澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

映画「沖縄 うりずんの雨」

2015年06月30日 06時26分02秒 | 音楽・映画

 映画「沖縄 うりずんの雨」を観る。週日の昼間、「岩波ホール」はインテリ風(?)のジジババばかりで、若者は一人もいない。
 私がこの映画を見ることになったのは、いま聴講している授業で、この映画のレポートを書く課題が出たから。でなければ、はるばる(畏れ多い?)「岩波ホール」に足を運ぶこともなかっただろう。

 折しも百田尚樹氏の発言が「朝日」「毎日」などに袋叩きにされ、「沖縄の心」を踏みにじる発言は許せない、という風潮が作り出されている。「沖縄」に心を寄せ、「戦争ができる国」に反対する「市民」が、これらの新聞のよき読者であり、この映画を見る人なのだろうか。

 けれども、私はこの映画を見て、全く別の感慨を抱いた。冒頭の沖縄本島を空から俯瞰する映像を見てすぐに感じるのは、沖縄戦は「逃げ場のない」戦いだったということだ。兵士、島民ともども、一蓮托生の戦いだった。
 1945年4月に始まった沖縄戦は6月には壊滅的敗北で終わる。この間、沖縄島民は「日本と天皇を信じて戦った」(太田昌秀)のだった。沖縄戦が終わったあと、米軍の本土爆撃はさらに苛烈を極め、8月には広島、長崎への原爆投下、そして敗戦に至る。この期間だけでも、100万人近い日本人が犠牲になったはずだ。

 日米戦争を回避できず、「一億玉砕」に至るまで戦争を収束できなかった、その責任はいったい誰にあるのか?木戸幸一の日記(木戸日記)には「東京裁判の判決後、天皇陛下は自発的に退位されるであろう」 と記されていた。しかし木戸の予測に反して、戦争責任を問われる心配がなくなったあとでも、昭和天皇は自発的に退位などしなかった。累々たる屍の上に築かれたわが身の安泰!これはだれも責任をとらない、「曖昧な日本」そのものの姿ではないのか。

 だからと言って、天皇の戦争責任を問い詰める側に政治権力がわたっていたら、「曖昧な日本」が変わっていたかと言うと、そうとも思えない。福島原発事故の危機のさなか、日本政府(民主党政権)は徹底した情報統制を行った。菅直人首相は、福島原発に”話し合う”ために乗り込み、枝野幹事長は「現時点では何の問題もない」と繰り返すだけ。その一方でNHKなどで放送されていた各国の海外ニュースをすべて遮断した。ZDF(ドイツ)は早くから福島原発の速報を伝えていたので、ドイツの友人は私に「福島原発はメルトダウンしているから早く逃げて!」というメールを送ってきた。3月15日前後の危機の一週間、国民は「原発はメルトダウンしていない」と信じ込まされ、放射性物質が降り注ぐなか、会社や学校でいつもの日常生活を強要された。あのとき、われわれはこの国が「逃げ場のない、一蓮托生の国」であることを実感させられた。まるで操り人形のようなこの国の「民草」…。沖縄と本土が私の中で初めて一体化したときだった。

 この映画を作ったジャン・ユンカーマン監督は、どうみても完璧な市民派左翼。その目線で沖縄を映し出すと「岩波」御用達のこのような映画が出来上がるのだろうけれど、そこには決して触れられないことがある。日本の安全保障はどうあるべきか、という政策論、未来像だ。
 米国が世界戦略として、沖縄に基地を置くのは理解できる。だが、米国が未来永劫、東アジアに関心を持ち続けることなどありえず、そのような他国に身を委ねてしまうリスクを考えないのは極めて無責任な話だ。米軍を追い出し「基地のない平和の島・沖縄」が実現したとしても、沖縄群島の安全保障は誰が担うというのか?そういう肝心の議論は素通りしてしまうこの映画の中にも、自己欺瞞的な無責任、言葉だけのきれいごとが息づいているとしか思えない。いや、これはプロパガンダ映画だよ、と言ってしまえば、それまでだが…。


 

 


「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(佐藤公彦著)

2015年06月29日 08時44分38秒 | 

 佐藤公彦教授の新刊著「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(集広舎 2015年)の書評が、昨日の「産経」に掲載された。(下記参照)
 
 佐藤公彦氏は、今年の3月まで東京外国語大学教授。現在、同大学名誉教授で中国近代史・東アジア国際関係史が専門。

 私は、最近、二年間にわたってこの佐藤公彦教授による「近代東アジア国際関係史」「近代中国とキリスト教」「現代世界論」の講義を聴講する機会を得た。教授は、毎回手作りのレジュメ、資料を配布し、学生が歴史に関心を持つように工夫されていた。「現代世界論」では、「南京大虐殺」を採りあげた際、学生に対して「君たち(=外語大生)は国際的な仕事に就いて、外国人と交流することも多いだろう。相手から議論を吹きかけられたとき、きちんと歴史的事実に基づいて反論しなければならない」と繰り返したのが印象的だった。その言葉どおり、懇切丁寧で情熱あふれる講義は、外大生の間でも人気が髙かったはずだ。聴講生の私でも、すっかり佐藤先生のファンになってしまった。 

 この5月には、読売新聞社の主催で講演会も開かれたという。参加できなかったのが、かえすがえす残念でならない。この講演会でも、佐藤教授は「中華帝国」として復活した現代中国の根源が「反外国主義」すなわち「反日」であることに警鐘を鳴らし、同時に日本が中国主導の「アジアインフラ投資銀行(AIIB)に加入しなかったことについては「外務省の怠慢」と指摘したと伝えられる。



 実は、佐藤教授の最新刊「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(集広舎 2015年)は、まだ私の手元に届いていない。

 そこでここに、楊海英・静岡大教授による「書評」(「産経」2015.6.28)を引用させていただく。

            「敵であり続ける必然性」  

 「中国もの」が毎月、溢れるほど出版されていても、日本人など世界の人々は中国と中国人が理解できない。強烈な違和感を覚える隣国は近代から現在に至るまで、ずっと日本の躓き(つまずき)の石だった、と著者は看破する。
 異文化と出合った時に中国は「外国人嫌い(ゼノフォビア)」と「神秘的な法術(邪教)」で対応してきた。具体的には、「反韃子(ダーツ)」と「反外国主義」の形式で現れる。韃子とはモンゴルなどユーラシアの遊牧民を指すが、「東夷、南蛮、西戎、北狄」など中華周辺の諸民族の総称でもある。一方、「外国」の範疇には主としてキリスト教文化圏の西洋諸国が入るが、倭・日本は「韃子」と「外国」の二重性を持つ、と中国に認識されている。
 「反韃子」と「反外国」の近代史はアヘン戦争と太平天国の乱、義和団(拳匪)事件など大清帝国の衰退期を経て、中華民国期の「反キリスト教運動」、そして中華人民共和国時代のキリスト教弾圧運動と今日の反日主義へと繋がる。その結果、「反韃子」で成立した中国人(漢民族)による中国人のための国家は必然的に対内的にはチベット人やモンゴル人などを弾圧の対象とするし、日本などは絶対に「敵」であり続けなければならない。
 躓かされた日本は自省の念も含めて中国をマルクス主義の階級論に即して善意的に解釈しよう、と戦後に努力してきた。しかし、反帝国主義史観では、「扶清滅洋」、すなわち「清朝を助けて西洋を滅ぼす」目標を唱えた義和団事件の解明には至らない。「人民」が「搾取階級」を打倒して「民主政権」を建立したという革命史観では中華人民共和国の専制的特徴について説明しきれない。社会主義の進歩史観は20世紀の流行だったが、それでも中国を分析する武器にはならなかった。
 リベラル派歴史家は、「中国と中国人を区別しよう」との空論を死守しようと踏ん張る。「中国」という国家は中国人が運営しているからこそ、国際社会の異質な存在だ、と本書は中国ナショナリズムの本質を解剖している


 なお、国分良成・防衛大学校長による書評も、6月14日付の「日経」に掲載された。 

 



 
 
 


モーリー・ロバートソンが「ホルホル番組」を斬る

2015年06月27日 22時24分37秒 | マスメディア

 最近のTV番組で目障りなのが、ホルホル番組と呼ばれる日本礼賛番組。以前、このブログでも「自画自賛の”ホルホル番組”は何のため?」という駄文を書いたことがある。

 先ほど、友人が鬼才モーリー・ロバートソンのある記事を教えてくれた。バラエティ番組で「日本をホメる外国人」を無邪気に受け入れる”バカ”を卒業しようと題して、鋭く問題の本質を衝いている。



 日本語という「ガラパゴス化」した世界の中でますます劣化が進むマスメディア。日本のTV局につける薬はないので、当面、アホなTVなど見ないことが最上の方策だと彼は言う。

 閉塞した日本語空間という指摘は、さすがにモーリー・ロバートソンだ。福島原発事故のTV報道を通じて分かったことは、海外の英語メディアを制限してしまえば、日本人を情報統制することなどたやすいということだった。事実NHKは、毎日放送していたBS放送の海外ニュースを突如停止し、非常時の災害報道に切り替えた。このことにより、福島原発はすでにメルトダウンしているというZDF(ドイツ)などの報道は一切視聴者に伝えられなくなった。要は、あのとき、情報統制、世論誘導の社会実験はすでに行われたのだった。

 古舘の「報道ステーション」を真に受けて、「戦争ができる国」を本気で心配する視聴者こそ、TV局が赤い舌を出して喜ぶ「お客さま」なのだと実は気づくべきなのだろう。
 意図的に方向づけされた情報社会のなかで、「オリンピック」「おもてなし」「絆」「平和」などと踊らされているうちに、ある日突然、本当の危機がやってくる。そんな暗い予感が…。

 

バラエティ番組で「日本をホメる外国人」を無邪気に受け入れる“バカ”を卒業しよう

 

2015年6月27日(土)6時0分配信 週プレNEWS 

『週刊プレイボーイ』本誌で「モーリー・ロバートソンの挑発的ニッポン革命計画」を連載中のマルチな異才・モーリー・ロバートソンが語る。

***

近年、NHKでも民放でも、“日本礼賛(らいさん)型”のバラエティ番組が増えています。そこで重用されるのが、流暢(りゅうちょう)な日本語でひたすら「日本は素晴らしい」と言ってくれる外国人タレント。“日本をホメる外国人枠”が明らかに存在します(実は、僕もこの役割を求められたりします)。

当たり前の話ですが、実際にはそういう日本語ペラペラな外国人はごく一部。99.9%は「日本語を話せず、日本に興味もない」人々です。しかし、そんなことすら考えもせず、多くの人が無邪気に喜んでいる現状は結構ヤバい。

この“日本礼賛”に代表されるメディアの劣化は、ドキュメンタリーや報道のジャンルにも表れています。テンプレート化した「お涙頂戴(ちょうだい)」のストーリーに合致する答えだけを探し、切り貼りしていく。取材に十分なリソースを割かず、専門家でもないコメンテーターに「あらかじめ決まった結論」を語らせる…。TVも紙媒体もネットも、一様に“落としどころ主義”が横行してファストフード化しています。

もちろん海外にもファストフード化したメディアはありますが、英語圏では優秀なジャーナリズムがトップに君臨しているため、ある程度の淘汰(とうた)作用が働く。影響力のあるメディアはあまり乱暴なやり方はしない。こうした競争が起こらないのは、日本語という“ガラパゴス”の弊害もあるかもしれません。

そのためか、多くの日本人はメディアに対して客観的な視点を持っていない。例えば、『報道ステーション』に政権から圧力があった、なかったという騒ぎにしても、大前提として視聴者が「TV」や『報ステ』という看板を過大評価していたから起きたこと。「そもそもあの番組は、“小さなカンシャク玉”を投げては騒ぐファストフード・ニュースじゃないか」という冷静な視点があれば、賛否どちらもあそこまで熱くはならなかったでしょう。

それにメディアは一方的に劣化しているわけではなく、受け手側のニーズに応えて「作品」を作っています。そのニーズをひと言で表せば、こうなるでしょう。

「毎日、驚きや感動が欲しい」

インスタントにカタルシスを感じたいという需要に応じて、メディアは意図的に人間の心理をくすぐる“感動的なネタ”や“わかりやすい怒り”をプロレスのように提供し続ける。すると、受け手側はだんだんリテラシーが低くなるーーはっきり言えば「バカ」になる。

それに合わせて、本当は複雑な現実をよりインスタントに、4コママンガ的な単純な展開に落とし込んだ「作品」が作られる。この共依存の結果、全体の知的レベルが下がっていく…。完全に負のスパイラルです。

もはや、作り手の側からこの状況を変えることは非常に難しい。まずは受け手の側が「バカな消費者」を脱するしかないでしょう。依存症の更生プログラムに着手し、意志を持ってマーケットに「ファストフードは食べない」というシグナルを出すーーつまり、レベルの低いメディアは相手にしない。

現実の本当の面白さを提示してくれる、噛(か)み応えのあるメディアをきちんと評価できる体力をつける。そこから始めれば、少しずつメディアの側も変わっていく可能性はあると思います。

●モーリー・ロバートソン(Morley Robertson)



1963年生まれ、米ニューヨーク出身。国際ジャーナリスト、ミュージシャン、ラジオDJなど多方面で活躍。レギュラーは『NEWSザップ!』(BSスカパー!)、『モーリー・ロバートソン チャンネル』(ニコ生)、『Morley Robertson Show』(Block.FM)、『所さん!大変ですよ』(NHK)など。本当に日本がすごいと思うのは文房具のクオリティ!


イージーリスニングの巨匠、ジェームス・ラスト逝く

2015年06月12日 06時26分38秒 | 音楽・映画

  ドイツのイージーリスニング音楽の巨匠、ジェームス・ラストの訃報が伝えられた。享年86。
「ムード音楽」「イージーリスニング音楽」のマエストロが次々と去っていく。

 およそ7年前、このブログでも「イージーリスニング音楽最後のマエストロ」と題して彼について書いたことがある。当時、引退が報じられたため、その音楽活動について私見を記した。

 1976年のBBCスタジオ・ライブ(下記参照)は、まだ若々しく颯爽としたハンス※の姿をみることができる。
 ※ ハンスは、ジェームス・ラストの本名。当初、ハンス・ラスト楽団と呼ばれていた。 

 今年のウィーンでのコンサートは、重病を抱えながらのラスト・コンサートで、聴衆、楽団員からも特別な感情が伝わってくるような気もする。この映像からは、時の流れには誰も抗えないという厳粛な事実を感じてしまう。
 
 1950~60年代にかけて、オーケストラ演奏によるポピュラー音楽が全盛を極めた。ドイツからは、ウェルナー・ミューラー(リカルド・サントス)とベルト・ケンプフェルトが先駆けとなり、巨大音楽市場である米国でもてはやされた。ジェームス・ラストの登場は、イージーリスニング音楽の人気がやや陰りを見せ始めた60年代後期で、1968年「恋は水色」で大ヒットを飛ばした、ポール・モーリアとほぼ同時期でもある。この両者は、マントヴァーニ、フランク・チャックスフィールドなどのオーソドックスなオーケストラ音楽とは異なって、ロックのビートを取り入れ、弦楽器についてもPA(Public Address 拡声装置)を多用するところが特徴的だった。

 だが、ジェームス・ラストの音楽は、YouTubeにUPされたライブ映像を見ればわかることだが、卓抜したアレンジ、プレーヤーの演奏技術の高さという点で、ポール・モーリアなど及ぶところではない。1970年代にNHKが招聘して行われたライブ録音を聴いても、その音楽の素晴らしさが実感できる。

 これで、イージーリスニング音楽のマエストロは私の知る限り、ミシェル・ルグランカラベリを残すのみとなった。         

 
(アルフレッド・ハウゼ楽団「碧空」は、ジェームス・ラストの編曲だった)

  
(2015年4月ウィーンでのラスト・コンサート)

 
(1976年BBCスタジオ・ライブ)


(ショスタコーヴィチ「セカンド・ワルツ」)

             独作曲家ジェームス・ラスト、86歳で死去

ドイツ出身の作曲家ジェームス・ラストが86歳で死去した。ジェームスが9日(火)、フロリダの自宅で家族に見守られながら静かに息を引き取ったとマネージャーが認めた。1964年にデビューアルバムをリリースして以来、自身のトレードマークだった「幸せな音楽」で何百万枚ものアルバムセールスを記録し、イギリスなどのテレビ番組でも愛された人物だった。

妻クリスティーンと子供2人を持つジェームスは、昨年9月に命に関わる病にかかっていることを明らかにすると同時に「たくさんの計画を持つ男がペースを落とすだけでなく、ツアーも一緒にあきらめなければならない」として最後のツアー日程を発表していた。3月と4月にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでサヨナラコンサートを開催したあと、4月26日にドイツのコロンで人生最後の公演を行った。

2月にサヨナラコンサートを発表した際、ジェームスは「重要なことは、私のファンたちが彼らの人生で最高のコンサートを体験するということであって、私達はこのコンサートを今までにない『最も幸せな』ものにすることです」とコメントしていた。

最後となるアルバム『ミュージック・イズ・マイ・ワールド』は4年前になるものの、ある時点では毎月2枚のペースでアルバムをリリースするほど何百もの作品を世に送り出した。


アクセラの「マツコネ」(マツダコネクト)を更新してみたら…

2015年06月01日 21時12分40秒 | hobby

 きょう、マツダ・アクセラ・ハイブリッドのカーナビ、通称「マツコネ」(=マツダコネクト)のSDカードを更新してきた。

 昨秋、購入したアクセラ・ハイブリッドは、スタイルも走りもなかなかよくて、自分的には十分満足していた。

  市街地走行燃費は、およそ20km/L(実測値)

 だが、このアクセラに付属するカーナビの「マツコネ」は、散々の評判だった。アクセラやデミオが売れない最大の理由は、この「マツコネ」があるからだ、とまで言われていた。

 マツダ以外のメーカーの車は、複数のナビの中から選択できるのだが、マツダ車には自社の「マツコネ」が標準装備されている。他社の車のナビは、何種類かのオプションの中から選んで、およそ10万~15万円かかるのに対して、「マツコネ」は4万円程度(=マツコネにインストールするカーナビ情報のSDカードの代金)なのだから、むしろリーズナブルな設定だと私は思った。つまり、同クラスの車を比較した場合、マツダ車は、ナビの価格の分だけ、他社より割安感がある。また「マツコネ」はナビゲーションだけでなく、CD,DVD、USB,ブルートゥース、ラジオ、TVなどを一括してコントロールできるのだから、面倒くさい操作が嫌いな人にはもってこいとも思われた。だが、実際ナビを使ってみると、地図のチープさ、あまりにも不親切なアナウンス音声には、正直困ってしまった。これは、ナビを制作したのがハンガリーの企業で、欧州仕様の車(アクセラはMazda3という名前で欧州等で販売)には、その程度の緻密さで十分だったからだという。
 メカ好き、クルマ好きの一部日本人ユーザーは、この「マツコネ」の”ラフ”(粗雑?)な部分だけを採り上げ、さも致命的な欠陥であるかのように騒ぎ立てた。それは、発売されたばかりのアクセラにとって、相当な痛手となった様子だった。


 更新以前の「マツコネ」画面(写真中央および右)は、メカにうるさい日本人にはラフさが目立ったが…

 ユーザーの不評に対応して、先日、マツダからこの「マツコネ」を無償で全面改訂するという通知が届いた。(下記のとおり。)

 結論的に言うと、新しい「マツコネ」のナビは、期待した以上に改善されていた。まず、けばけばしい(まるで子供が書いたような)地図が、落ち着いた普通のナビの地図に変わった。(下図参照)目的地設定をすると、途中の経路の要所ごとに、分岐点の目印が表示され、アナウンスもきめ細かになされる。昨日までの「マツコネ」とは雲泥の差だ。
  新しいナビシステムは、改めて日本企業に委託して作られた。全面改訂と言うよりも、むしろ新しく生まれ変わったというべきかもしれない。

 実は、これまでの「マツコネ」では、厳密には自宅に戻ることができなかった。我が家に着く直前の細道を必ず指示するのだが、実際にはその細道を通行するのはありえないという道だった。だが、今日からはきちんと家の前までガイダンスをしてくれた。


 これまでのナビ表示(左)と一新された「マツコネ」のナビ(右)

 私がアクセラを気に入っている最大の理由は、Boseのサウンド・システム。これについては、このブログでもすでに書いたことがある。
 Boseサウンド・システムに加えて、ナビが大幅に改善されたことで、アクセラのウィークポイントは一掃され、その魅力は倍加したと断言できる

 新しい「マツコネ」を搭載したデミオ、CX-3も、これでウィークポイントがなくなった。 

 

マツダコネクト及びナビゲーション用SDカード
に関する重要なお知らせ

 

日頃はマツダ車をご愛顧いただき誠にありがとうございます。
アクセラ / デミオに搭載しているマツダコネクト及びナビゲーション用SDカードにつきまして、以下の通りご案内申し上げます。

1. 『マツダコネクトの商品性向上』について

この度、マツダコネクト及びナビゲーションの商品性向上に関わる対応といたしまして、アクセラ / デミオに搭載しているナビゲーションを新開発のものへ無償で変更いたします。また、この変更に伴い、マツダコネクトのソフトウェアも更新いたします。
なお、変更いたしますナビゲーションは、日本市場での使いやすさ向上の為に新たに開発し、新型CX-5 / 新型アテンザ / CX-3に搭載しているものでございます。

[対応の概要]

■対象車両
 ①車名 :マツダ
  通称名:アクセラ/アクセラハイブリッド
  型式 :DBA-BM5FS、DBA-BM5AS、DBA-BMEFS、LDA-BM2FS、DBA-BM5FP、DBA-BM5AP、DAA-BYEFP
      ※上記型式のうち、マツダコネクト『7インチセンターディスプレイ』付き車

 ②車名 :マツダ
  通称名:デミオ
  型式 :DBA-DJ3FS、DBA-DJ3AS、LDA-DJ5FS、LDA-DJ5AS
      ※上記型式のうち、マツダコネクト『7インチセンターディスプレイ』付き車

■対応の内容
 マツダ販売店にて以下を無償で実施させていただきます。
 ・『ナビゲーション用SDカード(B45C 66 EZ1)』の『ナビゲーション用SDカードPLUS (G46Y 79 EZ1)』への交換
 ・パワートレインコントロールモジュールおよびコネクティビティマスターユニットのソフトウェアの書き換え(更新)

■商品性向上の主な内容
 ・日本メーカー製のナビソフトと地図データの採用によりナビゲーションの正確さと使いやすさ
 ・USB/ブルートゥース接続等のエンターテイメントやコミュニケーション機能の動作安定性

  詳しくは以下のページをご確認ください。 
  https://www.fastcloud.jp/mazda/web/faq/faq650.html

■開始時期
 ・2015年5月21日より開始いたします。

  詳しくは以下のページをご確認ください。
  (「アクセラ/デミオのサービスキャンペーンについて」平成27年5月21日開始)
  http://www2.mazda.co.jp/service/recall/717/716/718/724/105/99/004618.html

2.『ナビゲーション用SDカード』取り扱いの終了について

この度の商品性向上対応に伴い、アクセラ/デミオ用の『ナビゲーション用SDカード』の取り扱いを終了し、新型CX-5 / 新型アテンザ / CX-3で採用している『ナビゲーション用SDカードPLUS』のみを取り扱わせていただきます。

■『ナビゲーション用SDカード』取扱終了の時期
 ・2015年5月上旬をもって、「ナビゲーション用SDカード」の取り扱いは終了いたしました。