私の好きな女優・河合優実の今年(2022年)の映画出演作は、
『ちょっと思い出しただけ』(2022年2月11日公開、松居大悟監督)
『愛なのに』(2022年2月25日公開、城定秀夫監督)
『女子高生に殺されたい』(2022年4月1日公開、城定秀夫監督)
『冬薔薇』(2022年6月3日公開、阪本順治監督)
『PLAN75』(2022年6月17日公開、早川千絵監督)
『百花』(2022年9月9日公開、川村元気監督)
『線は、僕を描く』(2022年10月21日公開予定、小泉徳宏監督)
『ある男』(2022年11月18日公開予定、石川慶監督)
と、8本もあり、
〈河合優実の出演作はすべて見る!〉
と決めている私は、これまで、
『ちょっと思い出しただけ』『愛なのに』『女子高生に殺されたい』『冬薔薇』『PLAN75』
の5作品を見てきた。
今年6作目となる河合優実の出演作『百花』も当然見るつもりでいたので、
公開直後に映画館(109シネマズ佐賀)に駆けつけたのだった。
レコード会社に勤務する葛西泉(菅田将暉)と、
ピアノ教室を営む泉の母・百合子(原田美枝子)は、
過去のある“事件”をきっかけに、わだかまりを感じながら時を過ごしていた。
そんな中、突然、百合子が不可解な言葉を発するようになる。
「半分の花火が見たい……」
それは、母が息子を忘れていく日々の始まりだった。
認知症と診断され、次第にピアノも弾けなくなっていく百合子。
やがて、泉の妻・香織(長澤まさみ)の名前も分からなくなってしまう。
皮肉なことに、百合子が記憶を失うたびに、泉は母の思い出を蘇らせていく。
そして、母子としての時間を取り戻すかのように、泉は母を支えていこうとする。
だが、ある日、泉は百合子の部屋で一冊の日記を見つけてしまう。
そこに綴られていたのは、
泉が知らなかった母の秘密であり、あの“事件”の真相だった。
母の記憶が消えていくなか、泉は封印された記憶に手を伸ばす。
一方、百合子は、
「半分の花火を見たい」
と繰り返しつぶやくようになる。
「半分の花火」とは何か?
二人が「半分の花火」を目にして、その謎が解けたとき、
息子は母の本当の愛を知ることとなる……
2022年9月9日公開の映画なのだが、
レビューが公開から10日も遅れてしまったのにはワケがあって、
それは、あまりにも河合優実の出演シーンが短く、
ショックを受けたためであった。(笑)
〈レビューは書くまい……〉
と思ったほどであったのだ。(コラコラ)
映画『百花』は、
葛西泉と、泉の母・百合子の関係が濃密に描かれており、
(悪く言えば、それ以外がおざなりになっている)
それぞれを演じた菅田将暉と原田美枝子の“二人芝居”のような感じであった。
なので、河合優実や長澤まさみの演技を期待して見に行った者としては、
ちょっと残念な映画であったのだ。
だからと言って、作品自体は悪くはなく、
傑作とまでは言えないが、優れた作品であったことは間違いない。
原作・脚本・監督は、川村元気。
映画プロデューサー、脚本家として映画を製作する一方、
小説家としても活躍しており、これまで、
2005年『電車男』(企画)
2006年『ラフ ROUGH』(企画)
2006年『7月24日通りのクリスマス』(企画)
2008年『陰日向に咲く』(企画・プロデュース)
2010年『告白』(企画)
2010年『悪人』(プロデューサー)
2011年『モテキ』(企画・プロデュース)
2012年『宇宙兄弟』(企画・プロデュース)
2014年『青天の霹靂』(企画・プロデュース)
2014年『寄生獣』(プロデューサー)
2015年『寄生獣 完結編』(プロデューサー)
2015年『バクマン。』(企画・プロデュース)
2016年『世界から猫が消えたなら』(原作)
2016年『怒り』(企画・プロデュース)
2016年『何者』(企画・プロデュース)
2018年『SUNNY 強い気持ち・強い愛』(企画・プロデュース)
2018年『億男』(原作)
2018年『来る』(企画・プロデュース)
2020年『ラストレター』(企画・プロデュース)
2021年『キャラクター』(企画)
など、数々の話題作を手掛けている。
本作『百花』は、自身4作目の小説「百花」が原作で、
初の長編監督デビュー作となる。
認知症を描いた映画は珍しくなく、
日本映画では、
『恍惚の人』(1973年)
『花いちもんめ。』(1985年)
『明日の記憶』(2006年)
『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)
『八重子のハミング』(2017年)
『ぼけますから、よろしくお願いします。』(2018年)
外国映画でも、
『ポエトリー アグネスの詩』(2010年)
『愛、アムール』(2012年)
『ファーザー』(2021年)
『選ばなかったみち』(2022年)
などがあり、傑作も多く、
手垢のついた題材ではあるのだが、
「認知症の人が見えている世界」を「ワンシーン・ワンカット」で表現し、
本来つながらないはずの時間や空間をひとつのシーンとして繋げた手法は評価に値するし、
美しい映像も相俟って楽しく見ることができた。
ただ、「Yahoo!映画」のユーザーレビューなどを見ると、著しく評価が低く、
一般的な見地からすると、
(メジャーともインディーズとも言えず)どっちつかずの感があるようだ。
多くの人々(特にお年寄り)を面白がらせたり、涙を流させるほどの感動はなく、
かと言って、
芸術性を重んじる人々を満足させるだけのものも無かったのかもしれない。
メジャーの大衆性を拒否し、
インディーズの理屈っぽさや偏屈さも拒否し、
その中間を川村元気監督が狙ったのであれば、
目論見は成功していると言えるが、
どちらの層にも支持されないとなると、いろんな意味で厳しい状況に置かれることになる。
「余計なお世話!」
と言われればそれまでなのだが、
(極私的には)なんとも惜しい気がするのだ。
作品的には「惜しい」部分が大きいような気がしているのだが、
主演の二人の演技は見事で、
特に、原田美枝子の演技は、
年末の賞レースで主演女優賞をいくつか獲れるレベルのものであった。
若き日と、
老いてからの日を演じ分けているのだが、
女の部分が強調された日々の映像は美しく、
〈さすが原田美枝子!〉
と思わされたことであった。
1958年12月26日生まれなのでもう63歳になるのだが、(2022年9月現在)
15歳でのデビュー作『恋は緑の風の中』(1974年)の頃から見ているので、
実に感慨深いものがあった。
田名部美咲を演じた河合優実。
泉(菅田将暉)と香織(長澤まさみ)が務めるレコード会社の同僚で、
ヴァーチャルヒューマン「KOE」開発チームのディレクター。
上司である大澤(北村有起哉)との関係が噂されている……という役柄なのだが、
そんな大澤とのからみのシーンなどもあるのか……と思いきや、
それがまったく無く、言葉で説明されるだけで、ガッカリ。
登場するシーンはほんの少しで、(私には“一瞬”にしか感じなかった)
それも薄暗いシーンで、河合優実の顔すら判然としない。
河合優実ファンの私としては大いに不満であったし、
この役に河合優実をキャスティングする意味はあったのか……とさえ思った。(コラコラ)
同じく、
泉(菅田将暉)の妻で、同じレコード会社に勤務している葛西香織を演じた長澤まさみ、
泉と香織が務めるレコード会社の上司で、
ヴァーチャルヒューマン「KOE」開発チーム部長・大澤哲也を演じた北村有起哉、
心療内科医・佐藤雅之を演じた長塚圭史、
泉と香織が務めるレコード会社の後輩で、
ヴァーチャルヒューマン「KOE」開発チームのメンバー・永井翔太郎を演じた岡山天音も、
出演シーンが短く、
扱いも「雑」というか、
「もったいない」と思わせるものがあった。
見方によっては、贅沢なキャスティングとも言えるかもしれないが、
(私としては)彼らの演技力に見合った役柄や演出とは思えなくて、
河合優実、長澤まさみ、北村有起哉、長塚圭史、岡山天音らの演技を、
もっと長い時間見たかった気がした。
主題歌を歌うのは、劇中に登場する“ヴァーチャルアーティスト”KOE(コエ)。
泉(菅田将暉)と香織(長澤まさみ)が携わる、
AIとCGによってアーティストを生み出す音楽プロジェクトで、
「過去の人気アーティストの顔とか声とかメロディーとか色んなものを、AIにディープラーニングさせて作ったら、ヒット曲が生まれるんじゃないか」
ということで、
“AI”に「数々の音楽の記憶」を学習させ、
理想のヴァーチャルヒューマンアーティストをデビューさせるのだが、
そのヴァーチャルヒューマンアーティストKOEを、
音楽プロデューサー・Yaffleのプロデュースにより、
映画のストーリー同様に、
現実でも、主題歌「Hello,I am KOE」でデビューさせている。
記憶を失っていく人間と、
記憶を加えられていくKOEの対比が面白く、
映画『ブレードランナー 2049』(2017年)のレプリカントや、
バーチャルシンガーの初音ミクや、
NHK土曜ドラマ「17才の帝国」の謎のAI少女などを持ち出すまでもなく、
早かれ遅かれ、AIとCGによって作られたバーチャルなアーティストや恋人が主流になる時代がやってくるのだと、KOEを見ていて思わされた。
『ブレードランナー 2049』のレビューでも、
現代は、実物の女性と恋愛できず、バーチャルの世界でしか恋愛できない男性が増えている。
将来、このようなレプリカントが完成したら、
この映画のような恋愛やラブシーンも「あり」なのかも……と思ってしまったのだ。
顔もスタイルも性格も自分好みで、自分の言いなりになるレプリカントが売られていたら、
人生の伴侶として、
生身の人間ではなく、レプリカントを選択する人も多いのではないか……と。
そう遠くない未来に、レプリカントの時代がやってくるような気がした。
と書いたのだが、
生身の人間よりも、
自分の思い通りになるようにセッティングされた、
自分好みの容姿の、
自分好みの声を持つ、
自分の理想とする記憶を埋め込まれた、
バーチャルシンガーやバーチャル恋人にハマる人が増え、
容姿も声も記憶も売り買いされる日がやがてやってくるのだと思わされた。
私が愛読している作家トマス・H・クックには、
「死の記憶」
「夏草の記憶」
「緋色の記憶」
「夜の記憶」
「沼地の記憶」
など「記憶シリーズ」と言える一群があって、
ミステリーとしても、とても魅力的なのだが、
(極私的には)「記憶ほど曖昧なものはない……」と思っていて、
同じ体験をしても、それぞれに残る記憶はほとんど違っているし、
昔の友人と再会させるTVのバラエティー番組などを観ていると、
大抵、お互いの記憶は違っており、
「俺たち付き合っていたよね」
「付き合っていた記憶はありません」
といった会話さえ珍しくない。(笑)
現代は、デジタルテクノロジーによって、情報量は圧倒的に増えており、
人間の情報処理能力には限界があるので、
新しい情報がどんどん追加されながら、過去の情報もどんどん上書きされていく。
そのスピードもどんどん速くなっていて、
人はどんどん情報を忘れていって、上書きされた最新の情報しか見えなくなっている。
忘れるからこそ、新しい情報を受け取ることができるとも言えるのであって、
忘れることの価値はすごく大きい……とも言える。
「忘れることは人間らしさでもある」ということで、
この映画でもAIに「忘れること」をインプットする案が出されたりする。
「半分の花火」の意味がラストに明かされ、
記憶にまつわる“どんでん返し”が起きるのだが、
認知症の人の記憶が間違いで、
認知症ではない人の記憶が正しい……ということはなく、
「忘れない」のが記憶ではなく、
「忘れる」ことによって濾過されて(大切なものが)残ったものが記憶ではないか……
と思わされた。
記憶について、いろんな考察ができたし、
(河合優実の出演シーンは少ないものの)見て損のない作品だと思った。