一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

徒歩日本縦断(1995年)の思い出・第8回「新聞連載」…旅先から原稿を送る…

2012年03月18日 | 徒歩日本縦断(1995年)の思い出
出発前、徒歩日本縦断の計画を、私は誰にも話さなかった。
私の気まぐれな思いつきで実行することなので、
誰にも知られたくなかったからだ。
妻も子もある中年男が会社を辞めて旅に出る……など、褒められた話ではない。
非難を浴びるだけだ。
それに、歩き通せる自信もなかった。
イヤになったらすぐに帰ってくるつもりでいた。
だから家族以外は徒歩日本縦断のことは知らない筈であった。
ところが、旅に出る直前、
地元の新聞社から私に電話があった。
「歩いて日本列島を縦断するそうですね。よかったら旅先から原稿を送ってもらえませんか?」
その依頼にビックリした。
もちろん原稿依頼についてではない。
誰が新聞社の人に喋ったのか……にだ。
家族がチクる筈がない。
「だ、だ、誰から聞いたのですか?」
私は問いただした。
「Mさんですよ」
と、電話の主であるSさんはあっさり答えた。
Mさんは、当時私が所属していた文学同人誌の女性会員だった。
〈なぜMさんが……〉
私は必死に思考回路をめぐらせた。
そして、あることに思い当たった。
彼女からの暑中見舞の葉書の返事に、
ついポロリと、
「もうすぐ歩いて日本を縦断するつもりです」
と書いてしまったのだ。
〈でも、どうして……〉
さらにつっこんで訊いてみると、
私の文学仲間であったMさんと、新聞社の文化部にいるSさんは、
昔からの知り合いだったらしく、
何かの件で電話で話している時に、
MさんがSさんに私の旅のことをつい漏らしたらしいのだ。
「少ないながら原稿料も出ます。毎週水曜日に連載しますので、一週間に一度、旅先から原稿を送って下さいませんか? できれば写真付きで……」
Sさんは言葉巧みに私を誘惑する。
「原稿料」という言葉に、私の感性がピクリと反応する。
「や、や、やってみます」
私は間をおかずに即答していたのだった。

初めての原稿は、留萌から送った。

8月8日、午前10時、
ぼくは日本最北端の宗谷岬を出発した。
鹿児島県・佐多岬までの、
いつ到着するかわからない徒歩日本縦断のはじまりである。
初日は稚内までの27キロを歩いた。
その後、オロロンラインと呼ばれている日本海側を南下、
一週間後の現在(8月15日)留萌市にいる。
この間、すべてが順調だったわけではない。
晴れの日がなく、とにかく雨の日が多かった。
トラックなどの跳ね返す水飛沫を浴びながら、
気分的にも落ち込む日が続いた。
足はマメだらけで、
それがつぶれて皮がはがれ、
その弱い皮膚から血が噴き出し、激痛が走った。
20キロにもおよぶザックの重みにひざの関節が痛み、
〈もうこれが限界ではないか〉
と、これまで何度やめようと思ったことか。
しかし、その度に、
すれ違うオートバイのライダーやサイクリスト、
また出会った地元の人々の応援に励まされ、
何とかここまで歩いて来ることができたというのが実情である。
(後略)


写真は、留萌市の写真屋さんで、スピード現像してもらった。
もちろんデジカメではなく、
当時「○○○○○カメラ」と称されていた、
「誰でも撮れる」というのがウリのフィルム式の安価なカメラである。
もし、新聞社の原稿依頼がなければ、
私はそんなに写真を撮らなかったと思うし、
旅も早々にやめていただろう。
旅と同時進行で紀行文を新聞に連載するという足枷がなかったならば、
私の旅は、北海道のどこかで終わっていたような気がするのだ。

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