MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

ハプスブルク家の女帝たち

2019-11-25 00:56:28 | 美術

 現在、東京上野の国立西洋美術館では『ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史』が催されているのだが、結局、一番印象に残ったのは女帝と言われていたマリア・テレジア(Maria Theresia)を初めとする、絵画よりも絵画に描かれている人物の方だった。マリア・テレジア(上のイメージの一番左)は後継者を確保するために16人も子供を産んでいるのであるが、この執念が凄い。


『フランス王妃マリー・アントワネットの肖像』マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルブラン
(『Archduchess Marie Antoinette of Austria, Queen of France』
Marie Louise Elisabeth Vigee-Lebrun)1778

 そのマリア・テレジアが1775年、38歳の時に産んだのがマリー・アントワネットなのだが、調べてみるとマリー・アントワネットが処刑されたのは1793年、37歳の時で、てっきり「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったことで民衆から顰蹙を買って処刑されたのだとばかり思っていたのだが、そのような事実は記録にないようである。

 もう一人気になる人物がマルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(Margarita Teresa de España)で、マルガリータは1651年生まれ、1673年に亡くなっているから、マリア・テレジアの世代とは一世紀違う。
 これだけ言われてもマルガリータのことはよく分からないが、マルガリータはディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)の『ラス・メニーナス(Las Meninas)』で有名なのである。レオポルド1世との見合い用にベラスケスは3枚描いており、上のイメージは8歳の時のマルガリータである(『青いドレスの王女マルガリータ・テレサ(Infant Margarita Teresa in a Blue Dress)』1659年)。
 しかしマルガリータ・テレサはマリア・テレジアのように出産が上手くいかず、娘を一人残して21歳で亡くなっている。


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景徳鎮窯×有田窯=ウィーン窯

2019-11-24 00:56:35 | 美術

 現在、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムでは「リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展」が催されているのだが、見どころは絵画よりも磁器の方ではないだろうか。
 中国の景徳鎮窯と日本の有田窯の影響でドイツ・マイセン窯、オランダ・デルフト窯に並んで有名なウィーン窯(1718年のデュ・パキエ時代から、オーストリア帝立時代、1864年までのゾルゲンタール時代を経て、後の1923年に設立された磁器工房アウガルテン)が発展していった様子が分かる。
 例えば、ベルナルド・ベロット (Bernardo Bellotto)やロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino)の原画がエナメルの上絵で描かれているウィーン窯の皿は贅沢なものである。


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カルティエと「芸術」との微妙な関係について

2019-11-23 19:35:58 | 美術

 東京の六本木の国立新美術館で現在催されている「カルティエ、時の結晶」という展覧会を最初、フランスの写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)の作品展かと勘違いしていたのだが、実は「本物」のカルティエだった。
 ところで何故「カルティエ」に「名前」が無いのか勘案するならば、1847年にフランス人宝石細工師のルイ=フランソワ・カルティエ(Louis-François Cartier)が彼の師匠のアドルフ・ピカール(Adolphe Picard)から工房を受け継ぎ、その後、息子のアルフレッド・カルティエ(Alfred Cartier)、その3人の息子のルイ・ジョセフ・カルティエ(Louis Joseph Cartier)、ピエール・C・カルティエ(Pierre Camille Cartier)、ジャック・T・カルティエ(Jacques Théodule Cartier)、ジャックの息子のジャン=ジャック・カルティエ(Jean-Jacques Cartier)とルイの息子のクロード・カルティエ(Claude Cartier)と引き継がれ、ピエールが亡くなる1964年まで100年以上カルティエ一族が引き継げていたことでネームバリューを確固としたものにしたからだと思う。
 フランスの印象派の画家たちがアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)やアール・デコ(Art Déco)に行かなかった理由は、カルティエ一族の存在が大きいと思うのだが、彼らがルネ・ラリック(René Lalique)のように宝飾デザイナーとして語られないのは、ジャンヌ・トゥーサン(Jeanne Toussaint)など複数の職人による「工房」であったということと、作家というよりもビジネスの側面に長けていたということなのか?
 しかし展覧会においても展示されているが、ルイ・カルティエが世界中から蒐集した書籍やオブジェなどの資料は驚くべき量で、この労力があってこその作品群だと分かる。


(「フラミンゴ」ブローチ (Flamingo brooch) 1940年)


(「オーキッド(蘭)」ブローチ (Orchid brooch) 1937年)

 美術館では観客全員に無料で音声ガイドを貸し出すのだから、その「財力」は推し量って知るべしところだが、ジュエリーなどの展示の限界は、やはり人が身に付けてこそ光るからであって、結果的にジュエリーは身に付ける人を輝かせる「付属物」でしかないからであろう。


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ゴッホのもう一つの「大喧嘩」

2019-11-22 00:56:38 | 美術

 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)とポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の「大喧嘩」はかなり有名な話で、その直後にゴッホが自ら左耳を切断して、自画像としても残している。


(『耳を包帯でくるんだ自画像(Self-portrait with Bandaged Ear)』1889年)

 現在、上野の森美術館で催されている『ゴッホ展』でもう一つの「大喧嘩」を知った。それは弟のテオを介して知り合った画家のアントン・ファン・ラッパルト(Anthon van Rappard)との間に起こったものである。


(『ジャガイモを食べる人々(The Potato Eaters)』1885年)

 当時、渾身の力作と自負していた『ジャガイモを食べる人々』は、弟のテオにもそれほど評価されていなかったのだが、本作の石版画を送ったラッパルトからは容赦のない批判の手紙を受け取る。


(『ジャガイモを食べる人々(The Potato Eaters)』石版画 1885年4月)

「あんな作品は本気で描いたものじゃないという僕の意見には君も賛成だろう......どうして君は、一切を、あのように表面的に見るんだい?......背景にいる女のコケティッシュな小さい手は、全く真実と懸け離れているよ......また、右側にいる男はどうして、膝や腹や肺を持つことを許されないのか? そんなものは背中についているのか? またどうして彼の腕は一ヤードも短くなければいけないのか? どうして鼻が半分欠けていなければいけないのか? また、左手の女は、鼻の代りに、端に小さな立方体の付いた煙草のパイプの軸を付けていなければならないのか?」(『ファン・ゴッホの生涯 上』 スティーヴン・ネイフ/グレゴリー・ホワイト・スミス共著 松田和也訳 国書刊行会 p.469 2016.10.30)

 その後のゴッホの作品を見ている私たちから見るならば、ゴッホにしては寧ろ「普通」の作品のように見えるのだが、ラッパルトが属していたであろう「ハーグ派」は「バルビゾン派」の流れを汲むもので、全体的にフォーカスが甘く、『ジャガイモを食べる人々』のように顔の表情を細かく描写することがなかったために不評を買ったように思う。


(『煉瓦工場の労働者たち(Arbeiders op de steenbakkerij Ruimzicht)』1885年)


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ハーグ派時代のゴッホについて

2019-11-21 00:57:58 | 美術

 現在、上野の森美術館において「ゴッホ展」が催されている。ゴッホが27歳で画家になった頃から晩年までの作品が網羅されている。
 それにしてもオランダの「ハーグ派」は知名度が低いのだが、それも肯るかなと思う理由はテーマも画面の暗すぎるからである。しかしゴッホはヨゼフ・イスラエルス(Jozef Israëls)など一部の画家は高く評価していたようである。

「この冬は昔の絵のなかで気づいた制作手法についてもっとさまざまなことを追跡するつもりだ。僕にとって必要なことをたくさん見てきた。しかし、何はともあれ - いわゆる『一気に描く』 -、ほら、これだよ。昔のオランダの画家たちがみごとにやってのけていたのは。この、わずかな筆さばきで『一気に描く(アンルヴェ)』」ということに今の人は耳を貸そうとしないが、しかし、その結果のなんとすばらしいこと。そして、これこそ多くのフランスの画家たちが、そしてまたイスラエルスがそれをもののみごとにこなしている。(......)
 僕は事がだらだら長びいたり、道をそれたりするのは好まない。それに、あれは致命的問題ではないかね、あの無理やりどこも一様に仕上げるやり方(彼らが仕上げと称するもの)は。明るさと褐色の代わりにあの退屈な、どこも同じ灰色の光 - 色は色調(トーン)の代わりに固有色 - これは嘆かわしいことではないか、ともかく実際そういうことではないかね。
 要するに、こうしたことは誤りだと僕は思う。というのも僕は例えばイスラエルスを実にりっぱだと思うし、また、新しい画家たちのなかにも、昔の画家たちのなかにも感服できる人は数多くいるからだ。(1885年10月 テオ宛ての手紙)」『ファン・ゴッホの手紙』(みすず書房 二見史郎編訳/圀府寺司訳 p.206 2001.11.22)

 (『Alone in the World』 Jozef Israëls 1881 )

 その後、パリに出てきたゴッホが友人に宛てて書いた手紙を引用してみる。

「アムステルダムでは、ぼくは印象派がどういうものであるのかさえ知らなかった。いまでは目の当たり見てきたし、そのクラブの一員ではないにせよ、僕は何人かの印象派の絵、ドガの裸婦、クロード・モネの風景などとてもすばらしいと思った。
 さて、僕自身がやっている仕事について言えば、モデル代に事欠く状態、さもなければ、人物画に専念していたところです。でも、油絵で一連の色彩の習作をやった。もっぱら花の絵で、赤いヒナゲシ、青いヤグルマギクとワスレナグサ、白いピンクのバラ、黄色のキクなど - 青とオレンジ、赤と緑、黄と紫の対照を求め、さらに混和された、中間色の色調を求めて、どぎつい対極の色彩を調和させるようにした。灰色の調和ではなく、強烈な色彩の効果を出そうと努めています。(1886年8月ー10月 H.M.リヴェンズ宛て)」(同書 p.223) 

 「ハーグ派」の視点を持ったゴッホが実物の「印象派」の作品を見て度肝を抜かれた感じが伝わってくる手紙だと思うのだが、実はゴッホは1875年5月から美術商としてグーピル商会のパリ本店で勤務しておりモンマルトルで暮らしている。1875年5月31日付のテオ宛ての手紙にはカミーユ・コロー(Camille Corot)やジュール・ブルトン(Jules Breton)などの名前は上るが印象派の画家の名前はまだ出てこない。(同書 p.5)


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社会を美しくする方法について

2019-10-29 00:21:42 | 美術


(2019年10月25日付毎日新聞夕刊)

 2019年10月25日付毎日新聞夕刊の「『表現の不自由展・その後』物議の実態は」という江畑佳明記者の記事は「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の「その後」の良質なレポートだと思う。
 実際に展示室に入った記者は「平和の少女像」に触れて銅像ではなく樹脂で出来ていることを確認し、勝手な解釈と断りながら「戦争や性暴力の被害について考えて欲しい」という作家の思いが伝わってきたと記している。
 あるいは昭和天皇の顔が描かれた紙が燃える場面で始まる、美術家の大浦信行の映像作品「遠近を抱えて PartⅡ」を観て記者は「終盤、紙が全て燃え、燃えかすが靴でかき消される。批判の多くは、おそらくこの場面を指して『天皇陛下の写真を燃やして踏みつける』と訴えているのだろう。だが記者には、残り火が燃え広がらないようにしているようにも受け取れた。たばこの火を足で消すような『踏みつける』動作には見えなかったからだ。」と感想を記している。
 要するにこれらの作品は美術館にある限り「筆致」が問われているのであって、政治が問われているのではない。作品を批判する人々は単に自分勝手に捉えた「イメージ」だけで批判しているだけで、作品そのものを語り損ねており、そのようにひとつの物事を丁寧に議論できない社会の未来にはファシズムしかあり得ないと思うのである。
 今回の騒動を見ているとやはり19世紀後半の印象派作品のぞんざいな扱われ方を想起させる。もしもあの時、印象派の作品を人類が捉え損ねて全ての作品を失っていたら、今の私たちが暮す社会がこれほど美しく楽しいものになっていただろうか。


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表現の不自由と無知について

2019-10-10 00:15:25 | 美術

(2019年9月18日付毎日新聞朝刊)
 
  今回の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の展示の一つである企画展「表現の不自由展・その後」が抗議電話やメールなどで中止に追い込まれた原因は、芸術祭芸術監督である津田大介の認識の甘さにあったと思う。ジャーナリストとして知名度を持つ津田はこれまで嫌がらせを受けたことがなかったのかと思うほど、無防備だったことに驚かされた。
 「表現の不自由展・その後」が再開されることを受けて津田は10月9日のTBSの朝の情報番組である『グッとラック!』に出演していたのであるが、MCで落語家の立川志らくの発言には呆れてしまった。
 どうも志らくは昭和天皇の写真を踏みにじったり燃やしたりした作品が気にいらなかったようで、津田に「お子さんじゃなくても自分の親、子供にいろんな理由をつけてそれも表現だといって自分の親の写真を焼いたり踏んだりそれも芸術だと言ったらどうしますか?」と問いかけていたのだが、例えば、津田の親の写真を焼いたり踏んだりしたらそれはもちろん津田に対する「ヘイト」であり、日本人の言動を左右する天皇陛下の「イコン」を扱うのとはわけが違うのだから、一般の親や子供と天皇陛下を同じ俎上に載せるのは乱暴すぎる。実際、志らくは『グッとラック!』の初回の9月30日の放送回で文化庁が補助金の交付をしないことを発表したことに対し、「政治家たちの芸術に対する認識の低さが招いた悲劇」と文化庁側を批判し、「不愉快なものを含めて、それが芸術」としていたのではなかったか。
 美術館という場所の意義は印象派の出現あたりから変わってきたのであるが、決定的な出来事はマルセル・デュシャンが1917年に「ニューヨーク・アンデパンダン展」において『噴水(Fountain)』と称して「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした男子用小便器を展示したことである。つまり美術館は「これが芸術だ」という観点から「これは芸術なの?」という観点で作品が展示されるようになったのであり、「これは芸術なの?」という問いに堪えられた作品はその後も展示され続け、堪えられなかった作品は必然的に消えていくのである。
 美術館はとりあえず本来の場所や文脈から「作品」を取り出して、判断を中止(エポケー)して観賞する試みの場所に他ならないはずなのだが、いくら落語家といえども立川志らくは芸術に関して感情的で無知過ぎると思う。「そんなことも知らないのか、バカだな~」と言いたい衝動を抑えて丁寧に説明していた津田はこれでプラスマイナスゼロになった。
 
 

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マリアノ・フォルチュニの才能について

2019-10-09 00:53:02 | 美術

 六本木の国立新美術館で催されていた『ウィーン・モダン』と東京の丸の内の三菱一号館

美術館で催されていた『ラファエル前派の軌跡展』を踏まえて、フランスの「印象派」、

イギリスの「ラファエル前派」、ウィーンの「ウィーン分離派」という同時代的に起こった

芸術運動の違いを論じたことがある。フランスの印象派がさらに「新印象派」「ポスト印象派」

「フォービズム」「キュビズム」とテクニックを追求していくのに対して、「ラファエル前派」や

「ウィーン分離派」は「象徴主義」を経た後に「アール・ヌーヴォー」に流れてしまっており、

ここで言う「アール・ヌーヴォー」とは美術自体の向上ではなくてその装飾性が建築や工芸品や

グラフィックデザインに向かったということで、つまり実用品として扱われるようになったと

指摘したのであるが、三菱一号館美術館で催されていた『マリアノ・フォルチュニ 織りなす

デザイン展』を観た時、1871年生まれ、1949年に77歳で亡くなったスペインの

ファッションデザイナーも「アール・ヌーヴォー」に流れてしまっているように見える。

逆に言うならば、もしもマリアノ・フォルチュニ(Mariano Fortuny)が独特の油絵を

描けたならばフォルチュニは印象派に名を連ねていたように思うのであるが、「20世紀の

レオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれることはなかっただろうから微妙な話ではある。


(『アンリエット・フォルチュニ、画家の妻
(Portrait of Henriette Fortuny, Wife of the Artist)』)(1915年)


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『フォリー・ベルジェールのバー』の謎

2019-10-08 00:56:47 | 美術

 現在、上野の東京都美術館で催されている「コート―ルド美術館展 魅惑の印象派」では

比較的良質の印象派作品を観ることができるが、何と言ってもエドゥアール・マネ(Édouard Manet)

の『フォリー・ベルジェールのバー(Un bar aux Folies Bergère)』は必見である。

 本作の有名な謎が、バーテンダーの女性が一人で佇んでいるにも関わらず、背後の鏡には

その女性に話しかけている客の男性が映っていることである。興味深い点として女性の顔と

同じくらいの大きさの男性の顔が何故か女性の顔のようにクリアに描かれていないことで、

女性の虚ろな目つきを勘案するならば、背後の鏡に写っているシーンは、直前に女性が男性と

言葉を交わした経験のイメージで、女性はそのことで憂鬱になっているような気がする。

要するにマネは女性の「記憶」を描いたのだと思うのである。

 本作はマネの晩年の傑作とされているが、正確に言うならばマネは51歳で亡くなって

いるのだから、マネの「全盛期」の作品といえるであろう。


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アール・ヌーヴォーと大正ロマン

2019-08-21 00:22:16 | 美術

 現在、Bunkamuraザ・ミュージアムでは『みんなのミュシャ』が催されるているのだが、本作の特徴はアルフォンス・ミュシャ(Alphonse Mucha)の作品そのものよりも、ミュシャに影響されたアーティストや作品を紹介しているところにある。
 例えば、1900年前後の10年間のパリにおける活動でミュシャはアール・ヌーヴォーの礎を築いたのであるが、それは1960年代のアメリカのヒッピーたちに決定的な影響をもたらす。ダイアナ・ロスとザ・スプリームズ(Diana Ross & the Supremes)が1969年にリリースした『レット・ザ・サンシャイン・イン(Let the Sunshine In)』のアルバム・ジャケットはディーン・トレンス/キティ―ホーク・グラフィックス(Dean Torrence / Kittyhawk Graphics)によってなされたものだが、ミュシャの作品と言われても違和感がない。

 日本におけるミュシャの受容は1901年の藤島武二(1867年-1943年)による与謝野晶子著『みだれ髪』の表紙装画が嚆矢といって良いと思う。

 しかし日本には日本画や浮世絵を基礎とした竹久夢二(1884年-1934年)から中原淳一(1913年-1983年)に繋がる日本の美人画(夢二式美人)が存在し、やがてミュシャの流れと大正ロマンの流れが複雑に絡まっていくのである。


(『黒船屋』 竹久夢二 1919年)


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