私自身のための第1回「一日の王」紅白歌合戦の、
対戦13組目は、「のように」対決。(これまでの対戦はコチラから)
紅組は、カルメン・マキ「時には母のない子のように」。
白組は、浜田省吾「悲しみは雪のように」。
カルメン・マキの「時には母のない子のように」も、
(私にとっては)中学時代を思い出すことのできる懐かしの名曲である。
【カルメン・マキ】
歌手、ロックミュージシャン。
1951年5月18日、アメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれる。
父方の祖父はアイルランド人、祖母はユダヤ系ポーランド人。
生まれて間もなく、父が帰国。
母は肺結核を患っていたため、マキとともに日本に残った。
母方の祖父母がいる東京都大田区で育つ。
1968年、香蘭女学校高等学校を2年次で中退。
アングラ演劇の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」に入団。
同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台。
この時、CBSソニー関係者の目に止まり、歌手契約。
芸名の「カルメン・マキ」は舞台の練習中にたまたま思いついたものという。
1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。
17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。
重い旋律が時代の雰囲気と合致して、累計100万枚を超える大ヒットを記録した。
この曲で第20回NHK紅白歌合戦に出場しているのだが、
ステージには裸足にジーンズ姿で登場し、
驚かされたし、(一部の人々からは)非難されたりもした。
それまでは、紅白歌合戦には、着飾った衣装で出場するものと誰しも思わされていたので、
カルメン・マキの裸足にジーンズ姿は衝撃であった。
カルメン・マキは、これ以降も個性派歌手として活動し、
「時には母のない子のように」の他にも、
「山羊にひかれて」「私が死んでも」「戦争は知らない」などのヒット曲を出した。
「悲しみは雪のように」は、
1981年11月21日に発売された浜田省吾の14枚目のシングル曲だが、
1992年にフジ系TVドラマ『愛という名のもとに』の主題歌として起用されたのを機に、
アレンジを大幅に変更して、同年2月1日に23枚目のシングルとして発売された。
浜田省吾としては初のオリコン・シングルチャート第1位を獲得したシングル曲で、
通算10週に渡り1位を獲得し、累計売上170.3万枚(オリコン調べ)の大ヒットとなった。
私が東京の編集プロダクションで働いていた頃、(昭和50年代)
会社で事務をしていた女の子が、浜田省吾が好きで、
彼女に薦められて(彼女からレコードを借りて)、浜田省吾の曲をよく聴いていた。
「時には母のない子のように」に対抗する曲として、
当初、黒沢年男の「時には娼婦のように」がすぐに浮かび、(笑)
「時には〇〇のように」対決にしようと思ったが、
「時には娼婦のように」は個人的にはあまり好きではないので、
「のように」が末尾に付いている(私の好きな)「悲しみは雪のように」を対戦相手とし、
「のように」対決とした。
※カルメン・マキ「時には母のない子のように」(1969年2月発売)
※浜田省吾「悲しみは雪のように」(1981年11月発売)