年末のあわただしい時期に、突然、「慰安婦問題が歴史的決着」をしたと大騒ぎ。
12月26日あたりを境目に、新聞、TV、ラジオは、「慰安婦問題」と表現を統一した。それ以前は、「いわゆる従軍慰安婦」「従軍慰安婦」問題と言っていたはずなのに…。
「従軍慰安婦」が存在したかどうかは、日本人にとって大問題であるはずだ。ところが、マスディアは、ある日突然、この言葉を使わなくなってしまう。臭いものには蓋というわけか。
さすが、「敗戦」を「終戦」、「連合国」を「国連」、「原発メルトダウン」を「冷温停止状態」と言い換えてしまう国だけのことはある。言葉で誤魔化し、本質から目を逸らす。それは、国民性と言ってもいいのだろうか。
「靖国神社爆破事件」がいつの間にか「爆発音事件」にすり替えられているのに、それをなぜだ?とも言わない、狐か羊のような人々。「おもてなし」と囃し立て、「日本・日本人は素晴らしい」という自画自賛があふれるTV番組…。
現実を見て見ぬふりをして、自画自賛しているうちに、本当の危機が迫りつつあるのでは…。「慰安婦問題の歴史的決着」はそう感じさせるに十分な茶番劇だった。
「慟哭の海峡」(門田隆将 著 角川書店 2014年)を読む。
門田隆将は「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」の著者。日本の敗戦時、内蒙古司令官だった根本博の生き様を描いたこのドキュメンタリーは、TVでも放送され、大きな反響を呼んだ。明治生まれの武人とはかくあったのかと思わせる、清々しい作品だった。
その門田が取り上げた「慟哭の海峡」とは、フィリピンと台湾の間に横たわる、バシー海峡(巴士海峡)を指す。そこは「輸送船の墓場」と称され、10万を超える日本兵が犠牲なったとされる。すなわち、太平洋戦争の後半、「南洋」と「本土」を結ぶ輸送網の要であるバシー海峡を通行する日本艦船は、米軍潜水艦の格好の餌食となった。米軍は戦時国際法違反を知りながら、たとえ病院船であっても、攻撃をしかけたと伝えられる。
本書は、次のように紹介されている。
「2013年10月、2人の老人が死んだ。
1人は大正8年生まれの94歳、もう1人はふたつ下の92歳だった。2人は互いに会ったこともなければ、お互いを意識したこともない。まったく別々の人生を歩み、まったく知らないままに同じ時期に亡くなった。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、“輸送船の墓場"と称され、10万を超える日本兵が犠牲になったとされる「バシー海峡」。2人に共通するのは、この台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡に「強い思いを持っていたこと」だけである。1人は、バシー海峡で弟を喪ったアンパンマンの作者・やなせたかし。もう1人は、炎熱のバシー海峡を12日間も漂流して、奇跡の生還を遂げた中嶋秀次である。
やなせは心の奥底に哀しみと寂しさを抱えながら、晩年に「アンパンマン」という、子供たちに勇気と希望を与え続けるヒーローを生み出した。一方、中嶋は死んだ戦友の鎮魂のために戦後の人生を捧げ、長い歳月の末に、バシー海峡が見渡せる丘に「潮音寺」という寺院を建立する。
膨大な数の若者が戦争の最前線に立ち、そして死んでいった。2人が生きた若き日々は、「生きること」自体を拒まれ、多くの同世代の人間が無念の思いを呑み込んで死んでいった時代だった。
異国の土となり、蒼い海原の底に沈んでいった大正生まれの男たちは、実に200万人にものぼる。隣り合わせの「生」と「死」の狭間で揺れ、最後まで自己犠牲を貫いた若者たち。「アンパンマン」に込められた想いと、彼らが「生きた時代」とはどのようなものだったのか。
“世紀のヒーロー"アンパンマンとは、いったい「誰」なのですか――? 今、明かされる、「慟哭の海峡」をめぐる真実の物語。」
バシー海峡を臨む鵝鑾鼻(がらんび)灯台に行ってきたばかりなので、あの美しい景色の背景に、こんな歴史があったのかと思い知らされた。
鵝鑾鼻の西側にある南湾には、おびただしい日本将兵の水死体が流れ着いたとされるが、その墾丁(こんてい)の街は今やリゾート地として名高く、昔を思い出させるものはない。本書の登場人物である中嶋秀次が建立した潮音寺だけが、その記憶を残しているのだろうか。
墾丁のビーチ(2015年12月)
台湾総統選挙は12月18日に告示され、来年1月16日に投票予定。
私たちが高雄滞在中(12月12~15日)、TVでは総統候補者の名簿登載順のくじ引きを報道していた。最有力の蔡英文候補(民主進歩党)は二番目を引き、「真ん中で、左右を見渡せる蔡英文にふさわしい」とか、もっともらしい説明が付けられていた。
公示前だったので、旅行中に見たのは、こんな垂れ幕のようなものだった。
蔡英文候補(右)
台湾南部は民進党(民主進歩党)の支持基盤。台南や高雄、さらには屏東県などの台湾南部には、中国国民党の支持者である外省人は少ない。おそらく、このまま順調に選挙運動が進めば、蔡英文候補が圧勝し、中国国民党政権を終わらせることだろう。
日本人である私が、蔡英文氏を支持すると言ったところで、何ほどの意味もないのだが、この総統選挙の結果は、日本社会のこれからにとっても、とても重要な意味を持つ、そのことだけは考えておきたい。
東日本大震災に際しては、中華民国(台湾)政府は真っ先に救援隊を組織し派遣、国中で義援金キャンペーンがおこなわれ、二百六十億円もの義援金が日本に贈られた。一方、韓国のネット上では、義援金どころか、「ざまあみろ、日本」「日本沈没」という嘲りが飛び交った。
「台湾は親日国」と漠然とは知りながらも、台湾が「国」であるのか「地域」なのか、「中国」の一部であるのか否か、このことをはっきりと意識する日本人は少ないのではないか。日本のマスメディアは、中国に媚びて、意図的に台湾報道を制限しているのだから、やむを得ない面もあるのだが…。
台湾の日本語世代(日本統治時代に日本語で学校教育を受けた世代)はもはや80歳半ば以上になった。この世代が、日本統治時代(1895-1945年)を肯定的に評価していたからこそ、今日まで「親日感情」が続いてきたのだ。そのことを忘れ、「日本に憧れているから親日なんだ」と思うような、的外れの思い上がりは慎むべきだろう。
台湾総統選で蔡英文候補が勝利すれば、馬英九のような一方的な中国への傾斜は止められるだろう。このままいけば、台湾は「ひとつの中国」(大一統)という強迫観念的イデオロギーに絡めとられてしまうところだった。
鵝鑾鼻(がらんび)灯台から、「慟哭の海峡」と呼ばれるバシー(巴士)海峡を臨んだ今回の旅行は、かつて「大日本帝国」の一部であった台湾の光と影に少しだけ触れた旅でもあった。
いよいよ恒春から墾丁、鵝鑾鼻(がらんび)へ。
恒春のバス停で待っていると、鵝鑾鼻(がらんび)の岬まで行くバスは、一時間に一本だという。タクシーの運転手に交渉したら、二人で600元という返事。迷っているところに鵝鑾鼻行きのバスが到着。しかも、そのことをタクシー運転手仲間が教えてくれて、バスに「早く乗れ」と言う、何と親切で気のいい人たちなんだろうと思った。
1 墾丁(こんてい)
バスは墾丁の街を通り過ぎていく。午後2時半を過ぎていたから、墾丁で途中下車して、ビーチを楽しむ余裕はなかった。車窓から、墾丁の街のシンボルのような岩山が見えた。台湾TVドラマ「墾丁は今日も晴れ」の画面にも登場した、既知感のある光景。
台湾TV映画「墾丁は今日も晴れ」
帰路、私がバスの車窓から墾丁の街を撮った動画が次の通り。
2 鵝鑾鼻(がらんび)
恒春から墾丁の街を経て40分ほどで鵝鑾鼻(がらんび)に到着。台湾本島最南端の岬。
鵝鑾鼻(がらんび)灯台は、東に太平洋、前面にバシー海峡、西に台湾海峡を臨む
バスの終点から、灯台に向かって小道を登っていくと、屋台の店にいた老女が「没有路(メイヨールー)」と大きな声で話しかけた。友人に「この道じゃあないらしい」と話していたら、そのお婆さんは「戻って、すぐそこの道を左に曲って、駐車場から入る」といきなり流暢な日本語で教えてくれた。私たちが日本語でしゃべったから、そうしてくれたのだろう。このように、日本語の達者な、台湾のいわゆる「日本語世代」は、もはや八十歳半ばになってしまった。この十年間を思い起こしても、台湾旅行で「日本語世代」の台湾人に出会う機会は、だんだんと少なくなっていた。まさか、この最南端の街でそのご老人に出会えるとは思えなかった。写真を撮ろうかと迷ったが、失礼かとも思い遠慮したが、今思うと残念だ…。
鵝鑾鼻(がらんび)灯台は、次のような歴史を持つ。
「…航海上の難所であることから、日本、イギリス、アメリカの要望により1882年に清が建設した世界でも珍しい武装灯台である。清国は撤退時に、この灯台を破壊したが1898年に日本政府により再建された。しかし、太平洋戦争でアメリカ軍の空襲により再度破壊され、現在の灯台は戦後に再建されたものである。「古蹟の灯台」や「東亜の光」と呼称される台湾で最大出力の灯台で、保存史跡に指定されている。」
(ウィキペディアより)
「古写真が語る台湾 日本統治時代の50年」(片倉佳史著 祥伝社 2015年)より
鵝鑾鼻の岬は、太平洋、バシー海峡、台湾海峡という三つの海に面する交通の要衝。戦時中は、米軍機の格好の標的となり、鵝鑾鼻灯台は再度破壊された。同時に、バシー海峡を航行する日本艦船は、民間船、病院船を問わず、その多くが米国潜水艦の餌食となった。「慟哭の海峡」(門田 隆将著 2014年) によれば、バシー海峡は「輸送船の墓場」と呼ばれ、十万人以上の将兵が亡くなったとされる。「…この美しいビーチには哀しい歴史がある。太平洋戦争末期、バシー海峡で撃沈され、溺死した日本軍兵士たちの無残な遺体が、この湾のあちこちに打ち寄せられたのである。」(同書 p.10-11)
折しも、戦後70年の節目の今年に、バシー海峡で亡くなった戦没者の慰霊式典が、墾丁で開かれたという。
さまざまな歴史を背負った鵝鑾鼻(がらんび)だが、灯台のある広大な公園は、とてもよく整備され美しい。好天に恵まれ、気温が28度ほど、東側の太平洋、正面のバシー海峡、そして内湾の向こうの台湾海峡方面まではっきりと見渡せて、またとない幸運だった。
南湾を臨む
友人と記念撮影
鵝鑾鼻灯台
鵝鑾鼻灯台 バシー海峡を臨む
南湾の小尖山
バシー海峡
南湾から台湾海峡方面
帰りのバス停前には、涼を求めてか、犬が道路に横たわっていた。よく轢かれないものだと感心した。
復路は、左営ではなく、高雄駅行きの高速バスに乗った。夕方の交通渋滞に巻き込まれて、3時間以上かかった。途中、トイレ休憩などはないから、二時間という思い込みで乗るとしんどいかもしれない。
バスは無事、高雄駅の北口に。南口のホテルに戻るのもおっくうなので、MRTに乗って繁華街で夕食を摂ることに。
友人とタイ料理店に入る。タイ式チャーハン、春巻き、豚肉の辛炒め、トムヤンクンスープ、そして台湾ビールで乾杯。台湾のタイ料理は、日本のよりずっと美味しい。タイ料理の素材は台湾料理と共通するからだろう。
心に残る楽しい旅だった。
蛇足だが、新春公開される映画「路線バスの旅 in 台湾」は、台北から路線バスに乗り、三泊四日で「台湾最南端」を目指すという。
この「台湾最南端」が文字通り鵝鑾鼻(がらんび)岬と灯台を目指すのであれば、灯台に着いた三人が何というのか、ちょっと気になる。
と言うわけで、映画の映像も貼り付けておく。
旅行三日目は、高雄・左営から高速バスで恒春半島への旅。
まず、高雄駅からMRTで左営へ十分ほど。地上に出ると、墾丁行きの高速バスが何台もスタンバイしている。その横に新幹線(高鐡)ホームが入るビルがあるので、エスカレータで二階へ。そこにある切符売り場でチケットを購入。
高雄の左営→恒春の高速バス切符。先の墾丁、鵝鑾鼻に行くには別途購入が必要。
左営から恒春までは、352元。インターネットの旅行記を見ると、「高速バス(墾丁快線)は、目的地まで往復で買うこと」というアドバイスが書かれていたが、往復切符は若干割引になるメリットがあるという意味で、「途中下車」はできない。バスの経路は、高雄(左営)→恒春→墾丁→鵝鑾鼻(がらんび)の順。そこに注意したい。
恒春には、清朝時代に築かれた恒春鎮の城壁が残っていて、観光名所になっている。また、近くには台湾映画「海角七号」のロケ地があり、見どころになっている。墾丁(こんてい)は台湾有数のリゾート地。TV映画「墾丁は今日も晴れ」で日本でも有名になった。さらに、鵝鑾鼻(がらんび)は、台湾本島最南端の岬で、日本統治時代に建てられた白く美しい灯台が、バシー海峡を臨んでたたずんでいる。
往復切符を買ってしまうと、途中で降りることはできない(前途無効)だから注意が必要だ。
恒春→墾丁→鵝鑾鼻への観光地図
左営から恒春までの所要時間は、およそ2時間。バスが南下するほど、檳榔樹(びんろうじゅ)の美しい林が続き、エキゾチックな雰囲気が漂う。ちなみに、台湾の気候は、台南、高雄などの南部が「亜熱帯」に区分されるが、恒春半島に限っては「熱帯」なのだという。
1 恒春
恒春に着いたとたん、空は真っ青、風もなく、日差しが強い。気温は28度くらいだったろうか。12月14日なのに、まさに夏景色。半袖シャツを持ってきてよかったと思う。ただし、バス(交通機関)の車内は冷房をガンガンと効かせているので、上着は持っていくべきだ。
話は逸れてしまうが、この季節、台湾人の多くは信じられないような冬の服装をしている。ダウンジャケットや冬のコートを着る一方、いたるところで冷房がガンガン。季節感がわからなくなってしまう。
城壁に囲まれた恒春の旧市街は、極めて小さい。清朝時代の鎮(町)が遺されているという点で、歴史的価値は高い。台湾海峡側(西台湾)が大陸からの移民によって次第に開拓されていき、行き着いた最南端の場所がこの町ではないだろうか。鵝鑾鼻の岬を超えると、海は太平洋に変わり、海岸線まで迫った中央山脈の偉容が目に入る。太平洋側の東台湾は、清朝の手に及ばない原住民の領域だったに違いない。
恒春の警察署前。ここがバス停。
清朝・光緒帝年間に建てられた恒春城市の南門
横から見た南門
恒春鎮の西門
西門から南門へ城壁を歩く
恒春城壁内の公園の椰子の木
恒春の公園に咲く花
城壁内にある公園の椰子の木
恒春鎮石碑公園
2 映画「海角七号」ロケ地
台湾映画史上最大ヒットを記録した「海角七号」(2008年)は、この恒春が舞台だった。日本と台湾の歴史的絆を描いたこの作品を見るまで、私はほとんど台湾を知らなかったのだから、ぜひとも訪れてみたい場所だった。
恒春の老街(旧市街)はとても狭いので、映画の主人公・阿嘉の家はすぐに見つかった。入場料は50元。
「阿嘉の家」の二階 ベッドには范逸臣のサインが…
映画を見ていない人は、「なんじゃこれ?」という感じだと思うので、映画の予告編を貼り付けておこう。この予告編には上の部屋のベッド座る阿嘉(アガ=范逸臣(ファン・イーチェン))が映る。私は同じポーズで写真を撮ろうと思い、「ベッドに腰かけていいか?」と訊いたら、しっかりと断られた。
いよいよ、①屏東(へいとう)市、竹田駅、潮州を臺鐡(台湾鉄道)で回り、高雄に戻ってMRT(地下鉄)とフェリーで高雄港・旗津のコースを出発。コースと言っても、勝手に自分で決めた気まま旅。ただし、夜、ホテルに帰って万歩計を見たら、3万6千歩だったから、よく歩いたことは確か。
屏東線
高雄駅
屏東駅(白い建物が旧駅、後ろの大きな屋根が新駅)
1 屏東市
台湾鉄道屏東線で高雄から屏東までは、急行で20分くらい。だが、高雄市街を出て、二つほど川を渡ると、あたりは田園地帯。檳榔樹の林が延々と続き、池には多数のアヒルが飼われているという亜熱帯的景観。
屏東駅を降りて、5~6分歩くと、旧・日本人街がある。そこには、今でも朽ちかけた和風の木造家屋や、歴史を感じさせる洋館が遺されている。
屏東市街地に遺る日本統治時代の建物
さらに歩いて、中山公園へ。ここは、日本統治時代に都市計画に基づいて作られた立派な公園。日曜日なので、多くの人で賑わう。ガジュマルの根元にはリスも遊んでいた。
屏東・中山公園のタイワンリス
台湾銀行中屏分行の庁舎は日本統治時代の建物。入り口には、この紋章が…。
潮州駅前には、檳榔樹の林が…。檳榔樹と交互にバナナの木が植えられている。
2 竹田駅
屏東から竹田までは4駅。屏東線は高架線になっているので、この区間に檳榔樹林が広がっているのが見て取れる。
竹田駅は、日本統治時代の駅舎が保存されていて、旧駅構内は公園になっている。そこには屏東で医療の発展に寄与した池上一郎博士の蔵書を集めた「池上文庫」が設けられている。
私たちは、おばちゃんに勧められて竹田駅弁を購入。駅舎の前のベンチで昼食。デザートに「愛玉子ゼリー」を食べた。
竹田駅舎と池上文庫 池上駅の駅弁
屏東線竹田駅(新しい高架線ホーム)から見た竹田の街並みと中央山脈
3 高雄港・旗津
潮州駅から屏東線を引き返して高雄へ。ホテルで休息した後、MRTで高雄港へ。さらにフェリーで旗津に。日曜日の夕方だったので、旗津の海鮮料理店と夜市は大賑わい。有名な夕陽にも巡り会うことができた。
旗津の夕陽
高雄港に停泊していた中華民国=台湾海軍の艦船
旗津の海鮮料理店で食べた揚げた蟹。蒸した蟹の方がよかった…。 カラスミを買った店
旗津の夜市
先週末から火曜日まで、台湾旅行にでかけた。中華航空の高雄直行便に乗り、高雄市内で三泊。その間に①屏東(へいとう)市、竹田駅、潮州を臺鐡(台湾鉄道)で回り、高雄に戻ってMRT(地下鉄)とフェリーで高雄港・旗津へ、②高雄・左営から高速バスで恒春半島へ出かけた。
恒春半島の観光地図
今回の旅行でまず特筆すべきは、「iPASS」カード(日本のSUICAに相当)がとても便利だったこと。空港内のファミリーマートで購入し、400元ほどチャージした。私が買ったのはこんなカード。
iPASSカード(一卡通 (iPASS)
以前、台北から十分(じゅうふん)にでかけたとき、臺鐡(台湾鉄道)の自動販売機の切符が買えずに困ったことがあった。このカードを使えば、臺鐡、MRT、バス、フェリーがすべてOKだったので、これから高雄方面に旅行するときは、必携アイテムとなるだろう。なお、台北の同種カードとは、今のところ互換性がないそうだ。
高雄駅(高雄車站)の後站(南口)の目の前にある「京城大飯店」に宿泊。ここは以前にも泊まって、その利便性が気に入っていた。
京城大飯店~高雄駅南口から撮影
というわけで、旅行が始まる…。
「天皇の玉音放送」(小森陽一著 五月書房 2003年)を読む。
本書は、現在、品切れ。アマゾンの古本では、何と一円の値段で購入可能。そんな本を今になって何故読むのかは、ちょっと記しておかなければならない。
7月末、米国の外交文書が公開され、驚くべきニュースが伝えられた。1971年、中国の国連代表権問題をめぐって、昭和天皇が当時の佐藤栄作首相に蒋介石支持を指示したというのだ。
言うまでもなく、現行憲法では天皇の政治的発言は許されていない。戦後四半世紀を過ぎてなお、昭和天皇がこのような発言をしていたことは、従来流布されてきた「平和を願い続けてきた天皇」というイメージを根底から覆すインパクトがあり、ヒロヒトの人間性を疑わせるのに十分だった。
それ以来私は、天皇の戦争責任に関して書かれた本をかなり読んでみた。その中で、一番鋭く本質を衝いていると思ったのが、この「天皇の玉音放送」だった。
「天皇の玉音放送」(小森陽一著 五月書房 2003年)
著者の小森陽一氏は国文学者であり歴史学者ではないが、歴史や政治について積極的に発言している。かつてNHKの教育テレビで「歴史は眠らない 沖縄・日本の400年」を講義したさい、NHKの方針と合致しない内容をテキストに記したため、テキストの全面回収と番組の後半部分の放送延期という”事件”も引き起こしている。厳密な資料操作を自負する歴史学者がかえって「木を見て森を見ない」ような記述で読者を失望させるのに対して、小森氏の文章はストレートな言葉で鋭く本質をえぐる。例えば、こんな調子で…。
『…「国体」とは大日本帝国憲法第一条の「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」という神話を歴史に転倒した空虚な血統主義的幻想と、第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」と第四条の「天皇は国の元首にして統治権を総攬し」という権力の絶対化にほかならない。換言すれば、敗戦直前の、米軍の空爆によって焦土と化した大日本帝国にとって血統神話とそのなれの果てのヒロヒトの身体にしか、「国体」の実態は存在しない。だからこそ、「その場合には」、「三種の神器」を「自分がお守りして運命を共にする外ないと思う」という信じがたい空論が、最高権力者本人によって、まことしやかに語られてしまうのである。…ヒロヒトは「敗北を抱きしめて」ならぬ「三種の神器」を抱きしめているしかなかったのである。そのような男に、生殺与奪の権を握らせていたのが「軍人勅諭」と大日本帝国憲法と「教育勅語」の体制だったのだ。』(同書 p.28)
この夏公開された映画「日本のいちばん長い日」のキャッチコピーは、「このご聖断が今の平和を築いた」だった。天皇がポツダム宣言受諾を決意したからこそ、今の繁栄があるという、およそ史実とはかけ離れた「妄想」「自画自賛」だった。一方、小森氏の記述は、天皇に好意を抱く人たちにとっては実に耳障りであるだろうが、概ね、納得ができる内容だと思われる。
小森氏は「九条の会」を主宰する、現役の東大教授。言ってみれば、バリバリの左翼だ。思想信条的には、私などはとても受け入れがたい。だが、上述の映画キャッチコピーのような歴史観が蔓延するとなれば、話は別。左翼の立場から「菊のタブー」に敢然と挑んだ感のある本書は、一度手に取ってみるべき書物なのかもしれない。少なくとも「絶版」になるには惜しい本だ。
天気がよかったので、はるばる横浜まで行ってみた。
山下公園の端に広がる山下ふ頭、さらには本牧ふ頭には、観光客はおろか、散歩する人さえ見当たらない。トラックや商用車が行き来するばかりだ。
山下公園側に回ってみると、イチョウ並木が今見ごろ。日差しに映えてきれいだった。
メタセコイヤ林の紅葉がきれいだと聴いたので、ちょっと出かけてみた。
あいにく曇り空で、日差しに映える紅葉の光景は見られなかったが、散策をして深まりゆく秋を楽しんだ。