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第156回直木賞受賞作『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)のブックレビューを書いたのは、
2017年2月15日だった。
(この小説は、その後、第14回本屋大賞も受賞し、史上初の“直木賞&本屋大賞W受賞”作品となった)
このブックレビューで、私は次のように記している。(全文はコチラから)
感心させられるのは、音楽と、演奏者の内面を表現する言葉だ。
いくつもの演奏風景を、そして、ピアニストの心象風景を、
様々な言葉で切り取っていく。
昔から、「音楽の聴こえる小説」と言われる作品はあったが、
それは短編小説が多かった。
ボキャブラリーには限界があるし、
鋭敏な感覚は持続性がないからだ。
『蜜蜂と遠雷』のような長編小説で、
しかも最初から最後まで音が鳴り響いているような作品は、
これまでなかったような気がする。
これだけでも本当に凄いことなのだ。
恩田陸も、インタビューで、次のように答えている。
演奏シーンは最初から最後まで苦しみました。特に、一次、二次とコンクールの予選が進むにつれて、一度使った表現はもう使えませんから、どんどんバリエーションが少なくなってきて、三次の辺りがいちばんつらかった。もう本選は書かなくていいんじゃないかと泣き言を言ったら、担当編集者に怒られてしまいました(笑)。大変だったけど、演奏者の内面を描くのは小説でしかできないから、意外に小説と音楽は親和性があるな、とも思いましたね。
各章の頁数を見てみると、
エントリー 9~100頁
第一次予選 101~192頁
第二次予選 193~310頁
第三次予選 311~448頁
本選 449~508頁
となっており、
各章、100頁前後で推移しているのに、
本選の頁数がやや少なくなっており、
読んでいても、ちょっとだけ物足りなさを感じてしまった。
だが、インタビューにあるように、
「もう本選は書かなくていいんじゃないか……」
というくらいまで絞り出した結果なので、
ここまで書き上げた著者の努力と才能を、
大いに讃えたいと思う。
そうなのだ。
『蜜蜂と遠雷』という小説は、
“音”をとことん“言葉”で表現し、
最初から最後まで“音”が鳴り響いているような作品であった。
ピアノコンクールをまるごと言葉で表現した小説など、
『蜜蜂と遠雷』が出現するまで、この世に存在しなかった。
それほど稀有な小説であったのだ。
小説『蜜蜂と遠雷』はベストセラーとなり、
すぐに映画化の話が持ち上がった。
メガホンを取るのは、『愚行録』で長編監督デビューを果たした新鋭・石川慶で、
主要キャスト4人を、
松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士が務めるという。
『愚行録』はこのブログでもレビューを書いているし、
……妻夫木聡、満島ひかり、松本若菜の演技が印象的な秀作……
とのサブタイトルをつけて、(傑作とは言わなかったが)秀作と評価した。
長編映画の監督デビュー作でこのレベルをものすることができれば、
かなり期待できる監督だと思っていた。
松岡茉優、松坂桃李という、私が評価している俳優も出演しているし、
この石川慶監督の新作となれば、見ないわけにはいかないではないか。
昨年(2018年)の10月下旬から12月中旬にかけ、関東近郊で撮影が行われ、
今年(2019年)10月4日の公開が決まった。
で、公開初日に、映画館に駆けつけたのだった。
3年に一度開催され、
若手ピアニストの登竜門として注目される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
このコンクールの予選会に参加した若き4人のピアニストたち。
かつて天才少女と言われ、その将来を嘱望されるも、
7年前、母親の死をきっかけに表舞台から消えていた栄伝亜夜(松岡茉優)は、
再起をかけ、自分の音を探しに、コンクールに挑む。
岩手の楽器店で働くかたわら、
夢を諦めず、“生活者の音楽”を掲げ、
年齢制限ギリギリで最後のコンクールに挑むサラリーマン奏者、高島明石(松坂桃李)は、
家族の応援を背に最後の挑戦に臨む。
名門ジュリアード音楽院在籍中で、
完璧な演奏技術と感性を併せ持つマサル・C・レビ=アナトール(森崎ウィン)は、
優勝候補として注目されている。
そして、
パリで行われたオーディションに突如現れた謎の少年・風間塵(鈴鹿央士)は、
先ごろ亡くなった世界最高峰のピアニストからの「推薦状」を持っており、
そのすさまじい演奏で見る者すべてを圧倒していく。
国際コンクールの熾烈な戦いを通し、
ライバルたちと互いに刺激し合う中で、
それぞれ葛藤しながらも成長していく4人だったが……
原作者である恩田陸は、
「そもそも、この小説は絶対に小説でなければできないことをやろうと決心して書き始めたもの」
であり、
「映画化の話があった時は、なんという無謀な人たちだろうとほとんど内心あきれていた」
という。
私も小説を読んだときは、映像化は難しいと思った。
映画を見た感想を、恩田陸は、
「参りました」を通り越して「やってくれました!」の一言です。
と絶賛のコメントを出していたが、
私は、正直、それほどの感想は抱けなかった。
やはり、
「これほどの言葉の量を映像化するのは難しい」
と思ってしまった。
この原作には、
“音(音楽)”だけでなく、
演奏者の内面をも克明に描いてある。
映像化するには、“音(音楽)”だけでなく、
4人は、なぜそのような心境に至ったのかという、
ピアニストたちの来歴や心象風景までも描かなければならないからだ。
上映時間119分の内、前半はこの来歴や心象風景を描くことに費やしている。
“音(音楽)”を期待してきたのに、
前半には“音(音楽)”は少なく、正直、欠伸が出た。
のっけから“雨”や“荒ぶる馬”のスローモーションで、
審査委員たちの喫煙シーンなども登場し、
「煙草を吸うシーンとスローモーションを多用するのは三流の監督」
というのが、私が映画を評するときの判断基準。
と公言していた私としては、(コチラを参照)
「石川慶監督よ、おまえもか!」
と叫びたくなった。(コラコラ)
だが、新鋭監督なのだ。
〈よい部分もあるはずだ……〉
と思い直し、後半も見続けることにした。
すると、後半は持ち直した。
途中に、またスローモーションのシーンがあったものの、
ラスト30分くらいはスクリーンに見入らされて(魅入らされて)しまった。
特に、亜夜を演じる松岡茉優が、
プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」
を演奏するシーンは圧巻で、(実際は河村尚子が演奏しているのだが……)
この映画の最大の見せ場となっている。
躍動感があり、演じている松岡茉優も魂が乗り移ったかのように亜夜に成りきっている。
この本選の模様が本作を救っているとさえ言える。
このシーンがなかったならば、
私は映画『蜜蜂と遠雷』のレビューは書かなかっただろう。
映画で、ピアノを演奏するシーンがある場合、
俳優に演奏(しているふりを)させるか?
プロのピアニストに演技をさせるか?
の二択になるのだが、
(プロ並みにピアノが弾けて演技も上手い俳優がいれば最良ではあるのだが……)
本作では俳優に演奏(しているふりを)させている。
それぞれの実際の演奏は、
栄伝亜夜(松岡茉優)を河村尚子、
高島明石(松坂桃李)を福間洸太朗、
マサル・C・レビ=アナトール(森崎ウィン)を金子三勇士、
風間塵(鈴鹿央士)を藤田真央
が担当し、弾いている。
だから、演奏の音そのものにはそれほど違和感がないのだが、
俳優が実際に弾いていないので、
顔と指先が同時に映っているシーンが極端に少ない。
指先を隠したシーンや、
指先の見えないバックショットや、
指先だけのシーンに分割され、
演奏者と音が一体となったシーンが少なかった。
それでも、
本選のシーンと、
第二次予選での芳ヶ江国際ピアノコンクールのための委嘱作品「春と修羅」の、
カデンツァ(即興演奏)の部分は見応えがあった。
架空の課題曲「春と修羅」は、作曲家・藤倉大が書き下ろしており、
カデンツァも書き分けて、各人各様の響きになるように工夫されている。
この部分は大いに評価されて良いと思う。
松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士は、
やや、よそよそしい演技ではあったものの、
本作の登場人物である、
栄伝亜夜、高島明石、マサル・C・レビ=アナトール、風間塵を、
それぞれに己に近づけて好演していたと思う。
ピアノコンクールという緊張感のある、浮足立つようなシーンの連続の中で、
ベテランステージマネージャー・田久保寛を演じた平田満と、
コンクール会場のクローク係を演じた片桐はいりの、
周囲を落ち着かせるような演技が強く印象に残った。
最後に……
本選では、栄伝亜夜(松岡茉優)が、
プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾くのだが、
この曲をあまり知らない人は、事前に2~3度聴いておくと、
より感動できると思う。
オススメは、
ウィーンでの辻井伸行の演奏(指揮・佐渡裕)
アンコールの「ラ・カンパネラ」も素晴らしい。
不満も述べたが、
見るべき(聴くべき)ところの多い作品であった。
映画館でぜひぜひ。
そして、原作未読の方は、小説の方もぜひぜひ。