もまんまと騙された読者の一人である。(笑)



1983年(昭和58年)の夏、
私は九州で働いていたが、一週間ほど休みを取得して、北海道を旅していた。
札幌の書店に寄ったとき、その書店で、井上光晴のサイン会が行われていた。
偶然の出来事に驚いたが、
郷土の作家と思っていたし、親しみを感じていた作家なので、
私も2冊の本(『地の群れ』『明日 一九四五年八月八日・長崎』)を購入し、
サインをしてもらった。



名前も記入してくれるということで、紙を渡され、
そこに自分の名前と、一言メッセージ欄に「私も佐世保出身です」と書いたら、
「君も佐世保か~、ここで何してるんだ?」
と訊かれ、しばし雑談したことを憶えている。
(全文はコチラから)



なぜこのように長々と引用したかというと、
本作を鑑賞する上で、井上光晴への知識や理解が必要不可欠であると考えたからだ。
今の世の中、このような人物はほとんど見当たらないし、
現代の若者にとって、井上光晴のような人物を真に理解するのは難しいと思う。
たぶん「なんじゃこりゃ?」の世界なのではないか。
俳優やタレントにまで潔癖性を求め、
不倫したベッキーや東出昌大や唐田えりかをネットで叩き続けている人を見るにつけ、
私など、本当に「気持ち悪い」世の中になったと思わざるを得ない。
なので、すべての人に潔癖性を求める人は、この映画は見ない方がいいと思う。
瀬戸内寂聴や井上光晴の本を(もしくは井上荒野の原作を)読んだりしていれば、
この二人がどのような人物かは判るし、
どのような映画になるかは自ずと判るものであるが、
何も知らずに鑑賞し、ただ批判するのは、己の無知を晒しているだけである。
そんな人がなんと多いことか……


……ということで、
映画『あちらにいる鬼』を見た感想はというと、
かなり良かった。
原作も読んでいたし、この原作を映画化するのはかなり難しいと感じていたので、
〈よくぞ、これほどの作品に仕上げたものだ!〉
と思った。
まずは、この原作を脚色した荒井晴彦を褒めなければならないだろう。


139分と長めの尺ではあるが、丁寧に言葉を紡げば、この長さは必要であったろう。
原作だけではなく、
原一男監督によるドキュメンタリー映画『全身小説家』などでのエピソードも取り入れ、
それぞれの登場人物(特に白木篤郎=井上光晴)に関しては分厚く肉付けされていた。
見事と言う他ない。



その荒井晴彦の脚本を映像化した廣木隆一監督の手腕も褒めたい。


寺島しのぶと広末涼子の顔のアップを多用し、
二人の表情だけでなく、そこから深く心情までをも映し出した演出は素晴らしく、
女優の持っている能力、才能を最大限にまで引き出すことのできる優れた監督だと思う。
今年(2022年)の廣木隆一監督は、
『ノイズ』(2022年1月28日公開)
に始まり、
『夕方のおともだち』(2022年2月4日公開)
『あちらにいる鬼』(2022年11月11日公開)
という傑作をものし、
湊かなえ原作による母と娘のドラマ『母性』(2022年11月23日公開予定)
佐藤正午原作の愛と輪廻の物語『月の満ち欠け』(2022年12月2日公開予定)
という期待作も控えている。
実にエネルギッシュだし、
廣木隆一監督の年と言っていいほどの活躍ぶりである。



本作『あちらにいる鬼』は、寺島しのぶと豊川悦司のW主演作であるが、
まずは、長内みはるを演じた寺島しのぶ。


スクリーンに大写しされる寺島しのぶを見ていると、
(似ているとか似ていないとかは別にして)瀬戸内晴美(寂聴)にしか思えない一瞬があり、




〈瀬戸内寂聴の魂が寺島しのぶに乗り移っているのではないか……〉
と思え、その憑依ぶりに驚かされると共に、
寺島しのぶの演技力、表現力にも感心させられたし、感動させられた。
廣木隆一(監督)、荒井晴彦(脚本)とタッグを組むのは、
『ヴァイブレータ』(2003年)
『やわらかい生活』(2006年)

以来であるが、相性も良く、
寺島しのぶの魅力が最大限に引き出されており、
寺島しのぶの代表作のひとつになったと思う。



もう一人の主人公・白木篤郎を演じた豊川悦司。


井上光晴は豊川悦司ほどのイイ男ではないし、背も高くないので、
井上光晴に実際に会ったことのある私としては、
豊川悦司がキャスティングされたことに関しては大いに不満なのであるが、(笑)
「人たらし」「女たらし」という部分では似ているのではないか……と思った。(コラコラ)
撮影前のコメントで、

男にも女にも家庭があって、それでも磁石のように惹きつけあって、どうしようもなく、あがくすべもなく、ただ相手を見据えて、しがみついていく二人。しがみつく二人にしがみつく家族。スキャンダルという理由は、彼らが文化人であったというだけのこと。寺島しのぶと、男と女、それだけを演じてみたい。

と語っていたが、
飄々として、女の間を行き来し、死んでいく男をシンプルに演じていて良かった。
豊川悦司にしか演じられない役であったと思う。



白木篤郎(豊川悦司)の妻・笙子を演じた広末涼子。


本作の主要三人の中で最も地味で目立たない存在の笙子であるが、
広末涼子が演じることで、魅力的な存在になっていたように思う。
夫の浮気を、ただ耐え忍んでいるように見えるが、
不動産業者(だったかな?)の秦(村上淳)と浮気を試みるシーンもあったりして、
何を考えているのか判らない謎の部分もあり、
それが広末涼子という妖艶な女優のキャラクターともリンクし、
男にとってはなんとも「恐い」存在であった。(笑)
「あちらにいる鬼」とは、もしかすると笙子なのかもしれない……と思った。



その他、出演シーンはそれほど多くないものの、
長内みはる(寺島しのぶ)のパートナー・小桧山真二を演じた高良健吾、


白木篤郎(豊川悦司)の浮気相手の一人、坂口初子を演じた蓮佛美沙子、


白木篤郎の母・白木サカを演じた丘みつ子などの演技が、
本作を優れた作品へと押し上げていた。



昭和という時代を舞台にした(時代劇とも言うべき)映画『あちらにいる鬼』は、
なんとも窮屈な世の中になってしまった現代においては、
赦されざる「不倫もの」であるが、
そういったありきたりな枠だけではくくれない、
すべての感情を超越したものが三人の関係性にはあると思ったし、
普遍的なメッセージが本作にはあると思った。


井上光晴は、1992年に大腸癌で死去。享年66。
遺骨は遺族の自宅のクローゼットに7年間置かれたままであったが、
瀬戸内寂聴の勧めで天台寺(岩手県)の墓所に収められ、
のちに妻・郁子も同墓に埋葬された。


2021年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴の遺骨も、
同じく天台寺に納骨された。
墓石には「愛した 書いた 祈った」と刻まれている。


今頃は、あの世で、三人で酒を酌み交わしているかもしれない。

この記事についてブログを書く
« “秋色”を探しに天山へ ……ツ... | トップ | 映画『土を喰らう十二ヵ月』... »