澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

アジア神秘紀行「日本統治の面影~台北、基隆」を見る

2011年07月31日 13時49分04秒 | 台湾

 アジア神秘紀行「日本統治の面影~台北、基隆」(BS朝日)を見た。

 台湾総督府、台湾博物館など台北に遺る日本統治時代の建物を紹介した。台湾博物館の壁やステンドグラスには、後藤新平と児玉源太郎の「家紋」が飾られているのだと知った。どこかの本には書いてあるのだろうが、実際に訪れたときには全く気づかなかった。迎賓館(台湾総督公邸)の中には、特別の和風家屋があり、それは田総督時代になって作られたものだと説明された。田総督というのは、田英夫の祖父であるから、まさに歴史は今に繋がっている。
 台湾史における日本統治時代は、台湾の近代化に寄与した、輝かしい時代であったことを確認する。
 テレビ朝日としては、とても好感の持てる番組だった。



【番組紹介より】
高層ビルや商業施設が立ち並び、急速に発展を遂げる都市、台湾・台北。世界でも随一の親日国であり、戦前には日本が植民地化し、多くの日本人が街の発展に関わってきました。今でも台北の街へ一歩足を踏み出せば、日本統治時代の歴史を感じさせる古い建造物に出会うことができます。その多くは、かつて日本人が造ったものなのです。



台北の中心地にそびえ、台湾の政治の中枢を担う中華民国総統府。この建造物は戦前、台湾を統治する拠点として日本人が造った台湾総督府でした。技術大国日本の全てをつぎ込んで造られた総督府は、第二次世界大戦で崩壊しましたが、戦後、昔の面影そのままに修復され現在に至っています。
そして今回は、1901年に完成してから105年間、その全貌が謎に包まれていた建造物、台北賓館を紹介します。現在は迎賓館として使用されている台北賓館は、日本統治時代は日本からやってきた総督が暮らす官邸でした。西洋風の建造物でありながら日本風の庭園が広がる景観は、独特の雰囲気を醸し出しています。迎賓館としても使用していたため、内装は豪華絢爛。またテレビ初公開の別館も紹介します。そこは異国にいる事を忘れさせる、純和風の空間でした。
台北から東へ30km、世界屈指の貿易港として有名な基隆は、かつて日本人が整備した港。多くの日本人がこの地に降り立ち、ここから台湾全土へと旅立っていきました。現在も通関業務を行う海港大楼はかつて日本人が手がけた建造物で、内装のほとんどが昭和初期に造られたままの状態で残っています。さらには日本統治時代、日本の企業によって金の採掘が行われ、多くの日本人が移り住んだ金瓜石、九份にも日本人の足跡を辿ります。



日本統治時代の面影が色濃く残る台北とその近郊。今もなお当時のままの姿を残す建造物と、当時を偲ぶ台湾の人々を通じて、懐かしい日本に出会える旅を紹介します。


唖然とさせられた「ミヤネ屋」の中国高速鉄道事故報道

2011年07月25日 16時22分00秒 | 中国

 「ミヤネ屋」(読売テレビ)を見ていたら、中国の高速鉄道事故を採り上げていた。事故原因については、中国に対して辛口の批評が多かったようだが、中国の鉄道網を表した図を見て唖然とした。

 それは下図のとおりなのだが、驚くのは2020年には台湾海峡に高速鉄道が付設される予定になっていること。台湾海峡に海底トンネルを掘るらしい。そうなったら、我が愛しの澎湖諸島はどうなってしまうのか? もちろん、これは中国側の一方的な計画だろうが、それをそのままTV番組で引用し、今回の事故の説明資料に使うとは、あまりにも無神経だ。

 「ひとつの中国」「中台関係」等々のありふれた議論を繰り返すつもりはないが、ひとつだけ言っておきたい。読売テレビの番組制作者は、これが意図的であるのなら、貴方は中国のスパイ。何も気づかず制作したのなら、マスメディアに携わる能力に欠けた人おそらくコネ採用のバカボンでしょうね。

【読売テレビが引用した2020年の中国高速鉄道網】

 


台風6号は放射性物質を拡散したか?

2011年07月21日 20時47分10秒 | 社会

 ドイツ気象局(DWD)が発表したという、日本上空における放射性物質の拡散予想データを見つけた。

 


 明日、7月22日の拡散予想は、上記の2枚。これを見ただけで、ゾッとする人も多いのではないか。
 実際にドイツ人は、このような予報図を日常的に見ている。福島原発事故の当日でも、放射性物質の汚染状況が公表されて、ドイツの知人からは「大丈夫か」という問い合わせ委のメールが届いたほどだった。「知らぬは日本人ばかり」だ。

 台風6号は、福島県を避けるかのように急カーブして、太平洋上に戻った。現在、東日本には、強い北東風が吹いているが、それにともなって放射性物質が舞い上がり、各地に降り注いでいるのかどうか?



(東京都日野市における放射線量のリアルタイムデータ  出典:https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/b0/36b79753770cf20e59528fec08ef50ef.jpg

 これは放射線量のデータであり、放射性物質のデータではないが、リアルタイムでの変化は、放射線量で見るしか方法がない。それを前提にして言えば、現在「放射線量の特段の変化は見られない」という状況にある。

 東京都日野市では、台風6号による影響は見られない、というのが結論になりそう。ドイツのデータは、視覚的にもセンセーショナルだが、今回外れたからと言って、今後無視するのは尚早。外国の指摘を「見て見ぬふりをする」のは、危ういことだ。
 




 
 
 

 


菅直人が連携・支援する元・全共闘の活動家

2011年07月19日 19時45分52秒 | 政治

 きょう午後、衆議院予算委員会の模様が放映されたが、いまそのビデオを見始めた。
 自民党の古屋圭司議員が、菅首相に関わる政治献金と北朝鮮団体との問題について質問した。
 その中で、斎藤まさしこと、酒井剛という人物が主宰する「市民の党」に対して、菅自身が六千万円を超える政治献金をしていたことが明らかにされた。
 その斎藤まさしなる人物が、かつてMPD(平和と民主運動)という政党を主宰していたという説明を聞き、我に返った思いがした。


(左端が斎藤まさし、右が菅直人。2005年、都議選時に撮影された。)

 私はこの人と、昔、何度か話をしたことがある。全共闘時代のこと、彼は全共闘のリーダーだった。ナイーブだが熱っぽく喋る人物という印象が残っている。
 当時、田英夫(故人 元TBSニュースキャスター)の娘も大学に在学していたので、彼はその女性と結婚し、田英夫の娘婿になったのだと知った。大学を退学になった後、MPDの党首となってTVに出演したりしていたことまでは記憶に残っていた。MPDの資金源は、確か宇都宮徳馬だったはずだ。親友と呼べる友達などひとりもいない菅が、斎藤まさしとの縁を切らなかったのは、田英夫とのコネを「使える」と踏んだからに他ならない。

 全共闘~菅直人~斎藤まさし~田英夫・宇都宮徳馬~北朝鮮…実に分かりやすい繋がりだ。田の祖父はかつての台湾総督、宇都宮の父は陸軍大将。ともに、旧植民地への「贖罪」意識が強く、日本政府の対アジア政策には批判的だった。反体制に留まっていれば、この人脈は問題にもならなかっただろうが、幸か不幸か菅直人は首相にまでなってしまった。
 ビデオを見ていると、菅は知らぬ存ぜぬで逃げるつもりらしいが、TV・新聞(「産経」を除く)は菅を庇うかのように、何故かこのスキャンダルを一切報道しない。

 遠い世界の話かと思っていたら、かつての知り合いまで登場して、何か生々しくなってきた。でも、今思うのは、人間なんて変わらないものだなということ。菅直人の反体制根性は、首相になっても変わらない…。こんな人が首相になってしまった日本という国は、どこまで漂流していくのか。


ベトナムの反中国デモに注目!

2011年07月17日 18時08分27秒 | 中国

 毎日曜日、NHKがベトナムにおける反中国デモを熱心に報道している(下記参照)。「熱心に」と言うのは、尖閣事件が起きた直後、中国側の行動に抗議して東京の中国大使館前には八千人もの市民デモが整然と行われたのだが、NHKは、これを一切報道しなかった。表向きは「右翼のデモ」だという理由であったが、実際には中国側を刺激すると躊躇したからだと言われている。
 
 その弱腰NHKが、ベトナムの反中国デモを毎週熱心に報道しているのは何故か。まず留意しなければならないのは、ベトナムも中国同様、共産党一党独裁の国であること。わずか八十人程度の反中国デモであっても、ベトナム政府の容認がなければ、デモなどあり得ない話だ。それを十分承知しながらNHKが報道するのは、ベトナムの反中国デモが南沙諸島をめぐる領土問題であるから。尖閣事件で軟弱姿勢を指摘されたNHKが、南沙諸島問題を採り上げて、間接的に中国の脅威を国民に知らしめようとしているのかも知れない。

 七週連続で行われたハノイの反中国デモは、当然、ベトナム政府の意向を代弁している。それを熱心に報道するNHKもまた、何かの意図を持って報道している。注目すべき報道ではある。

 

 

ベトナム 7週連続で反中デモ

7月17日 15時58分  NHKニュース

南シナ海の島々の領有権を巡って中国との対立が激しくなっているベトナムで17日、7週連続となる中国への抗議デモが行われました。先週に続き、警察が途中で解散させましたが、より長い時間、行進するのを黙認し、ベトナム当局が対中関係と国民感情の双方への配慮に苦心していることがうかがえます。

ベトナムと中国の間では、南シナ海の南沙諸島などの領有権を巡る対立が激しくなっていて、ベトナムの石油探査活動や漁船の操業が中国の船に妨害されるなどの事件が相次いでいます。ベトナムの首都ハノイでは、先月5日から毎週日曜日に中国への抗議デモが行われていて、7週目の17日もおよそ80人が市の中心部にある中国大使館の近くで行進しました。警察は、初めのうちは行進を黙認していましたが、開始からおよそ30分後に解散させ、半数余りの参加者を連行しました。一連のデモを警察が解散させるのは2週続けてのことですが、行進を黙認した時間は先週より長くなりました。今週末に中国も参加してアジアの安全保障を話し合う国際会議が開かれるのを前に、ベトナム当局が対中関係と国民感情の双方への配慮に苦心していることがうかがえます。


雑誌「Frau」の「ありがとう、台湾!」特集

2011年07月14日 17時09分54秒 | 台湾

  コンビニの雑誌の棚に「Frau」という女性月刊誌(講談社)を見つけ、即購入。



 「Frau8月号」は、「感謝台湾 ありがとう、台湾!」という特集を組んでいる。東日本大震災に対して台湾から170億円もの義捐金が届けられたにもかかわらず、日本政府は公式に台湾政府にお礼を言わなかった。これに疑問を感じた、Frauの編集者が、ふつうの日本人として台湾の皆さんにお礼を言いたいという動機から、この特集が組まれたという()。日本政府だけでなく、「朝日」やNHKなどのマスメディアも、台湾からの義援金をほぼ無視した。心あるマスコミ関係者にとっては、これに強い憤りを感じたことだろう。講談社の中に、「感謝台湾」の特集を実現させた人達がいるという事実は、マスメディアに対して不信感を募らせる我々にとっても朗報だった。

 http://blog.frau-web.net/editor/

 特集のサブタイトルには「訪れて楽しむことが、一番のお礼だと思うから」と書かれている。70頁以上にも及ぶ特集は、とても充実した内容。「ありがとう、台北! MAP」が付いているのもいい。

 以前、「SAPIO」(小学館)も台湾特集を何度も組んだ。だが、SAPIOは政治的主張が強いので、読者の大半は男性だったはず。
 逆に、この「Frau」は女性誌なので、男の目にはほぼ留まらない。女性の方が、ごく自然に感謝の気持ちをもてるのかも知れない。

 


「釣りバカ日誌」台湾編誕生とNHK

2011年07月14日 08時10分52秒 | 台湾

 一昨日の朝、NHKニュースが「釣りバカ日誌~台湾編」の話題を報じた。(※)
※  http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110712/k10014142611000.html

 中国の顔色を窺うNHKにしては、異例の報道だった。NHKがこの話題を通じて、中国報道とのバランスをとろうとしているのか知らないが、結果としては、台湾からの義援金が他を圧して巨額であったことが、一般の視聴者にも知れ渡る役割を果たした。

 「台湾では東日本大震災の後、日本円で170億円余りの義援金が寄せられていて、やまさきさんや北見さんらがこうした支援に対する感謝の気持ちを表そうと、「釣りバカ日誌」を台湾を舞台に描くことになったということです。」

 「釣りバカ日誌」の作者二人は、このように率直に感謝の気持ちを表そうとした。一方、NHKは中国の眼を気にしながら、こういうニュースを流すことで、「日台友好」のシグナルを送った?! いや、考え過ぎか…。

 

「釣りバカ日誌」 台湾編誕生へ

7月12日 5時16分 動画あり twitterでつぶやく(クリックするとNHKサイトを離れます)

東日本大震災を受けて、日本円で170億円余りの義援金が寄せられている台湾の人たちへの感謝の気持ちを表そうと、人気漫画の「釣りバカ日誌」が台湾を舞台に描かれることになり、原作者らが現地を取材に訪れました。

台湾を訪れたのは、漫画「釣りバカ日誌」の原作者のやまさき十三さんと、漫画家の北見けんいちさんで、11日午後、台北の空港に到着しました。2人は、鉄道で南部の高雄に移動した後、フェリーに乗って海辺の町に入り、地元でどんな魚が取れるかを取材して写真に収めたり、地元の若者たちと会話を交わしたりしました。台湾では東日本大震災の後、日本円で170億円余りの義援金が寄せられていて、やまさきさんや北見さんらがこうした支援に対する感謝の気持ちを表そうと、「釣りバカ日誌」を台湾を舞台に描くことになったということです。2人は今月14日まで台湾各地を訪れて取材を行い「台湾編」のストーリーなどの構想を練るということで、ことし9月ごろからおよそ3か月にわたって漫画雑誌に掲載する予定だということです。北見さんは「日本は震災や原発事故によって全体的に活気がなくなっているので、生活を楽しんでいる台湾の人たちの元気が日本に伝わるような漫画にしたい」と話していました。


八田與一の「烏山頭ダム」世界遺産に

2011年07月11日 11時08分35秒 | 台湾

 昨日、「台湾フォルモサ紀行2011」というTV番組が放送され、私も後半の半分ほど見ることが出来た。その中で、八田與一氏の記念館が、この5月、烏山頭(うさんとう)ダムの近くに整備された公園内にオープンしたことを伝えていた。
 日本の大手マスメディアは、日本統治時代の台湾について決して語ろうとしない。もし、日本統治時代の台湾で近代的教育制度が導入され、製糖業などの近代産業が生まれ、鉄道・電気・水道などのインフラが整備されたことに触れたら、中国からクレームが来たり、日本国内での「植民地支配を正当化するのか」という抗議が起きることを考えて、スルー(素通り)することにしているのだ。

 だが、台湾で八田與一氏の功績を世界遺産に推薦しようとする動きが進んでいるという。(下記参照) 中国からの横やりなどで前途多難を思わせるものの、これはどう考えるべきなのか?
 ひとつは、明らかに台湾人民衆の中に依然として親日感情が強いこと。これは、日本統治時代が、台湾の近代化に寄与した時代であったことを示している。
 もうひとつは、現在の中台関係との関わりだ。上述のTVTV番組では、馬英九総統の指示で八田與一氏の記念館が出来たと紹介された。中国国民党のプリンスで外省人である馬総統が日本を好きなわけがないのに、何故、ここまでサービスするのか。それは、来年の総統選挙を見据えて、民進党への対抗策として手をうったとしか考えられない。

 いずれにしても、八田與一氏の功績(すなわち台湾総督府の行政実績)が世界遺産になれば、これは素晴らしいことだ。 

 

八田技師の「烏山頭ダム」世界遺産に 台湾登録求め署名7万8千人

2011.7.9 22:17

 日本統治下の台湾で、日本人技師の八田與一(はった・よいち)氏(1886~1942年)が建設した「烏山頭(うさんとう)ダム」と1万6千キロに及ぶ用水路「嘉南大●(=土へんに川)(たいしゅう)」を、世界遺産に登録しようという動きが現地で広がり、約7万8千人の署名が集まった。しかし、台湾は国連教育科学文化機関(ユネスコ)に加盟が認められていない。「人類の貴重な遺産なのに政治的な理由で登録できないのは残念だ」。専門家からは、登録に向けた日本の協力を求める声もあがっている。(西見由章)

 八田氏が設計した烏山頭ダムと嘉南大●(=土へんに川)は1930年、台湾南部に完成。干魃(かんばつ)や塩害で不毛の地だった嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変え、八田氏は「台湾農業の恩人」とされる。

 烏山頭ダムは貯水量約1億5千万トンで、当時としてはアジア最大級。台湾大学の甘(かん)俊二名誉教授(農業土木)は「粘土と少量のコンクリートを併用したため、生態系への影響が少ないのに頑丈」と工法の独創性を評価。「川をせき止めず渓流からトンネルで水を引く設計で、土砂が堆積しにくく、半永久的に使えるダムだ」と価値を強調する。

 さらに八田氏は、貴重な水資源を生かすために灌漑(かんがい)地を3つに分け、米とサトウキビ、雑穀の栽培をローテーションする「3年輪作制」を確立。台湾では戦後、八田氏らの技術をもとに灌漑技術などを発展させた。

 甘教授は今後、日本の研究者グループと協力してこうした台湾農業のノウハウをまとめ、国連食糧農業機関(FAO)を通じて東南アジア諸国などに提供する方針という。甘教授は「日本と台湾の農業技術が世界に貢献する象徴として、ダムの世界遺産登録を進めたい」と強調する。

 ダムの登録運動は台湾の学者グループや実業家らが2009年に始め、これまでに約7万8千人の署名が集まった。また台湾行政院文化建設委員会が選定した世界遺産の推薦候補地18カ所にも含まれている。

 だが、登録実現までには紆余曲折(うよきょくせつ)がありそうだ。台湾はユネスコに未加盟のため、世界遺産は現在1カ所も登録されていない。甘教授は「烏山頭ダムは日本がつくった遺産で、当時の文献も日本のものだ」と話し、日本と世界遺産登録に向けた協力作業を進めることに期待を寄せている。

 【八田與一】石川県出身。東京帝国大を卒業後、台湾総督府内務局土木課に就職した。2年間の調査を経て1920年、烏山頭ダムの建設を開始し、10年後に完成した。42年に五島列島付近で乗船が米軍潜水艦に撃沈され死亡。外代樹(とよき)夫人は敗戦後の45年9月、烏山頭ダムに身を投げて後を追った。八田氏は台湾で中学の歴史教科書に登場し、今年5月には功績をたたえる記念公園がダム付近に完成した。


中国共産党90歳の不都合な真実

2011年07月01日 09時04分09秒 | 中国

 今朝の産経新聞「正論」欄に「中国共産党90歳の不都合な真実」と題された論文が載っている。

 執筆者の鳥居民氏は、ことし81歳になる。40年も前、「毛沢東 五つの戦争」(草思社 1970年)を著して、当時の文化大革命論争に一石を投じた。文化大革命の評価については、今にしてみれば、「中国」への思い入れと肩入れとしか思えない、異常なほどの文革礼賛熱が燃え上がった。特に、早大の安藤彦太郎、新島淳良といった日中友好プロ活動家(肩書きは早大教授)、中国研究所に属する菅沼正久といった人達の言動は、異様なほどだった。
 この鳥居民氏は、在野の一研究者として、中国礼賛の輪には加わらず、終始一貫した立場を貫き通した。

 今日は中共(=中国共産党)創立90周年の記念日。1921年のこの日、上海の疎開の片隅で、中共第一回党大会が開かれたのだった。
 鳥居氏が指摘するように、党創立から45年(=90周年の半分にあたる)の1966年は、まさしく文化大革命が勃発した年であった。だが、中共当局は、文化大革命、その前兆でもあった大躍進といった失政の数々については、今なお封印したままだ。

 中共という政党自体がソ連共産党・コミンテルンの指令によって成立した事実は軽視され、毛沢東による中国革命の独自性ばかりが強調されている。中共にとって不都合な真実は、すべて封印してしまうというのが、彼らの得意技なのだろう。

 80歳を過ぎてなお、中国研究を続ける鳥居氏の情熱には頭が下がる思いだ。

 

中国現代史研究家・鳥居民 中国共産党90歳の不都合な真実

2011.7.1 03:08  「産経新聞」
 

 7月1日の今日、中国共産党は創立90周年を迎えた。「愛党」をスローガンにした祝日である。今年の初めから、中国共産党が「私たちは幸福だ」といった宣伝戦を全土で繰り広げてきたのは、この「愛党」キャンペーンに繋(つな)げる算段があってのことだった。

 ≪党史真ん中に毛の過ち、文革≫

 さて、中国共産党は、自分たちは90年の歴史を持つのだと鼻を高くしているが、その歴史のすべてを明らかにすることはできないできた。この90年の丁度(ちょうど)真ん中に当たるのが1966年なのだと気づけば、感慨を覚える人もいよう。毛沢東の死まで10年間続く文化大革命が始まった年である。

 彭真(ほうしん)北京市長が若者2人に両腕をねじ上げられている光景を収めた写真を見せられて、「スマートでないが正直だ」「地球規模で問題は展開」などと語った日本人もいたのだが、文化大革命が毛の復讐(ふくしゅう)心を込めた粛清だったことは後に誰もが知るようになる。

 だが、共産党はその文化大革命の系統的な研究を許していない。そして、文革を生み出した大躍進運動と「3年の自然災害」についても、真実を伏せてきた。

 ≪口つぐんできた大躍進、飢饉≫

 昨年、「毛沢東の大飢饉(ききん)」という題の歴史書が、英国で刊行された。邦訳は今月末に発行される。著者は、フランク・ディケーター・ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)教授である。教授は2005年から09年にかけ、広東省から甘粛省までの地方党委員会が管轄する公文書館を訪れ、大躍進運動と大飢饉に関する党の資料を収集し、隠蔽されてきた秘密を調べ上げた。そして、党幹部により収容所に送られて殺された者が250万人にも上り、餓死者と合わせて犠牲者は4500万人に達することを明らかにした。

 明らかになった事実はもうひとつある。ディケーター氏のような外国の研究者が党の公文書館から資料を収集できたことからも分かるように、「毛沢東の大飢饉」を認めようとする党幹部がいるという事実である。政治改革を怠り、硬直化した政治体制を弾圧と投獄でこの先も維持していくことはできないと考える人たちであり、その中心人物は温家宝首相だ。

 ところが、毛沢東を卑しめてしまったら、党そのものが傷つき、党による支配が難しくなると、これまで通りの考えを変えようとしない党幹部がいる。さらには、党の権威を浸食する価値の多元化を抑えるためには、いまこそ毛沢東が必要だと、もっと積極的に捉(とら)える党幹部がいて、潜勢力を持つ党長老の支持を得てもいる。

 これらの2つの勢力が、来年秋の党大会に向けて、影響力争いを繰り広げる中で、毛沢東批判を許さないと説く党幹部、国家副主席の習近平氏、重慶市党委書記の薄煕来(はくきらい)氏が力を強めている。

 ≪改革成せずに涙した?温首相≫

 この5月の下旬、日中韓首脳会談が東京で開かれ、温首相が来日した。公式行事のない一夜、温首相は中国大使館員と華僑の集まりで話をした。政治改革が必要だと説いているうちに、首相は涙ぐんで、目頭を指で押さえた。

 温家宝首相は1980年代後半の党総書記の胡耀邦、続く趙紫陽と同じように、政治改革の志を遂げることができないまま退陣することになるのであろうか。

 では、ソ連共産党が91年に壊滅した後-胡耀邦が87年に追われ、趙紫陽が89年に追われた後、と言ってもよいのだが-、今日までの20年、中国共産党が存続できたのはなぜだったのであろう。

 何よりも幸運に恵まれた。アメリカの好景気がずっと続いたのである。中国の港からアメリカの港に向かうコンテナ船は食料以外、アメリカ人が住まいの中で必要とするすべての物を運んだ。アメリカから中国に戻ってくるコンテナは、あらかたが空っぽで、せいぜい古新聞と干し草だった。

 中国の対米貿易は膨大な黒字となって、アメリカ国債に化け、そうした低コストの資本供給が、アメリカの住宅建設を異常なまでに拡大させ、それがまた、中国の対米輸出を増大させていく。

 中国はたちまち「世界の工場」になり、農民工は「2等公民」の扱いを受けながらも、1億人から2億人へと増え続け、「世界の労働者」となった。中国の基幹産業を独占する国有企業も巨大な力を持つようになり、党長老の一家はいずれも大財閥となった。実質的に大地主になっている地方の党幹部の親族も、大資産家となった。そして、軍事費と治安費は毎年2桁もの伸びを続けてきた。

 クレムリンからソ連国旗が消えて、ロシアの三色旗に代わってから20年この方、中国共産党の存続の日々はこのような塩梅(あんばい)だった。しかし、この先、中国の経済が、これまでと同じ仕組み、同じやり方で進展していくことはあり得ないし、軍事費と治安費が5年ごとに倍増することを許してきた時代も終わらざるを得ない。習近平氏と薄煕来氏は、温家宝氏が手厳しく批判している、「封建主義の遺風」「文革の余毒」にひたっている余裕はないはずである。(とりい たみ)