THE FOURTH PARTY

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二十歳過ぎればただの人

2017-02-17 12:57:43 | チョイ毒エッセイのようなもの
正吉君と同年齢だった頃の自分と、正吉君を重ねて想いに耽ることが多い。

小学校3年生の3学期。その頃の俺は、親父の転勤で静岡に住んでいた。
静岡は小学校3年生の1年間しか暮らしていないにも関わらず、とても思い出深い場所である。自分の肌に合っていたのだろう。

この時の担任の先生が、とても音楽好きの方だった。
クラスで唄う歌はアコースティックギターで伴奏をし、クラリネットの演奏を披露してくださったこともある。
今ではさすがに疎遠になってしまったが、教職を定年された今も民間のオーケストラの指揮・指導をされているようで、ネットでお名前を見つけることができる。

当時から音楽が得意だった俺のことをとても認めてくれていて、俺が引っ越す日にプレゼントしてくれたのが、小学校3年生にとっては「まさかの」オーケストラのスコア。
チャイコフスキーの交響曲第4番。小3に対しては渋すぎる選曲だ。

そんな事をふと思い出して、納戸の本棚から引っ張り出してきた。俺が買い集めたスコア共々、すぐに手の届く場所ではなく、納戸にある。

裏表紙にはこんなメッセージがある。


“〇〇君(俺の事ね)は、音楽家になる!”
当時の俺を見て予言し、太鼓判を押してくださったのだ。

記憶がないくらい小さい頃に、姉貴が通い始めたヤマハの音楽教室に付き添いで行っていた俺は、生徒たちよりも張り切って歌ったり演奏したりするので、強制的に受講せざるを得ない事になったのだそうだ(笑)。
言葉すら覚束ない小さな子供が、絶対音感を持ち(もちろん今でも健在)、即興でハモったりするので、その頃から「天才」と言われていたようだ。

そして、静岡から引っ越した先の担任の先生がまたまた音楽好きだったのだが、そんな俺をすぐに目に留めたようで。
転入して間もない頃にいきなり「みんなの見本で1人で歌え」と言われた俺は、拒否して泣いた覚えがある。
(歌がバツグンに上手かったという意味ではなく、音程が極めて正確とか、リズム感が優れているとか、即興でメロディーを奏でたりできる…ということではなかったかと思う)

当の本人である俺は、当時はそれほど音楽が好きなわけではなく、工作や絵の方が好きだった。
先生からこのスコアをプレゼントされたとき、「ボクは、カーデザイナーになりたい」と答えたな。スーパーカー少年だった俺は、スーパーカーと自分との接点であるデザイン&デザイナー・・・、マルチェロ・ガンディーニやジウジアーロ、ピニンファリーナに憧れていた。

お袋が生前、俺が3歳のときに描いたという親父の似顔絵を見せてくれたことがある。
これが衝撃的に才能を感じる絵だった(笑)。
3歳というのはフカシが入っていたかもしれないけど、仮に3年生だとしても「天才」で通用するくらい。
実際に音楽や美術、工作などのクリエイティブ畑ばかりを歩んできたわけで、何らかの能力を持っていたのだろうな、とは思うことがある。

そんな俺が、なぜに単なる町工場の親方になってしまったのか(笑)、色々と考えた。
一つは、天才と言われすぎた事。
他には…人のせいにするのは良くないが(笑)、それを伸ばす環境が、家庭に無かった事。
そして、割と器用だったおかげで、他にも好きで得意なものがたくさんあった事だ。

自分の才能の上に胡坐を掻き。
それに集中する環境を得られず。
そして、浮気先や逃げ場がたくさんあったって事。

十で神童、十五で才子。二十歳過ぎればただの人。
なんでも来いに名人なしとは、今もって尚、痛感するものがある。まあその半面で、現在の仕事において零細企業ながらワンストップであるというのは大きな誇りであり、何とかやっている理由でもあるのだが。

我が家の家訓に「一芸に秀でるよりも、全てに中庸であれ」というのがあるが、子供たちのルーツが分かってきてからは「一芸に秀でよ」に路線変更した。

今悩むのは、能力に偏りのある我が子3人に、何を取り組ませ、どうやって、どの程度入れ込むべきなのかということ。
仮に俺が明日事故で死んだとしても、子どもたちが生きていけるだけの何かを掴ませてやりたい。
それだけである。
コメント
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