澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

サッカー・アジアカップの旭日旗

2011年01月28日 14時01分49秒 | 社会
 サッカー・アジアカップ準決勝日本×韓国戦で、韓国選手が猿の真似をして日本人を侮辱したとして問題になっている。

日韓戦で「猿まねポーズ」“差別”認める

 サッカーのアジアカップ準決勝の日本対韓国戦で、試合中に韓国代表選手が日本人に対する差別行為ともとれるパフォーマンスを行い、波紋が広がっている。

 現地時間25日にカタール・ドーハで行われた日韓戦で、韓国代表のキ・ソンヨン選手(22)がゴールを決めた後、カメラに向かって顎を出し、左手で顔をかく猿まねのパフォーマンスをした。キ選手は自身の簡易投稿サイト「ツイッター」に「観客席にある旭日(きょくじつ)旗(かつての日本の軍旗)を見て涙がわき出た」「選手である前に韓国国民だ」とコメントを掲載、猿まねが日本人への差別的な行為だったことを事実上認めた。  これに対し、ほとんどの韓国の国民からは「問題ない」という声が上がったが、白熱した日韓戦に水をさす結果となった。

 しかし、実際にこの試合を見た日本人サポーターからは「旭日旗など見なかった」という声があがっている。この試合を中継したテレビ朝日がわざわざ他の試合の旭日旗を番組映像に挿入して、批判を浴びているほどだから、本当は旭日旗など存在しなかった可能性が高い。 

(旭日旗)

 サッカーに全く関心のない私だが、ことはサッカーに止まらないらしい。そもそもアジア人である韓国人が、同じアジア人の日本人を猿のようだと見下して、そんな「パフォーマンス」をすること自体が噴飯モノだ。このキ・ソンヨンという選手は、きちんとした歴史教育を受けていないのか。西欧列強がアジアを侵略した歴史的経緯を知れば、「黄色い猿」が誰を指すのかはすぐに分かるはずだ。この選手の「猿まね」は、自分の顔に唾する行為だったのだ。
 私は、韓国は”恨”の国であり、過去の歴史を執拗なまでに国民に叩き込んでいると思っていた。日本の若者が「平和」「共生」「市民」「国際交流」「国際協力」などという空虚な言葉ばかり教えられているのとは対照的に、韓国政府は、「反日教育」だけでなく、愛国教育、国防意識の高揚にも努めていると考えていた。だが確かに、「反日教育」の”成果”は大層なものだけれども、まともな歴史教育など行われていないことも、この一件で推察することができた。

 「旭日旗」と言えば、日本陸海軍の旗だけでなく、これとそっくりな旗がある。そう、朝日新聞の社旗だ。朝日新聞は、1945年以前の日本があたかも暗黒の歴史であったかのように描くことで知られているが、実は国民の戦意高揚を図るこんな旗を作っていた。案外、この旗に象徴されるような「朝日」にとって不都合な歴史を隠蔽するために、ことさら戦前を貶めるのかも知れない。

 韓国の当該選手は、会場の日本人が持っていた「朝日新聞」の社旗を「旭日旗」と勘違いしたのではないかという話も伝えられている。だとしたら、「朝日社旗」は、日本人に「植民地支配を謝罪」させるために存在するのかも知れない。これは、朝日人の本望なのだろう。 


(「祝 皇軍大捷 戦いはこれからだ」と書かれた戦前の「朝日新聞」社旗

 
 
 

 
  

  


国際関係史の授業

2011年01月26日 08時05分06秒 | 歴史

 この1年間、某国立大学で「国際関係史」を聴講してきた。先日、すべての授業が終わり、あとはテストを残すのみとなった。
 
 この「国際関係史」という科目、今や各大学で教えられるようになり、目新しいものではない。国際関係論を看板にした、「国際なんとか学部」が数多く作られ、その歴史部門でこの科目が必要とされたためだ。この科目を教える教員の出身分野は、政治学(法学部)出身が最も多く、次いで歴史学(文学部)だろう。これからは、国際○○学部の出身者が増えることだろう。

 だが、「国際関係史」は、つまるところ歴史(とくに近現代史)を扱う科目。膨大な史料をどのように選び、どう解釈するのか、そして究極的には歴史をどのように認識するかが履修の目的となる。一般の学生にとっては、近現代史の原典史料を読む機会などほとんどないだろうから、教える側の技量が試される。学生に「通史」をきちんと教えられるかどうかが歴史教師の腕の見せどころなのだ。遠い昔の学生時代、私も「国際関係史」「国際政治史」「国際関係論」などという科目を履修したのだが、今思えば何ともいい加減な授業だったので、ほとんど記憶に残っていない。(アホな大学には、それに見合った授業しかないということか…。)

 しかし、この1年間、教わってきたS教授の授業は、とても理想的なものだった。特定の教科書は使わず、毎回、手製のレジュメと資料を配付し、学生たちができるだけ歴史の面白さに触れるよう工夫をされていた。毎回、授業の冒頭には、前回までの概略を説明し、史実を説明するときには、必ず地図を板書して解説。前期には、3000字程度のレポートが2回とテスト、後期はレポート1回とテストが科せられたが、レポートの課題やテストは、それぞれの学生が最も関心をもったテーマを複数のテーマから選択して解答するという形式だった。

 おそらく、マンモス大学では、こういう授業は不可能だと思う。同じ名称の科目でも、大学や教授によって途方もない落差があると痛感した。
 わずか20名程度の受講生しかいないこの授業、充実した、素晴らしい内容だった。これだけでも、この一年は充実していた。
  


中国反日教育の恐ろしさ!を見る

2011年01月24日 19時34分10秒 | 中国

  知人から教わったYouTube映像を見て驚いた。フジテレビ系列のニュースで報道された映像らしいが、中国の反日教育の実態を真っ正面から取材している。

 映像や写真を駆使して、これでもかと言うほど生徒に「中華愛国主義」「反日感情」を駆り立てる。歴史的事実はどうなのかなど全くお構いなし。そもそも、中国共産党が主体で抗日戦争を戦ったというテーマ設定自体が、中共(ー中国共産党)に都合のいい歪曲された話になっているのだが、生徒はそんなことも知らされていない。。
 
 この授業では、生徒に討論をさせるが、「弱ければ負ける」「やられる前にやれ」といった粗暴な結論が導き出される。こういう「反日教育」を受けた大学生が、毎年、一千万人も輩出されるのだから、今後の日中関係に影響を及ぼさないはずはない。だが、日本のマスメディアは、その実態をほとんど報道しない。

 この「反日教育」が始まったのは、1989年6月の「天安門事件」以降だ。中国共産党は、この事件に体制転覆の危機を感じて、愛国教育の必要性を痛感した。そこで、格好のスケープゴートになったのが、日本だった。

 この映像を見ていると、日本の歴史認識論争など、ほのぼのとしたものに思えてくる。日本人が何でも「悪いことをしました」と謝るだけでは、この隣人はさらに弱みを見つけてつけ込んでくるだけだ。

中国反日教育の恐ろしさ!これは教育ではない洗脳だ!


「世界ふれあい街歩き~鹿港」を見る

2011年01月21日 22時50分21秒 | マスメディア

 さきほど、NHK「世界ふれあい街歩き」台湾の鹿港(ろっこう)が採り上げられた。
 
 NHKの番組HPを見ると、今回の番組について、次のように紹介されている。

神様といっぱい出会うレンガの路地へ
鹿港は中山路と言うメインストリートを中心に、南北に広がる街です。街歩きは北部の鹿草路から始まります。
最初に目指したのは鹿港で一番大きな廟(びょう)、天后宮。途中で、料理店に卸すために山積みの牡蠣(カキ)から身を取り出している女性たちに出会います。海が近いこの街は、カキの養殖が盛んなのです。
海の女神・媽祖(まそ)を祭っている天后宮は若者がいっぱい。この街では若者にとっても、お寺や廟は身近な存在なのです。
参道を経てメインストリートで出会ったのは、路上でちょうちんに絵付けをする職人さん。人間国宝級の技を持つおじいさんも現役です。その先では、線香の職人さんと出会いました。みな、お寺で使うものを作る人たちです。
中山路の1本裏は昔ながらのレンガ造りの路地。個性的な庭造りを楽しむおじいさんや、70年続く老舗の床屋さんにも出会います。その途中、あちらこちらに見かけるのは、やはり沢山のお寺と廟。
ゆったりした時間の中で、神様と共に生きる人たちと出会う、街歩きです。

 古い街並みを歩く中で、一件の床屋さんに出会う。もう70年も続くという。その店には、額に入った理容師免許状が飾られている。それは、日本統治時代の免許状で、昭和8年の日付が入っていた。番組HPでは、次のように説明している。

鹿港には、何代も続いている古い店がたくさんあります。今回出会った床屋さんもそのひとつ。木製の窓やドアがレトロな店構え。入って聞いてみると、もう70年以上続いているとのことでした。ちょうど散髪していた70歳のお客さんは、10歳のころからここに通っているのだとか。順番を待っていたお客さんは家族連れ。2人のお子さんが小さい時から、ここに通わせているのだそうです。日々の暮らしはもちろん、上の学校に進んだり、就職、結婚…とお客さんの人生のさまざまな節目を床屋さんは見守ってきたのでしょうね。
初代は日本統治時代に技術試験に合格し、この店を持ったのだとか。店には「昭和」の日付が入った日本語の合格証書が飾られていました。100人中数人しか合格できない試験を突破して店を持てたんだそうです。その初代のあとを継いだ息子さんは、「父もうれしいと思っているはず。これからも続けていくよ」とおっしゃっていました。
笑顔で旅人を迎えてくれる店の人たちの温かさに触れました。

 (鹿港の床屋さん)

 だが、床屋さんの主人は、意外なことを言う。「父は、当時米国の影響が強いからと禁止されていたパーマをしたんですよ。だから、29日間も警察に捕まった。」
 警察というのは、もちろん、日本統治時代の警察のこと。歴史的知識がない人が見れば、日本統治時代に台湾の人は酷い目にあったのだということを言っているのだと解釈しかねない。しかし、実際には、そのご主人は、お父さんが日本統治時代に難しい理容師の試験を受かったことに誇りを抱いているからこそ、店の真ん中に昭和8年の理容師免許を飾っているのだ。つまり、このご主人は、インタビューに応じて、いろいろな昔話を話したのだが、NHKの制作者は、「父親が警察に捕まった」というエピソードのみを恣意的にクローズアップしたことになる。

 この「世界ふれあい街歩き」は、台湾については過去に台北、台南を採り上げた。それらを見て思ったのは、NHKは、日本と台湾の歴史的つながりを故意にスルーするということ、台湾は「中国」の一部であるという印象を視聴者に植え付けることを主眼に番組を制作していると感じた。
 今回の鹿港では、床屋さんで日本統治時代の記憶を視聴者に紹介して、NHKもやればできるじゃないか、と思わせたとたん、上述のエピソードが加えられた。これが意図的でなければなんなのだろうかと思う。一昨年の「アジアの”一等国”」問題を思い出してしまった。NHKの説明を聞きたいものだ。

 番組の後半では、街角での宴会にスタッフが誘われる。街の人からは「おいしいよ」「お酒」などという日本語が飛び出して、極めて親日的な様子がうかがわれる。NHKはどうして、素直に街の印象を伝えられないのだろうか。


「東アジア近現代通史」を読む

2011年01月21日 09時11分10秒 | 

 「岩波講座 東アジア近現代通史 第2巻 日露戦争と日韓併合」「同 第3巻 世界戦争と改造」を読む。「読む」と言っても、論文集なので、興味があるテーマだけをつまみ食い。
 いま授業を聴講しているS教授(国際関係史)が執筆している関係で、この本が参考図書として紹介された。
 私たちは、その昔、各種の「岩波講座」をありがたがって読んだ世代だが、「日本歴史」「世界歴史」を今なお読む人がいるかどうかは疑わしい。というのは、1989年のソ連崩壊、すなわち「社会主義」神話の崩壊以前に書かれた岩波書店の歴史本は、ある種の進歩史観、社会主義イデオロギーに対するシンパシーが横溢していて、今読めば違和感を感じる内容が多いはずだ。

 この「東アジア近現代通史」(2010年)の編集委員を見ると、トップに和田春樹(東大名誉教授・ロシア史)の名前が書かれている。この人は、北朝鮮の政治体制を終始一貫擁護してきたことで知られている。元「赤旗」平壌特派員で、その後北朝鮮の独裁体制を批判し続けている萩原遼氏は、和田春樹が「東大教授」の権威を笠に、氏の著作に対して不当な中傷を繰り返したことを暴露している。岩波書店は、今なお和田春樹をこの講座本の責任者としているのだから、北朝鮮や中国に対しては一貫して甘く、日本に対しては厳しい「批判精神」を持っていることがうかがわれる。

 とは言いながらざっと目次を見る限りでは、昔読んだようなイデオロギー的主張満載の論文は見られない。「日露戦争と日韓併合」という和田春樹の論文を除いては…。
 
 最も興味深かったのは「チベットをめぐる国際関係と近代化の混迷」(平野聡 第三巻)だ。平野氏のこの論文は、2004年のサントリー学芸賞を受賞した「清帝国とチベット問題」(名古屋大学出版会)※のエッセンスだが、改めて指摘された問題の大きさを感じさせる。

※ http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0053.html

 清朝の最大版図はモンゴル、チベット、ウイグルに及んだが、その統治は西欧近代が作り出した「国民国家」とは全く異質な原理に基づいていた。それは、冊封制度、朝貢関係などと言われる、緩やかな統治形態だった。これを「前近代」の秩序だとすると、「…前近代の秩序が、十九世紀半ば以後の列強の角遂、そして近代的な諸観念の荒波にさらされたときに一体どのように変質したのか、といういうことになろう。この過程を通じて、満洲人を頂点とする多文化国家の版図は、最大多数を占める漢人を中心とする”中華民族”の”統一多民族国家””神聖なる領域”と読み替えられて今日に至っている」と平野氏は指摘する。
 「中国はひとつ」であり、それは「中華人民共和国」だという「信仰」が、実はわずかこの100年ほどの歴史の中で作られたフィクションであることがよく分かる。

 この平野氏の論文は、日本人が陥った自虐史観、中国人が居丈高に振りかざす「中華思想」、この両方に効く解毒剤だ。
 

日露戦争と韓国併合――19世紀末-1900年代 (岩波講座 東アジア近現代通史 第2巻)
クリエーター情報なし
岩波書店

毛沢東の「五星紅旗」

2011年01月18日 19時24分50秒 | 歴史

 きょう授業の中で、教授が中国の国旗である「五星紅旗」について話された。

 
(中華人民共和国・五星紅旗)

 「Wikipedia」によれば、この国旗は次のように説明されている。

赤地に5つの星を配したもので、五星紅旗(ごせいこうき、拼音:Wǔxīng hóngqí)と呼ばれる。
赤色は革命を、黄色は光明を表す。また、大きな星は
中国共産党の指導力を、4つの小さな星はそれぞれ労働者・農民・小資産階級・愛国的資本家の4つの階級を表す。小さな星それぞれの頂点のうち1つは大きな星の中心に向いており、これは人民が1つの中心(共産党)の下に団結することを象徴している。ソ連の国旗を参考にしたものと考えられる。(「Wikipedia」より)

 また、別の説明は次のようになされている。

国名はかつての中華思想に基づいていて「世界の中央に位置する華やかな国」と言う意味から来ている
国旗は通称「五星紅旗」と呼ばれている。五星紅旗は、19497月に、経済学者で芸術家でもある曾聯松が、中国人民政治協商会議が行った公募に応じてデザインしたものである。1949101日、中華人民共和国の建国に際し、天安門広場にこの旗が国旗としてはじめて掲げられた。1949年に制定された。


赤は共産党による革命成就と中国古来の伝統色を意味する。黄色は光明をあらわす。

5つの星は木火土金水の5要素で宇宙を構成すると言う陰陽五行説に基づいて考案されたもので、5は宇宙全体を表す吉数として知られる。
大きな星は中国共産党を、これを囲む小さな星は労働者、農民、知識階級、愛国的資本家の人民階級を表すとされていた。小さな星それぞれの頂点のうち1つは大きな星の中心に向いており、これは人民が一つの中心(共産党)の下に団結することを象徴している。また、中国本土を中心に満州、モンゴル、ウイグル、チベット、5地域の統合の象徴とも言われた。最近は共産党指導下の全国民の団結を意味するという、抽象的な解釈をしている。

中華人民共和国憲法第136条は、「中華人民共和国の国旗は、五星紅旗である」と定めている。1990年に中華人民共和国国旗法が制定され、旗の掲揚方法や取り扱い方などが明文化された
(旗の歴史と由来の資料室」より)

 中国近代史を専門とする教授は、この「五星紅旗」を上記のような解釈をするだけでは不十分だと考えているという。「五星紅旗」の一番大きな星は、実は毛沢東そのものではないかと。毛沢東の「革命」を理解するには、
「太平天国」「義和団」との類似性に注目しなければならない。「太平天国」「義和団」はともに、中国の土着思想が外来思想と結びついた民衆運動だったが、指導者の「神格化」と排外主義という点では、中国共産党による「中国革命」と全く同じだ。「五星紅旗」がソビエト国旗をお手本にしたという説明もあるが、何故、労働者を象徴するハンマーではなくて、星なのだろうかと教授は考えたそうだ。やはり、大きな星は、天上から光臨した神=毛沢東を指すのではないだろうかと。
 そういえば、文革期によく歌われた「東方紅」には、「毛沢東は大きな救いの星」(毛主席是大救星)というフレーズがあったような記憶がある。
 
 (
日本を属国に従えた「六星紅旗」?)

 あるブログには、上記のような「六星紅旗」が載っていた。これは、日本が中国の属国となり、「五星紅旗」が「六星紅旗」になってしまったというパロディだが、尖閣事件を見ると、笑っては済まされない思いがする。
 
 評論家の藤井厳喜氏が麗澤大学という大学で兼任講師をしていたら、授業の中で「シナ」という言葉を使ったところ、中国人留学生が大学当局に抗議を申し入れ、結局、藤井氏は講師を解任されたという事件があったと聞く。これからは、毛沢東の批判さえ、中国人留学生の顔色をうかがいながらする時代が来るのかと危惧を覚える。
 




漢文と中国語

2011年01月16日 18時04分31秒 | 

 「漢文法基礎 本当にわかる漢文入門」(加地伸行著 講談社学術文庫)を入手。
 この本は、かつて「Z会」で受験参考書として出ていたのだが、「名著」の誉れ高く、最近、講談社学術文庫に組み入れられた。当初、二畳庵主人というペンネームで書かれたこの本の著者は、実は中国哲学の研究者として名高い加地伸行氏である。

 漢文というと、今や時代遅れだと思う人がいると思うが、実はそうではない。中国近代史のS教授によると、東アジア世界の古典はすべて漢文で書かれているので、ベトナムから中国大陸、朝鮮半島、日本に至るまで、その歴史を知るためには、漢文の知識は不可欠だという。それは、ヨーロッパの古典語であるラテン語と双璧をなすという。例えば、ロシア文学を学ぶとして、その古典文学を突き詰めていくと、結局、ラテン語の知識がないと源流に到達できないと言う。同様の意味でベトナム史でも日本史でも、漢文の知識は欠かせないと言うわけだ。
 
 だが、日中国交回復(1972年)前後から、「中国語は外国語である」「漢文は中国語ではない」という政治的な意味を込めた主張が見られるようになった。例えば、倉石武四郎が編纂した「岩波中国語辞典」は、ローマ字配列で単語を並べ、「外国語」として中国語を学ぶことを強調した辞書だった。「漢和辞典」引きの中国語辞典と一線を画したとして、「高く」評価された辞書だったが、漢字文化を共有するメリットを完全に否定した、利用者に壮大な時間のムダ使いを強要するような辞書であったことは否めない。
 さらに、「中国語と近代日本」(安藤彦太郎著 岩波新書 1988年)などという噴飯ものの本も表れた。安藤は、外国語学習に相応しくない「思想性」「歴史認識」といった政治的概念を強調した。こんな調子である。

「日本は古来から中国文化圏に属していたため、明治以降も古典世界の中国語(=漢文)は重要であった。漢和辞典と中国語辞典が別々にあることに象徴される中国語の「二重構造」である。
 注意すべきことに、この「二重構造」は中国認識に対しても存在した。というのは、たとえば中国に旅行して、気にくわぬことに出会うと、やはりシナは、となるが、感心したものを見ると、それが新しい中国に特有な事象であっても、さすが伝統文化の国だ、といって旧い価値観で解釈してしまうのである。」

 この安藤は、早稲田大学教授(中国経済論)で、文化大革命礼賛者として有名だったが、文革終息後は、自らの言説を自己批判することもなく、中国語学習に名を借りて、「近代日本」を批判し、「日中学院」院長も勤めた。

 加地伸行氏のような碩学から見れば、多分、安藤彦太郎など私学の「藩札教授」に思えたことだろう。だが、安藤や岩波書店が唱えた、中国語と漢文は全く別物なのだという主張は、それなりの成果を上げた。大学入試において、漢文を受験科目として科す大学が次々と減少する一方、大学の選択外国語では、中国語受講者の数が、独仏語などを抑えて圧倒的な多数となった。大学で学ぶ中国語とは、現代中国人との会話を念頭に置いた、発音重視の学習に他ならず、漢文とは一切無関係である。
 
 現在、中国大陸の漢人に「漢文」を読ませても、その意味を理解できる人は少ないと言われる。その理由は、大陸中国が「簡体字」を採用しているからというだけではなく、そもそも中国語(漢語)会話と文字化された中国語(漢語)=漢文は、全く別物だったのだ。漢文で書かれた文書は、多民族、多言語の中国大陸を統治する手段として必要だった。事実、魯迅が白話文を提唱するまでは、中国大陸の知識層は、庶民(老百姓)が理解できない漢文を書いていた。

 漢字文化圏に属する日本人は、漢文を再評価すべきではないか、と思う。
 返り点を打って、漢文を読み下すことができれば、漢字の中国語音声など気にすることなく、読みたい文書を理解することができる。その速度は、他の外国語で読む速度よりずっと早く、容易だろう。その利点をわざわざ否定することはないわけだ。その意味で、この本は今でも大いに役立つはずだ。

 

漢文法基礎  本当にわかる漢文入門 (講談社学術文庫)
二畳庵主人,加地 伸行
講談社

 

 


「この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将 根本博の奇跡」を読む

2011年01月13日 19時53分26秒 | 

 昨年、敗戦記念日の週に「台湾に消えた父の秘密」(フジテレビ系列)というドキュメンタリー番組が放送された。私は、たまたまこの番組を見たので、その感想をこのブログ※に書いた。

http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/5f13c0ccf35979998e16fd32a211c143

 この番組は、門田隆将著「この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社 2010年)に基づいて作られた。きょう、ようやくこの本を手にすることができた。

 テレビ番組を見ただけでは、台湾における本省人(台湾人)と外省人(中国国民党関係者)との関係が分からなかった。根本博は蒋介石との恩義で、金門、馬祖の戦役に赴いたのであって、台湾人の運命については、視野の外にあったような印象を受けた。だが、本を読むと、次のようにはっきりと書かれている。

「(金門・馬祖戦役への)日本人の関与とは、それほど国防部にとって、都合が悪かったのである。それは、蒋介石と共に台湾へやって来た人たち、いわゆる”外省人”たちと、もともと台湾に住み、日本の統治時代をすfごした”本省人”たちとの対立・反目を無視しては理解できないだろう。
……二二八事件は、外省人による本省人弾圧の最大の事件である。国民党、すなわち外省人が台湾を統治する根拠とは、共産軍を撃滅し、台湾を中国共産党から”守った”ことにほかならない。その最大の金門戦争の勝利が、もし”日本人の手を借りたもの”だったとしたら、どうだろうか。」(p.242)

 さらに、根本博を台湾に誘った李セイ(鉄扁に生)源が、旧台湾総督府人脈に繋がる台湾人であり、蒋介石の国民党に反対する人物であったことが明らかにされている。李は、「”国民党”を助けるのではなく、”台湾”を助けようとしたのではないか」と著者は推測する。

 確かに、金門・馬祖の戦役で国民党軍が中共軍に敗れていたなら、今の台湾はありえなかった。李登輝氏のような人も中共統治下では皆粛清されていたはずなので、現在の親日的な台湾も存在しなかったはずだ。こう考えると、根本博の存在はもっと注目されるべきだ。彼は、武士道精神、日本精神を持った、最後の日本人だったのかも知れない。 

この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡~
門田 隆将
集英社

 

 


「ザビエルが見た日本」を読む

2011年01月11日 21時03分01秒 | マスメディア

 ワケあって「ザビエルが見た日本」(ピーター・ミルワード著 講談社現代文庫)を読む。ちょっと感想を記してみた。

イエズス会と「海の帝国」ポルトガル

 本著では、主にザビエルの宗教的動機が語られている。だが、キリスト教布教に当たっては、世俗の側の協力が不可欠であったことは言うまでもない。1549年4月ザビエルは、ゴアからマラッカに向かった。その前年、明朝は「海禁」策を徹底するため、東アジア貿易の一大拠点だったリャンポー(双嶼港)を陥落させている。これでポルトガル商人は多くの利権を失った。そこで「膨大な銀産出国日本との貿易関係をどう立て直すのか、マラッカのポルトガル人商人の緊急課題」となり、「マラッカ高官にとっても、ザビエルの企ては渡りに船だった」(宮崎正勝「ザビエルの海p.206-7)という状況が生まれた。ザビエルの日本布教の背景には、このような「形而下学」的事情もあったのである。
 また、ザビエルが属するイエズス会は「上意下達」、すなわち上からの命令を絶対とする軍隊型組織である。異教徒の地にキリスト教を布教するという「聖なる使命」を遂行するために、イエズス会は西洋科学や医療知識を身につけた人材を派遣し、現地の支配層を取り込み、キリスト教布教の許可を得ようと務めた。ザビエルは日本において、キリスト教教理のほかに、「地球は丸い」などという基本的な科学知識をもたらした。「私たちは優れた知識を持っていると思われたために、彼ら(=日本人)の心に教えの種を蒔く道を開くことができました」(p.89)と彼は書簡に記している。本書で引用されたザビエルの書簡を見る限り、ザビエルは日本における布教をかなり有望、楽観視している。これは、担当者が本部に提出した報告書と同じようなものなので、ザビエルが自己の功績を強調するために、日本を過大評価している傾向は否めない。
 
日本にキリスト教は根付いたのか

 ザビエルは、鹿児島、大分、山口など各地でキリスト教の布教に務めた。「ミヤコ」(京都)にも足を運ぶが、戦乱でミヤコは荒れ果て、布教の願いは叶わなかった。彼がこの戦乱の時代に日本に来たことは、ある意味で幸運であった。明朝や清朝のような巨大な中央集権国家では、キリスト教布教は「皇帝」の権威に抵触するとして禁止された。しかし、当時の日本は群雄割拠の時代で、各地の領主が布教を「許可」する裁量の余地があった。ミヤコでの布教を断念したザビエルは、「山口に戻り、インド総督とゴアの司教から友誼の印に送られた手紙と贈り物を進呈」し、その代わりに「この国の人々に神のおきてを公表する許可を与えてください」(p.79)と願い入れた。願いは許可され、仏教の僧侶も貴族も平民も大勢やってきて、キリスト教の信仰を受け入れることになった。二ヶ月で500人が入信したと記録されている。
 ザビエルの書簡によると、日本人は創造主の概念を持たなかったので、万物の創造主の話を聴き驚愕した。悪魔の概念については「日本人は人間が救いのない地獄に投げ込まれるという考えを受け入れることがなかなかできませんでした」と記している。とりわけ、日本人がキリスト教の教義に違和感を覚えたのは、信仰によって神に救われるのは信者個人に過ぎず、先祖や子孫は無関係だという点であった。家族の絆を重視する儒教道徳が身に付いた日本人にとっては、キリスト教受容をためらう最大の関門はそこにあった。
 著者のミルワード神父は、ザビエルの書簡を分析して、ザビエルには人種的な優越感があったと指摘する。「聖なる使命」がもたらした優越感は、ときに布教対象となった集団、社会をも破壊する。ザビエルのほぼ同時代には、スペイン人のコルテスがカトリック神父とともに、アステカ帝国を武力で滅亡させた。このような優越感は、1960年代に開かれた「第二バチカン公会議」でようやく克服されたと著者は言う。
 この公会議以前には、カトリック信者は金曜日に肉を食べることが禁じられていた。だが、日本社会で暮らすなかで信者だけがそれを貫くのは難しい。教義はそれぞれの社会に応じて柔軟に適用するというのが、この公会議の結論だったが、そんな平凡な結論が出るまで何世紀を要したというのだろうか。
 周知の通り、ザビエルが日本で布教活動をしてからほぼ40年後、豊臣秀吉はキリシタン禁制を決めた。それ以後、明治維新に至るまで、キリスト教の信仰・布教は禁止され、その思想は異端視された。
 「西洋の衝撃」(Western Impact)が、銃と十字架を携えて非西欧世界にやってきたことを考えると、日本においてザビエルの願いが実現しなかったことは、むしろ僥倖とすべきなのかも知れない。


台南小路を散歩

2011年01月07日 07時51分44秒 | hobby
 台湾もずいぶんと近くなった。
 これまで成田→台北(桃園空港)という経路では、自宅から空港に行くのに飛行時間と同じくらいの時間がかかった。羽田→台北(松山空港)の新ルートは本当に近い。

 何ときょう私は、あっという間に着いてしまった。さっそく、「台南小路」を散歩。


 
 もうネタばれだろうから白状すると、「台南小路」は、横浜中華街の「香港路」と「市場通」を繋ぐ路地にある。青天白日旗が沢山掲げられている。ここには「你好」という店があって、ランチタイムなどは大勢の人が並んでいる。店の前の写真を見ると、小澤征爾や戦場カメラマンの渡部ナントカも訪れているらしい。
 私は同行者に「ここに入ろう!」と再三主張したが、拒絶された。店構えがきれいとは言えないので趣味に合わないらしく、結局「重慶飯店新館」のランチメニューで、「牛カルビのニンニク辛し炒め」「イカとホタテとセロリのオイスター炒め」を食べた。ひとり千五百円ほどだったが、スープもデザートも付いていて、とても満足。

 食後、また「台南小路」あたりを散歩して、新竹ビーフンと「金蘭醤油」を買う。中華街はさすがに安く、いつも買う店の半額くらい。
 週日なので、駐車場料金も安く、2時間で800円。これならいつでも来られると思うのだが、実現したのはまだ2回目。

 それにしても、この「青天白日旗」、いつまで飾られるのだろうか。

 


今年は 辛亥革命100年 中華民国100年

2011年01月04日 07時36分54秒 | 台湾

 今年は「辛亥革命100年」の年。
 今朝の「産経新聞」は、「辛亥革命100年 統一工作警戒の台湾 ”中華民国”100年を強調」と題した記事(下掲)を載せている。



 このブログでは何度も触れていることだが、中国共産党と中国国民党という、この二つの異母兄弟が、ともに「ひとつの中国」を標榜して、この100年を競い合ってきた。両党は、「中華の再興」を掲げる点では全く同じ。満州民族による征服王朝だった清朝を打倒して、漢族の「共和国」を打ちたてた。

 中国共産党は「辛亥革命」を「清朝打倒による満州族支配からの漢族の解放と、数千年に及んだ君主政治に終止符を打ったことに歴史的な評価を与えている」が、1949年以降の「中華民国」の存在を認めていない。一方、台湾へ「流亡」した中国国民党政権は、今なお台湾に「中華民国」が存在すると主張する。

 この両者の主張は、清朝滅亡により、清朝の最大版図を「中華民国」「中華人民共和国」の領土だとすり替えられた、ウイグル、チベット、満州、台湾等の少数民族にとっては、災厄以外の何者でもなかっただろう。彼らにとっては、中国国民党、中国共産党という衣を着た漢民族が、彼らを抑圧し支配する体制に他ならなかったのだから…。

 「産経新聞」はことあるたびに、「ひとつの中国」に疑問を呈するが、今やこの姿勢は稀少かつ貴重になった。「中国がひとつであらねばならない」とは一体誰が決めたのか、その「妄執」そのものが中国大陸に住む人々に災厄を与え続けてきたのではないか、と思い至る「中国人」がかくも少ないのは、やはり「中華思想」のなせる技なのだろうか。

辛亥革命100年 統一工作警戒の台湾 「中華民国」100年を強調  2011.1.3 22:49  【産経新聞】

 【上海=河崎真澄】今年、清朝を倒した「辛亥革命」の勃発から100年を迎え、その歴史に連なる中国と台湾の政治的思惑の違いが改めて浮き彫りになっている。経済面では急接近する中台だが、辛亥革命で成立した「中華民国」を堅持する“本家”の台湾は、その後の国共内戦勝利で成立した共産・中国に統一工作などの政治面で利用されたくないとして、100周年記念行事の中台共同開催を拒んでいる。

 1911年10月10日に勃発した辛亥革命の成功により、孫文を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が成立した。しかし、孫文らが19年に結成した中国国民党は49年、中国共産党との内戦に敗れて台湾に政権を移し、「中華民国」を名乗り続けている。

 このため台湾側は辛亥革命の意義を共和制の確立に求めている。馬英九総統は辛亥革命の蜂起から99年となった昨年10月10日の「双十節」で、「両岸(中台)は現時点で法的に(国家として)認め合うことは不可能だ」と指摘。そして辛亥革命そのものよりも、「中華民国100年」を祝賀する方針を改めて強調した。

 一方、49年に「中華人民共和国」を成立させた共産党の中国は「中華民国」の存在は認めず、清朝打倒による満州族支配からの漢族の解放と、数千年に及んだ君主政治に終止符を打ったことに歴史的な評価を与えている。

 中国の
国務院(政府)台湾事務弁公室スポークスマンの楊毅氏は昨年12月29日の記者会見で、「両岸は辛亥革命100周年の記念行事を共同で実施すべきで、両岸の団結と中華民族の復興にも有利だ」と述べた。

 中台の経済協力枠組み協定(ECFA)は1月1日付で発効している。中国は「先経後政(経済問題を先ず解決、その後に政治問題を解決する)」を基本戦略とする台湾統一工作において、ECFA発効をステップとし、辛亥革命100周年を政治的接近のチャンスと位置づけている。

 蜂起場所の武昌を抱える湖北省武漢市も、総額200億元(約2500億円)もの予算をつけて記念館を設置。武漢や北京以外に、中華民国が首都を置いた江蘇省南京や、孫文の出身地(現・広東省中山)に近い広東省広州も式典開催に意欲を見せている。今年10月10日の辛亥革命100周年に向け、“同床異夢”の中台の間でさまざまな思惑が渦巻くことになりそうだ。

 

【用語解説】辛亥革命

 1911年10月10日、武昌で起きた武装蜂起に呼応する形で全土に挙兵が広がり清朝を打倒、古代から続いた君主政治に終止符を打った中国の革命。10月10日(双十節)は「中華民国」の実質的な「建国記念日」となっている。孫文(1866~1925年)は12年1月1日に臨時大総統に就任しアジア初の共和制国家を宣言した。中台いずれも孫文を「国父」と位置づけている。