澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「昭和天皇」(原武史著)を読む

2016年03月24日 05時14分08秒 | 歴史

 「昭和天皇」(原武史著 岩波新書 2008年)を読む。本書のデータベースには次のように紹介されている。

 「新嘗祭、神武天皇祭など頻繁に行われる宮中祭祀に熱心に出席、「神」への祈りを重ねた昭和天皇。従来ほとんど直視されなかった聖域での儀礼とその意味に、各種史料によって光を当て、皇族間の確執をも視野に入れつつ、その生涯を描き直す。激動の戦前・戦中から戦後の最晩年まで、天皇は一体なぜ、また何を拝み続けたのか

昭和天皇」(原武史著 岩波新書 2008年)
 
 つまり、 本書は「政治史とは別の天皇像」を描いている。以前、「天皇の玉音放送」(小森陽一著 2003年)を読んだとき、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下で日本全土が焦土と化し、百万人近い命が失われてもなお、「三種の神器」「国体」の護持に拘泥する昭和天皇の言動を知って、正直、おぞましい気持ちになった。「昭和天皇実録」などの公文書をつなぎ合わせた従来の昭和天皇論は、左翼学者が退潮傾向にある今、「平和を愛好する昭和天皇」を強調する傾向が強く、その戦争責任を改めて問うというような論調は極めて少ない。だが、宮中祭祀を中心に昭和天皇の姿を描き出した本著は、明治国家あるいは近代日本の実態を暴き出す。それは、古代呪術国家に西欧式の近代国民国家を「接ぎ木」したようなものだったと。

 この本に描かれた貞明皇后の「神がかり」の姿は、そのことをよく示している。昭和天皇はこの母親とは確執があったというのだが、念頭には「皇祖皇統」「国体」しかなく、国民ごときは「民草」に過ぎず、全く二の次だったという点では、まさに似た者親子だった。

 このブログには何度も書いているが、戦後になってもなお、昭和天皇はその本心をうかがわせる発言を繰り返してきた。1975年10月米国から帰国後の記者会見で原爆投下に関して問われて「戦争であるから、やむを得なかった」(下記映像参照)と応え、戦争責任については「そういう文学方面のことは、あまり研究していないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」とはぐらかした。「戦争責任」が「文学方面」だと…絶句するほかはない。さらにまた、昨年7月公にされた史料では、1971年国連の中国代表権問題に関して、佐藤栄作首相に「蒋介石を支持するように」と指示したことが明らかにされた。これは昭和天皇が、戦前戦後かかわりなく、「内奏」という行為を通じて、その影響力を現実政治に行使してきたことを示している。

 近未来、日本あるいは日本周辺に有事が起きたとき、戦後民主主義の「虚妄」(丸山真男)が完全に打ち捨てられ、古代国家の呪術が息を吹き返す。「曖昧な国 日本」ならではだが、決してありえない話ではない…と思う。
 個人的には賛同する「安保法制」だが、一面の危惧を感じる所以でもある。 


 

 

 


高雄・旗津半島を散歩

2016年03月20日 22時35分05秒 | 台湾

 ちょうど一週間前の日曜日(13日)、台湾・高雄の旗津地区を散歩。
 高雄港のフェリー(20元)に乗って、対岸の旗津半島まで10分足らず。私は二度目、家人は初めての旗津だった。

 家人は旗後天后宮旗後灯台のような歴史建造物よりも、まるで「ブラタモリ」のタモリのように、海岸にある崖の地層に興味を抱いていたので、撮った写真は奇妙なものが多くなった。
 昨年末、夕日が素晴らしかった旗津の砂浜は、今回は雨の中を駆け抜けるありさまだった。島の片隅には国府軍(中国国民党軍)が構築したトーチカの残骸が散在し、つい最近まで戦時体制にあったことを思い出させた。日本統治時代に作られたトンネルを抜けると、半島の反対側に。そこからは、対岸の高雄市街、国立中山大学などの文教地区などが見渡せた。そういえば、台湾映画「百年恋歌」(「最好的時光」2005年)の冒頭では、旗津に渡るフェリーボートが印象的だった。

 「大陸反攻」を掲げた蒋介石時代には、一般市民が沿海部に近づくことは長い間禁じられたという。いろいろなことを思い出しながら、小雨の旗津を彷徨った。


  

《百年恋歌(最好的時光)2005年》より


台湾糖業博物館再訪

2016年03月20日 05時53分50秒 | 台湾

 2013年12月、台湾人のCご夫妻に案内されて、友人たちと訪れた台湾・高雄の台湾糖業博物館。そのことはこのブログにも書いたことがある。
 
 先週の日曜日(3月13日)、今度は家人を連れてこの博物館を再訪した。現在は博物館だが、日本統治時代に作られた台湾製糖株式会社の高雄工場で1990年代までは稼働していた製糖プラント施設だった。前回は管理部門(事務棟など)の施設が開放されているだけで、工場施設は立ち入ることができなかったが、今回は工場内部にも参観コースを設置。工場周辺には公園風の施設も設けられて、歴史博物館の趣を新たにしている。

 台湾に製糖業を根付かせたのは、「武士道」の新渡戸稲造。彼は、農学者でもあったから、1901年台湾総督府に招かれて、台湾糖業の将来展望を描いた。
 彼の胸像は「台湾糖業の父」と説明がなされて、次のような場所に建っていた。

「台湾糖業の父」新渡戸稲造の胸像(2013年12月撮影)

 計器類等の展示室に飾られていたのだが、今回行ってみると、その展示室はカフェに変身。新渡戸稲造の胸像は、その入り口に少し場違いな感じでおかれていた。

いま、新渡戸稲造はカフェの入口に。(2016年3月13日撮影)



 前回、Cさんに新渡戸稲造のことを尋ねたら、その存在をご存じなかったから、日本の五千円札になった人と説明したら、驚いていた。

 
糖業博物館の入口            台湾製糖会社の事務室
 

参観できるようになった工場施設 


公園部分は花が満開だった     聖母観音像(日本時代のもの)


和風建築の社宅(写真は工場長用
)    「仙草凍」で一息


製糖工場内には鉄道の引き込み線。日本統治時代のSLが保存されている。


花の名前は分からなかったが、南国の鮮やかさが印象に…

 
この「台湾糖業博物館」は台湾鉄道(臺鐡)あるいはMRT(地下鉄)紅線(Red Line)の「橋頭糖廠駅」下車で、駅の目の前に見える。というのも、橋頭糖廠駅は地下駅ではなく、地上駅なので。高雄駅からおよそ25分くらい。半日たらずで、十分見学できる。高雄を訪れたら、ぜひとも…。


高雄市立歴史博物館で「二二八事件」展示を見る

2016年03月19日 14時12分36秒 | 台湾

 先週末から今週初めまで、台湾の結婚式に出席するため高雄市を訪れた。昨年末、台湾最南端の鵝鑾鼻(がらんび)岬に行くために来たので、三か月ぶりになる。

 8年ほど前、高雄市立歴史博物館(旧・高雄市庁舎)を訪れたときは、館内整備中とのことで、中には入れなかった。この建物は、日本統治時代の1939年、当時の高雄市庁舎として建設され、1992年まで高雄市庁舎として使用された。それ以降は、市立歴史博物館として使われている。


「1939年 昭和十四年 市役所建立」と書かれた館内の案内表示

 今回たまたま、この高雄市立歴史博物館では「二二八事件微縮模擬場景 二二八 0306特展」という展示会が開かれていた。この博物館は、美しい愛河のほとりに位置して、今は市民の散歩コースになっているのだが、「二二八事件」では壮絶な殺戮の場と化した。
 まず、現在の歴史博物館を正面から撮った写真を見ていただきたい。

高雄市立歴史博物館(旧高雄市役所庁舎)の正面 2016年3月12日撮影

 1947年2月28日、中国国民党(蒋介石)政権は、台湾人の知識人・指導層を狙って政治弾圧を開始した。台湾全土で、何の法的理由、法的手続きもなく、三万人近い台湾人(台湾の日本語世代)が虐殺された。これが「二二八事件」だが、高雄市においても例外ではなかった。高雄における虐殺現場が、まさにこの市役所前広場だったという。「微縮模擬場景」という展示は、その情景をジオラマ式に次のように展示している。


二二八事件(1947年)における高雄市庁舎前の殺戮(「微縮模擬場景」展示)


蒋介石=国民党軍が行った「二二八事件」の虐殺を描いたイラスト絵


展示会のパンフレット

 
この「二二八事件」(1947年)は当時、GHQ統治下にあった日本には詳しくは伝わらなかった。実は、今なお、台湾人(本省人)の多くが「親日的」であるという事実の背景には、この事件の記憶が横たわっている。台湾では、李登輝氏が登場する1980年代後半になるまで、「二二八事件」の存在を口にすることさえできなかった。今から30年前、まだ多くの日本語世代は各界で活躍していたから、中国国民党一党独裁に対する憤りと、日本統治時代に対する肯定的評価が、実感として社会の隅々に潜在化していたに違いない。李登輝総統の登場による台湾の民主化が、一気にその感情を顕在化させたのだと言えるだろう。
 東日本大震災時、最大の義援金を届けてくれたのが台湾だった。「悪いことばかりした日本」のはずなのに、かくも温かい支援が届いたのは何故なのか。この肝心な点に、マスメディアは全く触れなかった。その理由は、「中国はひとつ」「台湾は中国に属する」とする中共(中国共産党)の教条に逆らえず、「親日的台湾」に言及すれば
中共の逆鱗に触れることを恐れたからだ。TV番組では「日本統治時代、日本は台湾の近代化に大きく寄与した」という事実に触れるのは、暗黙のタブーになっているはずだ。

 繰り返しになるけれども、誰がいったい旧宗主国(日本)の建物に、旧宗主国の年号(昭和)で建立年を記すだろうか?中国が、韓国が、北朝鮮は…!?台湾をおいて他には考えられないではないか。台湾(中華民國)がいかに「親日的」であるかを示す実例なのだが、昨年7月、耳を疑うようなニュースが伝えられた。
 それは「1971年、国連における中国代表権問題に関連して、
昭和天皇が佐藤栄作首相に”蒋介石を支持するように”と伝えた」というニュースだった。ここには、二つの問題が存在する。

①日本国憲法では禁じられているはずの政治的発言を昭和天皇が平然とおこなっていたこと、
②昭和天皇は、自分の「命の恩人」である蒋介石を守れと言いながら、その蒋介石に無残に虐殺されたかつての「わが臣民」「わが民草」(=すなわち、日本統治時代を経験した台湾人)については、一顧だにせず、その酷薄さが明らかになったこと。

 このニュースを聴いた、台湾の日本語世代(もう85歳以上になったご老人たち)は、何を思っただろうか。この昭和天皇の言動は「昭和」の年号を肯定する台湾人の心情を踏みにじるものではないのか。そのことを考えると、日本人が誤魔化してきた戦争責任の問題に改めて踏み込まざるを得ない気がしてくる。
 上記のことは、ほとんどの人が言及しないのだが、ここで触れておく。


かつての国民学校の授業風景。「大東亜共栄圏」と書かれている。(館内展示)

 旧高雄市役所であった歴史博物館の建物は、堅牢かつ質実剛健の趣。台湾を訪れ、日本統治時代の歴史建造物を見るとき、いつも近現代史を顧みる必要性を実感する。
親日的」な台湾・台湾人がいつまでもこのままではありえないのだから、せっかくの友好を続けるためにも、
歴史をありのままに直視すべきなのだろう。


 日本統治時代の高雄市役所(高雄市立歴史博物館発行の絵葉書より) 


階段の手すりには「桜」の文様が使われている。(右下)


愛河(Love River)のほとり(写真右)に歴史博物館がある

 


《高雄市立歴史博物館HPより「二二八事件」展示部分を転載》

國內首見的二二八事件微縮模擬場景-二二八.0306特展 Home > 訊息園地 > 媒體專區
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國內首見的二二八事件微縮模擬場景-二二八.0306特展


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二二八事件堪稱是台灣史上最重大歷史事件之一,不僅奪取了無數民眾的身家性命,造成族群間的裂痕,也嚴重地傷害了倖存者與受難者家屬的心靈。經過這麼多年,亦適逢二二八事件65週年,也讓我們反思紀念這段歷史的時代意義。今(101)年高雄市二二八和平紀念活動以《愛的進行式》為主題辦理一系列的228和平紀念活動,以表示仇恨無法長久,唯有愛能包容一切。
高雄市政府今日(28日)在高雄市二二八和平公園舉行「2012年高雄市二二八和平紀念追思儀式」,市長陳菊、文化局局長史哲、及高雄市二二八關懷協會理事長凃世文等高雄市二二八事件受難者本人與家屬皆到場參與。追思儀式在世紀少年兒童合唱團演唱的〈平安.台灣〉、〈美濃山歌〉、〈原住民組曲〉等樂曲中展開。在全場默哀一分鐘後,並由高雄在地傑出的南風劇團帶來以作家胡長松先生作品《槍聲》改編之同名行動劇〈槍聲〉,原著中故事細膩情節緊密,現場演出考量儀式時間與場地等因素,特別擷取書中事件,呈現壓迫與重生為核心主題。劇中反覆出現的問句,也問出劇中人物的疑問,問出大眾對於228事件,難以化解的苦痛。
市長陳菊並代表大高雄全體市民,將象徵和平的百合花束獻給受難家屬代表,同時獻上對受難者最深刻的感念,向所有爭取民主、人權的先行者致敬。現場亦邀請市長代表所有的市民將象徵和平的百合花束獻給受難家屬代表,同時獻上高雄市民對受難者最深刻的感念。期望能透過紀念儀式,讓我們《以愛相會》用愛包容一切。
同日,高雄市立歷史博物館也重新詮釋二二八常設展的展示手法推出以突破國內現有各種二二八事件展示方式,推出「二二八.0306見證台灣特展」。高雄市立歷史博物館自1999年辦理二二八常設展以來,期間曾於2005年進行換展,今年適逢二二八事件65週年,為優化展示方式,彰顯二二八事件中於此處所發生國內首波鎮壓行動之重大意義,特地辦理常設展更新,所以本次展覽的規劃,將特別從高雄的角度來觀看高雄二二八事件,因此分別從「重返二二八的年代」、「二二八事件在高雄」、「南部二二八」三個主題切入探討,使參觀民眾可以深入理解、思索二二八事件在高雄的特殊性與意義。
1947年3月6日伴隨著飄落的細雨,二二八事件中政府軍隊正式武力鎮壓的第一聲槍響便是在高雄市政府(今高雄市立歷史博物館)響起,也開始了高雄二二八事件中一連串的犧牲。因此,重現此歷史情境,實有其重要意義,所以高雄歷史博物館重新規劃「二二八•0306」主題展,並訂於二二八紀念日當天在追思儀式後正式開展。
高雄市立歷史博物館自1999年辦理二二八常設展以來,期間曾於2005年進行換展,今年適逢二二八事件65週年,為優化展示方式,彰顯二二八事件中於此處所發生國內首波鎮壓行動之重大意義,特地辦理常設展更新,所以本次展覽的規劃,將特別從高雄的角度來觀看高雄二二八事件,因此分別從「重返二二八的年代」、「二二八事件在高雄」、「南部二二八」三個主題切入探討,使參觀民眾可以深入理解、思索二二八事件在高雄的特殊性與意義。
高雄歷史博物館策劃二二八展覽的意義,在於此地為高雄二二八事件中,政府軍隊武力鎮壓最慘烈的現場之一,更是全台單一地點死傷人數最多的地方,這段記憶對高雄是深刻的,想想看65年前在這裡,在大家的四周曾發生這一段悲傷的事件,我們的心情事沈重的,更是肅穆的,認真地看待這段歷史便是身處事件現場的博物館所必須擔負的責任,所以將二二八事件的歷史意義教育給下一代也是本館開館以來的重要使命之一。
高雄市立歷史博物館本身除了是高雄二二八事件中的重要鎮壓現場,更是全台單一地點死傷人數最多的地方,因此為了突破國內現有各種二二八事件展示方式,更加貼近現地展示在此處發生的武力鎮壓過程,博物館打造國內首見的二二八事件微縮模擬場景來重現本歷史事件現場,透過拍攝電影之展演手法重現歷史事件,運用擬真人偶與音效、燈光、微型攝影裝置進行情境式的微縮場景展演,藉由極精細的微縮場景再現歷史情境,具體而微地呈現事件經過,帶領參觀民眾重新回到歷史現場,使參觀民眾能身歷其境、對受難者及其家屬感同身受,並搭配相關文物展示,對高雄二二八事件的特殊性、爭議性及歷史意義產生共鳴,進而深入瞭解二二八事件歷史。本展覽將自2月28日當日於高雄市立歷史博物館二樓開展,歡迎市民朋友們造訪市立歷史博物館時,不妨跟著歷史的腳步上到博物館二樓,身歷其境國內首創劇場式微縮場景,帶您見證台灣歷史的重大時刻。繪本書巡迴展及二二八.0306見證台灣特展相關訊息,請上高雄市立歷史博物館官網及二二八系列活動官網khm.gov.tw/2012228查詢。
為紀念1947年春天所發生的二二八事件,高雄市政府特別於2月28日,舉辦2012年高雄市二二八和平紀念追思儀式,期望能透過紀念儀式,弭平仇恨,用愛包容一切。


台湾の結婚式に出席

2016年03月18日 02時59分41秒 | 台湾

 先週末から月曜日まで、知人の息子さんの結婚式に出席するため、高雄市(台湾)に出かけた。
 何年か前、澎湖島に行ったとき、馬公市で結婚式の野外披露宴に出くわしたことがあり、ずいぶんと賑やかで楽しそうだった。いつか機会があれば、台湾式の結婚式に参列してみたいと思っていた。

 

 結婚式のあとの披露宴は、3年ほど前にオープンしたという台湾最大のショッピングモール「夢時代」の中の中華料理レストランで行われた。料理を写真に撮るのは憚られたが、台湾風の薄味でさっぱりしたフルコース料理は、日本人にもぴったり。日本と台湾でしか捕れない「桜エビ」の料理も出された。
 私たちのテーブルには、日本に留学経験もある方や、片言の日本語を解する人ばかり。その方々の配慮のおかげで、楽しいひと時を過ごすことができた。

 台湾と日本の結婚式は、やはり異なる点が多い。日本では、新郎新婦の人となり(成育歴、家族、学歴、職業など)を詳細に紹介することが多いと思うが、台湾ではこれが全くなかった。日本の披露宴につきものの友人たちの祝辞や歌も一切なし。基本的に、テーブルごとの歓談に終始して、招待された客がビールを注いで各テーブルを回るなどという光景は見られなかった。

 披露宴の始まりとお開きに係る「時間」の観念も異なるのかも知れない。というのは、披露宴の各テーブルには、フルコースの料理が運ばれる前から、ピーナッツなどの「おやつ」(と日本語に堪能な人は説明してくれた)が置かれていて、好きなように食べ始めている人が多い。デザートとともに、各テーブルには白いビニール袋がひとつ置かれた。これは、そのテーブルで食べ残された料理を持ち帰り用に包んだもの。好きな人が持ち帰っていいと言う。それが宴会の終了の合図ともなっているようだ。

 つまり、日本の結婚式ほど堅苦しい感じはしない。それに、大酒を飲んで酔っ払う人は見られなかった。
 
 結婚式のお祝いは「紅包」と呼ばれる赤い袋にお金を入れて、受付に渡す。金額は日本とは逆で偶数でなければならないが、紅包に金額を書くことはしないという。
 
 初めての貴重な体験。これでますます台湾が身近に感じられるようになった。

 
 

 

 


暴かれたショーン川上の素顔

2016年03月16日 10時19分52秒 | マスメディア

 「週刊文春」最新号が、ショーン川上の経歴詐称を暴いたとして話題になっている。

 ウソで固めたショーン川上

 本ブログでは、このショーン川上の胡散臭さについて、「TVコメンテーター虚人列伝~ショーン川上と水谷修」(2015.9.8)という一文を書いたことがある。「経営コンサルタント」と称して、TVコメンテーターに出演する以前の彼は、結構、チャラい、いい加減なイメージの男だったから、その落差には唖然とさせられた。経歴を調べてみたら、「テンプル大学卒」と書かれている。そこでピンと来た、これは学歴詐称ではないかと。
 若者向けのFM放送でDJをやっていた彼が、いつのまにか国際問題や国内政治を論評するコメンテーターに変身。古舘の「報道ステーション」に登場できたのは、古賀某の見苦しい事件があった後、見かけ倒し(カッコだけのバカ)でもいいから、古舘に盾突かず、視聴率を上げられる人物という選定基準に合致したからだろう。

 だが、マスメディア関係者の中には、ショーン川上のいかがわしさに気づいていた人も多いはずだ。何故なら、視聴者のひとり、単なるオッサンの私でも、ずっと気になっていたことだったから。

 視聴率が取れれば、どんなことでもするTV局の責任は大きい。出生から学歴、経歴まですべて嘘で固めたこのショーン川上(川上伸一郎)をコメンテーター、ニュースキャスターに起用したことは「知らなかった」では到底済まされない。
 ショーン川上は熊本県出身らしい。低音のもったいぶった喋り方、TVカメラ目線、一見ダンディな風貌…これらの要素は、姜尚中とそっくり。姜の出身も熊本、在日で私大卒なのに、東大教授になれたという点でも、何か同じ匂いが…。

 要は、虚栄心が強く、権力欲、金銭欲、名誉欲に凝り固まった人物が、マスメディア登場する機会を得たとき、かくのごときモンスター的人物に変身するということか。ショーン川上のコメントが、彼の知見や学識に基づくものなどではなく、単にテレ朝が用意した原稿そのままだったとしても、無知な視聴者は「カッコいい」「素敵」と騙されたのだろうか。
 
 繰り返し言うけれども、このショーン川上は、コメンテーターとして登場した時点でペテン師だと思っていた。「週刊文春」は当たり前のことを書いただけだが、今のヘタレマスコミの中では、ひとり際立つ。

 

フジ報道新番組の顔が降板へ…ショーン川上氏、学歴詐称認める

 フジテレビで4月4日にスタートする夜の報道&スポーツ番組「ユアタイム~あなたの時間~」(月~木曜後11・30、金曜後11・58)の司会に決まっていた、経営コンサルタントのショーン・マクアードル川上氏(47)が15日、公式サイトで同番組への出演を自粛すると公表した。

 16日発売の「週刊文春」が学歴などの詐称疑惑があると報道。それを受けての措置で、学歴詐称を認めた上で、同番組を含め現在出演中のテレビ、ラジオ番組、来月開局するテレビ朝日系のインターネット放送の計6番組に辞退を申し入れた。

 学歴詐称をしていたのは、公式サイトの英文プロフィル(現在削除)。「テンプル大学で学位、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得。パリ第一大学に留学した」と掲載していた。週刊文春の取材に川上氏は「テンプル大の学位はない」「パリ第一大はオープンキャンパスで経済・経営だけ聴講した」と説明。同誌によると、ハーバードMBA取得者名簿にも名前はないという。

 川上氏はサイトで「大変な誤解とご迷惑をおかけしました」と謝罪。発端となったプロフィルについて「急ごしらえのベータ版のまま、長い期間、誤りが存在するまま放置されてしまった」と釈明した。

 会社の経歴にも詐称疑惑が浮上した。会社ホームページでビジネスパートナーとして外国人2人と日本人1人が紹介されているが、同誌は外国人2人の顔写真が別人であると指摘。川上氏は2人とも実在する人物と主張した上で、顔写真は別人であることを認めたという。

 眉間にしわを寄せて話すダンディーな風貌と低音ボイス。超イケメンのインテリとしてお茶の間で人気があった。名前にもインパクトがあったが、同誌は本名が「川上伸一郎」ということも明かしている。

 視聴率が低迷するフジテレビにとっては「ユアタイム」は社運をかけた春の大改編の目玉。同局広報担当者は「辞退の申し入れがあったのは事実」と説明した。

 水曜コメンテーターだったテレビ朝日「報道ステーション」も降板。16日の同番組にも出演しない。同局系のインターネット放送局のニュース番組にも出演が内定していたが、同局は「本人から出演を辞退したいという申し出があり、承知したと聞いている」とした。  

[ スポニチ・アネックス 2016年3月16日 05:30 ]


班目春樹氏の「新作マンガ」が最低宰相・菅直人を暴露

2016年03月15日 13時36分16秒 | 政治

 福島原発事故当時、原子力安全委員会委員長だった班目春樹氏が「新作マンガ」(※)をネット上で公開して話題を呼んでいる。
           ※http://ponpo.jp/madarame/lec4/n-comic.html

私は長年、研究者だったものですから、文章は「根拠を示して」「客観的に」書くのが習慣となっています。 その反動もあり、私情を入れ、人の悪口も含め、感じたことを吐き出す手段としてマンガを使っています。 これらのマンガへの反論・反発もあるでしょうが、できればマンガの形で返していただきたいと願っています。」

「このマンガにはなぜか顔のない人が出てきます。 実は私はあのときの後遺症で、いまだにあの顔を思い出すだけで気分が悪くなるのです。 したがってその似顔絵を描くことなどとてもできません。 それが誰かはお分かりになると思いますので、その人の顔は描いていません。 その顔は適当に想像してください。」



 この「顔のない人」とは、もちろん菅直人。班目氏がここまで菅の醜悪な人間性、無能ぶりを暴露するとは思わなかった。この「マンガ」で、菅との”共犯者”のように目されてきた班目春樹という人を見直した。

 「〇〇の特技は〇〇の一つ覚え」「(原発に乗り込んだのは)マッカーサーの真似をしたかったんですね」「やたらと細かいことを訊くのは〇〇感の裏返しかな」「このおっさん、東工大の〇〇こぼれだったっけ」など、容赦はない。
 
 このHPが「民進党」方面からクレームがついて、早々に消去される(?)可能性は高い。興味のある方は今のうちかも。 
 

 

 

 

 


「ウィッツ青山学園高校」は特区利権の象徴か

2016年03月03日 13時12分23秒 | 社会

  「ウィッツ青山学園高校」の就学支援金不正受給問題が採りあげられ、「お店でお釣りの計算をしたら”数学”、映画を見たら”英語”の学習だった」とか、詐欺まがいの教育内容についても騒ぎが広がっている。
 だが、TVのワイドショーは、表面的な話題でお茶を濁すだけで、何故、三重県伊賀市の山の上に、こんな学校ができたのか考えてみることさえしない。

 この「ウィッツ青山学園高校」は、国から「教育特区」の認定を受けて作られた。「特区」は全国的一律的基準からはみ出した部分について、行政のニーズがある場合に、特別に許可、認定するという制度。最近では、東京都大田区の「民泊特区」が話題にはなった。「ウィッツ青山」による悪徳商法まがいの学校経営を見るにつけ、これが単に一経営者の着眼と目算で行われたとは考えにくい。そこで、ネット上を検索していたら、就学支援金不正受給校の創立者   下村前文科相と親密 後援会長・会社から献金(「赤旗」昨年12月28日)という記事を見つけた。

 塾経営者でもあった下村博文とのつながりが事実であるのならば、これは「教育界へ民間活力の導入」という触れ込みが、いかにインチキであるか如実に示した事件だと思われる。
 
 「ウィッツ青山」は詐欺師が作った高校であるにしても、それでは大学は大丈夫なのだろうか?私立大学の多くは多額の補助金を文部科学省から交付されているが、その教育内容については、「学問の自由、大学の自治」を盾に文科省の干渉を極力拒む体質がある。学生をバカにしきった教授陣、それに反発することもなく、勉強する気など全くない学生。単位を乱発しなければ、翌年は教室に学生があふれてしまう劣悪な教育環境…。「ウイッツ青山」とそっくりなこんな大学、いっぱいあるような気がするが…。

 

 

 就学支援金不正受給校の創立者   下村前文科相と親密

後援会長・会社から献金

                      「赤旗」  2015年12月28日(月)

 東京地検特捜部が強制捜査に乗り出している株式会社立の「ウィッツ青山学園高校」(三重県伊賀市)をめぐる就学支援金不正受給事件で、安倍晋三自民党総裁(首相)の総裁特別補佐を務める下村博文前文部科学相(衆院東京11区)と、同校創立者との親密な関係が浮かび上がっています。(藤沢忠明) 


写真

(写真)ウィッツ青山学園高校の「四谷LETSキャンパス」が入居するマンション=東京都千代田区

 同校は、内閣府や文部科学省から教育特区認定を受けた伊賀市で2005年に設立された株式会社運営の高校です。

参入解禁

 この「教育特区」と深い関わりがあるのが、下村氏です。

 利潤追求を目的とする株式会社は、学校教育法で学校を設立することはできませんでした。04年9月に小泉内閣で文部科学大臣政務官に就任した下村氏は、小泉政権がすすめた「規制緩和」、構造改革特区制度を利用した教育特区の担当者として、株式会社の学校参入を可能にしました。

 これにより、09年春までに全国でウィッツ青山学園高校など、高等学校21校、中学校1校、小学校1校が設置されました。

 今回、就学支援金の不正受給が明らかになったウィッツ青山学園高校の創設者は、下村氏の後援会「全国博友会」の会長で、学習塾「メリック」の代表、森本一氏です。

 森本氏は同社のホームページで、自らの経歴について、1992年10月に「ウイン」という塾を設立、98年11月に「ウイン」が大証2部に株式上場、2005年9月に「特区制度を活用して、株式会社のウィッツ青山学園高等学校を設立」と書いています。

 下村氏が支部長を務める「自民党東京都第11選挙区支部」の政治資金収支報告書によると、「ウイン」から03年に115万円など、00~05年の6年間で計195万円の献金を受け取っています。

 森本氏は、さきのホームページに「下村博文衆議院議員を都議会議員時から支援し、その後援会組織を全国規模に拡大しました。(略)今では塾出身の文教議員として将来の文部科学大臣の有力候補の一人にまで成長されました」と持ち上げています。

 下村氏は、05年10月にウィッツ青山学園高校を運営する株式会社「ウィッツ」も加わって設立された「学校設置会社連盟」(現・新しい学校の会)の顧問に同年12月に就任しています。

 06年9月、第一次安倍内閣が発足、内閣官房副長官となった下村氏は、同連盟のホームページに、「教育改革の推進など今後の活躍が期待される新内閣」との説明で、安倍首相とのツーショット写真が掲載されました。

 「第11選挙区支部」は、兵庫県養父市と茨城県高萩市に本校をもつ第一学院高校の運営会社「ウィザス」からも、05~13年に計108万円の献金を受け取っています。

説明責任

 教育特区の実現にかかわってきた下村氏は、学校設置会社連盟の顧問として、今回の就学支援金不正受給疑惑について、どう考えるのか、関係企業から献金を受け取り、便宜を図ったことはないのか―など説明責任があります。

 下村氏の事務所は、本紙の問い合わせに回答をしていません。