親交のある台湾人ご夫妻が来日。2月25日から3月5日まで八泊九日の予定で、横浜、伊豆半島、デイズニーランドなどを巡るという個人旅行。
一昨日、一緒に今が旬の梅園、古寺などを散策した。昨年は台湾でご子息の結婚式があり、私たちも参加。台湾の結婚式を実体験した。
現在も旅行中のCご夫妻。日本旅行がいい思い出になりますように。
親交のある台湾人ご夫妻が来日。2月25日から3月5日まで八泊九日の予定で、横浜、伊豆半島、デイズニーランドなどを巡るという個人旅行。
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遅ればせながら、「毛沢東~日本軍と共謀した男」(遠藤誉 新潮新書 2015年)を読む。
本書の書評については、国際政治学者である藤井厳喜氏の映像があるので、下記に貼り付けた。
著者の遠藤誉には「卡子(チャーズ) 出口なき大地」(1984年)という自伝的著作がある。二十年以上も前、私はこの本を読んで、大きな衝撃を受けた。新京(長春)における生き地獄のような実体験が、そこには記されていた。
毛沢東や中国共産党について、私たちの世代が読まされた本と言えば、ルポルタージュでは「中国の赤い星」(エドガー・スノー)、「中国紅軍は前進する」(アグネス・スメドレー)、通史では「中国現代史入門」(岩村三千夫)を筆頭に左翼学者が書いた本が推奨されていた。E.スノーなど米国人ジャーナリストのルポは、今から見れば、中共(=中国共産党)のプロパガンダを鵜呑みにした内容であることは明らかなのだが、当時はそんなことは夢にも思わなかったのである。
私は、宇野重昭先生の「毛沢東」「中国共産党史序説上・下」を熟読した。客観的に書かれた名著で、講義も聴講した関係上、今でも記憶に鮮やかだ。さらに「中国共産党史研究」(石川忠雄)も米国の中国研究の影響を受けた「客観的」研究としてよく知られていた。
だがしかし、従来の研究のほとんどは、多かれ少なかれ路線闘争の道筋を描き、その勝者の正当性を主張するという中共党史(中国共産党の公認史観)に依拠して書かれているので、コミンテルンとの関係を筆頭によく分からない点が多かった。
その点、遠藤誉「毛沢東」は、類書とは全く違う。中共を持ち駒と考えるコミンテルンの謀略性、さらにコミンテルンさえも手玉に取った毛沢東の冷酷非情が描かれる。国民党政府軍が日本軍と戦うように仕向け、中共の軍隊である八路軍の温存を図り、大衆に対しては巧妙なプロパガンダを仕掛ける。ただ待つのは日本の敗北のみ。本書の帯に書かれている毛沢東の言葉「日本軍の進攻に感謝する」がすべてを物語っている。
「祖父の日記 ~時を超え 家族に伝える戦争の真実~」(熊本放送制作 テレ朝系放送)を部分的に見た。
冒頭部分を見ていないので、断定的なことは言いたくないのだが、1970年代初め、「朝日新聞」が大々的にキャンペーンを張った「中国の旅」(本多勝一記者)を連想してしまった。「祖父の日記」の孫、井上佳子が、熊本放送のディレクターであり、この番組の制作責任者であることも、放送内容の客観性、公正性を疑わせる結果になっている。自分の息子まで登場させて「感想」を言わせるのには驚いた。ある意味、この番組は井上一族の「私物化」の産物なのかもしれない。
本多勝一の「中国の旅」は、いわゆる「南京大虐殺」、「平頂山事件」を採りあげ、「旧日本軍」の残虐性を告発するとともに、「中国人民」に対する謝罪の必要性を説いた。だがしかし、本多が中国で取材したという中国人生存者の聞き取りは、事実確認の裏付けも行われず、ただ先方の「証言」を書き写しただけということが、今や明らかになった。「中国の旅」が「朝日」に連載された時期は、日中国交回復直前の1971年だったから、この連載はまさに「朝日」の中共政権支援キャンペーンだったわけだ。
「祖父の日記 ~時を超え 家族に伝える戦争の真実~」に本多勝一の臭いを感じるのは、「祖父の日記」の客観的検証をせずに、その内容をそのままエモーショナルに垂れ流し、「戦争は悪い」「今の平和を守ろう」というキャンペーンに利用していることだ。日中戦争の経緯、当時の中国大陸の政治状況、国民政府と共産党(中共)との関係など、基本的な事実を視聴者に示すこともない。これでは、戦争体験者がほぼ消滅しつつある現在、どんな番組を作っても文句を言われたり、事実誤認を指摘されたりする心配はなくなった。だから「祖父の日記」を使って、『青少年に見てもらいたい番組』を作ろうと思った、と疑われても仕方がない。
要するに、手持ちの「素材」で反戦平和を訴えようなどする、番組制作手法そのものが安易な「お花畑」的な発想なのだ、と言えるのかもしれない。「青少年に見てもらいたい番組」こそ、情緒に訴えるのではなく、実証的な内容を心掛けるべきなのだ。
《番組紹介より》
2017年2月11日(土) 10:00 ~ 10:55
番組概要
日中戦争で戦死した祖父が、死の五日前まで書いていた日記…中国にその軌跡をたどる。79年を経て、家族で向き合った祖父の戦争…家族に届いた祖父からの伝言とは?
◇番組内容私(井上佳子)の祖父、井上富廣は、1938(昭和13)年、中国戦線で戦死している。27歳だった。当時祖父には妻と3歳の息子がいた。私の祖母と父だ。召集されるまで祖父は熊本の片田舎で米を作っていた。祖父は出征までの四年間を日記に記している。大地を耕して作物をつくる喜び、伴侶を得たことの嬉しさ、そして軍国の一翼を担いたいという強い思い。四冊の日記は祖母から父に渡り、今私の手元にある。
◇番組内容2祖父は日記帳の一日一日を細かい文字でびっしりと埋めている。天候に右往左往しながらも野良の作業が進む喜びや、結婚して二人仕事となり、おしゃべりしながら精を出す様子など、決して経済的に恵まれない暮らしの中でも前を向いて生きる姿は心に沁みる。そして今回、祖父が中国に行ってからの日記と戦地から妻ツギエにあてた19通の手紙が遺品の中から新たに見つかった。戦地に発ってからの祖父の詳細な足取りがわかった。
◇番組内容3祖父は門司港を出航して上海に上陸後、わずか47日で戦死していた。日記は、上海に上陸直後、家をなくしてさまよう中国人を憐れに思う言葉で始まっている。しかし、前線に近づくにつれ、祖父は次第に戦闘に駆り立てられていく。殺さなければ殺される戦場で、祖父も狂気に飲み込まれてしまったのだろうか。残された日記は、私にとって祖父からのかけがえのない大切なメッセージだ。祖父の戦争を、一日一日を、私が伝えたい。
◇ナレーション井浦 新(俳優)
◇制作企画:民間放送教育協会
制作著作:熊本放送
◇おしらせ☆番組HP
http://www.minkyo.or.jp/
この番組は、テレビ朝日が選んだ『青少年に見てもらいたい番組』です。
カスケーディング・ストリングス(Cascading Strings)とは、マントヴァーニ・オーケストラの代名詞。彼のオーケストラが奏でる、滝が流れ落ちるようなストリングス(弦楽器)の響きを指します。
作曲家としてのマントヴァーニ
作曲家としてのマントヴァーニの活躍は、あまり知られていません。
実は、1950年代に英国でナンバーワン・ヒットとなった「孤独なバレリーナ」(The Lonely Ballerina)は、マントヴァーニの自作曲でした。.
ですがP.Lambrechtというペンネームが使われています。(左記の楽譜参照)
また、デビット・ホイットフィールド(David Whitfield)が、1950年代末にヒットさせ、’60年代にはジェイとアメリカンズ(Jay & Americans)がリバイバル・ヒットさせた「カラ・ミア」(Cara Mia)もマントヴァーニの自作曲です。
両曲とも作曲者がペンネームで記されているため、マントヴァーニの作品だとは、案外知られていないようです。
マリオ・デル・モナコも「カラ・ミア」を唱っていますが、そのCDのライナーノーツには「作曲者(の経歴)は不明」と記されています。
「マントヴァーニ生誕100年」の年である2005年、Vocalion社(英国)からは"Mantovani by Mantovani+All time romantic hits"がCDでリリースされました。
"Mantovani by Mantovani"は、タイトルどおり彼の自作曲10曲を収録しています。(LPとしては1974年にリリースされた。)
アヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニは、1905年11月15日イタリア・ベネツィアに生まれ、1980年3月20日英国ウエールズのタンブリッジで死去した。
バイオリン、ピアノを演奏し、音楽監督、指揮者、作曲者、編曲者として活躍。楽団リーダーとしては最高の成功者であり、ポピュラー音楽の歴史上、最もレコード・セールスを記録した人でもある。
彼の父親はミラノ・スカラ座の首席バイオリン奏者をつとめ、トスカニーニやマスカーニ、リヒター、サン・サーンスのもとで、後にはコベント・ガーデン劇場管弦楽団(ロンドン)で演奏した。
マントヴァーニ自身は、父親よりもむしろ母親から音楽家になるよう励まされたと言われる。最初にピアノを習い、後にバイオリンを学んだ。1912年、家族そろって英国に移住し、16歳になったとき、ブルッフのバイオリン協奏曲第1番を弾き、プロとしてのデビューを果たした。その4年後、ロンドン・メトロポール・ホールで自分の楽団を立ち上げ、ラジオ放送にも乗り出した。
1930年代初頭、ティピカ楽団を結成し、ロンドン・ピカデリーの有名レストランからランチタイムのラジオ音楽番組を放送するとともに、リーガル・ゾノフォンにレコード録音を始めた。
1935年から36年にかけて、彼は米国で2曲のヒットを放った。「夕日に赤い帆」と「夜のセレナーデ」である。このころの代表作を集めたものに「The Young Mantovani 1935-39」がある。
1940年代にはいると、マントヴァーニはロンドン・ウェスト・エンドのショー「Lady behave」
「Twenty to one」「Met me Victoria」などの音楽監督を務めた。彼は、ノエル・カワードの「パシフィック1860」や「クラブのエース」にも加わり、オーケストラ・ピットの指揮者としてルビー・レイン、パット・カークウッド、メリー・マーチン、サリー・グレイ、レスリー・ヘンソンなどを伴奏した。
このころ、英国デッカに録音したレコードには、「緑のオウム」「Hearmy song Violetta」「Tell me Marianne」(ヴォーカル:Val Marrall)がある。
レコード・セールスが期待できるアメリカ市場を目標に定め、彼はさまざまなアレンジを試みたが、たどり着いたのが、編曲者ロナルド・ビンジが思いついたという「カスケーディング・ストリングス」「タンブリング・ストリングス」「カスケーディング・バイオリン」などと呼ばれる手法だった。
「カスケーディング・ストリングス」は、彼の楽団のトレード・マークとなったが、1951年録音の「シャルメーヌ」で初めて使われた。この曲は、もともと1926年のサイレント映画「栄光何するものぞ」のために書かれたものだった。
マントヴァーニは、「ワイオミング」「グリーンスリーブス」「ムーラン・ルージュの歌」「スウェーデン狂詩曲」「孤独なバレリーナ」などをシングル盤でミリオンセラーにした。
彼自身の作品には、「愛のセレナータ」「ロイヤル・ブルー・ワルツ」「赤いソンブレロ」「ブラス・ボタン」「カラ・ミア」などがある。
「カラ・ミア」は、1954年デビット・ホイットフィールドがマントヴァーニの伴奏で歌ってミリオンセラーを記録し、UKチャートで10週間1位を記録した。彼はこの自作曲を自ら弾くピアノをフィーチュアして再録音している。40名のオーケストラにピアノが加わるというアレンジは、当時異例のことだった。
マントヴァーニは、アルバム・アーティストとしても優れていた。デッカの優れた録音技術にも助けられ、100万枚のステレオLPレコードを売った最初の人となった。1955年から1966年の間、彼は28枚のアルバム(LP)を米国チャート・トップ30に送り込んだ。
ロシアを含めて世界中を演奏旅行したが、最も人気が高かったのは米国で、彼の音楽は「ビューティフル・ミュージック」と呼ばれた。
21年間彼のマネージャーを務めたジョージ・エリックによると、米国ツアー中にマントヴァーニが病気になり、キャンセルもやむを得ないと思われたが、聴衆は決してチケットを払い戻しせず、翌年のコンサートを待ち望んだという。
(参考;"The Guinness Encyclpedia of popular Music" )
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《表の見方》 (G):ミリオンセラー・アルバム
日付:そのアルバムが最高位を付けた年月日
週:「ビルボード誌」アルバム・アルバム・トップ40に
チャート・インした週の数
注:注1および注2はモノラル録音。ステレオ録音とは別テイク。
トップ40に入ったマントヴァーニのアルバムは30枚、うち6枚がミリオンセラー。パーシー・フェイスの9枚(※2枚)、ビリー・ヴォーン18枚(※3枚)、ローレンス・ウェルク24枚(※2枚)などと比較しても圧倒的である。
日本では有名なポール・モーリアは、わずかに1枚(1枚)である。 ※ミリオン・セラー(内数)
1955年から86年までの32年間に、「ビルボード」誌の「アルバム・トップ40」にチャート・インしたアーティストをポイント順にランキングしている。すべてのジャンルが対象である。オーケストラ演奏は、ヴォーカルのように個性を際立てさせることが難しい。にもかかわらず、マントヴァーニは8位を占めている。
これからも破られることのない記録と言えるだろう。
1958年にステレオ・レコードが発売され、Hi-Fiブームが起こった。そのため、オーケストラやインストルメンタルのアーティストが上位にランクインしている。マントヴァーニを筆頭に、4・7・10・11・13・16が、そうしたアーティストである。18はクラシックのピアニスト、20はジャズというように、すべてのジャンルを含めたランキングである。
60年代に入ると、オーケストラ演奏のアルバムの人気は次第に下火になったが、マントヴァーニのアルバムは、コンスタントにチャート・インした。ビートルズやローリング・ストーンズの登場にもかかわらず、美しい旋律を求めるファンは変わらなかった。
The top 20 artists by decade 1955-59
The top 20 artists by decade 1960-69
The top artists 20 (1955-86)
Mantovani's albums on the Billboard charts
1 | フランク・シナトラ | Frank Sinatra | 2 | ジョニー・マティス | Johnny Mathis | 3 | マントヴァーニ | Mantovani | 4 | ミッチ・ミラー | Mitch Miller | 5 | ハリー・ベラフォンテ | Harry Belafonte | 6 | エルビス・プレスリー | Elvis Presley | 7 | ロジャー・ウィリアムス | Roger Williams | 8 | テネシー・アーニー・フ ォード | Tennessee Ernie Ford | 9 | パット・ブーン | Pat Boone | 10 | ローレンス・ウェルク | Lawrence Welk | 11 | ジャッキー・グリースン | Jackie Gleason | 12 | キングストン・トリオ | The Kingston Trio | 13 | レイ・コニフ | Ray Coniff | 14 | ペリー・コモ | Perry Como | 15 | ナット・キング・コール | Nat ”King” Cole | 16 | ビリー・ヴォーン | Billy Vaughn | 17 | フォア・フレッシュメン | Four Freshmen | 18 | ヴァン・クライバーン | Van Cliburn | 19 | リッキー・ネルソン | Ricky Nelson | 20 | デイブ・ブルーベック | Dave Brubeck Quartet |
1 | フランク・シナトラ | Frank Sinatra | 2 | ビートルズ | The Beatles | 3 | エルビス・プレスリー | Elvis Presley | 4 | アンディ・ウィリアムス | Andy Williams | 5 | ハーブ・アルパート& ティファナ・ブラス | Herb Alpert & The Tijuana Brass | 6 | レイ・コニフ | Ray Coniff | 7 | キングストン・トリオ | The Kingston Trio | 8 | ローリングストーンズ | The Rolling Stones | 9 | ミッチ・ミラー | Mitch Miller | 10 | レイ・チャールズ | Ray Charles | 11 | バーブラ・ストレイザンド | Barbra Streisand | 12 | ジョニー・マティス | Johnny Mathis | 13 | シュープリームス | The Supremes | 14 | テンプテーションズ | The Temptations | 15 | イノック・ライト | Enoch Light | 16 | ビーチ・ボーイズ | The Beach Boys | 17 | ヘンリー・マンシーニ | Henry Mancini | 18 | ピーター・ポール&マリー | Peter,Paul & Mary | 19 | ビリー・ヴォーン | Billy Vaughn | 20 | マントヴァーニ | Mantovani | 21 | ローレンス・ウェルク | Lawrence Welk |
1 | フランク・シナトラ | Frank Sinatra | 2 | エルビス・プレスリー | Elvis Presley | 3 | ローリングストーンズ | The Rolling Stones | 4 | バーブラ・ストレイザンド | Barbra Streisand | 5 | ビートルズ | The Beatles | 6 | ジョニー・マティス | Johnny Mathis | 7 | ミッチ・ミラー | Mitch Miller | 8 | マントヴァーニ | Mantovani | 9 | キングストン・トリオ | The Kingston Trio | 10 | レイ・コニフ | Ray Coniff | 11 | ボブ・ディラン | Bob Dylan | 12 | テンプテーションズ | The Temptations | 13 | エルトン・ジョン | Elton John | 14 | アンディ・ウィリアムズ | Andy Williams | 15 | ハーブ・アルパート& ティファナ・ブラス | Herb Alpert & Tijuana Brass | 16 | ローレンス・ウェルク | Lawrence Welk | 17 | ビーチ・ボーイズ | The Beach Boys | 18 | ハリー・ベラフォンテ | Harry Belafonte | 19 | ヘンリー・マンシーニ | Henry Mancini | 20 | シカゴ | Chicago |
Ⅰ.マントヴァーニをめぐって
シャルメーヌ Charmaine
♭♪あなたと会ったあの晩は忘れない 愛していると言ってくれたのに そのあなたはもういない 私をどこかで待ち続けているのか シャルメーヌ…
これは、1926年のアメリカ映画「栄光」(原題「What price glory」)の伴奏音楽として使用された「シャルメーヌ」(Charmaine)の歌詞の一部である。甘い歌詞とメロディを持つこの曲は、1951年マントヴァーニ楽団の演奏で大ヒットし、日本においても同年の年間ヒットチャートで3位を記録した。1958年にはマントヴァーニのアルバム「ワルツ・アンコール」(Waltz Encores) の中に再録音され、そのストリングスの美しさとステレオ録音の素晴らしさでファンを熱中させた。
作曲はエルノ・ラペエ(Erno Rapee)、作詞はリュウ・ポラック(Lew Pollack)である。
シャルメーヌはこの映画に登場するフランス人の少女の名前である。「ライムライト」の「テリーのテーマ」と同じように、この「シャルメーヌ」もサイレント映画のテーマ曲であったため、かえってひとびとに強い印象を残したのだろうか。マントヴァーニだけでなく、多くのシンガー、楽団がレコーディングをおこなっている。ボーカルではフランク・シナトラ、ジャズ系ではトミー・ドーシー楽団、エロール・ガーナー、ムード音楽ではヘルムート・ツァハリアス、ジョージ・メラクリーノ、ジャームス・ラスト楽団など40種類以上のバージョンがある。
またこの曲は意外なところで使われている。ジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」では、精神病院の中で患者の気分を和ませるために、このレコードがかけられるシーンがあった。英国の風刺コメディである「モンティ・パイソン・フライングサーカス」では、、エキサイトしたサッカー試合のバックに全く場違いなこの曲が流された。
現在でも米国ではこの曲と映画を愛するファンが多いとみえ、インターネットを検索すると「シャルメーヌ・クラブ」というホームページを見つけることができる。そこにはこの映画の出演者やシャルメーヌの歌詞、演奏者リストなどの詳しいデータのほかに、シャルメーヌという名前を持つ女性に入会を呼びかけるページまである。シャルメーヌという名前は、彼らにとってまさに古きよき時代を思い起こさせる甘美な響きを持つのかも知れない。
マントヴァーニ楽団のテーマ曲がこのシャルメーヌであることはよく知られている。思えば私自身も35年前この曲のシングル盤を買い、その美しさに心をひかれマントヴァーニのファンとなったのだった。シャルメーヌは、それ以来私の心の片隅にずっと潜んでいたような気がする。そのシャルメーヌにこのたび初めて出会った。HPの中に掲載されているポスターである。
この可憐なシャルメーヌとともに、マントヴァーニとその時代を振り返ってみよう。
マントヴァーニの音楽歴
マントヴァーニの本名はアヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニ(Annunzio Paolo Mantovani)といい、1905年イタリアのベネツィア(ベニス)に生まれた。彼の父親は、アルトゥーロ・トスカニーニのもとミラノ・のスカラ座管弦楽団のコンサートマスターをつとめ、マスカーニ、サン・サーンスなどにも仕えた経歴を持つ。のちにはコベントガーデン管弦楽団を指揮した有名な音楽家であった。
だがマントヴァーニが音楽家になるよう励ましたのは、その父ではなく、むしろ母親であったといわれる。彼は最初ピアノを習い、のちにバイオリンを学んだ。1912年に家族が英国に移り住んだ後、彼は16歳でブルッフのバイオリン協奏曲第1番を演奏して、音楽界にデビューした。
その4年後、彼はポピュラー音楽に転向する。ロンドンのメトロポール・ホテルで自分の楽団を始め、ラジオ放送にものりだした。つづく’30年代の初期、彼は当時流行のティピカ楽団を組織し、ロンドン・ピカデリーにある有名レストランからランチタイム放送をおこなうとともに、レコード録音を開始した。もちろん当時はSPの時代である。このころ、彼は米国で「夕日に赤い帆」(Red Sails in the sunset)「夜のセレナーデ」(Serenade in the night)の2曲をヒットさせた。
’40年代の彼は、音楽ディレクターとしてノエル・カワードの「パシフィック1860」「クラブのエース」に関わり、劇場のオーケストラ・ピットではL・レーン、メリー・マーティンなどの伴奏者として活躍した。このころに彼は後述するロナルド・ビンジ (Ronald Binge)と出会うことになる。
当時アメリカの音楽市場は、英国とは比較にならないほど大きく有望だった。その音楽市場に目標を定め数々の編曲を試すうちに、彼は、ロナルド・ビンジのオリジナル・アイディアとされる「カスケーディング・ストリングス」にたどりついた。それは彼の楽団のトレード・マークとなり、あの「シャルメーヌ」ではじめて使われたのである。’50年代初期にはこの曲以外にも「グリーン・スリーブス」「ムーラン・ルージュの歌(Moulin Rouge theme)」(英国ナンバーワンヒット)、「スウェーデン狂詩曲」「孤独なバレリーナ」(Lonely Ballerina)などのヒットをとばしている。ただしこの時期はモノラル録音のシングル盤が中心であった。マントバーニが世界中で名をあげたのは、アルバム(LP)・アーティストとしてであり、とりわけ1958年にステレオLPが登場してからが彼の独壇場であった。
のちに述べるが、彼は英国デッカ(Decca Records : 米国・日本では「ロンドン」レーベル)の優れた録音技術に助けられ、最初に百万枚のステレオLPを売ったアーティストとなった。1955年から1966年の間に彼は、米国トップ30に28枚ものアルバムを送っている。「ビルボード」誌のチャートについては、のちに詳細にふれたいと思う。
「ある年の米国ツアーの最初にマエストロ(マントヴァーニ)が病気になり、予定されたコンサートをキャンセルしなければならなくなった。ミネソタ大学とミネアポリスのコンサートでは切符を買っていた聴衆が払い戻しを拒否し、翌年のツアーに切符をまわすよう望んだ。」こういうエピソードを長年マントヴァーニのマネージャーをつとめた人物が記している。彼が米国でいかに人気があったかを物語るものである。その彼は、1963年たった一度だけ来日公演を行った。
彼の音楽の最大の特徴は、’60~70年代においてもずっと変わらない音楽傾向を続けたことである。
1980年3月30日英国ケント州タンブリッジ・ウェルズで死去した彼は、その生涯で767曲※の録音を残し、全世界で一億枚以上のアルバム(LP)を売り上げたといわれる。
(※ マントヴァーニはSP時代の録音を含めると、767曲をはるかに超える録音を残している。)
栄光のデッカサウンドとマントヴァーニ Decca Sounds and Mantovani
マントヴァーニの成功は、①ロナルド・ビンジが編曲したカスケーディング・ストリングス、②英国デッカ(ロンドン)社の優秀な録音という二つの要素によるところが大きい。
デッカの名を世界的に轟かせたのは、FFRR、FFSSで知られる優秀録音である。1950年にはFFRR(モノラル録音)のLPレコードを発売、1954年にはステレオ録音を開始、1958年にはFFSS(ステレオ録音)のLPを発売し、その録音技術は他社を圧倒してきた。
デッカは1952年に最初のステレオ録音を実験した。そのとき演奏したのはマントヴァーニの楽団だったことが、R・ムーン著『Full Frequency Stereophonic Sound』(1990)には記されている。録音の重要性を理解していたマントヴァーニらしい試みであり、レコードの歴史を考えるうえでも彼の存在が予想以上に大きいことがわかる。
デッカ録音といえば、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルのワグナー「ニーベルングの指輪」が筆頭に挙げられる。これは「ハイファイ愛好家に喜んで受け入れられ、一方アコースティックな音空間の中でオーケストラのバランスを取るデッカ特有のアプローチ」の最高傑作とされるレコードである。当時のデッカ録音の特徴は、ホール・トーンを適度に捉えつつ、個々の楽器や声をクローズアップして、両者を上手にブレンドする音づくりにあると言われた。これは、ワン・ポイント・マイクによるテラークのデジタル録音などとは対照的である。デッカがパッションフルーツ・ジュースだとすれば、テラークは蒸留水といった感じである。
のちにふれるが、マントヴァーニのサウンドは、人工的に作られたものという見方があった。ところが、実際にはクラシック音楽と同様のポリシーで録音が行われていた。ジョセフ・ランザ著「エレベーター・ミュージック」(岩本正恵訳 白水社 1997: Joseph Lanza "Elevator Music - A Surreal History of Muzak , Easy-Listening, and other Moodsong" 1994 Picador USA) には、そのことを裏付ける次のような記述が見られる。
「マントヴァーニの成功は、初期の頃からずっと録音技師をつとめたアーサー・リリーの力によるところが大きい。たとえば、耳をつんざくロックンロールを録音するためにデッカのスタジオにカーペットが敷かれていたような場合、マントヴァーニが録音の準備をしているあいだに、リリーは率先してカーペットをはがし、エコーの効果を高めた。…残響効果を得るために、彼はストリングスだけでも最低九本のマイクを使った。」
アーサー・リリー(Arthur Lilly)は、プロデューサーのトニー・ダマート(Tony D'Amato)とともに、フェイズ4クラシックスやロンドン・フェスティバル管弦楽団などの録音にも携わっている。彼が録音したフェイズ4クラシックスには、「展覧会の絵」(レオポルド・ストコフスキー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)、「シェエラザート」(L・ストコフスキー/ロンドン交響楽団)、「ローマの松」(シャルル・ミュンシュ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)、「カルミナ・ブラーナ」(アンタル・ドラティ/ロンドン交響楽団)など数々の名盤がある。
フェイズ4録音とマントヴァーニ Phase 4 recordings and Mantovani
このフェイズ4録音(Phase4 Recordings)は、1962年に開始された、デッカが誇るマルチ・チャンネル録音であった。やや遅れて流行した4チャンネル録音とは異なるものである。同時期に定評のあった「マーキュリー・リビング・プレゼンス」(Mercury Living Presence)と比較すると、前述のテラークとの関係と同じことが言えるだろう。マーキュリーのほうは、優秀なワンポイント録音技術が売りものだった。たとえば、チャイコフスキー「大序曲1812年」をレオポルド・ストコフスキーのフェイズ4録音とアンタル・ドラティのリビングプレゼンスで比べてみよう。音の華麗な点ではデッカに、音場感ではマーキュリーに軍配が上がるだろう。
クラシック録音と並行して、デッカは多数のポピュラー・アルバムをフェイズ4で録音した。スタンリー・ブラック(Stanley Black)指揮ロンドン・フェスティバル管弦楽団による 「フィルム・スペキュタクラー(Film Spectacular)」などのアルバム、ロニー・アルドリッチ (Ronnie Aldrich)の2台のピアノによる数々のアルバムをはじめとして、フランク・チャックスフィールド(Frank Chacksfield)、テッド・ヒース(Ted Heath)、エドムンド・ロス(Edmund Ros)、ウェルナー・ミューラー(Werner Muller)など枚挙にいとまがないほどである。
ところが、マントヴァーニについては「キスメット(Kismet)」(1964年)ほか数えるほどしかない。「キスメット」と同時期のアルバムには「アメリカン・ワルツ集(American Waltzes)」(1962年)、「マリオ・デル・モナコと共に(With Mario del Monaco)」(1962年)、「ラテン・ランデブー (Latin Rendezvous)」(1963年)、「マンハッタン(Manhattan)」(1963年)などがあるが、どれもフェイズ4録音ではない。デッカの一枚看板であった彼に、何故この録音が少ないのかは謎である。
これは私の想像だが、彼はフェイズ4録音を好まなかったのではないだろうか。いま手元にボブ・シャープレス制作の一連のフェイズ4録音のCD(吹奏楽)があるが、これを聴くと左右に金管楽器がめまぐるしく移動し、音場がいわゆる「中抜け」となっている。確かに音質はいいのだが、今となっては音作りが不自然で時代遅れに聴こえる。ステレオ効果を意識しすぎて、音楽性が希薄に感じられるのである。マントヴァーニは、このことに早くから気づいていたのではないだろうか。
1973年録音の「An Evening with Mantovani」はフェイズ4録音ではあるが、そのような不自然さは感じられない。木管、金管楽器がクローズアップされ、ドラムスが控え目に入っているところが当代的であるが、独自のスタイルを崩すというほどではない。「静かに音楽を奏で続けた」マントヴァーニの一貫性をここでも確かめることができる。
カスケーディング・ストリングスの秘密 The secret of Cascading Strings
マントヴァーニの特徴は、カスケーディング・ストリングスと呼ばれる弦楽器の奏法にある。初期のマントヴァーニのアルバム(英米盤)には「いかなるエコー・マシーンも使っていない」との注意書きがあった。これはカスケーディング・ストリングスが編曲によるもので、人工的な音ではないことを示す目的があったと思われる。
カスケーディング・ストリングスとは、文字どおり「滝が流れ落ちる」ような弦の響きであり、ロナルド・ビンジの才覚によって生まれたと言えよう。具体的には「シャルメーヌ」や「魅惑の宵」のストリングスを思い起こしてほしい。
ここに「題名のない音楽会 (The untitled concert)」(1994年9月11日、テレビ朝日で放送)で黛敏郎が採り上げた「カスケーディング・ストリングスの秘密」の記録があるので、再現してみたい。当日は三十周年記念の番組であり、過去の企画を回顧するなかでこのテーマが採り上げられた。「魅惑の宵」(Some Enchanted Evening) の冒頭部分のスコアが客席に向かって掲示されたステージ上で、黛敏郎は次のように解説した。
《黛敏郎の解説》
マントヴァーニがアレンジした場合には、バイオリンを4つの部分に分ける。その4つのグループどれ が演奏しても、メロディそのものは出てこない。
(オーケストラ=東京交響楽団が、バイオリンのA~Dの4パートのうち、パートAを演奏する。)
全然メロディを感じませんね。
(次にパートBが演奏される。)
有名なメロディとは似つかわしくない。
(パートCを演奏)
…やっと片鱗は聴こえるが、満足はできない。
(パートDを演奏)
お聴きのように、4つの部分がメロディの一部らしきものをやっているけれども、実際のメロディは出てこない。それは何故かといえば、分散してやっているからです。どう分散してい るかというと交互に(A~Dの)違ったグループに行ったり来たりする。それが一緒になると、他の音 が余韻となっているので、エコーのように聴こえる。これを多用したのがマントヴァーニのアレンジの秘 密である。当時、石丸さんはこんな解説をしておられた。
ここで演奏された「魅惑の宵」は、福田一雄による編曲だった。おそらくロナルド・ビンジによるオリジナル・スコアは、著作権の関係で使えなかったのだろう。しかし、東京交響楽団が奏でた音は、マントヴァーニ楽団と全く変わらないものであった。クラシックの楽団はPA(Public Address; 増幅装置)を使用しないので、ここで生まれたサウンドはすべて編曲によるものであることが実証された。
マントヴァーニの唯一の来日は1963年5月であった。30年前に同様の解説をしたと黛敏郎は語っているので、それがオン・エアされたのは、1964年のことだと推測される。マントヴァーニの弦の秘密は、そのころこの同じテレビ番組で初めて解明されたのである。
黛敏郎も、このとき指揮した石丸寛も今はもういない。ムード音楽にこだわりを持つ世代が次第に少なくなっていることを実感する。
編曲者ロナルド・ビンジ The arranger Ronald Binge
では、カスケーディング・ストリングスを考案したロナルド・ビンジ(Ronald Binge)とは、どんな人物だったのだろうか。
彼は1910年英国のダービーに生まれ、1979年に死去している。ほぼマントヴァーニと同世代である。父親を早く失ったため苦労を重ねたが、ダービーのセント・アンドリュース教会のオルガン奏者件合唱指揮者だった人物からピアノのレッスンを受け、音楽に目覚める。
しかし、貧しかったため音楽学校に進む夢は叶わず、17歳にして映画館のオルガニストとなる。もちろんサイレント映画の時代である。映画の場面に応じて音楽を供給するという経験は、彼の作曲活動に大いに役立つことになった。
アコーディオン奏者兼ピアノ奏者として彼は、1935年にマントヴァーニのティピカ・オーケストラに加わり、同時にすべてのアレンジを担当した。当時のマントヴァーニ楽団は、のちのような大編成ではなく、バイオリン(マントヴァーニが担当)、ピアノ、ウッド・ベース、トランペット、クラリネット、アコーディオンといった編成であった。ちなみに、この頃の演奏は「Vintage Mantovani」(Hallmark 302422)ほかで聴くことができる。
1951年デッカ・レコード社長のヘンリー・サートンは「ビクトリア・パレス・クレージー・ギャング・ショー」に出演中のマントヴァーニのために編曲するようR.ビンジに依頼した。それに応えて彼は、少数の木管楽器をちりばめ、大編成の弦楽器がメロディを奏でるという新しいアレンジを考案した。「シャルメーヌ」のあのサウンドである。これはのちに「カスケーディング・ストリングス」(Cascading Strings)として世界中に知られるようになった。
このストリングスの技法を駆使した彼の作品に「粉雪の踊り」(The Dance of the Snow flakes)という曲がある。そこで彼は、バイオリンを6つのパートに分けて粉雪が舞うパノラマ的な情景を演出している。これはCD「British Light Music~Ronald Binge」(マルコポーロ、8.223515)に収められている。演奏はスロバキア放送交響楽団であるが、確かにマントヴァーニ楽団のような音を出している。
このビンジの技法は、いわばコロンブスの卵であった。誰でもできそうで、誰も試みなかった、そんなスタイルである。マントヴァーニのアルバムを聴くと、どの曲にも必ずカスケーディング・ストリングスを誇示するパートがあり、彼とその他の楽団を区別するスパイスの役割を果たしていることがわかる。
ロナルド・ビンジは編曲者としてだけではなく、作曲家としても有名だった。マントヴァーニ楽団のヒット曲として知られる「エリザベス朝セレナーデ」(Elizabethan Serenade)」は、彼の代表作である。また、50年代後半にデビット・ホイットフィールド(David Whitfield)がマントヴァーニ楽団の伴奏で唱い、60年代に入ってからは米国のポップ・グループ「ジェイとアメリカンズ」で大ヒットした「カラ・ミア」(Cara Mia)は、実は彼とマントヴァーニの共作であった。ペンネームで書かれたこの曲が二人の作品であることは、案外知られていない。
このようにマントヴァーニは不可分の関係にあった彼だが、カスケーディング・ストリングスの編曲者として語られることを好まなかったという。「あれは技術的な仕事に過ぎず、十分な報酬はいただいた。作曲の仕事とは異なる分野だ」というのが口癖だった。マントヴァーニとともに築いた彼のサクセス・ストーリーを人々が早く忘れるよう願っていたとも言われる。
ビルボード・チャートにみるマントヴァーニ Mantovani on the Billboard's Charts
米国の有名な音楽雑誌「ビルボード」 (The Billboard Book)には、アルバム・チャートという部門がある。アルバム(LP)のセールスに基づき順位をつけているのだが、1955年から1986年までの記録を見ても、マントヴァーニが同種の数ある楽団の中でダントツの人気を誇っていたことがわかる。次に楽団名と、それに続くかっこ内には(トップ40に登場したアルバムの枚数)を示してみよう。
《トップ40に登場したアルバム数》
【米国系】
アンドレ・コステラネッツ(1) カーメン・ドラゴン(2) モートン・グールド(2)
アーサー・フィードラー&ボストンポップス(7) ローレンス・ウェルク(24) ビリー・ヴォーン(18)
レイ・コニフ(28) イノック・ライト(11) パーシー・フェイス(9) ネルソン・リドル(2)
クインシー・ジョーンズ(4) ジャッキー・グリースン(10) リビング・ストリングス(1)
【英国系】
マントヴァーニ(30) スタンリー・ブラック(2) ジョージ・メラクリーノ(2)
ロニー・アルドリッチ(2) フランク・チャックスフィールド(1)
【その他】
ベルト・ケムプフェルト(8) ポール・モーリア(1) 101ストリングス(2)
マントヴァーニのアルバムは実に30枚がランク入りしていている。これに続くのが、レイ・コニフ(Ray Coniff)、ローレンス・ウェルク('Lawrence Welk)、ビリー・ボーン(Billy Vaughn) である。彼らの音楽は、楽天的で単純明快なのが特徴である。レコードで聴く限り、それほど音楽性が高いとは思えない。同時期のパーシー・フェイス (Percy Faith) のほうが音楽性に優れ、ずっとエレガントで日本人好みである。だが彼らは、米国ではTVショウなどを通じて大衆的な人気があったのだろう。ローレンス・ウェルクは「シャンパン・ミュージック」の王様といわれ、自分のTV番組を持っていた。
一方、クラシック音楽にも造詣が深く、アルバムの内容も優れたアンドレ・コステラネッツ (Andre Kostelanetz) やモートン・グールド(Morton Gould) が予想外に振るわないのをみると、音楽性とレコードセールスが必ずしも一致しないのがわかる。
ちなみにアンドレ・コステラネッツは1955年NHK交響楽団を指揮するため来日したが、その際「マントヴァーニをどう思いますか」という問いに対し「スクールが違う」と答えたというエピソードを残している。(細野達也「昭和なかばのN響」)
「スクール」(School)という言葉は、通常音楽上の「流派」を指すが、出身校のこととも解される。どちらの意味であったとしても「マントヴァーニなどと比較されたくないよ」という気持ちだったのだろう。いかにもプライドの高そうな彼の言葉ではある。だがアルバム・チャートを振り返ると、これは案外彼の本音だったかも知れない。
年代別トップチャート
英国人であるマントヴァーニは、ライバルがひしめく米国市場に売り込みをかける必要があった。ジョセフ・ランザは次のように記している。
「…アメリカで聴き手の心をつかむにはどうすればいいか考えた、というマントヴァーニは、40人編成のオーケストラ(うち28人は弦楽器)をデッカの最新スタジオシステムで処理して、中世の教会の音響を20世紀によみがえらせた。」 (「エレベーター・ミュージック」)
その成果はどれほどのものであったのか。
「ビルボード・アルバム・チャート・トップ40」(”The Billboard Book of Top 40 Albums” 1987 日本語訳は音楽之友社刊)の著者であるジョエル・ホイットバーン(JoelWhitburn)は、年代別のチャートも作成しているので、少し紹介したい。彼は1955年から1986年までのビルボード・チャートを調べ上げ、次のようにポイント化した。
① トップ40に入ったアルバムは、順位に従い、1位40点、2位39点…40位1点とする。
② 最高位が1位~5位のアルバムに25点、5~10位に20点、11~20位に15点、21位~30位に10点、30位~40位に5点を加える。
③ アルバムがトップ40に入っていた週を点に加える。
④ 1位となったアルバムは、1位の週数も点に加える。
この方法でポイント化したチャートが次のふたつの表である。
《1955~1986年のトップ20アーティスト》
①フランク・シナトラ (Frank Sinatra) 3571点
②エルビス・プレスリー (Elvis Presley) 3081点
③ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones) 2554点
④バーブラ・ストレイザンド(Barbra Streisand) 2318点
⑤ビートルズ (The Beatles) 2316点
⑥ジョニー・マチス (Johnny Mathis) 2279点
⑦ミッチ・ミラー (Mitch Miller) 2055点
⑧マントヴァーニ (Mantovani) 1929点
⑨キングストン・トリオ (The Kingston Trio) 1772点
⑩レイ・コニフ (Ray Conniff) 1678点
《1955~1959年のトップ10アーティスト》
①フランク・シナトラ (Frank Sinatra) 1390点
②ジョニー・マチス (Johnny Mathis) 1178点
③マントヴァーニ (Mantovani) 1140点
④ミッチ・ミラー (Mitch Miller) 965点
⑤ハリー・ベラフォンテ (Harry Belafonte) 880点
⑥エルビス・プレスリー (Elvis Presley) 842点
⑦ロジャー・ウィリアムス(Roger Williams) 753点
⑧テネシー・アーニー・フォード 656点
(Tennessee Ernie Ford)
⑨パット・ブーン (Pat Boone) 619点
⑩ローレンス・ウェルク (Lawrence Welk) 609点
まず最初の表を見てみよう。「1955年~86年」の32年間を通算したこのチャートでマントヴァーニは8位にランクされているが、インストゥルメンタルの演奏は数少ないことに注目したい。聴きてにとってインパクトが大きいのは、やはり楽団演奏よりボーカルなのだろう。また米国人以外のアーティストは、マントヴァーニのほかザ・ローリング・ストーンズとザ・ビートルズに過ぎない。ザ・ビートルズが登場したのが1964年であったから、それ以前に英国人が米国の音楽市場を席巻した事例はマントヴァーニをおいてなかったのである。
特に「1955年~59年」のマントヴァーニの活躍は顕著だった。彼がゲットした得点の半分以上はこの期間のものである。
しかも、このチャートはすべてのジャンルを含んでいる。たとえば「1955年~59年」の18位にはチャイコフスキー・コンクールで優勝したヴァン・クライバーン(チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ほか)がチャート・インしている。ジャズの古典ともいえる「タイム・アウト」(「テイク・ファイブ」を所収)を演奏したデイブ・ブルーベックが20位に入っている。23位のマリオ・ランツァはクラシックのテノール歌手という多彩さである。
《ロングセラー・アルバム》
さらにジョエル・ホイットバーンはトップ40に60週以上チャート・インしたアルバムを「ロングセラー・アルバム」としてまとめている。
マントヴァーニのアルバムは、第7位に「フィルム・アンコール第一集(Film Encores Vol.1)」 (1959年~173週)、39位に「不朽の旋律(Gems Forever)」(1958年~95週)、100位に「シュトラウス・ワルツ集 (Strauss Waltzes)」(1958年~ 60週)が入っている。
ベスト3は「マイ・フェア・レディ」(オリジナル・キャスト盤 311週)、「オクラホマ」(サントラ 262週)、「ジョニー・マティス・グレイテスト・ヒッツ」(236週)である。マントヴァーニ以外の「ムード楽団」は、このチャートにはひとつもでてこない。強いてあげれば19位にイノック・ライト(Enoch Light)の「Persuasive Percussion」があるが、これは当時急速に普及したステレオ再生装置に対応した、多少マニアックなアルバムだった。
ロングセラー・アルバムとなるために必要な基本条件は、聴いていて飽きないことである。歌唱力が抜群なジョニー・マティス(Johnny Mathis) が3位に入っているのは、その意味で十分納得ができる。ミュージカルが上位を占めるのもステージの楽しさを繰り返し味わえるからであろう。
マントヴァーニの「フィルム・アンコール第1集」は、オーソドックスな演奏もさることながら、「慕情」「旅情」「ハイ・ヌーン」などのアカデミー賞受賞の映画主題歌を集めた親しみやすさから驚異的なロングセラーを続けた。一方、「不朽の旋律」には「トゥルー・ラブ」「踊り明かそう」「サマータイム」など往年のヒット曲が収められていて、誰でも耳を傾けたくなる魅力がある。もちろんこれらの曲には、マントヴァーニのトレードマークであるカスケーディング・ストリングスがちりばめられていることは言うまでもない。
このように、楽団演奏だけでロングセラーを続けた事例は希有といってよい。マントヴァーニが「ビルボード」に残した記録は空前絶後であり、今後とも破られそうにない。
1983年から日本でリリースされたマントヴァーニ楽団のCD(ただし、オリジナル・アルバムのCD。コンピレーション盤は含まない。)
Year | Label | Description |
The following CD albums were released through Polydor Records, Japan: When an album is connected to an original recording, it will be hyper linked to the original recording elsewhere in the discography so that you can see the album selections. Please press your browser's "Back" button to return to this page. |
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1983 | London | Immortal Classics* (same as "Classical Encores" Deram POOL 20119) |
1983 | London | Classic Encores* (same as "Concert Encores" Eclipse POCD 1504) |
1983 | London | Strauss Waltzes (3122-9) |
1983 | London | Operetta Memories (3122-10) |
August 1985 | London | Golden Hits (P33L 50003) |
August 1985 | London | Memories (P33L 50005) |
December, 1986 | London | Hollywood(P33L 20032) |
November, 1987 | London | Mantovani's Christmas Favourites (P30L 20055) |
November, 1989 | Deram | Mantovani's Christmas Favourites (P25L 20125) |
*These albums were named by Polydor Records, Japan | ||
The following are part of the Original Mantovani Series released through Polydor Records, Japan: |
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July, 1988 | London | Golden Hits (P28L 20071) |
July, 1988 | London | Memories (P28L 20072) |
July, 1988 | London | Magic (P28L 20073) |
July, 1988 | London | Song Hits From Theatreland (P28L 20074) |
July, 1988 | London | Great Melodies From The Operas (P28L 20075) |
Nov. 1988 | London | Golden Hits Vol. 2 (P28L 20081) |
Nov. 1988 | London | Mantovani Presents His Concert Successes (P28L 20082) |
Nov. 1988 | London | Gems Forever (P28L 20083) |
Nov. 1988 | London | Broadway Encores (P28L 20084) |
Nov. 1988 | London | Mr. Music (P28L 20085) |
April, 1989 | London | Continental Encores (POOL 20101) |
April, 1989 | London | Mantovani Touch (POOL 20102) |
April, 1989 | London | Strictly Mantovani (Mantovani Favourites)(POOL 20103) |
April, 1989 | London | To Lovers Everywhere (POOL 20104) |
April, 1989 | London | From Monty With Love (POOL 20105) |
Sept. 1989 | Deram | Waltz Encores (POOL 20111) |
Sept. 1989 | Deram | Italia Mia (POOL 20112) |
Sept. 1989 | Deram | Film Encores Vol. 2 (POOL 20113) |
Sept. 1989 | Deram | American Scene (POOL 20114) |
Sept. 1989 | Deram | Gypsy Soul (20115) |
Dec. 1989 | Deram | Film Encores Vol. 1 (POOL 20116) |
Dec. 1989 | Deram | Strauss Waltzes (POOL 20117) |
Dec. 1989 | Deram | Manhattan (POOL 20118) |
Dec. 1989 | Deram | Classical Encores (POOL 20119) |
Dec. 1989 | Deram | Tangos (POOL 20120) |
June, 1990 | Eclipse | Concert Encores( POCD 1504) |
June, 1990 | Eclipse | Incomparable Mantovani (POCD 1505) |
June, 1990 | Eclipse | Hollywood (POCD 1506) |
June, 1990 | Eclipse | Latin Rendezvous (POCD 1507) |
June, 1990 | Eclipse | Kismet (POCD 1508) |
Feb. 1991 | Eclipse | Songs To Remember (POCD 1524) |
Feb. 1991 | Eclipse | Music From Exodus And Other Great Hits (POCD 1525) |
Feb. 1991 | Eclipse | Mantovani Ole! (POCD 1526) |
Feb. 1991 | Eclipse | American Waltzes (POCD 1527) |
Feb. 1991 | Eclipse | Operetta Memories (POCD 1528) |
The following were part of the "Clascique Fantaisie" series released through Polydor Records, Japan |
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1995 | London | Operetta Memories (POCL 3751) Same as Eclipse POCD 1528. |
1995 | London | Music From The Films (POCL 3752) |
The following was released through King Records, Japan. |
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1995 | London | Mario del Monaco with Mantovani (KICC 8430) Released through King Records, Japan. |
2001 | DECCA | Mario Del Monaco Song Album (UCCD-7100). This is a double album, the other 12 songs being with Ernesto Nicelli and his Orchestra. |
2004.5.21 |
DECCA | Incomparable(UICY1566) Mantovani Magic(UICY1567) Mantovani Touch(UICY1568) |
Layout and other features of the discography pages are copyright c2001 Wesley W. Stillwagon, Sr. All rights reserved. Discography detail content Copyright c 2001 Dr. Hidehisa Habe and Akima Toru. All rights reserved.
「マントヴァーニ・ディスコグラフィ」 1970年代
1960年代・その2
「Mantovani Fan Website Japan」に掲載されていたマントヴァーニのディスコグラフィを転載します。
「Mantovani Fan Website Japan」に掲載されていたディスコグラフィを転載しました。「1950年代その2」です。
「マントヴァーニ・ファン・ウェブサイト」(Mantovani Fan Website JP)に掲載されていた、マントヴァーニ楽団のディスコグラフィを掲載します。
今週末でロードショー公開が終わるという映画「海賊とよばれた男」を遅ればせながら隣県のシネコンに見に行った。
日承丸の進水式のシーンで、マストに飾られた万国旗の中に「五星紅旗」(中華人民共和国の国旗)があったのには驚愕した。「日章丸事件」が起きたのは1953年だから、この「日承丸」が建造された時点での中国国旗は、「青天白日旗」(中華民国の国旗)でなければならない。1972年以前、日本と国交関係のある「中国」とは「中華民国」(台湾)のことであり、大陸の中国は「中共」と呼ばれる未承認国家だった。こんな簡単な時代考証さえできない時代になってしまったかと嘆息。作者の百田尚樹氏も気が付かなかったのだろうか。これはまさに、中共(=中国共産党)の思いどおりに、歴史認識が歪められていくという具体例なのではないか、と危惧せざるを得ない。
映画はとてもよかったけれども…。
(五星紅旗)
(青天白日旗)
岡田英弘著作集第七巻「歴史家のまなざし」(藤原書店 2016年)を読んでいたら、「司馬遼太郎はモンゴル通か?」というエッセイが目に留まった。初出は「大航海」(No.25 1998年11月 新書館)と記されている。
よく知られるように、司馬遼太郎は大阪外国語学校蒙古語科卒業。「街道をゆく5 モンゴル紀行」(朝日新聞社 1974年)の著作でも知られる。
東洋史・モンゴル史の碩学・岡田英弘が、一般的には、モンゴル通と知られる司馬遼太郎をどう見ているのか、実に興味深く読んだ。
岡田は司馬の「モンゴル紀行」を読んで「あきれた」「この不勉強ぶりは問題だ」と感想を記す。
「”モンゴル紀行”でまず引っかかるのは、モンゴルはシナの支配下から独立した、と思い込んでいるらしいことである。」
「清朝は満洲人が支配する帝国であって、シナはその植民地の一つにすぎず、漢人はシナの主人ではなかった。ましてモンゴルがシナに支配されたことは、歴史上、一度もなかった。」
「…このことをしっかり認識しておかないと、”モンゴルは、もともと中国の領土の一部だった”という、現代中国人の政治的宣伝の嘘にだまされる恐れがあるから、なおさらだ。」(p.332-3)
また、司馬遼太郎が「中国の歴史は歴代の王朝の武力で漢民族の居住区が拡大したというより、現実的に見れば百姓の鍬ひとつで耕地がひろがっていき、そのひろがったものを王朝が追認していくというかたちで広がったとみていい。その鍬が北にひろがって草原の土をひっ搔きはじめたのは、大規模なかたちとしては明朝から清朝いっぱいという時期であるらしい」と書くのに対し、岡田は「これはまた、あんまりなはったりだ。14~17世紀の明朝の時代には、モンゴルは元朝の子孫のもとに独立していて、シナの敵国だったし、清朝の時代には、漢人がモンゴルの地に立ち入ることは、厳重に禁止されていた。禁止が緩んで、漢人農民が今の内モンゴル自治区に入植を始めたのは、二十世紀に入ってからのことだ」と記す。
私は本ブログの「中国・内モンゴルの砂漠緑化と遠山正瑛の”善意”」という拙文で、内モンゴルの緑化事業が、中共(=中国共産党)の少数民族支配に協力する結果になると書いたことがある。楊海英氏の著作を見ても、これは今や明らかな事実だろう。岡田英弘のすごさは、「今や明らかな事実」をずっと以前から、ただ一人指摘、警鐘を鳴らしてきた点にある。
実はこのエッセイは「私は歴史家で、モンゴル史は私の専攻の一つだけれども、世間で文名の高い司馬遼太郎の作品は、読んだことがなかった。本当の歴史を書くのに忙しくて、フィクションにまで手が回らなかったのが、私の無関心の理由である」という書き出しで始まっている。「本当の歴史を書く」とは、いかにも岡田英弘らしいと思った。
《追記》
「悼む 世界の史学界の財宝」(一橋大学名誉教授・田中克彦)
2017年7月17日 毎日新聞