澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

今日は三島由紀夫の命日だった…

2011年11月25日 19時24分35秒 | 社会

 さきほど、ラジオを聞いていて、今日は三島由紀夫の命日だと知った。評論家・西村幸祐が出演して、三島の遺言について「今日を予言していた」と語る。
 その点では、同感するところが多いので、この番組にメールを送ってみた。ローカル番組なので、聴取者も少ないらしく、すぐに読み上げてくれた。名の知られた司会者だったミッキー安川が亡くなり、その息子にポストをを「世襲」したという、この奇妙な番組。年金受給者のオッサンか自営業者ぐらいしか聴いていないような内容だ。

 その駄文は、以下のとおり。

さきほどの西村さんが三島由紀夫に関連して語られた「同時代を生きていないと分からないこと」という感想に同感します。
 私は、三島由紀夫自決の日、すぐ近くの四谷の大学グラウンドにいました。同級生には「楯の会」の会員Iという男がいて、「右翼」嫌いの私は、三島にも楯の会会員にも嫌悪感を感じていました。三島の自決については、西村さんが指摘されたとおり、マスメディアの論調は次第に「落ち着いて、何でもないんだ」という方向に向かっていきました。これは、尖閣事件や原発爆発事故でマスメディアがとった態度と全く同じです。昔も今も変わらないという実感です。
 三島が嫌いだった私も、のちになって彼が「経済的には繁栄しているが、中身は何もない空っぽの国が東アジアの片隅にあるであろう」と予言していたのを知り、驚愕しました。それはまさに、現在(いま)の日本ではないですか! 
 西村さんが「うすら左翼」と呼んだ菅直人を見ると、「市民」「平和」「憲法」…「環境」などというきれい事を言い続け、「国家」を軽んじたツケがいま問われています。この無能な「市民運動家」を「首相」にまでしてしまった、戦後日本そのものへの疑問にも至ります。』


 (マット安川のずばり勝負)

 遺憾ながら、マット安川という人の日本語は何を言いたいのかさっぱり分からない。「そう言った意味で」という接続句を乱発するのだが、何を指して「そう言った」と言うのかが分からない。口癖にしても、誰か矯正をしようと考えないのか。 ラジオ番組をこんな○○息子に世襲するという前代未聞の裏には、何か利権の構造でもあるのではないかと疑ってしまう。

 西村幸祐氏によれば、三島の遺書は今日の日本の姿を予言していたという。政治の分野では、ルーピー鳩山、うすら左翼の菅と続いて、救いようのない野田が現れた。この3人の存在自体が、戦後日本の象徴のようだと指摘する。空虚な「協調」「話し合い」を唱えながら、土下座外交を続ける日本…こんな日本を三島はすでに見通していた。

 去る者は日々に疎し…三島の憂国はますます遠くなっていく。
  
 最後に、私が「嫌悪感」を感じた楯の会会員の同級生とは、次の映像に出てくる井上豊夫氏だった。今になってみれば、彼の思いと私とは、さほど違いはない。


 


由紀さおり「1969」の問題曲 「いいじゃないの幸せならば」

2011年11月23日 18時30分30秒 | 音楽・映画

 このところ、由紀さおりが往年のヒット曲をカバーした「1969」というアルバムが、米国、カナダ、ベルギーなどでベストセラーになっているそうだ。どの国でも、CDの売り上げは減少の一途で、このアルバムがベストセラーだといっても、どれくらい売れたのか知りたいところだ。
 私自身は、このアルバムをまだ聴いていない。だが、収録曲のリストを見て、「夜明けのスキャット」が入っているので、「この歌を国外で歌うことには違和感がある」と思った。当時、この曲がサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」に酷似しているとして、問題になったからだ。このことについては、別の日のブログで書いたので、ここでは触れない。
 だが、このアルバムにはもう一曲、問題曲が入っていることは、あまり知られていない。これもまた、いずみたく作曲、「いいじゃないの幸せならば」(オリジナルは相良直美)だ。
 この曲もまた、盗作疑惑で話題になった。ラテン音楽の名曲「クマーナ」のテンポを遅くすると、メロディ・ラインが一致すると指摘された。二つの曲を知らない人でも、下に貼付したYouTube映像を聴いていただければ、よく分かるだろう。

 アルバム「1969」については、アマゾンのカスタマー・レビューで次のような記事に出会った。このレビューを書いた人は、多分若い人だろう。私などは、「夜明けのスキャット」「いいじゃないの幸せならば」の2曲が入っていると聞いただけで、「国辱的」という印象さえする…。同時に、個人的にも1969年は忌まわしい年であったことを思い出す。

【アマゾン・カスタマー・レビューより】

由紀さおりと米ウエストコーストの世界的人気楽団ピンク・マルティーニのコラボ・アルバムが英国を皮切りに日本も含め次々に世界レベルでリリースされ・・・正直ビックリしている。
有りもしない音楽ブームをでっち上げ、それに加担するメディア、或いはグラミー賞を受賞するようなアルバムがリアル・タイムに本国アメリカで実は、発売されていなかった等と言うイカガワシイ音楽業界の時世を考えると歌謡史において最もセンセーションなアルバムとも言える。
そもそもリーダー、トーマス・M・ローダーデールが由紀さんの
1969年の再デビュー・アルバムをポートランドで偶然ジャケ買いしたのが由紀さんとの出会らしい。
そのアルバムの「タ・ヤ・タン」(山上路夫、いずみたく作)を彼等のアルバム「
ヘイ・ユジン!」での日本語カバー、昨年のホリデー・アルバム参加へと続いて行く・・・。
・・・でこのアルバム12曲中7曲が日本の歌謡曲という構成。歌謡曲のオリジナルに配慮しつつ由紀さんの美しいヴォーカルにスポットライトをあてることを主眼に置いたすばらしいトーマスの編曲から日本音楽への愛情がとても伝わる好盤。
国によって曲順と曲数が若干違うようです。11/13時点で相変わらず販売者が内容不記載でどれにレビュー書いたらよいか迷ってしまう。 

【以下英国盤収録内容】

01 夕月 [黛ジュン]
02 真夜中のボサ・ノバ [ヒデとロザンナ]
03 さらば夏の日 [映画音楽 フランシス・レイ]
04 パフ(ザ・マジック・ドラゴン) [ピーター・ポール&マリー]
05 いいじゃないの幸せならば [佐良直美]
06 ブルー・ライト・ヨコハマ [いしだあゆみ]
07 夜明けのスキャット [由紀さおり]
08 マシュ・ケ・ナダ [ジョルジ・ベン or セルジオ・メンデス&ブラジル'66 ]
09 イズ・ザット・オール・ゼア・イズ ? [ジェリー・リーバー&マイク・ストーラー or ペギー・リー]
10 私もあなたと泣いていい ? [兼田みえ子]
11 わすれたいのに [ザ・パリス・シスターズ or モコ・ビーバー&オリーブ]
12 季節の足音 [新曲] 詞 秋元 康 曲 羽場 仁志 作

全12曲 約40分 世界各地でチャート・インの話題もちらほら、歌謡曲が世界でそこそこ売れてると
聞くだけで嬉しい。

【クマーナ】

【いいじゃないの幸せならば】


香嵐渓で紅葉狩り、白川郷で凍える

2011年11月22日 01時04分38秒 | hobby

 1泊2日の格安旅行で香嵐渓(愛知県)、郡上八幡、そして白川郷に行って来た。
 香嵐渓は、暖かな日曜日だったので、大にぎわい。狭い通りでは、長い行列が出来るほどだった。
 月曜日は天気が一転。名古屋から郡上八幡に行く途中、山際にきれいな虹が見えたが、これがその先の天気を暗示しているかのようだった。郡上八幡に着くと、かなり雨が降っていて、名古屋とは比べられないほど寒い。「水の街」「盆踊りの街」も、雨のおかげで台無し。夏にこどもたちが川(吉田川)に飛び込むところで有名な橋を確かめて、早々に退散した。
 次は白川郷。到着すると、周囲の山が白色に変わっている。「今日、初雪が降った」と聞く。コートがないと寒いほどで、もう冬が訪れたという感じ。でも、集落には色づいた木々が残っていて、柿はまだ実をつけている。合掌造りの民家は、日本人の伝統的な知恵が詰まっていて興味が尽きない。
 安房峠を越えると、周囲はさらに雪景色。このあたりのスキー場は、雪の心配はなさそう。
 というわけで、たくさん写真を撮ってしまいました。












「原爆の歌」と「原発の歌」

2011年11月18日 10時04分41秒 | 社会

 福島市の95%の地域が年間被爆量1ミリシーベルトを超えるというニュースを見て、ふとあの陰々滅々としたメロディを思い出した。もう半世紀も前になるのだろうか、原水爆禁止運動で歌われた「原爆の歌」。「ああ三度(みたび)許すまじ原爆を我らのために」という歌詞が頭の片隅に残っていた。

 YouTubeは便利だ。この曲は「長崎原爆の歌」という名前だそうで、歌詞がすべて掲載されている。(下記参照)
 暗くセンチメンタルなメロディと歌詞は、現在の北朝鮮の歌謡曲に似ている。何故、私がこんな曲を覚えているのか記憶にはないのだが、多分、母親が歌っているのを子供心に覚えていたのだろうと思う。

 それにしても奇妙な歌詞だ。何故、原爆が長崎に落とされたのか、落としたのは誰なのか、その責任は誰にあるのか…そういった現実的な問題はすべて吹き飛ばして、センチメンタルな感情に訴えるだけ。ソ連や中国の核実験は、「平和」を守るためだとして許容していた原水爆運動(日本社会党系)には、こういう歌しか作らなかった。広島の原爆記念碑には、「二度と許しません」という主語が欠けた一文が載っていることは、あまりに有名だ。これは、米国が有色人種である日本人に対して意図的に原爆投下したという事実を直視しないためだ。これらのことには、全てを水に流すという日本人の特性がよく表れている。

 「ああ三度許すまじ」と歌った原爆は、原発爆発というかたちで福島に落ちてしまった
 この歌は「四度許すまじ」と歌詞を変えれば、これからも使えるのだろうか…こんな不謹慎なことを考えてしまった。新たな「原発の歌」には、「東電」「民主党政権」という二つの固有名詞を忘れずにつけ加えななければ、このような歴史的悲劇は何度も繰り返されることだろう。


歴史を忘れた日本人

2011年11月15日 10時33分40秒 | 台湾

 「この度の台湾行きで、しみじみと思ったことを書いておきたい。それは、我が国は、戦争の後始末をしていない、ということだ。我が国は、戦に敗れたのを幸いに、自分だけ、無効な「日本国憲法」という枠に逃げ込んで、歴史を忘れたふりをしている。」

 ご自身のブログにこう書くのは、元・民主党議員の西村真吾氏。全文を下記のとおり転載したが、最も印象に残るのが上記の部分だ。
 台湾の戦後史を振り返ると、敗戦によって日本は勝手に台湾を見捨て、蒋介石の流亡政権が台湾を思いのままにするのを容認し、台湾人(本省人)の本心、心情を理解しようとはしなかった。
 映画「海角七号」(2008年)に見られるように、日本と台湾の歴史的絆は強く、今なお日本語世代の多くは、日本に対して親近感を持ち続けている。もはや80歳代になった日本語世代が、日本統治時代に対して肯定的な評価を下しているからこそ、現在の「親日感情」が継続していると言っていい。

 昨日、平壌で日本×北朝鮮のサッカー試合が行われ、TV中継された。「君が代」が演奏されると、5万人の北朝鮮観客は一斉に大声を出して「君が代」のメロディを故意にかき消した。これを見て分かるのは、北朝鮮は今もなお「反日」を国是とした国家であるということ。TVでは、日本国歌である「君が代」に対する北朝鮮人の非礼さを糾すことなく、「究極のアウェイ」とにやにやして言うだけ。

 「我が国は、戦に敗れたのを幸いに、自分だけ、無効な「日本国憲法」という枠に逃げ込んで、歴史を忘れたふりをしている」というツケはあまりに大きい。
 

 

【西村真吾】感慨深く台湾から帰る

 西村真吾

真悟の時事通信 (平成23年11月13日号) より転載
                              
 十二日夜、台湾から帰る。
 台湾での、松浦四郎若師匠の浪花節の会は、日本と台湾の参加者全員、等しく、しみじみと、「いいなー、よかったなー」と思う会となった。
 先にも書いたように、東日本大震災に対し、台湾から世界最大の支援が我が国に寄せられた。その支援に対して、ある台湾の人に「ありがとうございます」と感謝すると、彼は、「台湾人は、日本人を同胞と思っているのです」と答えてくれた。
 それなら、同じ同胞として、義理と人情の浪花節、を台湾で楽しんでもらおう、戦後日本人は変わってしまったように見えますが、浪花節の義理と人情では、日本人は戦前から何も変わっていませんよ、と台湾の浪花節の会を企画した次第。
 おそらく、戦後、台湾で生の浪花節を演じるのは初めてだと思う。

 台北では、蔡焜燦先生が呼びかけた人々が集まってくれた。
 高雄では、旧制高雄中学同窓会の人々が集まってくれた。
 浪曲の演題は、台北では、忠臣蔵の「赤穂城明け渡し、矢頭右衛門七」、高雄では、「乃木将軍、信州墓参」
 台湾の参加者の皆さんは、少年時代を日本軍兵士になろうとして過ごした人たちだった。そして、特に高雄の皆さんは、全員、戦後の昭和二十二年二月二十八日(2・28事件)から始まった蒋介石、国民党軍の白色テロで弾圧され、家族から犠牲者をだしている人々だった。その一人の十五歳で出征した郭鏡川さんから、「かつて日本人だった台湾少年の回想録、少年の日の覚悟」という本をいただいた。

 この度の台湾行きで、しみじみと思ったことを書いておきたい。それは、我が国は、戦争の後始末をしていない、ということだ。我が国は、戦に敗れたのを幸いに、自分だけ、無効な「日本国憲法」という枠に逃げ込んで、歴史を忘れたふりをしている。
 しかし、今からでも遅くはない。
 我が国は、かつて日本兵として、大東亜戦争の大義を信じて戦い、今も、日本人と同じ義理と人情を心に秘めて生きている多くのアジアの同胞である人々の労苦に感謝し誠を尽くさねばならない。
 このことが、日本を再興する大道である。台湾をはじめとするアジアの同胞の思いに報いることなくして我が国の再興はない。

 台湾における次の課題は、都会では会えない「山の人」、台湾原住民と我が国の絆を確認することだ。かつて彼らは九つの部族に別れていたが、高砂義勇隊として大同団結して国家(日本)のために勇敢に戦った。戦後、彼らの大義は日本自身によって否定された。それ故、彼らは、容易に本心を明かすことなく、再びばらばらに部族に別れて今も台湾の山にいる。
 しかし、今こそ、共通の敵は支那、中国共産党であることを自覚して高砂義勇軍の如く大同団結するべきである。
 彼らの団結は、総統選挙を控えて激しくなる中共からの政治攻勢を跳ね返して台湾の運命を好転させ得る。
 この台湾の「山の人」と日本との絆の確認は、本年九十七歳の戦前戦後の情報戦の生き字引であり、日本の未来を照らす隠れた至宝である門脇朝秀先生のご指導を得なければなしえない。

 以上、短文ながら、台湾帰国報告。


由紀さおり「夜明けのスキャット」は盗作なのに!?

2011年11月13日 18時27分44秒 | 音楽・映画

 今頃、由紀さおりが、何故か米国、カナダ、ベルギーで人気が出ているという。「日刊ゲンダイ」によると、「由紀は今年、世界的人気のジャズ・オーケストラ「ピンク・マルティーニ」とのコラボレーションアルバム「1969」を世界20カ国で配信。これは収録曲の大半を日本語で歌っているにもかかわらず、11月2日付のiTunesジャズ・チャートとカナダiTunesチャート・ワールドミュージックで1位を獲得。ギリシャのIFPI総合アルバム・チャートでも4位に食い込んだ」という。また、「1969年に『夜明けのスキャット』はオリコンの年間ヒットチャートで1位の大ヒットになりました。当時と現在は、歴史的な転換期・混迷期という意味で状況が似ているかもしれない。こういう時代に、由紀さおりの透き通った歌声がハマるのでしょう。言葉の壁を越え、世界中の人々に癒やしを与えているのだと思います」と締めくくっている。(下記の記事参照)

 由紀さおりが国外で人気が出たのは、喜ばしいことだが、「夜明けのスキャット」を国外で歌うことには違和感がある。
 オジン、オバンの洋楽ファンなら周知のことだが、この「夜明けのスキャット」(いずみたく作曲)は、サイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」の盗作なのだから。
 Wikipediaで確認すると、「サウンド・オブ・サイレンス」は、米国で1965年にリリースされ、1966年年初に週刊チャートで1位、そして1966年の年間チャートで25位を記録している。「夜明けのスキャット」は、「サウンド・オブ・サイレンス」がヒットしたほぼ2年後、TBSラジオの「夜のバラード」という番組のテーマとして作曲された。作曲家・いずみたくにとっては、数年前、日本でもヒットした「サウンド・オブ・サイレンス」を”軽い気持ち”でパクって作曲したということだったろう。だが、一時期忘れ去られていた、この「サウンド・オブ・サイレンス」は、1968年6月に公開された映画「卒業」の中で使用され、再び脚光を浴びることになった。これは、いずみたくにとっては、予想外の出来事だったはずだ。そして、「夜明けのスキャット」もまた人気が出て、1969年の年間ヒット・チャートの第一位を記録する。

 両者を聴き比べれば、「夜明けのスキャット」が「サウンド・オブ・サイレンス」のパクリであることは明白だ。
「サウンド・オブ・サイレンス」


「夜明けのスキャット」

 こんな明白な「パクリ」(あえて「盗作」とは言わないが)の曲を欧米諸国で歌ってほしくないと思うのは、私だけか。これでは「パクリ」大国・中国のことを嗤うことなどできないではないか。
 gooのQ&Aには、次のような書き込みが見られる。 

「夜明けのスキャット」という曲は、なぜヒットしたのですか

「夜明けのスキャット」という曲がビートルズの時代にヒットしたという事ですが、なぜヒットしたのですか。
曲を聞きましたが、のんびりした感じで、わくわくしない曲ですけれど、どうしてヒットしたのかを知りたいのですが。

夜明けのスキャットはサイモン&ガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンスのパクリ?です。

 これを見ると、私の意見は、独りよがりではないことが分かる。由紀さおりが歌う「1969年」は、「夜明けのスキャット」がヒットした年。この年は、学園紛争が最高潮に達し、東大、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止になった。このころ、青春時代を送った世代にとっては、「夜明けのスキャット」は懐かしい歌というよりも、悪夢を思い出させる亡霊のような歌と言っていい。しかも、当時の日本は、今の中国のように平気で米国産品をパクッていたという、動かぬ証拠がこの曲だ。今になって、由紀さおりが外国で「夜明けのスキャット」を歌うことは、「国辱」に近い行為だと言っておく。このことを当時を知らない世代に伝えなければならない。

 

【話題の焦点】由紀さおり 海外で大人気の不思議

日刊ゲンダイ 11月13日(日)10時0分配信

<混迷の時代にスキャットがハマる?>

 なぜ、今頃になってブームなのか。歌手の由紀さおり(62)が、海外で大人気になっている。
 由紀は今年、世界的人気のジャズ・オーケストラ「ピンク・マルティーニ」とのコラボレーションアルバム「1969」を世界20カ国で配信。これは収録曲の大半を日本語で歌っているにもかかわらず、11月2日付のiTunesジャズ・チャートとカナダiTunesチャート・ワールドミュージックで1位を獲得。ギリシャのIFPI総合アルバム・チャートでも4位に食い込んだ。
 10月17日には、ロンドンの音楽の殿堂「ロイヤル・アルバート・ホール」でライブも行った。代表曲「夜明けのスキャット」などを披露し、聴衆からスタンディングオベーションを受けたという。12月には米ツアーも予定されている。
 この人気アルバム「1969」のタイトルは、由紀が「夜明けのスキャット」でメジャーデビューを果たした年のこと。自身の曲のほか、「いいじゃないの幸せならば」「ブルー・ライト・ヨコハマ」など1969年のヒット曲をカバーしている。
 1969年といえば、アポロ11号が人類初の月面着陸を刻んだ年だ。未来への希望が広がる一方で、前年の「プラハの春」の影響で、世界情勢は混迷していた。日本国内では、安田講堂攻防戦で東大入試が中止になった。証券不況を経て高度経済成長に陰りが見え始めた時期でもある。
「1969年に『夜明けのスキャット』はオリコンの年間ヒットチャートで1位の大ヒットになりました。当時と現在は、歴史的な転換期・混迷期という意味で状況が似ているかもしれない。こういう時代に、由紀さおりの透き通った歌声がハマるのでしょう。言葉の壁を越え、世界中の人々に癒やしを与えているのだと思います」(音楽情報誌ライター)
 ル~ル~ルルル……。

(日刊ゲンダイ2011年11月10日掲載)

映画「日露戦争と乃木将軍」と桑田宗太郎

2011年11月07日 13時17分45秒 | 音楽・映画

  昨日、親戚の結婚式に出席して、珍しい人達に会い、急に「祖父」のことを思い出した。

 もう50年も前になってしまうが、小さな頃、父親に連れられて「日露戦争と乃木将軍」という映画を見た。モノクロの画面で映画が始まり、「制作・企画 桑田宗太郎」という名前が見えた。それが私の父の育ての親だった。映画のプロデューサーのようなことをしていて、一時はすこぶる羽振りがよく、豪勢に遊んだ人だったらしい。

 ところが、昭和35年(1964)前後を境にして、映画産業は急速に衰退していく。借金に借金を重ねた「祖父」は、周囲に大いに迷惑をかけたらしい。私の記憶する限りでは、映画業界人らしく大言壮語を吐き、最後までダンディーで、商売人タイプの人だった。


記録映画「日露戦争と乃木将軍」(宝映作品 1958年)

 ネットを検索して見つけた「日露戦争と乃木将軍」のビデオ(上記写真)。実は劇映画ではなく、ドキュメンタリー映画なのだ。嵐寛寿郎が主演していた新東宝映画ではない。当時、大人の間では、まだ戦争体験が生々しかった。映画がすすむにつれて、観客の中から「そうだ。うちの親父はこうやって戦ったんだ」という合いの手を打つ声が聞こえたことを子ども心にも覚えている。

 いま、Yahooオークションを見たら、何とこのビデオが見つかった。800円で落札! 現品が届いたら、HDD、DVDに保存しておくつもり。

 この祖父は、「愛は鉄窓を越えて」(1957)という映画※も作ったようだ。見たこともないけれど…。
 ※ http://www.japanese-cinema-db.jp/details/6843

 
 ちなみに、桑田宗太郎の四人の子どものうち、二人は父親の生業とは対極に位置する歴史教師となった。その一人、私の叔父は年老いたとはいえ、まだ健在だ。ぜひ、このビデオを見せたいと思う。

 このようにして身近な記憶さえ、時は忘却の彼方に押しやっていく。