
一人読書会、
『魔の山』(トーマス・マン)の次は、
世界文学の最高傑作と言われている『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)だ。

『カラマーゾフの兄弟』には、
世界文学の名作をもう何作か読んでから挑戦しようと思っていたが、
『魔の山』を読了したことで、世界最高峰へ挑む高度順応ができたと自分で判断し、
〈これなら一気に『カラマーゾフの兄弟』を読了できるのでは……〉
と考えた次第。
これまで何度かこの世界最高峰に挑むも、
その難易度に(私の登攀技術が追いついておらず)登頂に至らなかった。
私にとって、「死ぬまでに読んでおきたい世界的名作」の筆頭が、
このドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だったのだ。
現在、書店で買える『カラマーゾフの兄弟』の文庫版(品切・絶版の訳書を除く)は、
米川正夫訳の岩波文庫(全4巻)
原卓也訳の新潮文庫(全3巻)
亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫(全5巻)
の3種だが、
私が、今回、テキストに選んだのは、
亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫版。
(全5巻となっているが、最終巻は、「エピローグと伝記・作品解説」になっている)

過去に、米川正夫訳でも原卓也訳でもダメだったので、(笑)
まだチャレンジしていない亀山郁夫訳にしようと思っただけなのだが、
「読みやすい新訳」というイメージもあったことも決め手になった。
ただ、亀山郁夫訳については賛否があり、(売れているのでやっかみもあるだろう)
批判する人は少なからずいる。
翻訳には(当然のことながら)誤訳はつきものだし、
翻訳者の「意訳の程度」や「文学的センス」も大きく影響してくる。
訳文に対する読み手との相性もある。(むしろこれが一番大きいかもしれない)
私がもし亀山郁夫訳で『カラマーゾフの兄弟』を完読できたら、
米川正夫訳や原卓也訳(それに江川卓訳)にも再チャレンジしようと思っている。
哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインも、『カラマーゾフの兄弟』を、
「最低でも50回は精読した」
と言っているので、(50回も凄いし、その上「精読」なのも凄い!)
私も死ぬまでにはいろんな訳で数回は読んでみたい。

さて、読書にとりかかろう。


『カラマーゾフの兄弟』には、
本文の前に「著者より」という序文がある。
『魔の山』にも「まえおき」があったように、
世界的名作に“前置き”は付き物なのかもしれない。
『カラマーゾフの兄弟』の「著者より」は、わずか5頁ほどではあるが、
きわめて重要なことが記されている。

わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記をはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフをわたしの主人公と呼んでいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身がよくわかっているので、たとえば、こんなたぐいの質問がかならず出てくると予想できるからである。
あなたがこの小説の主人公に選んだアレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか? どんな偉業をなしとげたというのか? どういった人たちにどんなことで知られているのか? 一読者である自分が、なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくてはならないのか?(第1巻9頁)
その問いに、著者であるドストエフスキーは、
「小説をお読みになれば、おのずからわかることですよ」
と答える。(笑)
まったく、身も蓋もない返答である。
そういえば『魔の山』の「まえおき」に同じようなことが書かれていた。
ここに物語ろうとするハンス・カストルプの話̶̶これはハンス・カストルプのためにするのではなくて(やがて読者もおわかりになるであろうが、彼は人好きはするが単純な青年にすぎない)、ごく話し甲斐のありそうな話そのもののためにするのである(もっとも、これが彼の話であること、そして誰にでもそれぞれその人なりのおもしろい話がもちあがるわけのものではないということ、これはやはりハンス・カストルプのためにいっておかなければなるまい)。(『魔の山』上巻9頁)
ハンス・カストルプも、「彼は人好きはするが単純な青年にすぎない」のだった。
では、『カラマーゾフの兄弟』も『魔の山』も、
主人公そのものは「けっして偉大な人物ではない」し、「単純な青年にすぎない」のに、
なぜ彼らが主人公なのか?
それは、主人公をとりまく人々が、特異な人物ばかりだからなのではあるまいか?
特異な人物たち、特異な状況を描く物語では、
むしろ「けっして偉大な人物ではない」「単純な青年」方が良かったのではないか……
そんな想像をしながら、「著者より」を読み進める。

しかしここでひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときている。
第二の小説で描かれるのは、現に今、わたしたちの時代に生きている主人公の行動である。しかるに第一の小説は、すでに十三年も前に起こった出来事であり、これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない。(第1巻11頁)
アレクセイ・カラマーゾフの一代記は、「第一」と「第二」の二つの小説から成っていて、
「第一」の小説とは、読者が今、手にしている『カラマーゾフの兄弟』なのだけれども、
肝心なのは、まだ書かれていない「第二」の方だというのである。(笑)
そして、「第一」の小説の方は、「これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない」というのだから呆れる。
ドストエフスキーは、全体の構想をこのように明らかにした上で、次のように述べる。
わたしがこうして愚にもつかない御託を並べ、むざむざ貴重な時間を費やしたのは、第一に読者への礼儀を念頭に置いてのことであり、第二に「これでまあ、打つべき手は打った」という、ずるい考えから来ているのである。(第1巻12頁)
なぜそういう構成になるのかは、「一応“種明かし”はしましたよ」と予防線を張るのである。
ズルいと言えばズルいのだが、
「ずるい考えから来ているのである」と、先回りして弁明するのもズルい。(笑)
「肝心なのは第二の小説」と言っておきながら、
ドストエフスキーが亡くなったことで「第二」の小説は書かれることはなかった。
なので、我々が読むことのできるのは、今手にしている「第一」の方だけなのである。
このように、「著者より」からして、様々な解釈ができるようになっていて、
きわめて難しいのである。
これから本編に入って行くが、
時間をかけて、じっくり読んでいきたいと思っているので、
「一人読書会」は、かなりな不定期更新となる見込みだ。
まあ、私自身のためのカテゴリーなので、ご容赦を……
次回は、
第1部、第1編、第1節「フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ」の予定。
いよいよ世界文学の最高峰への第一歩を踏み出す。
はたして登頂できるのか……長い闘いが始まる。
