澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「赤い星は如何にして昇ったか」(石川禎浩著)

2018年11月30日 00時18分06秒 | 

 「赤い星は如何にして昇ったか~知られざる毛沢東の初期イメージ」(石川禎著 臨川書店 2016年)を読む。



 エドガー・スノー著「中国の赤い星」(Red star over China)は、世界に初めて毛沢東の素顔を伝えた著作として有名だ。本書は、この「赤い星」、すなわち毛沢東のイメージが如何にして形成されてきたかを、様々な資料を駆使し明快に分析する。

 その昔、中高の社会科教師に勧められて「中国の赤い星」を読まされた世代の一人である私は、本書を読んで苦笑することしばしばだった。当時、我が町の図書館には貧弱な蔵書しかなく、仕方なく「中国の赤い星」を書店で購入、まるで要約文のような感想文を書いたことを思い出す。毛沢東と中国共産党の「中国革命」の実相は、今でこそ明らかになっているものの、40年も前には、この「中国の赤い星」に感銘を受け、何がしかの影響を受けたという若者が少なからずいた。インターネット、ケータイで自由に情報検索ができて、図書館にも読みたい本が揃っている現代では考えにくいことだが、教師に勧められた本の影響力は絶大だった。
 「中国の赤い星」には毛沢東がE.スノーに語った「自伝」が含まれている。毛が個人史を語ったのはこれだけなので、後発の数々の毛沢東研究、中共(=中国共産党)研究の自伝的部分はすべてこの本に拠っている。大昔、中国史家の貝塚茂樹が書いた「毛沢東」(岩波新書)は、人道主義者・毛沢東のイメージがあふれていた。それは、この「自伝」部分の曲解によるものとしか思えなかった。

 著者は、この「中国の赤い星」の初出から改訂版、日本語、さらに英・独・露・中国語の様々な版を比較検討する中から、コミンテルンの横暴、ご都合主義を描き出す。コミンテルンの関与については、ひと時代前の研究者は「大甘」だったように思われる。すなわち、岩波文化、進歩的文化人が花盛りの時代にあっては、コミンテルンの暗部については、見て見ぬふりだったのかもしれない。

 我が息子が小さいころ、書棚にある毛沢東関連本をみつけて、「なんで”けざわひがし”の本がたくさんあるの?」と私に訊いた。その頃から、私はその種の本を読まなくなったが、本書だけは稀に見る面白さで、一気に読了してしまった。
 
 



 


「離韓」はまずパチンコから

2018年11月15日 12時38分50秒 | 政治

 今朝の「虎の門ニュース」でジャーナリスト・有本香がBTS(防弾少年団)問題を採りあげ、「結局、韓国とは距離をおいて付き合うほかはない。”離韓”(りかん)を提唱したい。」と話した。
 有本さんの話はごもっともだと思ったが、ひとつだけ肝心なことが抜けているとも感じた。それは、いつものごとく、パチンコの景品換金問題だ。健全娯楽・遊戯としてのパチンコを止めろというのではなく、特殊景品の換金を止めろという話だ。景品換金は都道府県条例によって黙認されているのが現状。この条例を改正するだけで、ギャンブルとしてのパチンコの根は絶たれる。形式上、日本政府の関与ではなく、地方自治体レベルの決断で可能なのだから、「離韓」のための絶好の手段ではないのか。

 パチンコマネーが北朝鮮のミサイル開発を可能にし、在日朝鮮・韓国人の日本社会浸透の手立てとなっているとすれば、これこそ「離韓」の核心問題なのだが…。

【DHC】11/15(木) 有本香×百田尚樹×居島一平【虎ノ門ニュース】


戦前の青春がここに~旧制松本高校・旧制高等学校記念館

2018年11月01日 11時40分32秒 | 散歩

 松本城を散策したあとは、旧制松本高校校舎が保存されている「あがたの森公園」へ。中町通りから周遊バス(グリーンコース)で「旧松本高校」へ。ほんの10分程度だが、歩くにはちょっときつい。4つのコースの周遊バスが20~30分程度の間隔で運用されている松本の交通網は便利でありがたい。

 旧制松本高等学校の校舎は、ごく一部が保存されているに過ぎない。昭和40年代まで、松本高校の校舎、学寮などの建築物は解体されたまま、見棄てられた状態だった。廃材として処分される寸前に、保存運動が起こり、教室棟の一部が当時のまま修復、再現され、旧校地を引き継いだ「あがたの森公園」に保存されている。その隣には新たに建てられた「旧制高等学校記念館」があり、たまたま「旧制高校有名教授展」が開催中で、新渡戸稲造、猪木正道などのよく知られた名前が見られた。



 もう30年も前になるだろうか、旧制高等学校卒業生が毎年開く「日本寮歌祭」がTVで放送されていて、それを見た私は「アナクロ(時代錯誤)でおぞましい」と思った。だが、旧制高校体験者がほぼいなくなったいま、この跡地を訪れてみると、全く別の感慨を覚えた。それは月並みなのだが、旧制高校制度の廃止は、日本の弱体化を至上命題とするGHQの占領政策のひとつだったに違いないということだ。

 昨今、TVのバラエティ番組などを見ると、早慶程度の卒業者を「高学歴」「名門校」と囃し立てる。国立一期校、国立二期校そして私立大学という明白な序列を知る私のような世代では、かつて二期校だった横浜国立大学経済学部や東京外国語大学が早慶などの私立大学よりも下位にあるなどとは、今でも到底信じられない。その伝で言えば、旧制高校出身者は「大学」と言えば帝国大学であり、私立大学などは「大学のようなもの」としか見ていなかったはずだ。不幸にして旧制高校に入れなかった当時の優秀な学生は、私立大学よりも東京外国語学校などの官立専門学校に進んだ。それらは「大学」とは名付けられていなかったものの、私立大学よりはその質と内容において上位にあったからだ。

 そのことを物語るデータを「旧制高等学校記念館」の展示の中に見つけた。

 これは各旧制高校の卒業生の進学先(1922-1945年)を示したデータ。これを見て明らかなのは、卒業生の進路は、ほぼ次の官立20大学に限られている。

《帝国大学》8大学
東京、京都、北海道、東北、大阪、名古屋、京城、台北

《医科大学》6大学
新潟医科大学、岡山医科大学、千葉医科大学、金沢医科大学、長崎医科大学、熊本医科大学

《工科大学》2大学
東京工業大学、旅順工科大学

《文理科大学》2大学
東京文理科大学、広島文理科大学

《商科大学》2大学
東京商科大学、神戸商業大学

 戦後、旧制高校は廃絶され、その組織は新制国立大学に吸収された。その際、上記の旧制官立大学はすべて国立大学一期校に、そして旧制高校→帝国大学・旧制官立大学(上記の20大学)のライン外にあった官立専門学校は国立大学二期校とされた。
  旧制高校は平均して200名程度の少人数で、全寮生活に特色があった。学生たちは、人生や天下国家を論じるとともに、青春の火を燃やした。現在の大衆化社会においては、もはや望むべくもない少人数エリート教育だった。GHQは、このような「古き良き日本」を根絶やしにしたかったのだと思い至る。

 名ばかりの大学、羊頭狗肉の大学しか知らない私には眩しいばかりだったが…。

















秋天のもと、松本城を散策

2018年11月01日 10時30分22秒 | 散歩

 昨日(10月31日)、高速バスで松本市へ。5月以来二度目の松本散歩。秋晴れに恵まれ、暖かく風もない。午前11時過ぎに松本バスターミナルに到着。さっそく、うなぎ専門店「まつ嘉(か)」へ。


 うなぎ丼(一匹分) 3,600円

 「まつ嘉」のメニューは「うな重」(1.5匹分 5,200円)と「うな丼」(1匹分 3,600円)の二種類のみ。うなぎは香ばしく、タレはやや甘め。満足感は静岡・三島の「さくら家」と比較しても、いい勝負。

 食後、中町通りを経て松本城へ。五月に来たときは、城内に入り、天守閣まで登ったので、今回は城の周囲を散策。
 秋晴れのもと、湿度も低かったので、とにかく空が高く、城の輪郭がくっきりと浮かぶ。格好の写真日和となった。

 いろいろな角度から松本城を撮ってみた。こんな感じに…。