一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

カミュ『シーシュポスの神話』……庄司紗矢香、山根基世、三浦瑠麗の人生の書……

2023年07月11日 | 読書


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私は、バイオリニストの庄司紗矢香が好きで、


読書しているときや、パソコンでブログ更新しているときなどによく聴いている。


そんな庄司紗矢香が、
「文藝春秋」2023年5月号の「私の人生を決めた本」という特集で、


「カミュは最も重要な作家」と題し、
カミュの『シーシュポスの神話』(清水徹訳、新潮文庫)を採り上げていた。


好きな本について話した事は何度かある。しかし、人生を決めるほどの影響力を持つ本、繰り返し読みたくなる本は数少ないのではないだろうか。
読んでから影響を受けた、と言えばそうだし、もしくは最初に読んだときから、その世界観にピッタリと“はまる”感覚があったとも言える。小さい頃から本と音楽が自分の居場所と感じていた。
でも、しっくりしない本は途中で読むのをやめてしまう。反対に気にいると、次から次へと同じ作家のものを読み、その中に出てくる作家や著書の名をノートにメモして、玉突きの様に次に読みたい本の世界が広がっていった。
20代始めにカミュの『シーシュポスの神話』(新潮文庫)を手に取った時、ある感覚が蘇った。10代後半にドストエフスキーにハマった時と同じ感覚だ。恐らく私だけでなく多くの人に、ある日誰かに「よそよそしい口調で話しかけられただけで、それまではまだ宙に浮いていた怨恨や疲労の全てが、一時にどっと落ちかかる」経験があるだろう。
私は比較的健康な心を持っているし、周りの方々への感謝の気持ちを常に持って生きている。しかし全体主義への反抗心を抑えられない時があって、若い時は特にそうだった。自分の頭で考えて理解できない事に同調はできない。『シーシュポスの神話』は、何も日本に限らず、同調を重んじる「社会」で生きていくことの困難に対し、逃避せず、真実を熟考し、疑問を凝視する勇気をくれた本だ。カミュは何を読んでも私の心に強く語りかける。『異邦人』に先立って書かれた『幸福な死』(新潮文庫)では、健康だが貧乏なメルソーとその恋人マルト、そして金持ちだが事故で両足を失ったザグルーの間に入り混る複雑な心理を通して、人の心や社会がいかに不条理に満ちているか、物事を一面的に裁いたり正当化することができないかを、鮮やかに描く。
タイトルの「幸福な死」は、すなわち幸せな人生の定義を、ストーリーをたどる読者各自に問いかけているかの様だ。その定義は隣人と必ずしも同一ではないだろう。そして究極には個々の違いに対する理解と尊敬こそが、平和への道ではないだろうか。カミュはドストエフスキーと同様に、私に客観的、かつ多面的に物事を考える習慣を植え付けた最も重要な作家だ。



私もカミュの作品が好きだったので、嬉しかったし、
庄司紗矢香というバイオリニストの本質を垣間見たようで興味深かった。
それにしても、

20代始めにカミュの『シーシュポスの神話』(新潮文庫)を手に取った時、ある感覚が蘇った。10代後半にドストエフスキーにハマった時と同じ感覚だ。

とは、ビックリ。
10代ですでにドストエフスキーにハマっていて、
カミュにハマるきっかけも、
『異邦人』や『ペスト』ではなく『シーシュポスの神話』であったとは……
全体主義を嫌う彼女が、『シーシュポスの神話』を、

同調を重んじる「社会」で生きていくことの困難に対し、逃避せず、真実を熟考し、疑問を凝視する勇気をくれた本だ。

と言い切るくだりに、
コロナ禍の中で推し進められたショック・ドクトリンともいうべき様々なゴリ押し政策(マイナンバーという国民監視テク等)の数々を思い出し、
庄司紗矢香の知性に感心した。

【アルベール・カミュ】
1913年11月7日、アルジェリア生れ。
フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。
高等中学の師の影響で文学に目覚める。
アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。
またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。
1942年、『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、
1951年、『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。
以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。
1957年、ノーベル文学賞受賞。
1960年1月4日、交通事故で死亡。(享年46歳)


『シーシュポスの神話』は、
アルベール・カミュの不条理について考察する哲学的な内容の随筆である。
「不条理の論証」、「不条理な人間」、「不条理な創造」、「シーシュポスの神話」
と題された4章からなり、
「不条理の論証」の冒頭で、
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」
と問題提起をしている。
そして不条理を克服する反抗の可能性から、自殺は反抗ではないとした。
更に宗教の盲信や実存主義の哲学者を念頭に、
形而上学への逃避も「哲学的自殺」として退けた。
「不条理な人間」ではドン・ファンについて、
「不条理な創造」では『カラマーゾフの兄弟』を始めとするドストエフスキーの作品についての考察がなされる。
最後の「シーシュポスの神話」は、本書の根本命題とも言うべき最も有名な話だ。
神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、
大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受ける。
彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、
山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。
同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならない。
カミュはここで、
人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、
それでも生き続ける人間の姿を、
そして人類全体の運命を描き出している。
不条理が受け入れられることにより世界が意味を持たないことに気づき、
個としての我々はシーシュポスさながらの世界に対する反抗によって自由になりえると結論づける。

庄司紗矢香の文章を読んだ後に、
同じ「文藝春秋」2023年5月号の「私の人生を決めた本」という特集を読んでいたら、
アナウンサーの山根基世もまた「カミュの読書ノート」と題し、


カミュの『シジフォスの神話』(矢内原伊作訳、新潮文庫、絶版)を採り上げていたのには驚いた。


19歳の頃のあの苦しさは何だったんだろう。初めての東京暮らし。三畳一間の古いアパートの部屋。トタンだったのだろうか、水を流すとドタドタ音のする小さな流しで皿を洗いながら泣いていた。理由のない焦燥感に苛まれ、もうすぐ20歳だというのに何者でもない自分が惨めで。ある日、今日自分が死んでも明日からの世の中、何も変わらないことに気づいて猛然と腹が立った。じゃあ私が生きている意味って何なのよ! と。
その頃読んだカミュの『シジフォスの神話』(新潮文庫、絶版)にいたく感動した。その内容を延々書き写している大学時代の読書ノートが残っている。とはいえ、不条理や自殺について考察した哲学的で難しい内容だ。何も理解してはいなかった。
私が心うたれたのは、ギリシャ神話のシジフォスについて語っている最後の短い章だけだ。神々の怒りをかったシジフォスは、間断なく岩を山頂に運び上げるという刑罰を科せられる。山頂に達すると、岩はその重みで又転がり落ちる。再び運び上げる。永劫に続くその繰り返し。全身全霊で運び上げても決して達成することのない労働。だが、それを承知でなお、自分の意志で一歩一歩岩を運び上げるシジフォス。無駄に思えるその一歩にこそ意味があると、私は受けとめ深く頷いた。どうせ最後は死ぬとわかっている生に、へっぴり腰でしがみついている自分をあざ笑うような頭でっかちだった私。「目の前の一歩を大切にする」のかと、諦めのような希望が湧いた。


コロナ禍ではカミュの『ペスト』が大いに読まれたが、
ショック・ドクトリンの渦中にある今こそ『シジフォスの神話』を読むべき“時”ではないかと思われた。

「私の人生を決めた本」という特集を読み終え、
同じ「文藝春秋」2023年5月号の別の記事「三浦瑠麗 独占告白120分 夫の逮捕で考えたこと」を読んでいたときのこと。


私は、そこでもまたカミュ『シーシュポスの神話』と出合うのである。
三浦瑠麗はこう書いている。


夫が逮捕された翌日、私は拘置所に差し入れに行きました。早く行ってあげなければという責任感みたいなものもありました。朝早く、自分で車を運転して行ったんです。
拘置所生活で一番先に必要なのは下着の替えだそうで、何着か用意しました。私も知らなかったんですが、拘置所ごとに本当に細かく差し入れのルールが決まっているんです。一日の差し入れ枚数も制限されているし、自殺防止のためか、長いひも状のものも駄目なんですね。夫は拘置所で履いていた長靴下を没収されたようで、慌てて温かいくるぶし丈の短い靴下を買いました。マスコミに付け回されていたので、アマゾンで頼むしかなかった。
一日に三冊だけ本の差し入れも認められており、弁護士を通じて渡しています。そのうちの二冊は夫がずっと「読みたい」と言っていた『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の上下巻。今から四年くらい前の本ですが、スティーブ・ジョブズの評伝で話題になったバイオグラファーが、ダヴィンチの膨大な自筆メモを読み解いて書いている。
残りの一冊は、夫が好きだった、E・H・カーの『危機の二十年』です。外交についての古典ですね。
ちなみにその翌日も本を送っていて、一冊はカミュの『シーシュポスの神話』にしました。神々の罰により、何度も岩を山頂まで運んでも転がり落ちる、それでも生き続けなければいけない人生の不条理を説いた本です。今の夫へのメッセージも多分に込めています。


「今の夫へのメッセージも多分に込めています」というところが、
三浦瑠麗の真骨頂であるし、同時に恐ろしさも感じるのだが、(笑)
一時姿を消していた三浦瑠麗も元気でいるようなので安心した。
私はスキャンダラス(かつ魅力的)な女性が嫌いではないので、
三浦瑠麗も広末涼子も早く復帰して欲しいと切に願う。(コラコラ)



庄司紗矢香、山根基世、三浦瑠麗という、
世代も活躍舞台も異にする3人の女性が、
「文藝春秋」2023年5月号という同じ雑誌の中で、
“人生の書”というべきものにカミュの『シーシュポスの神話』を挙げていたのに驚いたし、
感心させられ、ちょっとこのブログに書いておこうか……という気になった。
私も大学生の頃に一度読んでいるが、
あらためて新潮文庫を買い直し、どこへ行くにも持ち歩いて読んでいる。
こういう読書体験も悪くない。

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