この小説の舞台は、マッキンリー。
米連邦地名局による正式呼称は「マッキンリー」だが、
最近は、先住民が呼び習わしてきた「デナリ」が使われることが多い。
「デナリ」とは、「大いなる者」を意味する。
その名は、まさに、この山にふさわしい。
標高は六一九四メートルで、七、八○○○メートル級が目白押しのヒマラヤの峰々と比べれば見劣りするが、北極圏に近い高緯度と独立峰という特異な性格のため、気象条件の厳しさはそれに負けない。地球の自転の影響でより低緯度の山と比べて気圧が低く、酸素分圧ではヒマラヤの七○○○メートル級に相当し、それだけ高山病にかかる危険性も増してくる。
山の大きさも並外れている。エベレストはマッキンリーより標高で二七○○メートル上回るが、チベット側山麓からの高度差は三七○○メートルだ。かたやマッキンリーの山麓の標高は六○○メートルで、高度差は優に五五○○メートルに達し、その点では世界一高い山ということになる。
夏場は日照時間が長く、天候も安定するため、ノーマルルートからの登攀はそれほど難しくはない。要所には固定ロープが張られ、ルート上には医療スタッフが常駐する診療所も設けられる。しかし冬ともなれば事情は一変し、その手強さは同じ時期のヒマラヤに匹敵する。
一九八四年に植村直己、八九年に山田昇と、著名な日本人登山家が相次いで命を絶ったのも冬のマッキンリー。それも最も容易とされるウェストバットレスからのルートでだった。
いずれもエべレストをはじめ世界の高峰の数々に足跡を刻み、植村は犬橇での単独北極点到達とグリーンランド縦断、山田は八○○○メートル峰九座十二回登頂の偉業を果たし、全十四座完登をめざして記録を伸ばそうとしていた矢先。まさに脂の乗りきった時期だった。帰らぬ人となったその遠征で、植村はマッキンリーの厳冬期単独初登攀の記録を打ち立てている。(6頁)
小説の冒頭の部分を長々と引用したのは、
この物語の舞台となるマッキンリーがどのような山であるかを、
あらかじめ知っておいてほしいからである。
厳冬期のマッキンリーに単独で挑んでいた孤高のクライマー・津田悟が消息を絶つ。
津田の親友・吉沢國人が、その捜索に向かうところから、物語は始まる。
津田が登っていたのは、カシンリッジ。
イタリアの名クライマー、リカルド・カシンが拓いた古典的ルートで、
現在もマッキンリーを代表するバリエーションルートなのだが、
冬期単独登攀はまだなされていなかった。
現在、津田は、マッキンリーの登山ガイドであり、アラスカの山のエキスパート。
タルキートナに家を構え、妻とともに一年のほとんどをアラスカで暮らしていた。
妻は身ごもっており、現地でのホテル経営という夢も軌道に乗りかけている。
そんな幸福な状況の中で、津田は、なぜ無謀な挑戦に出かけたのか?
大学の山岳部で知り合って以来、
16年間も友情を育んできた吉沢にも、それは解らなかった。
津田の仲間である現地の登山ガイドたちと捜索に向かう吉沢。
500頁ちかいこの大作は、そのレスキューのみにすべてが費やされる。
山岳小説としては、非常に珍しい、地味な構成に感じられた。
この小説を書いたのは、笹本稜平。
そう、『還るべき場所』『未踏峰』『春を背負って』などで知られる、
山岳小説の第一人者である。
警察小説、海洋冒険小説でも有名な著者であるが、
山岳雑誌『PEAKS』のインタビューで、次のように答えている。
たとえば、警察モノだったら、犯罪を捜査するという自明の目的がありますよね。でも山に登るという行為にははっきりとした目的がない。お金になるわけでもないし、人の役に立つわけでもない。実利を考えたら何の意味もない。でも、そこがおもしろい。人間が生きるということも、そもそもは目的も意味もないんじゃないか、という気がするからです。かといって死んでいいというわけでもない。意味がないということこそが、人間が生きているということの肝心な部分なんじゃないかと……。山は、“人はなぜ生きるか”ということを考えさせてくれる場所なんだと思います。
この『その峰の彼方』が、
これまでの『還るべき場所』『未踏峰』『春を背負って』などと違うのは、
人はなぜ山に登るのか?
人はなぜ生きるのか?
という問い掛けだ。
それが、より強調されていると思った。
吉沢はもちろん、
津田の妻や、
捜索に参加している津田の山岳ガイド仲間たち、
それぞれの思いが語られる。
津田を語ることによって、
人はなぜ山に登るのか?
人はなぜ生きるのか?
という永遠の命題が繰り返し読者に提出されるのだ。
多くは自問自答だ。
だから、これまでの作品にあったアフォリズムが、
この作品には極端に少ない。
500頁ちかい大作にもかかわらず、
私が付箋を貼ったのは、これだけ。
その中から、少しだけ引用してみよう。
冬のマッキンリーは魔物だよ。ただ厳しいだけじゃない。厳しいだけの山ならほかにいくらでもある。しかしあの山は魂にとっての魔物なんだ。(8頁)
登山が人生の意味を追求する場だとか、人の心を解放する場だとかいう偉そうなご託は嘘っぱちだとおれは思う。クライマーなんてみんなエゴイストで、根っ子にあるのは、ほかのやつに勝ちたいという競争心と、世間から認められたいという名誉欲だよ。頭のいい連中はそれを隠そうとして屁理屈をこね回す。(20頁)
山屋の世界なんてきれいなもんじゃない。ボスがいて、子分がいて、派閥があって、足の引っ張り合いばかりやっている。自分から勝負をかけなきゃ蹴落とされる。(20頁)
なあ、おれは山で死ぬことが特別なものだとは思っていない。病気で死のうが交通事故で死のうが、死ぬという事実に違いはない。死を覚悟して横断歩道を渡る人間がいないのと同じで、山に登るとき、自分が死ぬなんてことをおれは一切考えない。もし死ぬことがあっても、それはけっきょくただの死にすぎない。(71頁)
病気でもなんでもいい。山と相思相愛の関係になれることが、一流クライマーの条件だ。技術とか体力は二の次だ。どんなに腕を磨こうが経験を積もうが、力づくで懐に押し入ろうとすれば必ず手痛いしっぺ返しを食うことになる。(79頁)
山から自然に距離をおくようになったとき、生きながらえたことはたんなる僥倖に過ぎなかったことが身に迫るように感じられた。クライマーが長生きする方法はただ一つ。それは引き際を誤らないことなのだ。(143頁)
息をしている限り希望はある。(156頁)
人は誰もが哲学者なのだろう。意識的であれ無意識的であれ、自分という存在がいまここにいる理由を追い求める習性をもつ生き物なのだろう。そんな探究の結実が、芸術であり文学であり、あるいは世界の先鋭的な登山家たちの人間の限界を超えるような達成なのかもしれない。(200頁)
自分を輝かせることのできるときというのはそうはやってくるもんじゃない。しかしそれが訪れたとき、弱い人間は逃げだそうとする。そこから逃げない者を我々は勇者と呼ぶ。それは他人に自慢するようなものじゃない。ただ心に深い充足をもたらすだけだ。言い換えればそれは、神が与えてくれた使命を全力で果たす喜びかもしれないね。(253頁)
山は決して裏切らないって。望んだとおりの結果が出なくても、どんなに手ひどく敗退しても、それは人間が勝手に期待したことに対してであって、心がそこから自由になれば、山はいつも本当の答えを返してくれる。人が生きる本当の理由を教えてくれるって――(294頁)
デナリがただの山に過ぎないことは私たちだって知っている。挑んで勝てる相手ではないこともね。しかしその試練こそが魂の成長のための糧なんだ。安易に流されるだけの人生は同時に喜びももたらさない。自分で輝かそうとしない限り、人生は生まれて生きて死ぬだけで、そこにはなんの意味もない。(314頁)
自分が何者なのか知りたかった――。ただ大人しく時の流れというベルトコンベアに乗っていれば、生まれてから死ぬまでとくに悩む必要も辛い目標に向かう必要もない。でも死ぬときになって自分は何者だったんだろうと問いかけたとき、たぶんなんの答えも持ち合わせていない。それでも少しもかまわないのかもしれないけど、自分はそういう人生は送れない。それじゃ生まれてこなかったのと変わりないって。(330頁)
デナリの神は気まぐれで、これほど優美な山を創造しながら、山塊の至るところに悪魔を住まわせた。人間などこの山と比べれば象に這い上がろうとする蟻よりもはるかに小さい存在だ。
その蟻のような存在に愛されていることなど、この巨大で壮麗な山はつゆ知らない。登山とは決して成就することのない恋なのだ。心を許してくれたと勝手に思いたがるのは人間で、次の瞬間には無慈悲な肘鉄で人の命を奪い去る。(358頁)
間違いなく生きて還れる自信があるなら、あえて挑戦する意味もない。そこが最大のパラドックスだ。その隘路を通過せずに終わる人生が、果たして生きるに値するものなのか。悔いを抱えた人生は自分一人の不幸だろうか。(430頁)
山も雪も雲も岩も風も、すべてが自分の一部であり、自分もまたそれらの一部なのだと。果てもないほど大きな、底知れぬほど深い知恵によって生かされている存在なのだと――。(483頁)
これらの断片は、
人はなぜ山に登るのか?
人はなぜ生きるのか?
の答えというより、ヒントであろう。
物語の中にちりばめられたヒントを拾い集めて、
読者自らが各々の答えを見つけ出す。
それが、本を読む楽しみであり、醍醐味であろう。
あなたがどんな答えを導き出すか……
私はそれが知りたいと思う。
米連邦地名局による正式呼称は「マッキンリー」だが、
最近は、先住民が呼び習わしてきた「デナリ」が使われることが多い。
「デナリ」とは、「大いなる者」を意味する。
その名は、まさに、この山にふさわしい。
標高は六一九四メートルで、七、八○○○メートル級が目白押しのヒマラヤの峰々と比べれば見劣りするが、北極圏に近い高緯度と独立峰という特異な性格のため、気象条件の厳しさはそれに負けない。地球の自転の影響でより低緯度の山と比べて気圧が低く、酸素分圧ではヒマラヤの七○○○メートル級に相当し、それだけ高山病にかかる危険性も増してくる。
山の大きさも並外れている。エベレストはマッキンリーより標高で二七○○メートル上回るが、チベット側山麓からの高度差は三七○○メートルだ。かたやマッキンリーの山麓の標高は六○○メートルで、高度差は優に五五○○メートルに達し、その点では世界一高い山ということになる。
夏場は日照時間が長く、天候も安定するため、ノーマルルートからの登攀はそれほど難しくはない。要所には固定ロープが張られ、ルート上には医療スタッフが常駐する診療所も設けられる。しかし冬ともなれば事情は一変し、その手強さは同じ時期のヒマラヤに匹敵する。
一九八四年に植村直己、八九年に山田昇と、著名な日本人登山家が相次いで命を絶ったのも冬のマッキンリー。それも最も容易とされるウェストバットレスからのルートでだった。
いずれもエべレストをはじめ世界の高峰の数々に足跡を刻み、植村は犬橇での単独北極点到達とグリーンランド縦断、山田は八○○○メートル峰九座十二回登頂の偉業を果たし、全十四座完登をめざして記録を伸ばそうとしていた矢先。まさに脂の乗りきった時期だった。帰らぬ人となったその遠征で、植村はマッキンリーの厳冬期単独初登攀の記録を打ち立てている。(6頁)
小説の冒頭の部分を長々と引用したのは、
この物語の舞台となるマッキンリーがどのような山であるかを、
あらかじめ知っておいてほしいからである。
厳冬期のマッキンリーに単独で挑んでいた孤高のクライマー・津田悟が消息を絶つ。
津田の親友・吉沢國人が、その捜索に向かうところから、物語は始まる。
津田が登っていたのは、カシンリッジ。
イタリアの名クライマー、リカルド・カシンが拓いた古典的ルートで、
現在もマッキンリーを代表するバリエーションルートなのだが、
冬期単独登攀はまだなされていなかった。
現在、津田は、マッキンリーの登山ガイドであり、アラスカの山のエキスパート。
タルキートナに家を構え、妻とともに一年のほとんどをアラスカで暮らしていた。
妻は身ごもっており、現地でのホテル経営という夢も軌道に乗りかけている。
そんな幸福な状況の中で、津田は、なぜ無謀な挑戦に出かけたのか?
大学の山岳部で知り合って以来、
16年間も友情を育んできた吉沢にも、それは解らなかった。
津田の仲間である現地の登山ガイドたちと捜索に向かう吉沢。
500頁ちかいこの大作は、そのレスキューのみにすべてが費やされる。
山岳小説としては、非常に珍しい、地味な構成に感じられた。
この小説を書いたのは、笹本稜平。
そう、『還るべき場所』『未踏峰』『春を背負って』などで知られる、
山岳小説の第一人者である。
警察小説、海洋冒険小説でも有名な著者であるが、
山岳雑誌『PEAKS』のインタビューで、次のように答えている。
たとえば、警察モノだったら、犯罪を捜査するという自明の目的がありますよね。でも山に登るという行為にははっきりとした目的がない。お金になるわけでもないし、人の役に立つわけでもない。実利を考えたら何の意味もない。でも、そこがおもしろい。人間が生きるということも、そもそもは目的も意味もないんじゃないか、という気がするからです。かといって死んでいいというわけでもない。意味がないということこそが、人間が生きているということの肝心な部分なんじゃないかと……。山は、“人はなぜ生きるか”ということを考えさせてくれる場所なんだと思います。
この『その峰の彼方』が、
これまでの『還るべき場所』『未踏峰』『春を背負って』などと違うのは、
人はなぜ山に登るのか?
人はなぜ生きるのか?
という問い掛けだ。
それが、より強調されていると思った。
吉沢はもちろん、
津田の妻や、
捜索に参加している津田の山岳ガイド仲間たち、
それぞれの思いが語られる。
津田を語ることによって、
人はなぜ山に登るのか?
人はなぜ生きるのか?
という永遠の命題が繰り返し読者に提出されるのだ。
多くは自問自答だ。
だから、これまでの作品にあったアフォリズムが、
この作品には極端に少ない。
500頁ちかい大作にもかかわらず、
私が付箋を貼ったのは、これだけ。
その中から、少しだけ引用してみよう。
冬のマッキンリーは魔物だよ。ただ厳しいだけじゃない。厳しいだけの山ならほかにいくらでもある。しかしあの山は魂にとっての魔物なんだ。(8頁)
登山が人生の意味を追求する場だとか、人の心を解放する場だとかいう偉そうなご託は嘘っぱちだとおれは思う。クライマーなんてみんなエゴイストで、根っ子にあるのは、ほかのやつに勝ちたいという競争心と、世間から認められたいという名誉欲だよ。頭のいい連中はそれを隠そうとして屁理屈をこね回す。(20頁)
山屋の世界なんてきれいなもんじゃない。ボスがいて、子分がいて、派閥があって、足の引っ張り合いばかりやっている。自分から勝負をかけなきゃ蹴落とされる。(20頁)
なあ、おれは山で死ぬことが特別なものだとは思っていない。病気で死のうが交通事故で死のうが、死ぬという事実に違いはない。死を覚悟して横断歩道を渡る人間がいないのと同じで、山に登るとき、自分が死ぬなんてことをおれは一切考えない。もし死ぬことがあっても、それはけっきょくただの死にすぎない。(71頁)
病気でもなんでもいい。山と相思相愛の関係になれることが、一流クライマーの条件だ。技術とか体力は二の次だ。どんなに腕を磨こうが経験を積もうが、力づくで懐に押し入ろうとすれば必ず手痛いしっぺ返しを食うことになる。(79頁)
山から自然に距離をおくようになったとき、生きながらえたことはたんなる僥倖に過ぎなかったことが身に迫るように感じられた。クライマーが長生きする方法はただ一つ。それは引き際を誤らないことなのだ。(143頁)
息をしている限り希望はある。(156頁)
人は誰もが哲学者なのだろう。意識的であれ無意識的であれ、自分という存在がいまここにいる理由を追い求める習性をもつ生き物なのだろう。そんな探究の結実が、芸術であり文学であり、あるいは世界の先鋭的な登山家たちの人間の限界を超えるような達成なのかもしれない。(200頁)
自分を輝かせることのできるときというのはそうはやってくるもんじゃない。しかしそれが訪れたとき、弱い人間は逃げだそうとする。そこから逃げない者を我々は勇者と呼ぶ。それは他人に自慢するようなものじゃない。ただ心に深い充足をもたらすだけだ。言い換えればそれは、神が与えてくれた使命を全力で果たす喜びかもしれないね。(253頁)
山は決して裏切らないって。望んだとおりの結果が出なくても、どんなに手ひどく敗退しても、それは人間が勝手に期待したことに対してであって、心がそこから自由になれば、山はいつも本当の答えを返してくれる。人が生きる本当の理由を教えてくれるって――(294頁)
デナリがただの山に過ぎないことは私たちだって知っている。挑んで勝てる相手ではないこともね。しかしその試練こそが魂の成長のための糧なんだ。安易に流されるだけの人生は同時に喜びももたらさない。自分で輝かそうとしない限り、人生は生まれて生きて死ぬだけで、そこにはなんの意味もない。(314頁)
自分が何者なのか知りたかった――。ただ大人しく時の流れというベルトコンベアに乗っていれば、生まれてから死ぬまでとくに悩む必要も辛い目標に向かう必要もない。でも死ぬときになって自分は何者だったんだろうと問いかけたとき、たぶんなんの答えも持ち合わせていない。それでも少しもかまわないのかもしれないけど、自分はそういう人生は送れない。それじゃ生まれてこなかったのと変わりないって。(330頁)
デナリの神は気まぐれで、これほど優美な山を創造しながら、山塊の至るところに悪魔を住まわせた。人間などこの山と比べれば象に這い上がろうとする蟻よりもはるかに小さい存在だ。
その蟻のような存在に愛されていることなど、この巨大で壮麗な山はつゆ知らない。登山とは決して成就することのない恋なのだ。心を許してくれたと勝手に思いたがるのは人間で、次の瞬間には無慈悲な肘鉄で人の命を奪い去る。(358頁)
間違いなく生きて還れる自信があるなら、あえて挑戦する意味もない。そこが最大のパラドックスだ。その隘路を通過せずに終わる人生が、果たして生きるに値するものなのか。悔いを抱えた人生は自分一人の不幸だろうか。(430頁)
山も雪も雲も岩も風も、すべてが自分の一部であり、自分もまたそれらの一部なのだと。果てもないほど大きな、底知れぬほど深い知恵によって生かされている存在なのだと――。(483頁)
これらの断片は、
人はなぜ山に登るのか?
人はなぜ生きるのか?
の答えというより、ヒントであろう。
物語の中にちりばめられたヒントを拾い集めて、
読者自らが各々の答えを見つけ出す。
それが、本を読む楽しみであり、醍醐味であろう。
あなたがどんな答えを導き出すか……
私はそれが知りたいと思う。