『Shall we ダンス?』(1996年1月27日公開)を見て、
草刈民代のことが好きになった。
だから、私は、
バレリーナ・草刈民代というよりも、女優・草刈民代のファンといえる。
以降、草刈民代の映画出演作は、
『ダンシング・チャップリン』(2011年4月16日公開)
『終の信託』(2012年10月27日公開)
『舞妓はレディ』(2014年9月13日公開)
があるが、すべて見ているし、レビューも書いている。
(赤字のタイトルをクリックするとレビューが読めます)
そして、草刈民代の出演5作目の映画『月と雷』が10月7日公開された。
初音映莉子と高良健吾が主演しており、
監督は、『海を感じる時』や『花芯』の安藤尋。
原作は、直木賞作家・角田光代の同名小説。
角田光代の小説は、
『八日目の蝉』(2011年4月29日公開)
『紙の月』(2014年11月15日公開)
などが映画化されているが、いずれも傑作であった。
『月と雷』も大いに期待できると思った。
もともと上映館の少ない作品であったので、
当然のごとく佐賀での上映館はなく、
先日、エル・ファニング主演の『パーティで女の子に話しかけるには』を見に福岡のKBCシネマに行ったときに、ようやく見ることができたのだった。
幼いころに母親が家を出て行って以来、
一般的な家庭を知らずに育った泰子(初音映莉子)は、
スーパーのレジ係として働いている。
〈私はこれから普通の家庭を築き、まっとうな生活を重ねていく〉
結婚を控え、そう考えていた泰子は、
亡き父がのこした家と職場の往復する毎日を送っていた。
婚約者の山信太郎(黒田大輔)も優しく、
生活はそれなりに充実していた。
だがある日、突然、
父の愛人だった直子(草刈民代)の息子である智(高良健吾)が姿を見せる。
20年前、直子と智が転がり込んできたことで、
実の母は家を出て行き、
康子の家庭は壊れたはずだった。
智を家に泊め、智と体の結びつきができたことで、
智は泰子の家にそのまま居付いてしまい、奇妙な共同生活が始まる。
康子は、智と共にテレビ局に行き、
自分の母親を探すために人探しの番組に出演し、実母と再会する。
泰子の母は再婚し、著名なフード・コーディネーターとなっていた。
後日、母の家を訪ねた泰子は、外出しようとしていた若い娘の後を追いかけ、
異父妹の亜里沙(藤井武美)の存在を知り、親しくなる。
智から泰子に「直子が見つかった」と電話があり、
直子が、石材店を営んでいる岡本(木場勝己)という男と同居していることを知る。
直子に会いにいった泰子は、直子と再会した直後、吐き気をもよおす。
「妊娠してるんじゃないの?」
と直子から言われ、検査をして、智の子を身籠ったことを知る。
やがて、
泰子を訪ねてきた亜里沙も泰子の家に居付き、
直子までもがやってきて、
泰子、智、亜里沙、直子の、疑似家族が形成される。
そのことによって、泰子は、
平板だった自分の人生の立ちどころが変わっていくのに気づき始める……
泰子(初音映莉子)は、“普通”ではない育ち方をしたので、
“普通”の生活がしたいと願っている。
だが、“普通”ではない智(高良健吾)や直子(草刈民代)が家に転がり込んできた事で、
“普通”ではない生活に戻ってしまう。
直子と智の親子は、
人に好かれる能力、人を惹きつける能力には長けている。
住処がなければ、誰かが提供してくれる。
仕事がなければ、誰かが養ってくれる。
路頭に迷ったときには必ず誰かが助けてくれるから、
一人で立つことを覚えずにここまできた。
かつて、そのような形で、泰子の父はこの親子(直子・智)を家に連れてきたのだ。
直子と智と一緒に暮した期間は、
不思議なことに、泰子には甘美な思い出として残っている。
直子は、いつも、
テレビを観ていているか、
雑誌を見ているか、
酒を飲んでいるか、
煙草をくゆらしているかで、
家事をしなかった。
子供に対しても、何々をするなということがなかった。
だから、学校に行きたくなければ休んで遊んでいればよかった。
風呂に入りたくなければ入らなくてよかったし、
眠ければいつでもどこでも眠ればよかった。
泰子と智は、眠るときはいつも、相手を背後から包み込むように、体をくっつけ合って寝ていた。
それは、泰子にとって、自由で甘美な日々であった。
だが、突如、その自由で甘美な日々は断たれる。
直子と智が家を出ていったからだ。
時を経て、また、直子と智との同居生活が始まる。
やがて、泰子は妊娠し、
“普通”の生活を送る筈だった婚約者と別れる。
直子と智、それに異父妹の亜里沙も加わり、
奇妙な疑似家族が形成され、一瞬の平安が訪れる。
(ここからはちょっとネタバレになるが……)
だが、元来“普通”ではない人間の集合体なので、
すぐにこの疑似家族は崩壊する。
直子が去り、亜里沙も去り、
ある日、泰子が帰宅すると、智の姿もない。
そのとき、泰子は、ちょっと笑みを浮かべる。
「Yahoo!映画」のユーザーレビューなど見ると、
「その笑みの意味が解らない」
などの意見が散見されるが、
その理由は、原作本である角田光代の小説『月と雷』に書いてある。
実際に智が帰ってこなくなったとき、泰子はやはり、かなしみより失望より不安より強く、安堵を感じたのだった。長くまっていたことがようやく実現したような、祈願成就の気分にも似ていて、そのことに泰子は苦笑する。もちろん泰子はそんなことを願っていたわけではなかった。サイズの合わない服を着せられているような日々ではあったし、現実味がまるで感じられないこともあったが、それでもこまごまとした雑事に追われていれば、ときに居心地の悪さも現実味のなさも忘れることができた。母を演じているのでも妻を演じているのでも家族を演じているのでもなく、すべてを引き受けている瞬間があった。
それでも絶え間なく、まるで祈りのように智がいなくなることを想像していたのである。
泰子には覚悟ができていたし、
泰子には「やはり」という感慨があったのだ。
この映画を見ながら、私はずっと、
〈“普通”ってなんだろう……?〉
と考えていた。
絵に描いたような“普通”の生活がある筈もなく、
同じように見えても、それぞれの生活はまったく違う。
自分たちは“普通”と思っていても、
見る人が見れば全然“普通”じゃなかったりする。
(私も含めて)すべての人々が“普通”ではなく、
“普通”ではない人々の集合体が社会であり、
その社会の最大公約数が“普通”なのかもしれない……と思った。
そういう意味で、
泰子もまた、直子や智と同類なのである。
泰子を演じた初音映莉子。
映画出演作も少なく、
『ノルウェイの森』(2010年)などで数回見ただけなので、
それほど印象に残っている女優ではなかったが、
本作における泰子の役では素晴らしい演技をしていた。
虚無感を漂わせた佇まいも秀逸で、
彼女の代表作になることは間違いない……と思った。
相手役が高良健吾ということもあってか、
私は、今年公開された傑作映画『彼女の人生は間違いじゃない』を思い出していた。
主演した瀧内公美とイメージが似ており、
瀧内公美がそうであったように、初音映莉子もまた忘れられない女優の一人となった。
智を演じた高良健吾。
今年の映画出演作は、
『彼女の人生は間違いじゃない』(2017年7月15日公開)と、
本作『月と雷』の2本だけであるが、
どちらも優れた作品であり、
主演した女優(瀧内公美、初音映莉子)を上手く引き立て、
それぞれの代表作になるほどに魅力を引き出している。
自分の存在感を示しつつも、
相手役の女優が魅力的に見えるように心遣いすることは、
誰にもできることではない。
『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016年1月~3月、フジテレビ系)
での演技も素晴らしかったので、今後、映画だけでなく、TVドラマでも期待したい。
直子を演じた草刈民代。
このレビューのサブタイトルを、
「今まで見たことのない草刈民代がそこにいた」
としたのだが、
本作『月と雷』を見て、
私の知る草刈民代……
いや、私のイメージしていた草刈民代像といったものが、
(悪い意味ではなく)音を立てて崩れてゆくのを感じた。
いつも姿勢よく凛とした印象であったが、
本作では、ノーメークに近く、
タバコの煙をくゆらし、酒の入ったコップを手に、
どろんとした目で、虚空に視線を漂わせる。
いやはや、衝撃的であったし、驚きの連続であった。
草刈民代は、第二のりりィになるのかもしれない……と思った。
安藤尋監督は、なぜ草刈民代をキャスティングしたのか?
草刈さんと初めての顔合わせで、「なぜ、直子役に私を選んだのですか?」と、問われて、「僕の中で、直子は『パリ、テキサス』のハリー・ディーン・スタントンです。彼のように、風景を背負って、スクリーンの中を歩ける女優は草刈さんだけです!」と、緊張マックスで答えました。意味不明な答えに、笑顔で頷いてくれた草刈さんが素敵でした。やっぱり直子はこの人しかいないと確信しました!
なるほど、『パリ、テキサス』のハリー・ディーン・スタントンか……
奇しくも、今年(2017年)9月15日に亡くなって話題になったばかりだが、(享年91歳)
『パリ、テキサス』で彼が歩く姿はサマになっていたし、絵になっていた。
そして、『月と雷』で草刈民代が歩く姿も、すごく魅力的であった。
映画を見た後に、原作本を読んだのだが、
角田光代の小説では、直子は60歳くらいの、それほど魅力を感じない女性であった。
それを映画では、原作よりも若い、しかも美しい草刈民代をキャスティングし、
原作とは一味違う直子を創り上げている。
この映画の成功は、
主演の初音映莉子と高良健吾の好演もさることながら、
草刈民代の直子役キャスティングにあったのではないかと思った。
それほどインパクトがあったし、楽しませてもらった。
この映画のタイトルは原作と同じ『月と雷』なのだが、
映画を見た限りでは、そのタイトルの意味が解らなかった。
それで原作を読んで、そのタイトルの意味に触れている文章を発見した。
それは、先ほど、「泰子の笑みの意味」について引用した箇所に続く文章の中にあった。
智が帰らなかった最初の夜は、気味の悪いくらい巨大な月が夜空に浮かんでいた。中秋の名月というのが何を指すのか泰子はよくは知らないが、けれどそのぎらりとした月を見て、それは今月のことかそれとも来月十月のことだろうかと、明日花に乳を飲ませながら考えていた。そのとき月の真下に音もなく稲妻が走った。あまりにすばやく、錯覚だろうかと泰子は目を見開く。星が出て、月のどこにも雲はかかっていないというのに、遠くで雷鳴がとどろいた。と、また、空に裂け目が生じるように、細い幾本もの光が月の下を逃げるように走る。しばらくあとで、また、遠い地響きのような雷鳴が続く。雨の気配も嵐の気配もまるでないのに、どこかでは雨が降りはじめているのかと、明日花を抱いたまま泰子は立ち上がり、縁側に出て遠くに目を凝らす。
あ、智はもう帰ってこない。
無音で走る稲妻を三度目に見たとき、理由はわからないが、唐突に泰子は確信した。智は逃げた。ここから逃げた。父であることから、家族から、役割から、生活から、現実と現実味のなさから、逃げた。
“中秋の名月”の頃の“気味の悪いくらい巨大な月”の真下に、
稲妻が音もなく走る……
そのことによって、智がもう帰らないと確信する泰子。
月は、地球のまわりを公転しながら、およそ29.5日の周期で満ち欠けを繰り返す。
生活に関わる「時」のリズムであり、
“普通”の生活の基盤となるものであろう。
その真下に稲妻が音もなく走る……
映画の中でも、「雨の降る前には稲妻が光る」というような言葉があったと思うが、
“普通”の生活の中に“普通”ではないものが忍び寄る予兆であり、
天からの啓示なのかもしれない……
恩田陸の直木賞受賞作『蜜蜂と遠雷』にも、
遠いところで、低く雷が鳴っている。冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。稲光は見えない。
という表現があったが、雷には人の心を不安にさせるものがあるようだ。
それが遠くから聞こえる音であっても、彼方に見える稲妻であっても……
いや、雷の音も光も、遠ければ遠いほど、不安感は増すのかもしれない。
直子も智も、放浪者であり、世を漂っている。
だが、“普通”の生活をしていると思っている者も、
やがてこの世からいなくなる。
100年も経てば、この地球上の人々は、ほとんどが入れ替わる。
人は去り、人は生まれる。
そういう意味では、すべての人々は旅人であり、
この世に一瞬だけ立ち寄っただけの放浪者なのかもしれない。
草刈民代の歩いて行く姿を見て、そう思ったことであった。