澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

海外旅行に出かける無防備な日本人

2010年04月30日 12時26分20秒 | 社会

 さきほど、連休を利用してニューヨークに遊びに行く娘を駅まで送った。
 社会人2年目の娘は、学生時代の友人と4人で、ニューヨークの休日を楽しむという。旅行日程を聞くと、往復の航空券をFIXで購入して、ネットで予約したホテルに泊まるという。本人はブロードウェイでミュージカルを見て、マンハッタンの夜景を楽しむのだという。
 
 (あこがれのNYだが…)

 しかし、娘の話を聞いていて、私は次第に不安になった。パックツアー(フリータイム型を含む)では、NYの空港からホテルまでは送迎バスがあるが、航空チケットだけの旅行では、空港のバスかタクシーを利用しなければならない。到着時刻も夜だというので、ニューヨークがいかに危険かを話したが、聞くのもいやだという顔をされた。かつてニューヨークは世界一の犯罪都市であったこと、今でも銃を持っている人が大勢いることをを話したのだが、ピンとこないようだった。

(銃を持てばみんながハッピー!)

 だが、考えてみると、娘の無知には無理からぬ点もあるようだ。大学を卒業するまでの間、社会、歴史、国際関係など少なからず学んだはずだが、その中に「軍事」「安全保障」などが含まれていたのかどうか。「平和」「人権」「憲法第9条」「国際協力」といった、きれいごとの建前論ばかり教わってきたのではないか。
 娘に「銃の発射音を知っている?」と尋ねる。「??」 パンパンという花火のような音がしたら、NYではそれは銃声かも知れないと話す。トイレに行きたくなっても、一人では決していかないこと、ホテルの部屋を一歩出たら神経をとぎすますことなど、気がついたことを付け加える。

 (なんとか無事帰国)

 中国人や韓国人は、たとえ女性であっても、銃声がどんなものか、銃を使った犯罪がどういう状況で起きるか、よく心得ているはずだ。何故かと言えば、彼の国々には兵役があるので、「軍事」「安全保障」の概念をよく理解しているのだ。「平和呆け」した日本人は、到底太刀打ちできないはずだ。
 頼みの経済が没落すれば、安全保障を他国に委ねている日本はただの三等国になる。堺屋太一が「1人民元=70円、1米ドル=240円」という近未来社会を描き評判になっているが、その悪夢も現実になろうとしているかのようだ。
 
 


いまどきの敦煌(3)

2010年04月28日 16時27分51秒 | 中国

★決して謝らない中国人
 昨日、駐日中国大使が「日本側に責任がある」という談話を発表していた。これは、中国海軍が宮古島近海を通過して太平洋に出て南鳥島に近づいたのに対して、海上自衛隊の艦船が追尾したところ、中国海軍のヘリコプターが巡視艇に異常接近したという事件を巡っての発言。
 その少し前には、上海万博テーマ曲の盗作問題が浮上した。盗まれた側の岡本真夜事務所は、抗議することもなく、万博のテーマになって光栄だというようなコメントを発表したので、これは中国の思うつぼだと直感した。案の定、話は奇妙にそらされて、中国人”作曲者”は、あたかも岡本真夜に頼まれてテーマ曲としたかのような弁明をはじめた。
 3月末、私の娘が友達に会いに北京に行った。北京に住む友人が開口一番娘に「人にぶつかったとき、先に謝っちゃダメだよ」と言ったそうだ。
 個人的なレベルでは、この程度の話で住むのだが、外交関係となるとどうなのか?何があっても自らの過ちは認めず、最後には「歴史認識カード」を持ち出す。煮ても焼いても食えない…これが中国の真の姿だ。

 
(回族=イスラム教徒の物売り 蘭州・黄河鉄橋にて)


★平気で列に割り込む中国人
 北京空港の待合いロビーでも経験したが、国際線を待つ中国人でさえ、整列して待つことができない。日本人が並んでいた列に接ぎ木をするように列ができて、いつの間にか「人」という字のような列ができあがった。これがもし、指定席ではない乗り物だったら、どちらの列が正しい列なのかと言い争いが始まり、うんざりするような目にあうことは間違いない。私は終始見ていたのだが、枝葉の列を作ったのは中国人達だった。それでも、言い争いになれば「黒を白と言いくるめる」彼らの能力が存分に発揮されることだろう。

 (マナーの悪い中国人観光客 西安・華清池にて)

★博物館でさえ「骨董品」を売りつける中国人
 西安で連れて行かれた博物館(陝西省博物館)での出来事。新しい建物で、これといった展示品もない。それでも展示物の由来を聞かされたあげく、別室に通されて館員が玉の土産物を執拗に勧める。大雁塔にいったときは、著名な高僧の書を安く頒布するとかで、これまた別室に通された。敦煌博物館でも、同じようなことが…。公共施設という概念がなくなり、公務員でももはやカネもうけしか頭にないのだろうか、と思った。


(西安・大雁塔で会った人民服の老人~列を譲ったら「どうぞ」と日本語で応えた)

★どうしてこんな中国人になったのか…
 上海万博の期間中、会場近くでは住民が洗濯物を通りに干してはならないそうだ。だが、そんなことはお構いなく平気で干している住民が多いようだ。市警が注意すると、注意されたオバサンは「文革時代だったら、反革命分子だよ!」と舌を出していた。たくましいというか、図々しいと言うべきか分からないが、これが中国人だということか。
 われわれは「新中国」「四千年の中国文明」などという言葉にすっかり惑わされてきたが、いま目の前にいるのは礼儀知らずで、どん欲で、人を人とも思わない、溢れるばかりの人数の中国人だ。その昔、毛沢東の中国を褒め称え、日中友好を叫んだ連中は、この現実をどう”総括”するのか?

 結局、中国を語ることは、群盲象を撫でるというお話にすぎなかったのか…。この厄介な隣人は、ますます強大になって、新たな難題を吹きかけてくるはずだ。




 


いまどきの敦煌(2)

2010年04月28日 11時57分46秒 | 中国

敦煌といえば、もう30年以上も前、NHKの特番「シルクロード」で一般の日本人にも有名になった。井上靖の小説でもすでに有名だったが、この番組で初めて紹介された映像でロマンティックな旅情をかき立てられた人も多いはず。そのためか、ツアーに参加したのほとんどは中高年世代で、中にはひとりで参加した70歳代のご婦人もいた。

 (清朝時代の版図)

この図は、清朝時代の「中華帝国」の版図(支配領域)を示すのだが、敦煌は長城の表示が切れた部分にある。「甘粛省」の西はずれの「新彊ウィグル自治区」へ続く河西回廊に位置する。
東京ー北京は約2,100km、東京ー敦煌は、もちろn直行便などないが、西安・蘭州経由で、およそ5,200kmというところか。この距離は、東京ーシンガポールとほぼ同じなので、中国内陸部の広大さがよく分かる。

(清朝時代の冊封制度)

歴史的に見ると、中華帝国がひとつであったことは一度もない。最大の版図となった清朝時代でも、チベットや台湾は清朝の統治が及ばない「化外之民」が住む地だった。万里の長城を境にして農耕民である漢民族と遊牧民が興亡を繰り返した歴史が「中国史」だ。
私たちは、蘭州から敦煌までおよそ1,100kmを夜行寝台列車で移動した。朝早く車外をみると、砂漠というよりも乾燥した黄色い大地が延々と続いていた。「瓜州」駅を出てからだろうか、荒野の中に千基以上もあると思われる風車群が見えた。最新型の風力発電用風車だ。

 (真新しい敦煌駅)

ようやく着いた敦煌駅は、想像以上の巨大な建物。何もない砂漠の真ん中にドカンと建てたという印象。大きくて見栄えがする建物が大好きな中国人の好みがよく反映されている。「西部大開発」の象徴的な建築物なのかも知れない。

 (莫高窟)
 (新築の仏塔から莫高窟を望む)

(左:莫高窟と土産物店   右:莫高窟とオッサン”四人組”)

敦煌市内は、この10年くらいの間に整備されたという印象だ。ガイドブックによれば、街の人口は2万4千人と書かれていたが、市の中心部にある沙州市場というマーケットのにぎわいを見ていると、もっとずっと大きな街ではないかと思える。


(左;沙州市場の風景  右;敦煌市街の大通り)

莫高窟の仏像・壁画は、中国の歴史文物の中でも超一級品なので、観光客が参観できる範囲は極めて限られている。入場にあたってはカメラを預けなければならないし、窟の中は暗いので、懐中電灯は必携だ。カメラは持ち込めないが、携帯電話はOKというのも奇妙だった。多分、中国人の携帯電話には、カメラ機能が付いていないのだろう。

莫高窟と並ぶもうひとつの観光地が鳴沙山。ここは文句なしに、砂漠気分を味わえる。約30年前、私の父(故人)がここを訪れているので、写真を持参して”供養”した。そんなセンチメンタリズムをぶっ壊すかのように、砂漠には観光用ラクダの糞が沢山落ちていた。

(月の砂漠?)
 (父の写真と鳴沙山)

30年前は誰も訪れることのなかった鳴沙山だが、今や有名な観光地。入場料も取られるし、私などは砂山の中腹で「写真を撮ってやる」と言われ、自分のカメラを渡し、ポーズを取って4枚撮ってもらったら、チップを要求された。「チップは禁止なんだが、撮ってあげただろう」と言っているようだったので、5元を渡した。
グループの行動をビデオカメラで取っている人がいたのを気づいていたが、我々の映像を収めたDVDをホテルまで売りに来た。1枚2500円だったと思うが、これは結構な商売だと感心した。もちろん、写真を勝手にとって売りつけるという商売は、あちこちに見られた。

かつての西域も今や金次第のニュータウン。少数民族の文化・居住領域が、漢民族によって次第に浸食されているプロセスを見たようで、何とも言えない気分になる。漢民族による経済発展のおこぼれにあずかれれば、チベット・ウィグルなどの少数民族は現状に甘んじるのだろうかと……。


 


酒井充子監督の講演会に行く

2010年04月27日 03時44分42秒 | 音楽・映画

4月26日(月)、台湾協会主催による酒井充子氏の講演会が、東京・日比谷の「糖業会館」で開かれた。酒井充子(あつこ)氏は、ドキュメンタリー映画「台湾人生」の監督。この映画は、昨年来、全国各地の小規模映画館で上映され、静かなブームとなっていた。先月にはこの映画のDVDが、さらに今月上旬には、文藝春秋社から単行本「台湾人生」が発売されたので、これからも多くの人々の注目を集めることだろう。

 ※   http://8918.teacup.com/abeng035/bbs/563

 (酒井充子監督)

私が最初に酒井充子監督をお見かけしたのは、昨年7月4日、映画「台湾人生」上映後におこなわれた蕭錦文(しょう きんぶん)氏とのトーク。蕭錦文氏はこの映画に登場する一人で、台湾の日本語世代に属する台湾人。台北「二二八紀念館」で解説員をしている。私も彼の解説によって台湾の歴史に目を開かせられた一人だ。
このとき、酒井監督が高齢で台北からやって来た蕭錦文氏を気遣っていたのが印象的だった。

酒井充子監督、蕭錦文氏とのトーク~映画「台湾人生」上映後 2009.7.4

今回は、2時間に及ぶ本格的な講演会だった。蔡明亮監督の映画「愛情万歳」との出会い、さらに九份(きゅうふん)で偶然出会った日本語世代の老人との会話が、酒井氏の台湾との出会いだった。北海道新聞記者という安定した地位を投げ捨て、映画製作の道に突き進んだ行動力に私は驚嘆する。人生の中で何度か「飛び立とう」と思ったものの、実行に移せなかった私とは、鮮やかな対極だ。

講演の中で興味深い話をいくつも聞いた。映画「台湾人生」の観客動員数は、およそ1万人だという。台湾映画「海角七号」が(台湾で)230万人とされているから、数字的には思いのほか少ない。ただし、上述のようにDVDが発売され、単行本も上梓されたので、これからの浸透を期待したい。
「台湾人生」に登場する陳清香さんについては、お子さんをカナダに留学させ、カナダ国籍を取得させたと聞く。これは、台湾の将来を危惧する台湾人知識層に多く見られる傾向で、民進党を応援し台湾独立を願っている陳さんでも、こういう”保険”を家族には科しているのだ。

最後に、質疑応答でNHKの話題が出た。2月だったと思うが、中(あたり)孝介が「金曜バラエティ」という生番組に出演して「野バラ」を歌ったのだが、中(あたり)には「最近、野バラを歌う機会がありまして…」としか発言させず、映画「海角七号」のことは一言も触れさせなかった。

中孝介が歌う「野バラ」~司会者は中孝介に「海角七号」を語らせなかった~

酒井監督は、この指摘を受けて苦笑いをされていた。媚中報道を続けるNHKは、酒井監督の「台湾人生」も決して取り上げようとはしない。

酒井充子という生き方の清々しさを感じた2時間だった。


中国人が好きな文化遺産

2010年04月22日 21時27分59秒 | 中国

悠久の歴史を誇る中国だが、実は古い文化遺産はそれほど残っていない。今回の旅行でそのことを実感した。
例えば、西安の華清池(写真)は、唐代(8世紀半ば)に建てられた温泉施設で、かの「長恨歌」(白居易)にも詠われた場所だ。だが、そこに現存する建物の多くは、この20年ほどに建てられたものばかり。この夏、中庭の池に造られた舞台で「長恨歌」の歌劇が演じられるという。ライトアップした野外劇場で、ワイアレス・マイクとPA(拡声装置)をばっちり使った劇になるらしいが、これではミュージカルと言った方が相応しい。

この華清池は、西安事件の舞台にもなったところ。1936年蒋介石はここで保養していたが、張学良に襲われ、第二次国共合作を余儀なくさせられた。文字通り「中国革命の転機」とされる事件で、この事件がなければ、中国共産党が中国全土を支配することはなかったかも知れないのだ。しかしながら、中国人はそんなことには全く興味がないらしく、ただただ大きく派手なモノを愛でるという習性があるようだ。

 (西安・華清池  建物は新築)

次の写真は、兵馬俑博物館の入り口にある兵士と女の子の巨像。秦の始皇帝時代の軍人と今様の少女の漫画的な組み合わせ。両方の目玉には電球が入っていて、操り人形のように動く。これを変だ?と思う中国人はいないのだろうか。史実の検証などおかまいなく、派手なものに「好・好(ハオ・ハオ)」と群がる中国人の感性は、やはり日本人とは大いに異なる。

 (西安・兵馬俑博物館 不気味な巨大人形)

西安から1,800kmも離れた敦煌でも同じようなモノを見た。下の写真だが、これは敦煌の遺跡などではない。何年か前に日本映画「敦煌」を撮影した際に造られた映画セットを「国家AAA級公園」として観光地にしているのだ。こういうのを日本語で「人のふんどしで相撲を取る」というのだが…。 現実には「相撲を取る」のではなく、多額の入場料を取っている。

 (敦煌・映画のセットが観光地に)

結局、中国には思ったほどの歴史遺産は残されていないことを知る。戦乱の果てに破壊された遺跡・文物も多いのだろうが、40年前の「無産階級文化大革命」で現代の中国人自らが破壊した歴史遺産も数多いはずだ。今の中国は、そのことを全く総括していない。きちんと総括すれば、中共政権は永くは続かないだろう。だからこそ現政権は、中華民族の優越性を誇示する愛国主義を煽り、本来排外的で尊大な中国人をますます増長させている。

何にしても、中国が厄介な隣人であることには間違いない。そのことを痛感する。


いまどきの敦煌

2010年04月20日 23時43分20秒 | 中国

昨日、中国旅行から帰ってきた。北京経由で西安・蘭州・敦煌を訪れた。旅行の初日(14日)に青海大地震が起きたことを西安のホテルで知った。旅行中、TVのニュースは、この地震報道ばかりだった。青海省と言えば、チベット(西蔵)人が多く住む高原で、文革中には多くの紅衛兵が”下放”させられた貧寒の地でもある。TV報道では、中共政府がいかに救援に尽力しているか執拗に強調していた。
帰ってきて知ったのは、アイスランドの噴火で欧州への航空便がストップしていて、外国人観光客が足止めされているというニュース。天変地異はいつどこでおこるか分からないと実感した。
成田空港で足止めされた外国人には、毛布が配られシャワー室も開放されたと聞く。成田市では、希望者に無料市内見学を実施するという。中国では外国人に対して、このようなきめ細かい配慮がなされているとは到底思えないのだが、どうだろう。



午前中、近くの某国立大学に授業を聴きに行く。国際関係論の中の「国際関係史」という科目だが、S教授が冒頭で最近放送されたNHKスペシャル「日韓併合への道」を見たかどうか学生に尋ねた。私は見られなかったのだが、S教授から見れば、定見を持たない曖昧な番組であり、少しは英国BBCの制作態度を見習うべきだと言われた。
卒業生の多くが海外勤務をする大学なので、S教授は学生達に「日本人として説明できる歴史知識を持て」と勧めていた。もし、米国に駐在してパール・ハーバーの話が出たら、それでは広島の原爆はどうなのですか?と応えなければならない。ましてや中国・韓国に行ったら、自分たちの歴史を知った上で彼らの理屈に対抗できなければだめだ。彼らの主張は、麻雀をしていて、満貫で上がろうとしていたのに、日本が素早く「ロン!」したことを、おまえ(=日本)が悪いと責めているようなものだ。近代世界は、各国・民族が人類史上初めて参加するゲームのようなものだったので、それに加わりながら、相手の成功を逆恨みするのは間違っていると説明された。 同じようなことは私も感じていたので、我が意を得たりという思いだった。



30年前、亡き父が敦煌・ウルムチを訪れたときは、見渡す限り何もなく、莫高窟(ばっこうくつ)には文物研究所があるだけだったと聞く。訪れる外国人も少なかったので、研究所の所長が自ら説明をしてくれて、写真を撮るのも自由だったそうだが、今や莫高窟にカメラを持ち込むことさえ許されない。
半ば予想していたとは言うものの、莫高窟の周りには目新しい仏塔や門が建てられ、テーマパークのようになっていた。有名な鳴沙山では、ラクダの騎乗や砂山のソリ滑りが大流行。もちろん、どこへ行くにもかなり高額の入場料を支払わねばならない。

まあ「近代化」なるものは、そんなものだと思えなくもない。だが、実在しなかった仏塔を建ててしまったり、とっくの昔に破壊されてしまった宮殿や寺院をどんどん「復元」してしまうのはいかにも中国らしい。日本人と中国人との歴史感覚の違いをここでも実感した。


井上ひさしと母校・上智大学

2010年04月12日 23時06分04秒 | 社会

井上ひさしが亡くなった。
「ひょっこりひょうたん島」から「吉里吉里人」までは、結構、楽しませてもらった。晩年の政治的発言にはついていけなかったが…。

(天国に召されるのですか?…

この人の経歴は、とても変わっている。幼いときに義父から暴力を受けて、孤児院に預けられた。結婚後は、自らが妻に対して家庭内暴力をふるっていたことが暴露される。
東北大学などの国立大学受験に失敗し、上智大学独文科に行くが、2年間休学して他大学を受験し、また失敗。その後、フランス語学科に転部して、ようやく卒業する。このあたりは、遠藤周作とよく似ているのが面白い。

遠藤は、上智大学に入学した事実を履歴から消し去ろうとしていた。狐狸庵先生は、あくまで慶應大学出身でなければならなかったのか。その理由は、両大学のネームバリューの差と同時に、彼の母親が厳格なカトリック信者であったことにある。
井上もまたカトリック修道院に預けられ、仕方なくカトリックの大学に進まねばならなかった。この苦悩と苦痛は、遠藤と共通するものがあったはずだ。

井上ひさしは、晩年、憲法擁護などかなり政治的発言を繰り返した。世の中の座標軸が右にシフトするなかで、朝日新聞の残党が立ち上げた、かの有名な「週刊金曜日」にかかわったのだから、立派な左翼になったというべきかも知れない。

私の勝手な推測になるが、東大出身が主流の「進歩的文化人」が衰退し、井上のようなマイナーな出自の者にもお鉢がまわるようになった。そこで、晩年は念願の「岩波文化人」「朝日文化人」になって、ようやく永年の学歴コンプレックスから解放されたのかも知れない。ちょっと、意地悪な見方ではあるが、一面の真実であることは疑いない。

 


台湾・日本語世代からの手紙

2010年04月09日 18時27分52秒 | 台湾

台湾の日本語世代の方からお礼の手紙をいただいた。
お礼というのは、酒井充子監督の映画「台湾人生」がDVD化されたので、それをお送りしたことに対するもの。



この日本語世代のCさんは、70歳代半ばで、今はボランティア活動をするとともに、個人的に台湾の近代史を研究されているという。

Cさんの手紙はきれいな日本語で書かれていて、日本統治時代に受けた教育が今なお息づいていることを改めて知らされる。
手紙は、自虐史観や「中国はひとつ」論に惑わされている人にぜひ読んで欲しい内容だ。

「…小生はインパールへ旅行していたのでした。歴史を勉強している小生にとっては、(DVDは)非常に勉強になる物です。
台湾とは…1895年(明治27年)日清戦争は日本の勝利に終わって、日本に割譲。日本の台湾領有は1945年(昭和20年)まで50年と8ヶ月間。その間日本人は、台湾を開発し近代化、文明社会を建設してくださったのです。かつては未開地であり、恐ろしい風土病、流行病などは世界の発祥地と云っていたところです。歴代の総督達は、心血を注いで現在のようなきれいな台湾となり、あらゆる流行病を台湾から追い出し、水道、下水道を造り、交通問題は基隆から高雄に汽車を開設。台湾は日本が造ったと云っても過言ではありません。又、至る所に日本語学校を開設、殆ど勉強しおかげ様で、今の我々台湾人は世界各国の文化・科学なども理解できるようになっているのです。言葉もマチマチだったのでした。その頃の通用語は日本語です。今後、ご来遊の節はご一報下さい。かつての50年間の歴史をご紹介します。
…戦前の歴史は総督府にあります。…」

 


 


台湾のスーザン・ボイル?

2010年04月08日 22時39分25秒 | 音楽・映画

台湾版スーザン・ボイルが現れたというニュース。(下記参照)

YouTubeで映像を確かめてみたが、スーザン・ボイルほど上手ではなく、共通点を言えば、確かに両者とも「美女」「イケメン」ではないことか…。

台湾の少年、「中華版スーザン・ボイル」と国外から注目集める

4月8日18時8分配信 サーチナ

 昨年、母国イギリスのみならず世界から注目を浴びたスーザン・ボイルさん。近頃、動画サイト上に「中華版スーザン・ボイル」と呼ばれる人物が掲載され、国外メディアの注目を集めているという。中国新聞網が伝えた。

 「中華版スーザン・ボイル」と言われているが、女性ではなく男性だ。彼の名前は林育群※さん。まるまると太った体にマッシュルームカットの彼は、台湾のオーディション番組に出演したことから有名になった。番組内で彼はホイットニー・ヒューストンの『I will always love you』を熱唱、見た目からは想像できない美声を披露したのである。(※正しくは「君」の下に「羊」)

 彼が台湾人であることを忘れてしまうほど上手な英語の発音に加え、音声だけ聞いていると女性が歌っているのではないかと感じるほど高い音域をカバーしつつ、豊かな声量で聴衆を魅了する歌声に、ネット上ではたちまち人気に火がついた。7日にユーチューブ(YouTube)に掲載された彼の動画はすでに22万回の再生回数を記録している。

 英語版のYahoo!では彼に関する記事を掲載するとともに、近々アメリカのインタビュー番組に登場するのではないかという情報を掲載したという。アメリカの新聞「シカゴトリビューン」も彼について取り上げたが、スーザンさんのような成功を勝ち取るためには、実力以外にも人々の関心を集めるような人物背景や、サイモン・コーウェル氏のような人物の存在などが必要とし、その道は険しいと評した。

 彼が動画サイトを飛び出して世界を席巻する日はやってくるだろうか。(編集担当:柳川俊之)

 

超級星光大道 20100402 pt.18/24 林育群-I will always love you


フランク・プウルセルの映像を見る

2010年04月08日 01時41分10秒 | 音楽・映画

フランク・プウルセル(Franck Pourcel 1913-2000)の珍しい演奏風景を見つけた。
フランスのイージー・リスニング音楽の先駆者だった彼は、1952年に「オンリー・ユー」のオーケストラ・ヴァージョンでビルボード・チャートのトップテン入りを果たした。

日本では、「急流」「空と海と太陽」などのシャンソンの方が人気があったが、今なお人々の記憶に残っているのは「ミスター・ロンリー」だろう。この演奏は、FM放送「ジェット・ストリーム」のテーマ曲として使われ、一世を風靡した。もし、「ミスター・ロンリー」がテーマ曲でなかったならば、フランク・プウルセルの名前は、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブルなどの名声の前にかき消されていたかも知れない。

音楽評論家・出谷啓は、「イージー・リスニング音楽、ムード音楽を堕落させた元凶は、このフランク・プウルセルだ」と記している。その根拠は、「オンリー・ユー」でオーケストラ音楽に初めてロック・ビートを取り入れ、それまでの重厚なストリングスのオーケストラ・サウンドを変えてしまったからだそうだ。

YouTubeには、フランク・プウルセルのインタビューもUPされている。だが、フランス語なので、全く分からないのが残念。自分の音楽をどう説明しているのか知りたいところだ。

Franck Pourcel : French TV show 1984

 Franck Pourcel: Interview in french 1983

 Franck Pourcel:\"Cry me a River\" and Interview

 


アンドレ・コステラネッツの映像を見る

2010年04月07日 10時14分50秒 | 音楽・映画
「What's my line?」という番組に出演したアンドレ・コステラネッツの映像を見つけた。
アンドレ・コステラネッツの名前を知る人は、もはや団塊の世代以上の老人達。彼は、1940年代から1970年代にかけて、アメリカのショービジネスで大活躍した編曲者・指揮者。ロシア革命に伴い米国に亡命したロシア貴族の血を引く人で、正規の音楽教育をサンクト・ペテルブルグで受けている。

1950年代後半から始まったステレオ装置の普及で、彼の録音した数々のアルバム(LP)は、飛躍的に売り上げを伸ばした。クラシックからイージー・リスニングまで幅広いレパートリーを誇り、「スポーツカーを運転するような感覚でウィンナ・ワルツを演奏する」と評され、ポップスでは彼独特の流れるような、ゴージャスなメロディ・ラインを紡ぎ出した。

彼の演奏はなかなかCD化されなかったが、ようやく最近、オリジナル・アルバムが次々と復刻されるようになった。
イージー・リスニング、ムード音楽と呼ばれる分野の中で、一番才能がある人は誰だったかと問われれば、私は間違いなくこのアンドレ・コステラネッツだとこたえる。
彼が来日してNHK交響楽団を指揮したとき、ミュージカル「ショウ・ボート組曲」を演奏した。この映像はNHKに残っていて、何年か前に「N響アワー」で放送された。

このYouTube映像は、1950年代の映像と思われるが、このころ、日本では個人の録音機を持つことなどなかなかできなかった。ビデオなど夢のまた夢という時代だったので、アンドレ・コステラネッツの動画を見る機会は全くなかった。それにしても、よく保存されていたと感心する。

なお、「A Latin American Samba」の映像も見つけたが、これはCBSラジオの番組をフィルム映像で記録したものらしい。生演奏が収録されているので、彼の指揮ぶり、オーケストラの演奏技術がよく分かる。素晴らしいの一言だ。


What's my Line? Andre Kostelanetz


A Latin American Samba


「Japanデビュー アジアの”一等国”」から1年

2010年04月05日 23時49分13秒 | 歴史

NHKが「Japanデビュー アジアの”一等国”」を放送してからちょうど1年が経った。
この番組は、「未来を読む鍵は歴史の中にある」と仰々しく謳い、2万点もの台湾総督府未解読文書を読み解いて作られた」と喧伝されていた。ところが、期待した視聴者は、その杜撰な内容に完全に裏切られた。

この番組で日本の台湾統治を象徴するキーワードとして挙げられたのが、「人間動物園」という言葉。台湾の原住民であるパイワン族をロンドンの万国博覧会で動物のように展示したというのだが、それは事実はないことが判明し、パイワン族の人からも抗議が寄せられた。NHKは、史実をねじ曲げてでも「日本の台湾統治」「日本の植民地支配」を糾弾し、「ひとつの中国」「台湾は中国の一部」という中国の主張に迎合した。

ところが、昨日NHKで放送された「アフリカン・ドリーム」という番組を見て、NHKの無節操、いい加減さがまた露呈した。この番組では、アフリカのルワンダを採り上げていた。以前、ルワンダ内戦という言葉をよく耳にした。NHKはその内戦の原因をベルギーの植民地支配にあると説明する。宗主国・ベルギーは、ルワンダの2割に過ぎない人口のツチ族を優遇し、多数派のフツ族を抑圧するという分断統治をおこなった。驚くのはその理由だ。ベルギー人は、ツチ族の容貌が白人に近い、それ故に優れた人間だとして優遇したのだという。ツチ族の鼻は比較的高いが、フツ族の鼻は低い。それだけの基準で、人種的に白人に近く、優秀なのはツチ族の方だと判断したのだそうだ。

ここで問題なのは、NHKの二枚舌、ダブルスタンダードだ。「アジアの”一等国”」では、史実をねじ曲げてまでも、「人間動物園」の話を持ち出して、日本の台湾統治を貶める一方、「アフリカン・ドリーム」では、ベルギーのめちゃくちゃな植民地支配を否定することもなくただ放送した。この違いはいったい何なのだろうかということだ。

後藤新平や八田與一の功績が、西洋列強と同様の「植民地支配」という概念で一緒くたにされるのは、あまりにひどい話ではないか?ベルギーは、なにひとつルワンダの近代化に貢献しなかったが、日本は台湾の近代化に大いに寄与したのである。それは、私がUPした下記の映像を見れば、一目瞭然だろう。もし、日本が台湾を統治しなかったとしても、当時の国際環境を考えれば、台湾は西洋列強のいずれかに植民地化されていた可能性が高い。であれば、台湾がルワンダのようになっていたかも知れない。私は、植民地支配を肯定する訳ではないが、現代の価値基準だけで歴史を見ることは誤りだろうと思う。

NHKは、このまま頬被りを続けるのだろうが、公共放送の仮面をかぶったNHKの素顔は隠しきれるはずもない。

米国から見た日本の台湾統治~「知られざる台湾・台南市」より


「小さな木の実」の原曲を発見!

2010年04月03日 21時19分09秒 | 音楽・映画
「あれは何ていう曲だっけ?」と思うことは誰にもあること。
私の場合、「NHKみんなの歌」で放送された「小さな木の実」(1971年)の原曲とされるビゼーの組曲「美しいパースの娘」を長い間探していた。

以前、同好の方からこの組曲をCDをいただき愛聴しているが、不思議なことにそのCDの中には「小さな木の実」のメロディ(セレナード)は収録されていなかった。

昨日、たまたまリコーダーを習っている家人が「トセルリのセレナードを次に練習するのだけれど、楽譜かCDを持っている?」と言い出した。そこで楽譜を探したが見つからず、「不滅のセレナーデ」というアルバムを引っ張りだした。これは、英国のフランク・チャックスフィールド楽団が1958年に録音したアルバムで、クラシックの小品であるセレナーデを14曲収録している。

 (「不滅のセレナーデ」フランク・チャックスフィールド楽団)

このアルバムを久しぶりに家人と一緒に聴いてみたら、何と2曲目に「セレナーデ~美しきパースの娘より」が入っているではないか。この曲のライナーノーツには次のように書かれていた。
「…ビゼーは”カルメン”の他にも多くの歌劇を書いているのですが、それらの評判は芳しくなく、今では殆ど上演されることはありません。この曲は彼がスコットランドをテーマに書いた歌劇”美しいパースの娘”の中の曲で、歌劇自体は失敗作でしたが、その中から美しい5曲を選んで組曲にしたものの”セレナーデ”と呼ばれる部分です。」

実際に聴いてみると、まさに「小さな木の実」と同じメロディ。昔から持っていたアルバムに入っていたとは、夢にも思わなかった。同時に、何故「小さな木の実」を聴いたとき、デジャブ感覚がしたのかが判明した。

組曲「美しいパースの娘」が入ったクラシックのCDは、ほとんど見つけることができない。しかも、その一枚を実際に聴いてみても、肝心のセレナードの部分は入っていなかったのだ。ところが、イージーリスニング音楽に属するはずのフランク・チャックスフィールド楽団のアルバムには、このセレナーデが入っていたという次第。

ようやく宿題の一つを解いたような気分になった。これで今夜のビールは美味いかも知れない。



大庭照子 - 小さな木の実