一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『火花』 ……木村文乃の笑顔と共に、長く私の記憶に残るであろう秀作……

2017年11月30日 | 映画


今年(2017年)の春、
又吉直樹の『火花』に続く二作目の小説『劇場』を「新潮」(4月号)で読んだ私は、
そのブックレビューを書こうと思い、
実際に書きはじめていた。
まず、『火花』のことを書き、
その後に『劇場』について書く予定であった。
だが、『火花』について書き始めたところで止めてしまった。
長くなりそうだったし(時間がかかりそうだったし)、
そんなもの書いている暇があったら、もっと本を読みたいと思ったからだ。
だが、その書き始めの文章は、私のパソコンの中に残っていた。
それは、以下のような文章であった。


第153回芥川賞が又吉直樹の『火花』に決まったのは、
一昨年(2015年)の7月16日であった。
その受賞作が掲載された「文藝春秋」(2015年9月号)を買ったが、
他に読みたい本がたくさんあったので、一年以上放置されていた。
そして、昨年(2016年)の暮れにようやく読むことができた。

売れない芸人の僕(徳永)は、
熱海の花火大会で、先輩芸人・神谷さんと電撃的な出会いを果たす。
僕は神谷さんの弟子になることを志願する。
神谷さんは天才肌で、また人間味が豊かな人物で、
弟子にする条件は、「俺の伝記を書く」ということであった。
僕は惹かれ、
神谷さんもまた僕に心を開き、
二人は頻繁に会って、
神谷さんは僕に笑いの哲学を伝授しようとしてくれた。
吉祥寺の街を歩きまわる二人は、さまざまな人間と触れ合うのだったが、
やがて二人の歩む道は異なっていく。
僕は少しずつ売れていき、
神谷さんは少しずつ損なわれていくのだった……

「お笑い芸人の世界」を描いた小説であった。
鈴木おさむの『芸人交換日記 ~イエローハーツの物語~』など、
これまでにも「お笑い芸人の世界」を描いた小説はあったし、
私にとっては、目新しい題材ではなかった。
又吉直樹自身がお笑い芸人であるので、
一番書きやすい世界であっただろうし、
そういう意味でも、高い評価はできないと思った。
ただ、一箇所、私の心をとらえた文章があった。
それは、神谷の彼女だった真樹を、
神谷と真樹が別れて10年後に、
偶然、井の頭公園で見かけるときの描写であった。


それから、真樹さんとは何年も会うことはなかった。その後、一度だけ井の頭公園で真樹さんが少年と手を繋ぎ歩いているのを見た。僕は思わず隠れてしまった。真樹さんは少しふっくらしていたが、当時の面影を充分に残していて本当に美しかった。圧倒的な笑顔を、皆を幸せにする笑顔を浮かべていて、本当に美しかった。七井橋を男の子の歩幅に合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと歩いていた。その子供が、あの作業服の男の子供かどうかはわからない。ただ、真樹さんが笑っている姿を一目見ることが出来て、僕はとても幸福な気持ちになった。誰が何と言おうと、僕は真樹さんの人生を肯定する。僕のような男に、何かを決定する権限などないのだけど、これだけは、認めて欲しい。真樹さんの人生は美しい。あの頃、満身創痍で泥だらけだった僕達に対して、やっぱり満身創痍で、全力で微笑んでくれた。そんな真樹さんから美しさを剥がせる者は絶対にいない。真樹さんに手を引かれる、あの少年は世界で最も幸せになる。真樹さんの笑顔を一番近くで見続けられるのだから。いいな。本当に羨ましい。七井池に初夏の太陽が反射して、無数の光の粒子が飛び交っていた。神谷さんは、「なんで、池に飛び込んで真樹を笑かさんかったんや」と言うかもしれない。だが、あの風景を台なしにする方法を僕は知らない。誰が何と言おうと、真樹さんの人生は美しい。

かつて、開高健は、このように言ったことがある。

他人さまの作品を判断するボクの基準は、実に簡単です。とくに新人賞、芥川賞の選考のときもそうだけど、ボクは作品中に一言半句、鮮烈な文句があればもう充分だというのが私の説やね。一言半句でいいんだ。ところが、これが実にない。数万語費して一言半句でいいんだ。その人の将来性、賞をもらって修練すれば、獲得されるだろう魅力、あるいは修練しなくても、それ以前のもう手のつけようのない才能の鉱脈、こういうものはその一言半句に現われているものです。

「鮮烈な文句」とまでは言えないが、
又吉直樹の人間性が表れた文章であった。
この文章で、『火花』は、私の中で、忘れがたい小説となった。
『火花』を読んだ後に、選考委員の選評を読んだが、
小川洋子の選評に、私と同じ想いがあった。


『火花』の語り手が私は好きだ。誰にも攻め込まれない布陣で王将を守りながら、攻めてくる友だちは誰もいないのだ、と気づく彼がいとおしくてならない。神谷の元彼女、真樹さんを偶然見かける場面に、彼の本質がすべて現れている。他人を無条件に丸ごと肯定できる彼だからこそ、天才気取りの詐欺師的理屈屋、神谷の存在をここまで深く掘り下げられたのだろう。『火花』の成功は、神谷ではなく、“僕”を見事に描き出した点にある。


ここまで書いたところで、私は書くのを止めている。
これ以降、とてつもなく文章が長くなりそうだったから……
ここまでの文章からも判るように、
小説『火花』を読んで、私が最も心惹かれ、好きになった人物は、
徳永でもなく、神谷でもなく、
真樹であった。
『火花』が映画化される聞いたとき、
まず思い浮かべたのが、神谷の元カノ・真樹のことであった。
TVドラマ化されたときは、門脇麦が演じていた。
〈映画では、誰が演じるのだろう?〉
と思った。
それが、私にとっての、最重要課題であった。(笑)
やがてキャストが発表され、
真樹役は、木村文乃と判明した。(徳永役は菅田将暉、神谷役は桐谷健太)
木村文乃は私の好きな女優であったし、
〈映画は絶対に見に行こう〉
と思った。
そして、先日、映画館でようやく見ることができたのだった。



若手コンビ「スパークス」としてデビューするも、
まったく芽が出ないお笑い芸人の徳永(菅田将暉)は、


営業先の熱海の花火大会で先輩芸人・神谷(桐谷健太)と出会う。
神谷は、「あほんだら」というコンビで常識の枠からはみ出た漫才を披露。


その奇想な芸風と人間味に惹かれ、徳永は神谷に「弟子にしてください」と申し出る。


神谷はそれを了承し、その代わり「俺の伝記を作って欲しい」と頼む。
その日から徳永は神谷との日々をノートに書き綴る。


2年後、徳永は、拠点を大阪から東京に移した神谷と再会する。


二人は毎日のように呑みに出かけ、芸の議論を交わし、
仕事はほぼないが才能を磨き合う充実した日々を送るように。


そして、そんな二人を、神谷の同棲相手・真樹(木村文乃)は優しく見守っていた。


しかし、いつしか二人の間にわずかな意識の違いが生まれ始める……




映画を見た感想は、
〈意外に原作に忠実に作ってあるな~〉
ということだった。
原作を読んでいない人は、
突拍子もないエピソードがいくつも描かれているのを見て、
〈板尾創路監督が付け加えたものであろう〉
と考えるかもしれないが、
すべて原作に書かれてある。
板尾創路監督は芥川賞作家・又吉直樹をリスペクトした上で、
この原作をいかに不自然に見せないように演出するかに苦心したのではないかと思われる。


真樹役の木村文乃を語る前に、
まずは、徳永役の菅田将暉と、神谷役の桐谷健太のことを述べておこう。
この二人がすこぶる良かった。
漫才師を演じているというより、
漫才師そのものになりきっているように見え、迫力があった。


そのことについて、
板尾創路監督は、次のように語っている。

菅田将暉と桐谷健太ほど力量がある俳優さんであっても、厳密には漫才師の役はできません。だから2人には漫才師そのものになってもらうしかなかった。そのために二丁拳銃の川谷修士と元芸人の俳優・三浦誠己をそれぞれの相方につけて、「スパークス」と「あほんだら」の各コンビでデビューすることを目標にするスタンスで取り組んでもらいました。漫才の練習をはじめ、実際にお客さんがいる舞台に立ってもらって、コンビでいろいろな経験を共有する。今回はその方法論がうまくいったことで、嘘のない漫才の世界を描けたと思っています。やり方としては遠回りなんですけど、その場限りの演出で生まれるほど、笑いは甘くない。だから菅田くんと桐谷くんにはものすごくたくさんネタをやってもらいました。本編で使ったのはほんの一部ですけど、ちゃんと前後があるから漫才として嘘がないんです。そこは胸を張ってお見せできるという自負がありますね。(『シネマ旬報』2017年12月上旬号)

菅田将暉も桐谷健太も大阪育ちなので、
大阪弁は問題ないし、笑いのセンスも持っているし、芸人へのリスペクトも強い。
漫才師を演じるよりも、漫才師になりきる方が、
当人たちにとってもやりやすかったのではないだろうか?


鈴木おさむの『芸人交換日記 ~イエローハーツの物語~』を、
内村光良(監督・脚本)が映画化しているが、


そのときに漫才コンビを演じた伊藤淳史と小出恵介には違和感ありありであった。
二人には悪いが、漫才師には見えなかった。
同じ芸人監督の作品ではあるが、
『芸人交換日記 ~イエローハーツの物語~』よりは、
『火花』の方が数段優れている。



で、真樹を演じた木村文乃である。


これが、菅田将暉や桐谷健太に負けず劣らず良かった。
変顔(もちろん原作に書かれている)までもがキュートで、


あるシーンでは美しく、あるシーンでは可愛く、あるシーンでは寂しげに、
場面毎に違う顔を見せてくれていた。


板尾監督の希望で、人生で初めて金髪にしたそうで、
人生初にしては、意外に似合っていた。


真樹(木村文乃)は、徳永(菅田将暉)にとっても、神谷(桐谷健太)にとっても、
“救い”となる存在であるが、
板尾創路監督は、木村文乃に、事前に、
「真樹は女神ではない」
「芸人と一緒にいられる人間は、普通とはちょっと違う。その人たちには女神に見えても、傷や闇をどこか抱えてるほうがいい」
と告げたという。
変顔をしたりして、太陽のように明るく振る舞ってはいるものの、
影の部分をどこかに隠し持っているように見えるのは、
そうした理由があったのだ。


先程、小説の中の、
神谷の彼女だった真樹を、
神谷と真樹が別れて10年後に、偶然、井の頭公園で見かけるときの描写を引用したが、
このシーンも映画に中にきっちり描かれていて、
真樹を演じた木村文乃の殊の外美しかった。


「Yahoo!映画」のユーザーレビューなど読むと、
「TVドラマの方が、映画よりも良かった」
などと映画の方を批判的に書いている人もいるが、
板尾創路監督はTVドラマの方にも脚本などで関わっているので、
それは的外れな指摘だ。
TVドラマは全10回で、各回約45分(最終回のみ50分)。
映画よりも4倍近い尺があり、
映画とTVドラマとでは、ストーリーのまとめ方が自ずと違う。
TVドラマについて、板尾創路監督は次のように語っている。

ドラマ版は、5人の監督さんが数話ずつ撮っているんですけど、実はその中の一人としてどうか、というお話もあったんです。でも、お笑いの世界で生きる僕がそこに入ると、お客さんに近い立場の監督さんたちは撮りにくいんじゃないかと考えて、脚本で協力させていただくことにしました。全部で10話あったので、ドラマ版はエピソードをふくらませる作業が多くて。主人公の徳永(※ドラマ版で演じていたのは林遣都)らがよう走ってたなぁと(笑)。でも、じっくりと長尺で描けたことで、視聴者がスパークス(※主人公の徳永が組んでいる漫才コンビ)に対して深く感情移入できたかな、思います。(『シネマ旬報』2017年12月上旬号)

では、2時間で描き切る映画の方はどうやったのか?

コンパクトにしつつも、原作のエキスをギュッと抽出したエンタテインメントにしなければ、という意識は常にありました。今回が初めての“原作モノ”だったんですけど、やはり感じたのは“引き算”の難しさですね。同時に、映画にするには足りない部分もあって。徳永と神谷という二人の漫才師の生きざまを10年間にわたって描いた話なので、両者のやりとりを生き生きさせたいし、ナレーションも心に沁みるものにしたいと思うわけです。ただ映画という表現は、又吉直樹が紡いだ言葉を映像でどう見せていくかが問われるわけで――しかも、現役の漫才師の僕が監督をする以上、自分がまずしっかりとイメージを具現するしかない。もちろんスタッフや演者さんに相談はしますけど、最終判断の段階では自分を信じるしかない、と思って画づくりしていきました。(『シネマ旬報』2017年12月上旬号)

板尾創路監督のその試みは、概ね成功している。
映画が原作を忠実に描いているように見えたのは、
板尾創路監督が又吉直樹が紡いだ言葉を丁寧に映像化しているからに他ならない。


映画の終盤、神谷が語った、
「無駄なヤツは一人もおれへんかった」
というのが、板尾創路監督がこの映画に込めた想いであり、
それが人生肯定に繫がっており、
サクセスストーリーではないのに、
見ている者にもほのかな希望が湧いてくる。
一瞬の火花の如き青春時代を描いた本作は、
木村文乃の笑顔と共に、
長く私の記憶に残ることだろう。

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