第153回直木賞(平成27年上半期)は、
東山彰良(ひがしやま・あきら)の『流(りゅう)』(講談社)が受賞した。
選考会後、
選考委員の北方謙三は会見し、こう語った。(抜粋)
東山さんの『流』は、台湾の複雑さを踏まえながら、汗の匂いと血の色、熱い光がある、欠点のつけようのない青春小説です。
『流』は最初から満票、欠点がない。根底から力がある。小説はこういう力、面白さを持っているものなんだという感じでできあがっているんです。20年に一回、(直木賞で言えば)40回に一回と言っても過言ではないものに受賞が決まりました。
われわれにとってはとんでもない商売敵が出てきちゃったな、という感じです。小説そのものが普遍的な力を持っている。
ベタ褒めである。
第1回投票で選考委員全員が○をつけ、
満場一致の受賞であったそうだ。
私の場合、
読みたい本は常にたくさんあるので、
芥川賞や直木賞を受賞した小説だからといって、
すぐに読んでみるといったようなことはほとんどない。
だが、
「満票」「欠点がない」「20年に一回」「とんでもない商売敵が出てきた」
など、
ここ数年聞いたことがないほどの褒め言葉を耳にすると、
『流』を読まざるを得ないような心境になった。
で、遅ればせながら読んでみた。
読み始めて感じたのは、
〈読みにくい小説だな~〉
ということ。
〈こんな文章をずっと読まされるのかな~〉
と、少々うんざり。
まず、第一の違和感は、
文章が美しくないこと。
漢字は象形文字なので、
「漢字」「ひらがな」が厳選されて書かれた文章は、
見た目も美しく、
読まずとも文字を見ただけで風景が見えてきたりする。
私は、これまで、そんな文章を好んで読んできた。
だが、『流』の文章は、
下手な翻訳のようで、
見た目も美しくなく、
ゴツゴツしたような文章で、
私の目と脳が拒否反応を起こしてしまうのだ。
もし、直木賞の選考委員全員がベタ褒めした小説でなかったなら、
すぐに放り出していただろう。
それほど『流』を読み始めた直後は苦痛であった。
だが、この文章に慣れて、
物語も面白くなってくると、
それほど苦痛を感じなくなってきた。
そして、最後まで読み切ることができた。
読み切ることができたけれども、
直木賞の選考委員の言う、
「欠点がない」「20年に一回」クラスの傑作とは思えなかった。
そこで、選評が載っている『オール讀物』(2015年9月号)を読んでみた。
選考委員がそれぞれどんなことを述べているのか知りたくなったのだ。
林真理子
東山彰良さんの「流」を読み進むうちに、祈るような気持ちになった。それは、
「この面白さがどうか持続してくれるように」
という思いであった。少年が大人になるにつれ、力を失っていく小説は案外多いものであるが、「流」はそんなことがなかった。少年の成長小説、かつ青春小説は、台湾と中国大陸をまたぐ、壮大なミステリーへと変化していくのである。スケールがありながら、文章がとてもいきとどいている。少年時代の方のユーモアあるホラ話がたまらない。これほどエンターテインメント“どまん中”の小説は久しぶりで、本当に楽しませてもらった。
伊集院静
『流』の声は熱く、豊かな声質であった。或る時は叫び、或る時は囁き、或る時は沈黙さえしていても常に耳の底に作者の声がしていた。天性の語り部なのだろう。聞いていて(読んでいてだが)心地良かった。語らずに、書かずにいられなかった作品なのだろう。日本人にとって歴史上も大きな関わりがある国の物語に文学が明確に見えた点も嬉しかった。受賞にふさわしい作家と作品を迎えられて喜ばしい限りだ。
高村薫
東山彰良氏の『流』は、中国語圏の身体感覚と台湾の鮮烈な生活風景が目に浮かぶようで、小説を読む幸福を久々に味わった。日中戦争に翻弄された歴史や、祖父が殺されるという家族の事件などがどれも陰惨すぎず、重すぎず、軽すぎない物語として機能しているのは、作者が主人公を十七歳の少年に設定したことから来ているが、これこそ小説家の直感的なバランス感覚である。実に若々しく楽しく、地に足のついた小説の受賞を、こころから喜びたい。
東野圭吾
こんなこともあるのだなと驚いた。ヨーイドンで○が九つ揃い、『流』が満場一致。あっけなく決まってしまった。二人の選考委員が、自分が選考に関わって以来の最高作だ、と絶賛した。となれば、四度目の選考でこういう作品に出会えた私は幸せ者かもしれない。たしかに素晴らしい読書体験だった。治安や秩序が不安定な土地を舞台にした青春小説は、ダイナミックで破天荒で爽快で、作中に登場するファイヤーバードに乗っているかのような疾走感があった。庶民にとって戦争とは何かという問題について、生身の回答が提示されているのも素晴らしい。ふつうは会話文が続くところでページをめくる手が活発になるが、この作品の場合は主人公の独り語りの方が抜群に面白くスピーディだ。これからの大衆文学を牽引するスター、エンタメ界の王貞治になってほしい。
北方謙三
受賞作は、近年では突出した青春小説として仕上がっていた。勢いのままのアップテンポのようで、きちんとした読者への配慮もある。食物の匂いが、ドブの臭さが、街の埃っぽさが、行間から立ちのぼってくる。混沌であるが、そこから青春の情念を真珠のひと粒のようにつまみ出した。この若い才能が次に問われるのは、これを超えてみろ、超えられるか、ということである。地獄でもがく日々に繋がるこの受賞を、私は祝福したい。
桐野夏生
『流』
文句なく面白かった。中国大陸から台湾、そして日本へ。歴史の大きな流れの中で、抗い続ける力と流される受難とを、バランスよく描いて飽きさせない。台湾の外省人と本省人の抑圧と解放をテーマにした、暗い物語でもあるのだが、回顧として書かれていること、そして豊かな細部とユーモアが、陰惨になりがちな話を渇いた笑いへと変えている。著者の精神や肉体の確かな在処を感じさせる作品である。
宮城谷昌光
読みはじめてすぐに、この作者は台湾の人か、とおもったほど、小説を構成する第一の要素というべき空気(感)が日本のそれとはちがっていた。ただし表現は粗い。ことばを慎重に選ぶのではなく、手あたりしだいに集めて詰めてゆけばなんとかなるというずぶとさがみえて、めずらしかった。しかしながら、台湾という小国がもっている不断の不安が通奏低音的にながれていて、その上での事象のあやうさが、おのずと読み手にしみてくる。私は新しい風を感じた。
浅田次郎
すこぶる高水準の候補作が並んだが、その中でも東山彰良氏の「流」は抜きん出ていた。文章に勢いがあり、作者も書くことを楽しんでいるとみえて、まるで本がはね回るような躍動感が漲っていた。大勢の登場人物は個性的に書き分けられ、ユーモアも上品で機知に富み、また現在と追想の転換が上手で少しも混乱がなかった。暴力をふるう場面は多いが、殴る人間にも殴られる人間にも論理があった。これだけディテールを積み上げると、メインストーリーが脅かされるものだが、筆が滑るかと思う間にきちんと本題に戻るのは、冷静に長篇の全体像を捉えているからなのだろう。
宮部みゆき
東山彰良さんの『流』は、活き活きとした表現力、力強い文章、骨太のストーリーテリング、〈人生・青春・家族の滑稽と悲惨〉を把握して全編に漂うユーモア、全てにおいて飛び抜けた傑作。選考会で、「この作品を読んで、小説というものに新しい光を感じた」という発言を聞き、膝を打ちました。
ビックリするほどの絶賛の嵐である。(笑)
しかも全選考委員の手放しの褒めようはちょっと異様ですらあった。
(久しぶりに選評を読んだが、林真理子、伊集院静、高村薫、東野圭吾、北方謙三、桐野夏生、宮城谷昌光、浅田次郎、宮部みゆきの9氏が選考委員あることも初めて知った)
私が感じた文章への違和感は、
宮城谷昌光が、
「ただし表現は粗い。ことばを慎重に選ぶのではなく、手あたりしだいに集めて詰めてゆけばなんとかなるというずぶとさがみえて、めずらしかった」
と述べているのみで、
全選考委員が違和感なくすんなり受け入れているみたいで不思議だった。
(私の文章感が古すぎるのかもしれないが、選考委員の顔ぶれを見れば「さもありなん」とも思えた)
作者・東山彰良のことはまったく知らなかったので、
Wikipediaでちょっと調べてみた。
東山 彰良(ひがしやま・あきら)
本名:王 震緒
1968年、中国人の両親のもと台湾で生まれ、5歳まで台北市で過ごした後、日本へ移住。
9歳のとき台北の南門小学校に入学したが、日本に戻り福岡で育つ。
日本に帰化せず、中華民国台湾の国籍を保持している。
祖父は中国山東省出身の抗日戦士。
父親の王孝廉は1949年に台湾に移り教師となり、1973年に日本に移り住んだ。
筆名の「東山」は祖父の出身地である中国山東省から、
「彰良」は父親が暮らした地であり、
母親の出身地でもある台湾の彰化に由来する。
このプロフィールを見て、少なからず驚いた。
私は、勝手に、
日本人の子供が父親の仕事の都合で台湾に生まれ育ったものと思っていたからだ。
『オール讀物』(2015年9月号)には、
選評の他に自伝エッセイも収められているのだが、そこには、
わたしは日本の小説をほとんど読まない。
と書かれてあって、またまたビックリ。
そして、納得。
彼の文章力は、日本文学によって培われたものではなかったのだ。
表現の手段として日本語を用いているだけなので、
古い人間である私が違和感を抱いても当然であったのだ。
『オール讀物』(2015年9月号)には、
葉室麟との対談も収められていて、
葉室からアイデンティティの問題を訊かれ、
東山は次のように答えている。
台湾で生まれ、日本で育った僕は、二つの国を行ったり来たりしていて、日本に来た当初は、名前も違うから出自が違うこともすぐにわかって、みんなとは違う感じでした。台湾に帰ったら、生活環境が違うので他の子どもたちと違う。僕は子どもの時期から、それでいいやと開き直っていましたね。
同じ対談で、東山はこうも語っている。
今、スポーツの世界では、十六歳で今夏の世界陸上の日本代表になったサニブラウン・アブデルハキーム選手(東京・城西高)や、甲子園で注目されたオコエ瑠偉選手(関東第一高)ら、外見は我々とは全然違うんだけれども、日本で育っていて、おそらくそういうアイデンティティも持っているアスリートが出てきてきます。文学の世界でも、我々とは異なる外見を持ち、日本で育った若者が外見の違いのために疎外感を味わったことで、新しい感覚を持つとしたら、トニ・モリソンのような文学がいつか誕生するかもしれないと漠然と考えているんです。子供の時に感じた鬱屈が、そのうち文章となって迸るような、そういう表現力を持った作家が出てきたら、面白いなと思っているんです。
ここまで読んで、さらに納得。
やはり、私の感覚が古すぎたのだ。
私の場合、
外国人力士ばかりになった大相撲にはほとんど関心がないし、
ラグビーのワールドカップ日本代表のメンバーにも違和感を抱いていた。
それではやはりダメなのだ。
ラグビーの場合は、日本国籍は必須ではない。
他の国の代表にも選ばれていないことのほかに、
いずれかを満たせば代表になれる。
・国籍を保有していること
・その国に3年以上居住していること
・父母または祖父母がその国の国籍を保有していること
今回のラグビー日本代表は、31選手のうち3割以上を占める10人が外国人選手。
南アフリカ戦後に、
ヤマハ発動機の清宮克幸監督は、NHK「サンデースポーツ」で、
ラグビー観とか人生観が変わりました。私は常々、日本のラグビーのためになるにはどうしたらよいか、ということを口にしていた。選手の中に日本人が何人いなきゃだめだとか、監督やスタッフが日本人じゃなきゃだめだとか、そういった発言をしてきたんですが、実にささいなこと。そんなことにこだわっていても仕方がない、と試合を見て感じてしまったんです。
と語っていたが、
私も同じ思いにさせられた。
スポーツの世界でも、文学の世界でも、
そして、あらゆる世界において、
新しい感覚が必要であることを感じさせられた。
私にとって、違和感ありありの『流』であったが、
この小説が、私にとってのラグビーW杯・南アフリカ戦であった。
これからは、『流』のような小説がもっと増えてくるだろう。
こういう小説が、日本文学の世界をもっと面白くしてくれるのであろう。
臨戦態勢を整えつつ、(笑)
期待して待ちたいと思う。
東山彰良(ひがしやま・あきら)の『流(りゅう)』(講談社)が受賞した。
選考会後、
選考委員の北方謙三は会見し、こう語った。(抜粋)
東山さんの『流』は、台湾の複雑さを踏まえながら、汗の匂いと血の色、熱い光がある、欠点のつけようのない青春小説です。
『流』は最初から満票、欠点がない。根底から力がある。小説はこういう力、面白さを持っているものなんだという感じでできあがっているんです。20年に一回、(直木賞で言えば)40回に一回と言っても過言ではないものに受賞が決まりました。
われわれにとってはとんでもない商売敵が出てきちゃったな、という感じです。小説そのものが普遍的な力を持っている。
ベタ褒めである。
第1回投票で選考委員全員が○をつけ、
満場一致の受賞であったそうだ。
私の場合、
読みたい本は常にたくさんあるので、
芥川賞や直木賞を受賞した小説だからといって、
すぐに読んでみるといったようなことはほとんどない。
だが、
「満票」「欠点がない」「20年に一回」「とんでもない商売敵が出てきた」
など、
ここ数年聞いたことがないほどの褒め言葉を耳にすると、
『流』を読まざるを得ないような心境になった。
で、遅ればせながら読んでみた。
読み始めて感じたのは、
〈読みにくい小説だな~〉
ということ。
〈こんな文章をずっと読まされるのかな~〉
と、少々うんざり。
まず、第一の違和感は、
文章が美しくないこと。
漢字は象形文字なので、
「漢字」「ひらがな」が厳選されて書かれた文章は、
見た目も美しく、
読まずとも文字を見ただけで風景が見えてきたりする。
私は、これまで、そんな文章を好んで読んできた。
だが、『流』の文章は、
下手な翻訳のようで、
見た目も美しくなく、
ゴツゴツしたような文章で、
私の目と脳が拒否反応を起こしてしまうのだ。
もし、直木賞の選考委員全員がベタ褒めした小説でなかったなら、
すぐに放り出していただろう。
それほど『流』を読み始めた直後は苦痛であった。
だが、この文章に慣れて、
物語も面白くなってくると、
それほど苦痛を感じなくなってきた。
そして、最後まで読み切ることができた。
読み切ることができたけれども、
直木賞の選考委員の言う、
「欠点がない」「20年に一回」クラスの傑作とは思えなかった。
そこで、選評が載っている『オール讀物』(2015年9月号)を読んでみた。
選考委員がそれぞれどんなことを述べているのか知りたくなったのだ。
林真理子
東山彰良さんの「流」を読み進むうちに、祈るような気持ちになった。それは、
「この面白さがどうか持続してくれるように」
という思いであった。少年が大人になるにつれ、力を失っていく小説は案外多いものであるが、「流」はそんなことがなかった。少年の成長小説、かつ青春小説は、台湾と中国大陸をまたぐ、壮大なミステリーへと変化していくのである。スケールがありながら、文章がとてもいきとどいている。少年時代の方のユーモアあるホラ話がたまらない。これほどエンターテインメント“どまん中”の小説は久しぶりで、本当に楽しませてもらった。
伊集院静
『流』の声は熱く、豊かな声質であった。或る時は叫び、或る時は囁き、或る時は沈黙さえしていても常に耳の底に作者の声がしていた。天性の語り部なのだろう。聞いていて(読んでいてだが)心地良かった。語らずに、書かずにいられなかった作品なのだろう。日本人にとって歴史上も大きな関わりがある国の物語に文学が明確に見えた点も嬉しかった。受賞にふさわしい作家と作品を迎えられて喜ばしい限りだ。
高村薫
東山彰良氏の『流』は、中国語圏の身体感覚と台湾の鮮烈な生活風景が目に浮かぶようで、小説を読む幸福を久々に味わった。日中戦争に翻弄された歴史や、祖父が殺されるという家族の事件などがどれも陰惨すぎず、重すぎず、軽すぎない物語として機能しているのは、作者が主人公を十七歳の少年に設定したことから来ているが、これこそ小説家の直感的なバランス感覚である。実に若々しく楽しく、地に足のついた小説の受賞を、こころから喜びたい。
東野圭吾
こんなこともあるのだなと驚いた。ヨーイドンで○が九つ揃い、『流』が満場一致。あっけなく決まってしまった。二人の選考委員が、自分が選考に関わって以来の最高作だ、と絶賛した。となれば、四度目の選考でこういう作品に出会えた私は幸せ者かもしれない。たしかに素晴らしい読書体験だった。治安や秩序が不安定な土地を舞台にした青春小説は、ダイナミックで破天荒で爽快で、作中に登場するファイヤーバードに乗っているかのような疾走感があった。庶民にとって戦争とは何かという問題について、生身の回答が提示されているのも素晴らしい。ふつうは会話文が続くところでページをめくる手が活発になるが、この作品の場合は主人公の独り語りの方が抜群に面白くスピーディだ。これからの大衆文学を牽引するスター、エンタメ界の王貞治になってほしい。
北方謙三
受賞作は、近年では突出した青春小説として仕上がっていた。勢いのままのアップテンポのようで、きちんとした読者への配慮もある。食物の匂いが、ドブの臭さが、街の埃っぽさが、行間から立ちのぼってくる。混沌であるが、そこから青春の情念を真珠のひと粒のようにつまみ出した。この若い才能が次に問われるのは、これを超えてみろ、超えられるか、ということである。地獄でもがく日々に繋がるこの受賞を、私は祝福したい。
桐野夏生
『流』
文句なく面白かった。中国大陸から台湾、そして日本へ。歴史の大きな流れの中で、抗い続ける力と流される受難とを、バランスよく描いて飽きさせない。台湾の外省人と本省人の抑圧と解放をテーマにした、暗い物語でもあるのだが、回顧として書かれていること、そして豊かな細部とユーモアが、陰惨になりがちな話を渇いた笑いへと変えている。著者の精神や肉体の確かな在処を感じさせる作品である。
宮城谷昌光
読みはじめてすぐに、この作者は台湾の人か、とおもったほど、小説を構成する第一の要素というべき空気(感)が日本のそれとはちがっていた。ただし表現は粗い。ことばを慎重に選ぶのではなく、手あたりしだいに集めて詰めてゆけばなんとかなるというずぶとさがみえて、めずらしかった。しかしながら、台湾という小国がもっている不断の不安が通奏低音的にながれていて、その上での事象のあやうさが、おのずと読み手にしみてくる。私は新しい風を感じた。
浅田次郎
すこぶる高水準の候補作が並んだが、その中でも東山彰良氏の「流」は抜きん出ていた。文章に勢いがあり、作者も書くことを楽しんでいるとみえて、まるで本がはね回るような躍動感が漲っていた。大勢の登場人物は個性的に書き分けられ、ユーモアも上品で機知に富み、また現在と追想の転換が上手で少しも混乱がなかった。暴力をふるう場面は多いが、殴る人間にも殴られる人間にも論理があった。これだけディテールを積み上げると、メインストーリーが脅かされるものだが、筆が滑るかと思う間にきちんと本題に戻るのは、冷静に長篇の全体像を捉えているからなのだろう。
宮部みゆき
東山彰良さんの『流』は、活き活きとした表現力、力強い文章、骨太のストーリーテリング、〈人生・青春・家族の滑稽と悲惨〉を把握して全編に漂うユーモア、全てにおいて飛び抜けた傑作。選考会で、「この作品を読んで、小説というものに新しい光を感じた」という発言を聞き、膝を打ちました。
ビックリするほどの絶賛の嵐である。(笑)
しかも全選考委員の手放しの褒めようはちょっと異様ですらあった。
(久しぶりに選評を読んだが、林真理子、伊集院静、高村薫、東野圭吾、北方謙三、桐野夏生、宮城谷昌光、浅田次郎、宮部みゆきの9氏が選考委員あることも初めて知った)
私が感じた文章への違和感は、
宮城谷昌光が、
「ただし表現は粗い。ことばを慎重に選ぶのではなく、手あたりしだいに集めて詰めてゆけばなんとかなるというずぶとさがみえて、めずらしかった」
と述べているのみで、
全選考委員が違和感なくすんなり受け入れているみたいで不思議だった。
(私の文章感が古すぎるのかもしれないが、選考委員の顔ぶれを見れば「さもありなん」とも思えた)
作者・東山彰良のことはまったく知らなかったので、
Wikipediaでちょっと調べてみた。
東山 彰良(ひがしやま・あきら)
本名:王 震緒
1968年、中国人の両親のもと台湾で生まれ、5歳まで台北市で過ごした後、日本へ移住。
9歳のとき台北の南門小学校に入学したが、日本に戻り福岡で育つ。
日本に帰化せず、中華民国台湾の国籍を保持している。
祖父は中国山東省出身の抗日戦士。
父親の王孝廉は1949年に台湾に移り教師となり、1973年に日本に移り住んだ。
筆名の「東山」は祖父の出身地である中国山東省から、
「彰良」は父親が暮らした地であり、
母親の出身地でもある台湾の彰化に由来する。
このプロフィールを見て、少なからず驚いた。
私は、勝手に、
日本人の子供が父親の仕事の都合で台湾に生まれ育ったものと思っていたからだ。
『オール讀物』(2015年9月号)には、
選評の他に自伝エッセイも収められているのだが、そこには、
わたしは日本の小説をほとんど読まない。
と書かれてあって、またまたビックリ。
そして、納得。
彼の文章力は、日本文学によって培われたものではなかったのだ。
表現の手段として日本語を用いているだけなので、
古い人間である私が違和感を抱いても当然であったのだ。
『オール讀物』(2015年9月号)には、
葉室麟との対談も収められていて、
葉室からアイデンティティの問題を訊かれ、
東山は次のように答えている。
台湾で生まれ、日本で育った僕は、二つの国を行ったり来たりしていて、日本に来た当初は、名前も違うから出自が違うこともすぐにわかって、みんなとは違う感じでした。台湾に帰ったら、生活環境が違うので他の子どもたちと違う。僕は子どもの時期から、それでいいやと開き直っていましたね。
同じ対談で、東山はこうも語っている。
今、スポーツの世界では、十六歳で今夏の世界陸上の日本代表になったサニブラウン・アブデルハキーム選手(東京・城西高)や、甲子園で注目されたオコエ瑠偉選手(関東第一高)ら、外見は我々とは全然違うんだけれども、日本で育っていて、おそらくそういうアイデンティティも持っているアスリートが出てきてきます。文学の世界でも、我々とは異なる外見を持ち、日本で育った若者が外見の違いのために疎外感を味わったことで、新しい感覚を持つとしたら、トニ・モリソンのような文学がいつか誕生するかもしれないと漠然と考えているんです。子供の時に感じた鬱屈が、そのうち文章となって迸るような、そういう表現力を持った作家が出てきたら、面白いなと思っているんです。
ここまで読んで、さらに納得。
やはり、私の感覚が古すぎたのだ。
私の場合、
外国人力士ばかりになった大相撲にはほとんど関心がないし、
ラグビーのワールドカップ日本代表のメンバーにも違和感を抱いていた。
それではやはりダメなのだ。
ラグビーの場合は、日本国籍は必須ではない。
他の国の代表にも選ばれていないことのほかに、
いずれかを満たせば代表になれる。
・国籍を保有していること
・その国に3年以上居住していること
・父母または祖父母がその国の国籍を保有していること
今回のラグビー日本代表は、31選手のうち3割以上を占める10人が外国人選手。
南アフリカ戦後に、
ヤマハ発動機の清宮克幸監督は、NHK「サンデースポーツ」で、
ラグビー観とか人生観が変わりました。私は常々、日本のラグビーのためになるにはどうしたらよいか、ということを口にしていた。選手の中に日本人が何人いなきゃだめだとか、監督やスタッフが日本人じゃなきゃだめだとか、そういった発言をしてきたんですが、実にささいなこと。そんなことにこだわっていても仕方がない、と試合を見て感じてしまったんです。
と語っていたが、
私も同じ思いにさせられた。
スポーツの世界でも、文学の世界でも、
そして、あらゆる世界において、
新しい感覚が必要であることを感じさせられた。
私にとって、違和感ありありの『流』であったが、
この小説が、私にとってのラグビーW杯・南アフリカ戦であった。
これからは、『流』のような小説がもっと増えてくるだろう。
こういう小説が、日本文学の世界をもっと面白くしてくれるのであろう。
臨戦態勢を整えつつ、(笑)
期待して待ちたいと思う。