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昨年(2019年)夏に65歳になり、前期高齢者になった。
定年退職し、再就職に証明写真が必要になり、
(スーパーや書店の前に設置してある)スピード写真で己の顔を撮った。
そして、その出来上がった写真を見て、愕然とした。
そこには、まぎれもない老人の顔が写っていたからである。
普段は、髭剃りをするときくらいしか鏡を見ないし、
まじまじと己の顔を見たことがなかった。
すっかり老人の顔になっている自分の顔を見て、
玉手箱を開けた浦島太郎のような気分になった。
昔読んだ、ある男性作家のエッセイを思い出した。
この作家が60歳になったとき、
〈今日からシニア料金で映画を見ることができる!〉
と喜び勇んで映画館へ行くが、
年齢を証明するものを忘れてきたことに気が付く。
日頃から若く見られることを自慢にしていたこの作家は、
“ダメもと”で、チケット売場の若い女性に、
「やはり年齢を証明するものがないとダメですかね~」
と訊いてみたという。
すると、その女性は、
「大丈夫ですよ、見れば判りますから~」
と明るく答えたそうだ。
この作家が愕然とし、落胆したのは言うまでもない。(笑)
かように、誰しもが、普段から、自分の顔を「甘く」評価している。
若く見える人も、
目尻や口元や首筋や手などには年相応の年輪が刻まれているものだ。
若く見えても、若いわけではない。
動作や所作にも老いが現れる。
顔は若づくりしているが、歩く姿は老人そのもの……
という人をよく見かける。
このブログの読者の中にも、
若く見られることを(密かに)自慢にしている人も多いことと思うが、
大抵の人は「年相応に見られている」ものだ。
そう自覚しておいた方がイイ。(コラコラ)
遠藤周作の『死について考える』(光文社文庫)を読んでいたら、
次のような文章が目にとまった。
正宗白鳥さんは八十三歳で膵臓癌でなくなられたたんですが、文壇では当時、大変な長寿の作家と思われていました。昭和三十七年ですから、まだ平均寿命はそんなに長くなかったころです。その白鳥さんが病院で、人間は長生きしていいかどうかわからん、自分は今、それを考えている、長生きして老人になると汚らしいし、楽しくもない、長生きするのはいいことなのかどうか、と言っておられたそうです。
非常に清潔な、すがすがしい老人というものの存在は確かにあるでしょうが、私自身について、年をとって、自分が汚らしくなった、とは思います。第一、白髪がはえたり、髪が薄くなります。歯も悪くなっていきます。若い人たちから見れば汚らしいでしょうね。美しく老いるというけれども、老年時代の現実は、決して美しいものではないと思います。
この本に限らず、遠藤周作は、他の本でも、
「老人になると汚らしくなる」
と発言しているのだが、確かに頷ける部分はある。
「美しく老いる」
という言葉を、よく目にし、耳にするが、
美しく老いた人はめったに見かけない。
それは芸能人にも言えることだ。
2017年、倉本聰が脚本を書いた『やすらぎの郷』(テレビ朝日系)というドラマを観ていたのだが、
あまりにも老人ばかりが出てくるので、途中で観るのをやめてしまった。
厚化粧で騒々しい女優たちに辟易してしまったということもあるけれど、
どんなに良質のドラマでも、老人ばかりのドラマは、正直キツイ。(コラコラ)
「美しく老いる」手本のような八千草薫さんは亡くなってしまったし……ね。
かように「美しく老いる」ことの難しさを実感している今日この頃であるのだが、
その「美しく老いる」ことを無意識のうちにやってのけている女性(エッセイスト、小説家、タレント)がいる。
それが、阿川佐和子だ。
【阿川 佐和子】(アガワサワコ)
1953年、東京生まれ。
慶應義塾大学文学部西洋史学科卒。
エッセイスト、作家。
1999年、檀ふみとの往復エッセイ『ああ言えばこう食う』で講談社エッセイ賞、
2000年、『ウメ子』で坪田譲治文学賞、
2008年、『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。
2012年、『聞く力――心をひらく35のヒント』が年間ベストセラー第一位、ミリオンセラーとなった。
2014年、菊池寛賞を受賞。
最近の著書に、『ことことこーこ』『看る力――アガワ流介護入門』(共著)などがある。
1953年11月1日生まれなので、66歳。(2020年3月現在)
私よりも一つ年上であるのだが、
美しいというよりも可愛いタイプの女性で、
「サワコの朝」(MBS・TBS系)
「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)
などで今でもよく見かけるのだが、
66歳になってもこの可愛さを維持しているとは驚きである。
その阿川佐和子が、『老人初心者の覚悟』(中央公論新社)という本を著した。
阿川佐和子の“覚悟”とはどんなものなのか?
ワクワクしながら読み始めたのだった。
まず、冒頭の「捨てる女」というタイトルのエッセイを読み始めたのだが、
傘(特にビニール傘)にまつわる話で、
“老人初心者の覚悟”とは直接は関係のないものであった。
そこで「あとがき」を読むと、こう記されていた。
本書は、「婦人公論」に連載中の巻末エッセイ「見上げれば三日月」のうち、二○十六年七月二十六日号から二〇一九年九月十日号までに掲載された中から四十二篇をまとめたものである。一冊目の『いい女、ふだんブッ散らかしており』に続く二冊目の単行本化である。
“老人初心者の覚悟”について書かれた本ではなく、
雑誌に掲載をされたエッセイを単行本化するにあたり名付けられたタイトルであったのだ。
読了した結果、
“老人初心者の覚悟”に触れたエッセイは数篇で、
本書のほとんどは老人初心者になった著者の面白話だった。
著者の言を借りるならば、
「老化のまつわるブツブツ文句」
「老人への道を歩み始めた初心者の戯言」
「老人若葉マークの踏んだり蹴ったり」
ということになる。
前期高齢者の仲間入りをしてからの、
身の回り、体調、容姿、心境の変化などを、
(たとえばブラジャーは三週間洗濯しない……とか)
自らの過去の体験を赤裸々に描いており、笑わされる。
笑わされつつ、読者は、“老人初心者の覚悟”についてもさりげなく悟らされる仕組みになっているのだ。
とは言え、“老人初心者の覚悟”について、直接書かれた文章も読みたいものだ。
そこで、
「新任高齢者のツイート」(本書の148頁~152頁)というタイトルの文章から、
その一部を紹介してみようと思う。
いよいよ高齢者の仲間入りをした。人呼んで前期高齢者。だからなんだという感慨は別にないけれど、あと何年ぐらいこうして万事おおかた滞りなく日々を暮らしていけるだろうかと、ふと思う。十年後には七十五歳。その名称が残っているとするならば、後期高齢者に突入する。十年なんてあっという間だ。十年前に何をしていたかを思い出すと、時の流れの速さを実感せざるをえない。
そもそも高齢者を「前期」とか「後期」とか、誰が二分割したんだ? 「前期」には、「そろそろ身の回りを整理して、終活を始めてくださいね」、さらに「後期」という言葉には、「まもなくお迎えがきますよぉ。準備はよろしゅうございますか」という囁きが込められているように聞こえるではないか。
そんな呼称をつけておきながら、一方で国は「人生百年時代到来」を唱え、「もっと働いてください」と言い出した。どっちなんだ。長生きはめでたいのか、それともお荷物なのか。もはや全人口の三分の一に近づきつつあるという高齢者(六十五歳以上)は皆、引退したほうがいいか、はたまた老体に鞭打って第二の人生を模索するか、鈍り始めた頭と身体でよれよれ迷っておりますぞ。
(中略)
幸か不幸か、組織に勤めぬ私のような商売の人間には定年がない。強制的に区切りをつけてもらう機会がない。だから、いくつになろうと意欲さえあれば仕事を続けられる。それは有り難いことと受け止めるけれど、自ら引退宣言をしないと、他人に迷惑をかけることになりかねない。
(中略)
知り合いの知り合いの、つまり見知らぬ男性の話だが、その人、会社を定年退職したのち、道路工事現場での交通誘導員の職に就いたという。ヘルメットをかぶり、旗や誘導棒を手に自動車の通行を整理する係のことである。その噂を耳にした友人たちが同情した。気の毒に。さぞやつらい思いをしていることだろう。ところが本人は、いたって元気に答えたそうだ。
「会社じゃ誰も自分の言うことを聞いてくれなかったが、今は俺の意のままだ。『止まれ!』と言えば車は止まる。『行け』と合図すれば発進する。こんな気持のいいことがあるものか!」
ポジティブとは、もしかして、本人ちっともポジティブと自覚していない生き方のことを言うのか。自覚なきポジティブ老後はなかなか悪くない。
「いくつになろうと意欲さえあれば仕事を続けられる。それは有り難いことと受け止めるけれど、自ら引退宣言をしないと、他人に迷惑をかけることになりかねない」
とは、“覚悟”ある言葉だ。
道路工事現場での交通誘導員についての話では、
『交通誘導員ヨレヨレ日記――当年73歳、本日も炎天下、朝っぱらから現場に立ちます』
という本を思い出す。
著者の柏耕一さんは、
大学卒業後、幾つかの仕事を経て編集プロダクションを経営していた。
本田健の『ユダヤ人大富豪の教え』などベストセラーも手掛け、出版バブルも経験したが、
ギャンブルが好きなせいもあって会社を清算。
警備会社を四つ移りながら出版の仕事もしてきた。
今回の本のヒットの背景には、高齢者が死ぬまで働かざるを得ない時代状況があります。上機嫌で生きるのも人生、不機嫌で生きるのも人生。現実が変わらないなら上機嫌で生きようと思っています。
とは、柏耕一さんの弁。
ここにも彼の“覚悟”が読み取れる。
『老人初心者の覚悟』に戻って、
「出席の効」というタイトルのエッセイでは、
同窓会について書かれている。
中学高校の6年間を過ごした女学校の同窓会は数年に一度のわりで開催されているのだが、
阿川佐和子は何度も欠席していたらしい。
親しい仲間から事前の誘いがメールでいくつも届いた。そんな親しい友とさえ、ここ数年は通信交換のみの仲である。地方に居を移し、なかなか会う機会のない友も今回は上京するという。互いに還暦をとうに過ぎ、このチャンスを逃したらもはや二度と会えないかもしれない。そんなことを危惧する年頃にもなった。(105頁)
「このチャンスを逃したらもはや二度と会えないかもしれない」
とは、切実な言葉だ。
私自身も、最近、
〈もう二度と会うことはできないかもしれない……〉
〈もう二度と見ることはできないかもしれない……〉
と思うことが多くなってきた。
今後、そう思うようなことがもっと増えていくことだろう。
「死ぬ力」というエッセイでは、
延命治療について考察する。
延命治療には、
人工呼吸器、胃ろう、人工透析の三つの方法があり、
阿川佐和子も「延命治療はしない」方針だそうだが、
いざとなったら、どうなるか不安だと言う。
そう宣言しておいたところで、
その瞬間が訪れたとき、
残されつつある側の心情がどう揺らぐか……
そのときに自分の意識があるかないか……
などによっても違ってくるからだ。
「今のうちに言っておきますけど、もし私が先に死にかけても、延命措置はしないでね」
数独に夢中の亭主殿に念を押す。すると、数独から目をそらすこともなく、
「わかってる、わかってる。しませんよ、なーんにもしません」
そんなにあっさり言われると、ちょっと、寂しい気がする。(157頁)
と、著者は笑わせる。
「老化の片隅」というタイトルのエッセイでは、
目尻のシワ問題、
毛髪のボリューム問題、
頬垂れ問題、
腹部周辺浮き輪現象、
手の甲の縮緬化現象、
下垂まぶた問題、
など、
際限なき老化現象が次々襲い来る中、
阿川佐和子は、
その都度、嘆き、
まもなく、慣れ、
そのうち、「ま、そんなもんか」と諦観してきたと言う。
そして、こう結論づける。
老化とは、ひたすら順応することである。
ついでにアンチエイジングとは、順応したくない人のためのものである。(34頁)
と。
この言葉に、すごく共感している自分がいた。
いつまで生きているか分らないが、
大いに老化現象を楽しみ、
初体験の老人時代を謳歌したいものである。
昨年(2019年)夏に65歳になり、前期高齢者になった。
定年退職し、再就職に証明写真が必要になり、
(スーパーや書店の前に設置してある)スピード写真で己の顔を撮った。
そして、その出来上がった写真を見て、愕然とした。
そこには、まぎれもない老人の顔が写っていたからである。
普段は、髭剃りをするときくらいしか鏡を見ないし、
まじまじと己の顔を見たことがなかった。
すっかり老人の顔になっている自分の顔を見て、
玉手箱を開けた浦島太郎のような気分になった。
昔読んだ、ある男性作家のエッセイを思い出した。
この作家が60歳になったとき、
〈今日からシニア料金で映画を見ることができる!〉
と喜び勇んで映画館へ行くが、
年齢を証明するものを忘れてきたことに気が付く。
日頃から若く見られることを自慢にしていたこの作家は、
“ダメもと”で、チケット売場の若い女性に、
「やはり年齢を証明するものがないとダメですかね~」
と訊いてみたという。
すると、その女性は、
「大丈夫ですよ、見れば判りますから~」
と明るく答えたそうだ。
この作家が愕然とし、落胆したのは言うまでもない。(笑)
かように、誰しもが、普段から、自分の顔を「甘く」評価している。
若く見える人も、
目尻や口元や首筋や手などには年相応の年輪が刻まれているものだ。
若く見えても、若いわけではない。
動作や所作にも老いが現れる。
顔は若づくりしているが、歩く姿は老人そのもの……
という人をよく見かける。
このブログの読者の中にも、
若く見られることを(密かに)自慢にしている人も多いことと思うが、
大抵の人は「年相応に見られている」ものだ。
そう自覚しておいた方がイイ。(コラコラ)
遠藤周作の『死について考える』(光文社文庫)を読んでいたら、
次のような文章が目にとまった。
正宗白鳥さんは八十三歳で膵臓癌でなくなられたたんですが、文壇では当時、大変な長寿の作家と思われていました。昭和三十七年ですから、まだ平均寿命はそんなに長くなかったころです。その白鳥さんが病院で、人間は長生きしていいかどうかわからん、自分は今、それを考えている、長生きして老人になると汚らしいし、楽しくもない、長生きするのはいいことなのかどうか、と言っておられたそうです。
非常に清潔な、すがすがしい老人というものの存在は確かにあるでしょうが、私自身について、年をとって、自分が汚らしくなった、とは思います。第一、白髪がはえたり、髪が薄くなります。歯も悪くなっていきます。若い人たちから見れば汚らしいでしょうね。美しく老いるというけれども、老年時代の現実は、決して美しいものではないと思います。
この本に限らず、遠藤周作は、他の本でも、
「老人になると汚らしくなる」
と発言しているのだが、確かに頷ける部分はある。
「美しく老いる」
という言葉を、よく目にし、耳にするが、
美しく老いた人はめったに見かけない。
それは芸能人にも言えることだ。
2017年、倉本聰が脚本を書いた『やすらぎの郷』(テレビ朝日系)というドラマを観ていたのだが、
あまりにも老人ばかりが出てくるので、途中で観るのをやめてしまった。
厚化粧で騒々しい女優たちに辟易してしまったということもあるけれど、
どんなに良質のドラマでも、老人ばかりのドラマは、正直キツイ。(コラコラ)
「美しく老いる」手本のような八千草薫さんは亡くなってしまったし……ね。
かように「美しく老いる」ことの難しさを実感している今日この頃であるのだが、
その「美しく老いる」ことを無意識のうちにやってのけている女性(エッセイスト、小説家、タレント)がいる。
それが、阿川佐和子だ。
【阿川 佐和子】(アガワサワコ)
1953年、東京生まれ。
慶應義塾大学文学部西洋史学科卒。
エッセイスト、作家。
1999年、檀ふみとの往復エッセイ『ああ言えばこう食う』で講談社エッセイ賞、
2000年、『ウメ子』で坪田譲治文学賞、
2008年、『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。
2012年、『聞く力――心をひらく35のヒント』が年間ベストセラー第一位、ミリオンセラーとなった。
2014年、菊池寛賞を受賞。
最近の著書に、『ことことこーこ』『看る力――アガワ流介護入門』(共著)などがある。
1953年11月1日生まれなので、66歳。(2020年3月現在)
私よりも一つ年上であるのだが、
美しいというよりも可愛いタイプの女性で、
「サワコの朝」(MBS・TBS系)
「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)
などで今でもよく見かけるのだが、
66歳になってもこの可愛さを維持しているとは驚きである。
その阿川佐和子が、『老人初心者の覚悟』(中央公論新社)という本を著した。
阿川佐和子の“覚悟”とはどんなものなのか?
ワクワクしながら読み始めたのだった。
まず、冒頭の「捨てる女」というタイトルのエッセイを読み始めたのだが、
傘(特にビニール傘)にまつわる話で、
“老人初心者の覚悟”とは直接は関係のないものであった。
そこで「あとがき」を読むと、こう記されていた。
本書は、「婦人公論」に連載中の巻末エッセイ「見上げれば三日月」のうち、二○十六年七月二十六日号から二〇一九年九月十日号までに掲載された中から四十二篇をまとめたものである。一冊目の『いい女、ふだんブッ散らかしており』に続く二冊目の単行本化である。
“老人初心者の覚悟”について書かれた本ではなく、
雑誌に掲載をされたエッセイを単行本化するにあたり名付けられたタイトルであったのだ。
読了した結果、
“老人初心者の覚悟”に触れたエッセイは数篇で、
本書のほとんどは老人初心者になった著者の面白話だった。
著者の言を借りるならば、
「老化のまつわるブツブツ文句」
「老人への道を歩み始めた初心者の戯言」
「老人若葉マークの踏んだり蹴ったり」
ということになる。
前期高齢者の仲間入りをしてからの、
身の回り、体調、容姿、心境の変化などを、
(たとえばブラジャーは三週間洗濯しない……とか)
自らの過去の体験を赤裸々に描いており、笑わされる。
笑わされつつ、読者は、“老人初心者の覚悟”についてもさりげなく悟らされる仕組みになっているのだ。
とは言え、“老人初心者の覚悟”について、直接書かれた文章も読みたいものだ。
そこで、
「新任高齢者のツイート」(本書の148頁~152頁)というタイトルの文章から、
その一部を紹介してみようと思う。
いよいよ高齢者の仲間入りをした。人呼んで前期高齢者。だからなんだという感慨は別にないけれど、あと何年ぐらいこうして万事おおかた滞りなく日々を暮らしていけるだろうかと、ふと思う。十年後には七十五歳。その名称が残っているとするならば、後期高齢者に突入する。十年なんてあっという間だ。十年前に何をしていたかを思い出すと、時の流れの速さを実感せざるをえない。
そもそも高齢者を「前期」とか「後期」とか、誰が二分割したんだ? 「前期」には、「そろそろ身の回りを整理して、終活を始めてくださいね」、さらに「後期」という言葉には、「まもなくお迎えがきますよぉ。準備はよろしゅうございますか」という囁きが込められているように聞こえるではないか。
そんな呼称をつけておきながら、一方で国は「人生百年時代到来」を唱え、「もっと働いてください」と言い出した。どっちなんだ。長生きはめでたいのか、それともお荷物なのか。もはや全人口の三分の一に近づきつつあるという高齢者(六十五歳以上)は皆、引退したほうがいいか、はたまた老体に鞭打って第二の人生を模索するか、鈍り始めた頭と身体でよれよれ迷っておりますぞ。
(中略)
幸か不幸か、組織に勤めぬ私のような商売の人間には定年がない。強制的に区切りをつけてもらう機会がない。だから、いくつになろうと意欲さえあれば仕事を続けられる。それは有り難いことと受け止めるけれど、自ら引退宣言をしないと、他人に迷惑をかけることになりかねない。
(中略)
知り合いの知り合いの、つまり見知らぬ男性の話だが、その人、会社を定年退職したのち、道路工事現場での交通誘導員の職に就いたという。ヘルメットをかぶり、旗や誘導棒を手に自動車の通行を整理する係のことである。その噂を耳にした友人たちが同情した。気の毒に。さぞやつらい思いをしていることだろう。ところが本人は、いたって元気に答えたそうだ。
「会社じゃ誰も自分の言うことを聞いてくれなかったが、今は俺の意のままだ。『止まれ!』と言えば車は止まる。『行け』と合図すれば発進する。こんな気持のいいことがあるものか!」
ポジティブとは、もしかして、本人ちっともポジティブと自覚していない生き方のことを言うのか。自覚なきポジティブ老後はなかなか悪くない。
「いくつになろうと意欲さえあれば仕事を続けられる。それは有り難いことと受け止めるけれど、自ら引退宣言をしないと、他人に迷惑をかけることになりかねない」
とは、“覚悟”ある言葉だ。
道路工事現場での交通誘導員についての話では、
『交通誘導員ヨレヨレ日記――当年73歳、本日も炎天下、朝っぱらから現場に立ちます』
という本を思い出す。
大学卒業後、幾つかの仕事を経て編集プロダクションを経営していた。
本田健の『ユダヤ人大富豪の教え』などベストセラーも手掛け、出版バブルも経験したが、
ギャンブルが好きなせいもあって会社を清算。
警備会社を四つ移りながら出版の仕事もしてきた。
今回の本のヒットの背景には、高齢者が死ぬまで働かざるを得ない時代状況があります。上機嫌で生きるのも人生、不機嫌で生きるのも人生。現実が変わらないなら上機嫌で生きようと思っています。
とは、柏耕一さんの弁。
ここにも彼の“覚悟”が読み取れる。
『老人初心者の覚悟』に戻って、
「出席の効」というタイトルのエッセイでは、
同窓会について書かれている。
中学高校の6年間を過ごした女学校の同窓会は数年に一度のわりで開催されているのだが、
阿川佐和子は何度も欠席していたらしい。
親しい仲間から事前の誘いがメールでいくつも届いた。そんな親しい友とさえ、ここ数年は通信交換のみの仲である。地方に居を移し、なかなか会う機会のない友も今回は上京するという。互いに還暦をとうに過ぎ、このチャンスを逃したらもはや二度と会えないかもしれない。そんなことを危惧する年頃にもなった。(105頁)
「このチャンスを逃したらもはや二度と会えないかもしれない」
とは、切実な言葉だ。
私自身も、最近、
〈もう二度と会うことはできないかもしれない……〉
〈もう二度と見ることはできないかもしれない……〉
と思うことが多くなってきた。
今後、そう思うようなことがもっと増えていくことだろう。
「死ぬ力」というエッセイでは、
延命治療について考察する。
延命治療には、
人工呼吸器、胃ろう、人工透析の三つの方法があり、
阿川佐和子も「延命治療はしない」方針だそうだが、
いざとなったら、どうなるか不安だと言う。
そう宣言しておいたところで、
その瞬間が訪れたとき、
残されつつある側の心情がどう揺らぐか……
そのときに自分の意識があるかないか……
などによっても違ってくるからだ。
「今のうちに言っておきますけど、もし私が先に死にかけても、延命措置はしないでね」
数独に夢中の亭主殿に念を押す。すると、数独から目をそらすこともなく、
「わかってる、わかってる。しませんよ、なーんにもしません」
そんなにあっさり言われると、ちょっと、寂しい気がする。(157頁)
と、著者は笑わせる。
「老化の片隅」というタイトルのエッセイでは、
目尻のシワ問題、
毛髪のボリューム問題、
頬垂れ問題、
腹部周辺浮き輪現象、
手の甲の縮緬化現象、
下垂まぶた問題、
など、
際限なき老化現象が次々襲い来る中、
阿川佐和子は、
その都度、嘆き、
まもなく、慣れ、
そのうち、「ま、そんなもんか」と諦観してきたと言う。
そして、こう結論づける。
老化とは、ひたすら順応することである。
ついでにアンチエイジングとは、順応したくない人のためのものである。(34頁)
と。
この言葉に、すごく共感している自分がいた。
いつまで生きているか分らないが、
大いに老化現象を楽しみ、
初体験の老人時代を謳歌したいものである。