澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

松任谷由実&クレージーキャッツ

2007年12月31日 12時09分52秒 | 音楽・映画


クレージー・キャッツとユーミン(松任谷由実)が歌う「Still crazy for you」をある番組で聴いた。この曲の存在さえ知らなかったのだが、2006年4月に限定盤としてリリースされたようだ。こんな記事を見つけた。

■クレイジーキャッツ20年ぶりの新曲誕生!!   クレイジーキャッツとしては、結成30周年の1986年にリリースされた「実年行進曲」(作詞 :青島幸男、作曲/編曲:大瀧詠一、原編曲:萩原哲晶)以来、20年ぶりの新曲が誕生。
50年記念シングルの今作は、ヴォーカル/作詞/作曲:松任谷由実、プロデュース&アレンジを松任谷 正隆が手がけており、新曲でありながらも往年のジャズスタンダードのような品格を漂わせている。
また、最新のレコーディング技術により、今は亡きクレイジーキャッツのメンバーであるハナ肇のドラム、安田伸のサックス、石橋エータローのピアノを過去のライヴ音源からサンプリング。クレイジーキャッツ全員が曲中で共演するという感動的な演出が施されている。
■20,000枚生産限定(限定盤)スペシャル仕様!!限定盤は、10inchアナログ・ジャケットにCD+DVD(プロモーション・ビデオ&貴重なレコーディング映像収録)という、コレクター心を激しく刺激するスペシャル仕様で登場!!マストバイ・アイテムになること必至。

実際のヴォーカルは、ユーミンと谷啓だけだが、曲の途中でユーミンと植木等のトークとなり、「…お呼びでない? これはまた失礼いたしました!!!」といういつものギャグが飛び出してくる。
今年は植木等が亡くなり、残るクレージーキャッツのメンバーは、3人のみ。TVで見られるのは、谷啓のみとなった。

この曲はCD-Rに録音したが、DVDも見たいものだ。amazonの中古市場で探さなくては…。

 


1円パチンコのウラ側

2007年12月30日 02時08分15秒 | Weblog

近くのパチンコ店が「1円パチンコ」を始めた。現行の貸し玉が4円なのに対して、「1円パチンコ」は1球が1円。ギャンブル性が低く、長時間遊べるというのがキャッチフレーズのようだ。

最近のパチンコ店を覗いてみると、中高年がやたらと目立つ。ウィーク・ディの昼間は年金生活者か主婦のたまり場のようで、夕方になっても30ー40代のサラリーマンはそれほど多くない。これからのパチンコ産業を暗示するかのような光景だ。

 現行の「4円パチンコ」は、当地域の場合、換金すると3円になる。最初から25%を胴元に取られている勘定になるが、競馬などの公営ギャンブルも同じことが行われている。ただし、パチンコには、それ以外に不透明な部分が多い。先日、神奈川県警がパチンコ店の遠隔操作を摘発した。店のカメラで客を監視し、常連客にはリモコンで「大当たり」を出していたのだ。この映像は、TVのニュースでも放送されたので、多くのパチンコ・ファンが「やはりそうか」と思ったのではないか。

 つまり店は、胴元としてあらかじめ取る分の他に、機械操作で「大当たり」を制御できるということだ。これと思う客には「大当たり」を当てさせ、次の来店を促すという算段だ。これは、完全なる違法行為なのだが、警察はあまり熱心に摘発をしていない。 現在のパチンコは「大当たり」を引き当てなければ、30分で1万円はすぐに無くなってしまう。まさに「駅前ギャンブル場」なのだ。
1円パチンコは、ギャンブル性が高すぎるという批判に応えるために出現したのだが、結局は失敗するだろう。なぜなら、パチンコ依存症患者には、ちっとも面白くないからだ。

 それにしても、若い人がパチンコをしなくなったのは何故か。パチンコ以外にもたくさん楽しみがあるので、たばこの煙が立ちこめた不健康なイメージが嫌われたのではないか。このままでいくと、パチンコ産業の衰退に歯止めがかからなくなるのではないかと思われる。


ブット元首相の死

2007年12月28日 00時47分35秒 | Weblog

ブット元首相が凶弾に倒れた。
長い亡命の後、祖国に帰って政治活動を再開したばかりだったが、テロリストによる攻撃が危惧されていた。
パキスタンはイスラム国家。イスラム社会で女性が首相まで登り詰めた例は、ブット氏だけである。彼女の経歴を紹介すると、次のとおり。

 ブット氏は1953年6月21日、アリ・ブット初代首相の長女としてカラチで生まれた。69~77年に米ハーバード大と英オックスフォード大に留学。77年の軍部のクーデターで自宅に軟禁され、その後、英国へ亡命。86年に帰国し反政府運動を展開した。88年11月、ハク大統領の死亡に伴う民政復帰選挙でブット氏率いるパキスタン人民党が勝利。同年12月に35歳でイスラム教国家初の首相に就任した。

 90年8月、当時のカーン大統領に首相を解任された。93年に一時首相に復帰したが、96年に再び解任された。99年には汚職などで禁固刑の判決を受けたが、服役を拒否して出国。今年10月18日、8年半ぶりに帰国していた。

テロの背景についてはまだ分からないようだが、ブット氏が生命をかけて民衆の中に入っていく最後の姿は印象的だった。
イスラム国家の後進性、野蛮さなどをあげつらう気持ちにはとてもなれない。現地には、日本で念仏のように唱えられている「平和」や「人権」という言葉を超えた壮絶な何かがあるのだろうから。

 



 


東京に23区は必要なのか?

2007年12月27日 12時19分57秒 | Weblog
久しぶりに東京都内を訪れた。
タクシーに乗ったところ、ちょっとした距離なのに、3つの区を通過した。町村合併が続いた田舎では、考えられないことだ。

東京の区は「特別区」。他の都市の行政区とは異なって、区議会を持つ独立した自治体である。東京都は、本来市町村税である固定資産税等を都税として徴収し、23区に配分している。「都区財政調整制度」というものだ。これが国から地方に配分される「地方交付税」のような役割を果たしていて、富裕区(千代田、港区など)と貧困区(中野、足立区など)とのバランス調整をしている。

地方交付税の削減で地方の町村合併が急速に行われた現在、東京都の特別区が23もあることに、ほとんどの人が異論を唱えないのは何故なのか不思議でならない。
区役所・区議会が23も本当に必要なのか? 何しろたった数百メートル歩いただけで、他の区に入り込んでしまうというような大都市地域なのだ。実感としては、東西南北にひとつずつ、合計4区で十分だろう。

区の合併案もいくつかあるようだが、いずれも区議会の抵抗が強いようだ。そのへんの商店主の親父さんが、「議員先生」になれるチャンスが減ってしまうのだから…。
区役所の職員は、ポスト削減に戦々恐々とするだろう。

それでも、何らかの統合は必要だろうね…。海も山もある我が故郷からすれば、いまの特別区はあまりに不自然(自然がないという洒落でもあるが…)だ。

官僚は優秀か!?

2007年12月26日 12時15分23秒 | 社会
日本テレビ系列「爆笑問題の証人喚問!!」の中で島村宜伸・元農林水産大臣が官僚擁護の発言をしていた。役人バッシングが目的であるかのような番組に出演して、攻撃を一身に浴びるのを覚悟しての発言だった。
「官僚は優秀である。現状分析能力に優れ、将来構想もしっかりとたてられる。」という趣旨であったが、この発言に対しては「東大を出ていれば優秀なのか」というような見当違いな罵倒が浴びせかけられた。

島村氏は、現状の官僚制度では「天下り」は必要だとする。同期に事務次官が誕生すれば、肩たたきが行われる。55歳くらいの話だ。そこで何らかの転職斡旋がなければ、その後の生活設計は成り立たない…。

これに対して、「転職さがしは自分ですればいい」(山本モナ)、「民間に行っても使いものにならない」(守屋・元防衛事務次官と対立関係にあった同期)などから厳しい声があがった。TV受けを狙うか、あるいは意趣返しのような発言に対して島村氏は、官僚の働きをもっと正当に評価するようにと発言していた。

多分、不況下のうっぷん晴らしにこういう番組が組まれるのだろう。当該番組の前には「報道特捜プロジェクト 責任者出てこい!」いう、さらに「ポピュリズム」(大衆迎合)の極致のような番組が放送された。表だって反論できない公務員という職業を狙うのは、極めて卑劣な行為と言わなければならない。

公平性、中立性を保たなければならないが故に、公務員の言動には一定の制約が設けられる。それをいいことに「税金泥棒」呼ばわりをするのはどういうことなのか。番組の制作者は「国家公務員法」「地方公務員法」のエッセンスくらいは読んだらどうなのか。自分たちは「報道の自由」とやらを建前にして、こんな恥知らずの番組を作っているという”後ろめたさ”はないのか!?

番組上ではコケにされた島村氏の発言だが、視聴者の中には静かな賛同の波が起こったと信じている。
東大法学部の成績上位100人が、ほとんど国家公務員試験を受けなくなったという報道が最近あった。長期的に見て、これは憂うべき事態だと思われる。
TV局の人事採用をみると分かるのだが、半分以上がコネ採用で、残りわずかが東大、京大などの実力組だ。国家公務員は、何のコネが無くても(門戸を問わず)、優秀であれば採用されるのだ。その原則まで否定するかのような、「民間優位論」などはペテン師の妄言に過ぎない。日本テレビの社員だって、かなりの数が政治家の息がかかった連中ではないのか!私の知り合いも政治家の肝いりで某通信社に入社している。

”嫉妬”と”怨念”で塗り固められ、”高貴なる精神”が失われた社会は、必ず衰退していく…。


オスカー・ピーターソン死去

2007年12月25日 14時42分08秒 | Weblog

ジャズ・ピアニスト、オスカー・ピーターソンさんが亡くなった。82歳。
早くして世を去るジャズマンが多い中で、彼は家族に囲まれ、恵まれたかたちで天寿を全うした。

ピーターソンのアルバムで最もよく聴いたのが、「ウェスト・サイド物語」だ。「トゥナイト」も「マリア」もこのアルバムでメロディを覚えたほどだっだ。
彼の演奏には「テクニック過剰だ」という「通」ぶった批判も多く、ジャズ喫茶などで彼のアルバムをリクエストするのは、何となく勇気の要ることだった。

ジャズもかつてのような力を失い、細々と続いている印象を受ける。ピーターソンの死が、こういう傾向をさらに加速させるのかも知れない。

【12月25日 AFP】世界的なジャズ・ピアニストで作曲家のオスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)氏が23日、腎不全のためトロント(Toronto)近郊ミシサーガ(Mississauga)の自宅で死亡した。カナダ放送協会(CBC)とラジオ・カナダ局(Radio-Canada)が24日、報じた。享年82歳。
  20世紀音楽界で最も偉大な巨匠の1人だった。約60年におよぶ演奏生活で数多くの巨匠と共演。チャーリー・パーカー(Charlie Parker)、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)、デューク・エリントン(Duke Ellington)、カウント・ベイシー(Count Basie)、ナット・キング・コール(Nat King Cole)、スタン・ゲッツ(Stan Getz)など、そうそうたる名前が並ぶ。
 ブギウギからストライド、ビバップに至るまで、ピアノ演奏スタイルは多岐にわたり、生涯でレコーディングしたアルバムは200枚近く。その中で最も有名なものは、1964年の『カナダ組曲(Canadiana Suite)』だろう。収録された8曲すべてが、故郷への思いから作られたものだ。グラミー賞を個人で7回受賞、1997年には生涯功労賞も授与された。
 即興の天才でもあるピーターソン氏は2005年、観客の前で自由なスタイルでジャズを演奏するときの情熱が「素晴らしい美の瞬間」を与えてくれると語っていた。
 ピーターソン氏は晩年、関節炎や健康状態の悪化と闘っていた。1993年にはニューヨーク(New York)のブルーノート(Blue Note)での公演中に脳溢血で倒れ、左手が不自由になったが、その後もレコーディングを続けた。ジャズ番組の司会などを務めたロス・ポーター(Ross Porter)氏は、右手だけでもピーターソン氏は「他の誰よりもはるか先を進んでいた」と語った。 「わたしの考え方には、年齢はそんなに影響しないと思う。楽器や仲間に対する愛情がわたしを若返らせてくれる」と、ピーターソン氏は2001年のインタビューで語っている。
 


山田優の「世界の果てツアー」

2007年12月24日 11時45分22秒 | マスメディア
昨日、日本テレビ系列で放送された「世界の果てツアー」を見た。
モデル&タレントの山田優が、南米ベネズエラにあるギアナ高地のテーブル・マウンテンからハングライダーで飛行するという。

テーブル・マウンテンにあるエンジェル・フォールは、標高差979mもある滝で、その水は落下途中で拡散してしまい、地上には届かないほどだ。かつてNHK特集が「ギアナ高地」と題して、テーブル・マウンテンの自然環境について放送したことがあるが、ハングライダーで飛び降りることができるなど、想像もつかない壮絶な地形だった。

そこを山田優たちが飛び降りるというので、興味津々で見ていた。彼女たちは怖がることもなく、喜々として飛行を楽しみにしているようだった。
ところが、天候不順でテーブル・マウンテンまで行くヘリコプターが飛べず、待機となった。帰国までの時間はあと3時間だという。

結局番組は、霧の合間にヘリコプターでテーブル・マウンテンに登り、その景色を紹介するだけにとどめた。断崖絶壁から見下ろすエンジェル・フォールや、それに続くジャングルは壮観だったが、肝心の飛行は行わなかった。
疑問に思うのは、こんなところからハングライダーが飛び降りられるのかということだった。うっそうとしたジャングルには、降り立つ空き地も見当たらないし、サポート隊さえ入り込めないところばかりなのだ。

そこで気付いたのは、この番組は「新手の偽装」ではないかということ。初めから誇大表示をして、客を呼び寄せ、結局はお茶を濁すという手法だ。夜祭りの見世物小屋のようなものだ。そう考えれば、山田優がちっとも怖がっていなかった理由が分かる。
現地住民が「悪魔の山」と呼び恐れた「テーブル・マウンテン」から、いとも簡単に素人が飛行できるわけはないだろう。

これは日本テレビの「偽装表示」なのか?!

大家友和はエライ!

2007年12月23日 14時50分53秒 | Weblog
大リーガー・大家友和投手のドキュメントを見た。(「サンデー・プロジェクト」)
今シーズンは不調で、大リーグから3Aに降格させられたが、大リーグへの復活を信じてトレーニングを続けている。

この大家投手、地元には実業団チームを作り、昨年だけで3千万円も自腹を切っている。また、シーズン・オフには施設の子ども達をアメリカ・ツァーに招待して、励ましている。
こんなことをするにも、家が貧しく、家族に助けられて野球を続けることができたと考えているからだ。実兄が高校の学費をすべて捻出したという。強い家族の絆が彼を支えてきたのだ。

私の近親者には、実家の墓が有名な寺にあるということから、財産分与で墓をよこせという要求を突きつけてきた者がいる。こういうすれっからしに、ぜひ、見せたい番組だった。


忘年会

2007年12月21日 15時36分51秒 | Weblog
この冬2度目の忘年会に行った。

先日、新聞で読んだが、JRの泥酔者用の収容施設が今年限りで廃止されるそうだ。最近は正体をなくすまで酔っぱらう人がいなくなったとか。

2時間飲み放題つきで、「ふぐ」料理を食べた。ビールをたくさん飲んだ後、ひれ酒2杯を飲んだ。
それぞれ大変なことが起きた1年だったが、話題は旅行のことに留まった。来年、みんなでまた旅行に行こうという話。行き先は、トルコを筆頭に、北部タイ、あるいは台湾(台湾新幹線に乗る)が候補になった。
北京、アンコールワット、台北・花蓮~これまで一緒に行ったところだ。みんな元気ならば、次の旅行も必ず実現するだろう。

帰りのバスでは、酒が効いていて、眠り込んでしまった。気が付くと家の前、そこには現実が待っていた。

舛添さんがラテン風に生きろだって?

2007年12月20日 10時37分59秒 | Weblog
舛添要一厚生労働大臣が「老後はラテン風に楽しく生きるべきだ…」と言ったとかで批判されている。

これまでの舛添の生き方はラテン風そのもの。3回も結婚し、女性の噂には事欠かない。実姉とは母親の介護を巡って絶縁している。その激しさや”情熱”は、ラテンの血を引いているかのようだ。
本当は九州の頑固者「無法松」の血をひいているんですがね…。

大臣になって、マスコミから枝葉末節なことでも叩かれるようになった舛添さん、いままでどおりに威張りちらしていられるのかどうか、みものです。

衛藤瀋吉氏が死去

2007年12月18日 12時05分13秒 | 社会

元東大教授・衛藤瀋吉氏(中国政治外交史)が亡くなった。84歳。戦争、学徒出陣を経験した世代が次々と去ってゆく…。

この人の言動はいつも刺激的だった。

「東アジア国際関係史」という講義では「立教大学の野村浩一君は漢文があまりできない」と言うように、しばしば同僚学者の批判をした。京都大学の矢野暢教授(当時)※に対しては、書評に「ハンサムな彼には…私など敵わない」というような書き方をしたので、これは何のことだろうと思った。その後、矢野教授はパワー・セクハラの先駆者として京大を追われ、異国で寂しく客死した。矢野氏の女性問題を暗示するように、こういう表現を使ったのだなと知った。
 (※ 余談だが、矢野暢教授は、クリームシチューの有田哲平の叔父だった。)

TVの「朝まで生テレビ」に出演した時には、女性タレントの連ほう(現・民主党議員)が「日本では大学院に行っても受け入れてくれる企業がない」という発言をしたのに対し、「学問は結果を求めてするものではない」と一喝した。

著書「日本の進路」の前書きに書かれていることだが、衛藤氏は千葉医大(現・千葉大学医学部)を受験したが、もっと世の中に役立つことをしたいと考え、白紙答案を出したという。東大法学部を志したのはそのためなのだそうだ。子息の衛藤光氏が医師と思われるのも、こういう父親の影響を受けているに違いない。

70年代には、中国高官の前で「蒋介石もまた愛国者であったと言えるかも知れない」と発言して、中国側の激怒を買った。「中華愛国主義」を唱える現在の中国を見通したかのような発言だった。
東大を退官して青山学院大学教授になったときは、青学教授達が行う「学内政治」に呆れて苦言を呈したこともあった。「もっと学問に専念せよ」と。
その後、亜細亜大学学長となって、あの「一芸入試」を実施した。「冒険家」の野口健などは、これで有名になった一人だ。

ちなみに、衛藤瀋吉氏の父親は、旧満州国の奉天(瀋陽)図書館長だった。「瀋吉」という名前の由来でもある。

一見、傲岸不遜でイヤなタイプに見える人だったが、終始一貫したものを持っている人でもあった。
こういう世代が次々と去っていく…。



南京事件から70年~筑紫哲也ニュース23の報道姿勢

2007年12月18日 00時29分08秒 | マスメディア
「筑紫哲也ニュース23」が「南京事件から70年~元日本兵が見た”あの日”」という特集を放送した。
三谷さんという元兵士が、南京事件の生き証人として、南京に行き中国人学生の前で”謝罪”するまでのプロセスを描いている。

もちろん、私も虐殺が全くなかったなどとは思わないが、今この時期にこういう番組を流すのは、どういう意図なのだろうか。それとともに、三谷さんという人を担ぎ出した”市民活動家”という存在が気になるのだ。
三谷さんは中国人の前で「日本帝国主義の侵略兵士として事件を目撃した」と語っていた。こういう表現自体が、その証言の信憑性を疑わせるものなのだが、本人は全く気付いていない。すでに「市民活動家」のイデオロギーに取り込まれているかのようだ。

約30年前、私は南京を訪れたことがある。「30万人虐殺」という歴史の墓標を背負ったかのような気持ちだったが、当時の中国側は、現在のような対応ではなく、日本帝国主義と日本人民を峻別するという立場だったので、ふつうの日本人としては”救い”のようなものがあった。

現在、中国の立場は「中華愛国主義」というべきものだ。一般国民には「小日本」などたいしたことはない、という宣伝を繰り返している。
こういう中国の立場を日本側から支援・応援するというのが、この筑紫哲也の番組の目的ではないのか。番組の最後には、申し訳程度に「30万人虐殺には疑問の声もある」と触れていた。
そんな姑息なことをするよりも、市民活動家という人の詳しい素性を教えてほしいものだ。実は、その人が「市民活動」を自称する「反日プロ活動家」であれば、今回の特集自体の前提そのものに疑問符がつくのだから…。


小さな木の実

2007年12月17日 01時31分28秒 | 音楽・映画
ずっと前、NHKの「みんなの歌」で放送された「小さな木の実」という曲が気になっていた。ビゼーの歌劇「美しきパースの娘」のアリアに詞をつけた曲だ。
YouTubeで検索すると、2種類の映像が登録されていたので、懐かしく見た。こういうとき、YouTubeの威力を感じる。

原曲を探そうと、いろいろ探してみたが、未だ見つかっていない。「美しきパースの娘」のCDは、何種類か出ているが、このメロディがあるとされている「セレナーデ」「アリア」を聴いてみても、原曲は見つからないのだ。昨日もエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団のCDを聴いてみたが、「セレナーデ」の中には出てこなかった。不思議なことだ。

どなたかご存じの方がいたら、お教え願いたい。

銃規制は必要か~佐世保乱射事件

2007年12月16日 18時20分58秒 | Weblog

次の記事を読んだ人は今回の事件をどう感じるのだろうか。

 長崎県佐世保市の散弾銃乱射で8人が死傷した事件で、馬込政義容疑者(37)宅の近所に住む会社役員の男性が同容疑者の散弾銃所持を問題視し、県警に相談していたことが15日、分かった。最寄りの交番や知り合いの県警幹部に伝えたという。県警は「銃刀法に基づき審査しており、適切な許可だった」と説明している。
 馬込容疑者は散弾銃3丁と空気銃1丁を所持。佐世保署は2002年7月から今年9月にかけ、同容疑者の申請を受け、各銃の所持を許可した。
 この男性によると、馬込容疑者の日ごろの様子をおかしいと感じていたが、4~5年前に同容疑者の銃所持を知り、「許可に問題がある」と近くの交番に相談。警察官は「答える筋合いはない」と言って応じなかった。
 その後、知人の県警幹部にも電話で相談。この幹部は「対応しますから」と言ったという。 

ほとんどの人が「警察は何もしてくれない」と思うのではないか。TVのワイドショーでは、早速キャスターが警察批判のようなコメントをしていたが、事はそんなに単純なのだろうか?
もし警察が「様子がおかしい」ことを理由に銃の所持を取り消すことができるのなら、それにたいして「警察権力の濫用」という批判が起こることは間違いない。「銃刀法に基づく適切な許可」だったとする警察の主張は、法治国家である限り認めなければならないはずだ。

明日のワイドショーで「みのもんた」が、何と言うか注目だ。「全く警察の奴らは…」とまでは言わないだろうが、何か見当違いな事を言うだろうと想像できる。
不景気でうっぷんが溜まる年末、警察や公務員ばかり批判攻撃しないで、マスコミ連中のいい加減な報道を注視すべきだろう。

 

 

 


 

 

 


瞳を閉じて~歌が生まれた島で

2007年12月15日 12時26分53秒 | 音楽・映画

NHK・TVで「新日本紀行ふたたび」を見た。今回は「歌が生まれた町で~長崎県奈留島」だった。

荒井由実の「瞳を閉じて」は、この島の高校の愛唱歌。31年前、ユーミンがこの高校の生徒の手紙に応えて作曲した。昔の映像と現在の姿を交互に取り上げ、静かに時の流れを映し出す。NHKでなければできない、心に残る番組だった。

《NHKによる番組紹介》

新日本紀行ふたたび~NHKアーカイブス~「歌が生まれた島で~長崎県奈留島~」 長崎県奈留島にある高校では、生徒の手紙に応えてユーミンがつくった「瞳を閉じて」が愛唱歌となっている。島を出た人へむけられたこの歌をめぐる地元の人々の思いを描く。

 長崎県奈留島にある高校に一つの歌碑がある。“ユーミン”こと松任谷由実の「瞳を閉じて」。昭和51年の新日本紀行では、1人の女子生徒が出した手紙に応えてユーミンがこの歌をつくり、高校の愛唱歌となるまでが描かれた。あれから31年、奈留島は漁業の衰退で人口が3分の1に減り、高校の卒業生はすべて島を出て行くようになってしまった。島を出ていった人への思いを歌った「瞳を閉じて」をめぐる、地元の人々の思いを描く。