最近、編集画面を見て、驚いたことがあった。
訪問者数と、閲覧数(なんと8317PV)が、異常に増加した日があったからだ。
gooブログではアクセス解析ができるので、
検索キーワードを調べてみると、
「一日の王」で検索した方が多いこと、
そして、
「初めてお越し下さった方へ」を読まれている方が多いことが判った。
ブログのトップに置いている「初めてお越し下さった方へ」には、
ブログのタイトルを何故「一日の王」にしたのか……を書いている。
詩人で山のエッセイを多く書いた尾崎喜八(1892~1974)の著書に『山の絵本』(岩波文庫)というのがあります。
この本の巻末に、私の好きな「一日の王」という文章が収められていて、このタイトルを借りました。
そこで、さらに調べて、
訪問者が増えた原因を突き止めた。
それは、どうやら、
『致知』(2016年7月号)という雑誌で、
鈴木秀子さん(国際コミュニオン学会名誉会長)という方が、
自身の連載「人生を照らす言葉」で、
『一日の王』について執筆されているから……
ということが判った。
その記事を読んでみたいと思ったが、
『致知』は書店では販売していない直販制の雑誌らしく、
それは叶わなかった。
だが、出版元である致知出版社のブログに、
内容を記した記事があったので、
おおよそのことは判った。
「当たり前」など一つもない
月刊『致知』の
シスター・鈴木秀子さんの連載は
「心が洗われ、元気が出る」と好評です。
7月号では、
「一日の王」というタイトルで
ご執筆いただいています。
───[今日の注目の人]───
★誰もが「一日の王」になれる★
鈴木 秀子
(国際コミュニオン学会名誉会長)
※『致知』2016年7月号【最新号】
※連載「人生を照らす言葉」
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私たちは日常生活の中で
目の前の損得や、
将来の不安、
恐れなどにばかり意識を向け、
一方で無事に日常生活を送っている、
そのこと自体は「当たり前」と
見過ごしてしまいがちです。
百のうち九十九よいことがあっても、
一つ悪いことがあると、
そちらに焦点を合わせてしまうのが
人間の性なのかもしれません。
「一日の王」とは、
それとは反対に、
日常生活のよいことに
意識を向け続ける生き方です。
一つの方法として、
朝起きた時に
「きょう一日、
よいものに焦点を当てよう」
と決意します。
嫌な出来事が起きても
怒りや恐れの感情を
露わにすることをせず、
意識してよいことを
見つける訓練をするのです。
「きょうもまた命を与えられている」
「体が動く」
「家族が無事でいる」。
ただ、それだけでも、
どれほどありがたいことでしょうか。
通勤電車が動いている、
働く会社がある、
会社に行けば仲間が待っていてくれる、
毎月給料をいただける、
朝昼晩の食事を
美味しくいただくことができる……。
「一日の王」になることは、
目の前に当たり前のように
繰り広げられる出来事一つひとつに
丁寧に目を留めて、味わうことです。
※「当たり前」のことなど何もない。
日常のすべては
奇跡の連続だと教えられる
お話ですね。
鈴木さんはこの連載は、
ともすれば見落としがちな
大切な人生の真理を
教えられます。
この、鈴木秀子さんの文章を読んだ方たちが、
「一日の王」で検索し、
私のブログに行きついたようなのだ。
私も同じような内容の言葉を、
ブログ「一日の王」を立ち上げたときに書いている。
山に登るだけで、誰もが「一日の王」になれる……
山が好きな人には、実感として理解して頂けるのではないかと思います。
「一日の王」が手にするのは、お金や物ではない。
私有化できるものでもない。
だが、それら物質よりも、豪華で贅沢なものです。
美しい風景を眺め、可愛い花を見る。(視覚)
美味しい空気を吸い、岩清水を飲む。(味覚)
心地よい鳥のさえずりや、小川のせせらぎの音。(聴覚)
香しい花の匂いや森の匂い。(嗅覚)
土を踏む感触、木や岩の手触り。(触覚)
五感すべてで感じる幸福。
黄金のような時間。
これこそが、「一日の王」が得る宝であり、富だと思います。
「かくて貧しい彼といえども、価なき思い出の無数の宝に富まされながら、また今日も、一日の王たることができたあろう。」
尾崎喜八の「一日の王」はこの文章で締めくくられています。
機会があったら、ぜひ原文も読んでみて下さい。
と、難しいことを申しましたが、要するに、「山登りは楽しい」ということです。
登山と同様、映画を見ている時や、読書をしている時も至福の時間。
「一日の王」になれる貴重なひととき。
このブログは、いわば、至福の時間の記録です。
「機会があったら、ぜひ原文も読んでみて下さい。」
と私は記しているが、
それほど長い文章ではないので、
以下に、その全文を掲載してみたい。
時間があるときにでも読んでもらえたら嬉しい。
一日の王
「お寺の前で
子供が三人遊んでいる。
お前達は一日の王を見かけたか」
ジョルジュ・シェーヌヴィエール
出発
背には嚢、手には杖。一日の王が出発する。
彼は一箇のクヌルプのように漂泊と歌とを愛するが、また別にすこしばかりの自然科学者的タンダンスがあって、それが感情の過度の溢れから彼を救う。
嚢の中には巻パンと葡萄酒、愛読のシェーヌヴヴィエールの詩集一冊。今日は時しも春だから、ジュール・ロマンは持って行かない。その「全一生活」や「唄と祈」は、枯葉の散り、菌のにおう秋の山路にこそふさわしいと思う。
磁石は紐で首からつるした。ポケットには手帳とルウペと地図。折目に幾度目かの膏薬張りをした地形図は、過去の足跡をなぞった鉛筆の色で真赤である。内がくしの心臓の上には、戸口に立って笑っている我が子の写真も忘れはしない。
天の青さがぽたぽた落ちてくるような春の夜明けよ! 早起きの雀の声のきこえるあたり、西郊の欅のおもたい新緑。彼はモーツァルトをおもい、グルックをおもう。あらゆるオルフォイス的な音楽が今やひとつの純粋な流れとなって、早朝の出発の心をめぐり、包み、洗っているようである。
そして彼は今日の山路のすがすがしい美しさと、その明るいひろがりとを思う。
小径
咲きはじめた山吹やひとりしずか、小径の岩に鳴る靴の音。もうずっと下になった渓谷が、かすかにさらさらと早瀬の歌をうたっている。そして楽しい大きな明暗に浸かった朝の山々は、空間を占める莫大な容積の重なり合いと大らかな面の移り行きとで、それを見る眼をゆっくり休ませ、その安定感で人の心をやわらげる。すでに都会は遠いのだ。対岸には白壁と石垣と、調和のとれた樹木の配置とでひどく好もしいものに見えていたひとつの村落が、今、こちら側の山をはなれた朝日を浴びて、谷から立ち昇る真珠いろの霧のために、きわめて薄いヴェイルを纒ったように柔かくきらめき始める。その上の山の斜面に点々とパステル赤をなすっているのは、三葉躑躅の花だろうか。
やがて径の左に沢の落ちて来るところを彼は過ぎる。一羽の大瑠璃が岩角にとまって、流れよどんだ清水を飲んだり浴びたりしている。木の間から降りそそぐ日光の金色の縞に照らされて、その瑠璃いろの頭や翼の色が眼もさめるように美しい。彼は小鳥の動作を、その飛び去るまでじっと見ている。飛び去った鳥は近くの水楢の枝まで行って、嘴をこすったり、濡れた羽をふるわせたりしながら、その合間に水晶の玉を打ち合わせるような歌を投げる。彼はその歌を、ちょうど或るメロディーを覚えようとする時のように、しっかりと心にとめながら歩いて行く。
径の片側に或る岩石の露頭が現れる。日蔭の岩は爽やかに濡れている。彼は見事に皺曲したその岩を多分紅色角岩だろうと思う。粘菌を採る人のように細心に、杖の石突きでやっと旨く割ることのできたその扁平なひとかけを乎の平に載せて眺めながら、これを研いで磨いて文鎮にしたら好い記念になるだろうと思う。
彼は行く。ゆっくりと。しかし物見高い眼や鼻や耳はすっかり解放しながら。山を歩くことは彼にとって、自然の全体と細部とをできるだけ見、愛し且つ理解することであって、決して急用を帯びた人のように力走することではないからである。それがために一日の行程を、二日かかるとしても構わない。またそのために、都会へ帰って幾日かを穴埋めのために生きるのであっても構わない。
彼は遭遇ランコントルを愛する。天与の遭遇が有ればよし、さもなければ自分の方から求めて行く。この発見の道は必然に迂回する。
中食
柔かい水苔の薄くかぶさった岩に腰をかけて、いま彼は単純な中食にとりかかる。
先ず揉革に包んだ切子のコップを取り出して、小壜に詰めた葡萄酒をそそいでぐっと飲む。旨い! もう一杯。気が大きくなる。それからフロマージュ入りの棒パンをかじりながら水筒の水を飲む。
シェーヌヴィエールの詩集はこういう時の友なのだ。彼は質素に強く、明るく生きることの如何に自分にとってふさわしく、またそう生きようとした夢想が、如何にこの病身で熱烈で、貧しかった詩人を鼓舞し、パリの凡庸な日々の中から燃え上る新星のような非凡の光を、瞬時に現れる永遠を発見させて、如何にこれらの感動的な詩を書かせたかを思う。
近くの暗い岩の上、ひかげつつじの硫黄いろの花の咲く下に、いわうちわが一面にはびこって、ほんのり紅をさした白い花の杯を傾けている。彼は艶のある緑の葉ごとその花を摘みとって、詩集の中で最も好きな「一日の王の物語」の頁へはさむ。
帰途
彼は午後の大半を、尾根から山頂へ、山頂からまた尾根へと、一日の太陽の鳥が大空をわたって、その西方の金と朱あけとに飾られた巣の方へ落ちて行く頃まで歩いた。
尾根では、いつものとおり暖かでひっそりして、自分自身がおとなしい野山の鳥やけものや、何物をも強く要求しない草や木とちっとも変った者ではないことが感じられたし、山頂では、周囲からぬきんでたその高さのために心が高尚にされて、そこからの眺望は、いつもひとつの高い見地というものを教えられることだった。
同時に、それは、また発足して見に行きたいという、新らしい熱望へのいざないでもあった。
それから彼は谷間の方へ下山した。
今くだって来た山のてっぺんには、まだ金紅色の最後の日かげが残っているが、谷間はもう淡い紫にたそがれている。夕暮の空には、朱鷺ときの抜け毛のような雲が二筋三筋散っている。やがては天気が変るとしても、今日の終焉が美しい夕映えを持つだろうという確信は彼を楽しくする。
彼はようやく出逢った最初のを、人々が永く其処にとどまって其処に死ぬるところを、行人の足にまかせて脇目もふらず通りすぎるには忍びない。
老人に、若者に、娘に、彼は道をきくだろう。たとえその道を、地図と対照してほとんど熟知しているとしても、なお彼らと二言三言口をきくために、彼は求めて道をたずねるだろう。
坂になった村道で、子供たちが夢中になって遊んでいる。その中の一人がほとんど彼にぶつかろうとする。彼はそれをよい機会しおに、身をよけながら子供の肩に手を載せるだろう。
そうして、たちまちにして、彼は初めて見たこの谷奥の寒村を、旧知の場所のように思ってしまうだろう。
かくて貧しい彼といえども、価無き思い出の無数の宝に富まされながら、また今日も、一日の王たることができたであろう。
「もう一日留まっていなされや。そうしたら、
私がいい家鴨をつぶして上げようもの」
ジョルジュ・シェーヌヴィエール