澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

伊豆見元・教授は学歴詐称をしているのか?(New)

2017年04月25日 05時27分30秒 | 社会

  6年前、本ブログは「伊豆見元・静岡県立大学教授は学歴詐称をしているのか?」という一文を書いたことがある。昨日のデータでは、この記事に40人ものアクセスがあり、朝鮮半島有事に関連してか、今なお関心が高いことが分かった。
 私自身はほとんど関心が失せていたのだが、改めて伊豆見元氏に関するWikipediaにアクセスしてみてビックリした。6年前と今とでは、その経歴表示が全く変わっていたからである。(下記のとおり)
 
 一見して明らかなのは、重村智計氏(早稲田大学名誉教授)がその著書で指摘した韓国留学の部分が、完全に抜け落ちている。伊豆見元氏は重村氏の指摘に反論することもなく、「朝鮮問題専門家」として静岡県立大学教授を務めあげ、さらに私立大学教授に天下りしている。経歴・学問的業績は、学者たるものの生命線であるはず。こんな不可解な疑問が素通りされて、何も知らない第三者は、「朝鮮問題の権威」として伊豆見教授のご託宣を聴かされる。
 今からでも遅くはない。当事者間でぜひこの疑問を明らかにしてほしいものだ。


《Wikipediaによる経歴~2011年5月時点》

   1969年3月 - 東京都立広尾高等学校卒業
   
1973年4月 - 東京外国語大学外国語学部 教務補佐員(-1979年3月)
   
1974年3月 - 中央大学法学部卒業
   
1977年3月 - 上智大学大学院 国際関係論専攻博士課程前期(修士)修了
   
1979年4月 - 財団法人平和・安全保障研究所研究員(-1986年5月)
   
1981年2月 - 韓国延世大学校韓国語学堂修了
   1982年
2月 - 韓国延世大学校政治学大学院研究課程修了
   
1986年6月 - 財団法人平和・安全保障研究所 主任研究員(-1987年3月)
   
1987年4月 - 静岡県立大学国際関係学部 助教授(-1995年3月)
   
1991年9月 - ハーバード大学国際問題センター 客員研究員(-1992年8月)
   
1992年9月 - 英国ニューカッスル大学東アジア研究センター 客員研究員
   
1995年 2月 - 米国平和研究所 客員研究員
        4月 - 静岡県立大学国際関係学部 教授(-現在)

 《Wikipedia~現時点での経歴》

       1974年 - 中央大学法学部卒業[3]
       1977年 - 上智大学大学院外国語学研究科博士課程前期修了[3]
       1979年 - 平和・安全保障研究所研究員[6]
       1986年 - 平和・安全保障研究所主任研究員[6]
       1987年 - 静岡県立大学国際関係学部助教授[6]
       
1987年 - 静岡県立大学大学院国際関係学研究科助教授

       1991年 - ハーバード大学高等研究員[6]
      
1995年 - 静岡県立大学国際関係学部教授[6]
       
1995年 - 静岡県立大学大学院国際関係学研究科教授[2]
       
2003年 - 静岡県立大学附属現代韓国朝鮮研究センターセンター長[6]
       
2016年 - 静岡県立大学定年退職[8][9]
       
2016年 - 東京国際大学国際戦略研究所教授

       2016年 - 静岡県立大学名誉教授[13]
   
2016年 - 静岡県立大学附属現代韓国朝鮮研究センター名誉センター長[13]

 

 今


マンホールの蓋さがし

2017年04月24日 19時51分54秒 | hobby

 家の前のマンホールの蓋(ふた)が割れてしまった。



 近くのDIYの店に行ってみたが、在庫はなく、取り寄せも難しいという返事。この店は、以前、洗面所のシャワーの蛇口を探した時も、全く同じ回答だったので、細かな注文にはあまり対応したがらないと分かった。そこで別の店を回ってみて、ようやくそれらしき蓋を見つけた。寸法はほぼ一致するのだが、深さが合うのかどうかよく分からず、もう一度家に帰って確かめた。ようやく購入して、マンホールの掃除をしてから、蓋をしてみたら、このとおり。

 この新しい金属製の蓋は、三千九百円也。車が通っても大丈夫だ。これまでの蓋は、車が通るのを知りながら、業者がより安価な歩道用の蓋を使ったので、このように割れてしまった。
 こんな些細なことだが、何か充実感を感じた一日だった。


八田與一像破壊の裏に日台離反を画策する中国の影(黄文雄)

2017年04月21日 13時05分05秒 | 台湾

 八田與一像破壊事件について、「台湾の声」に掲載された黄文雄氏の論評を以下に転載させていただきます。

 

【黄文雄】八田與一像破壊の裏に日台離反を画策する中国の影 

● 台湾で「日台の絆の象徴」八田與一像の頭部切られる ダム建設指導の技師

 八田與一の像が壊されました。ノコギリで頭部を切断したようです。このニュースの第一報は、事件発覚を知らせるもので、まだ犯人は捕まっていませんでしたが、その数時間後には犯人が判明しました。

 犯人は、元台北市議だった男で、女と二人で犯行に及んだとのことです。本人がFacebookで犯行を白状し、自ら出頭したようですが、案の定、中国との統一支持派で日台友好を快く思っていない輩です。以下記事を一部抜粋しましょう。

 男は1958年生まれで、現在は台湾の急進統一派の団体「中華統一促進党」に所属。94年に統一派の政党「新党」から台北市議に当選し、1期務めた。任期中、市幹部を殴り起訴された。また、2016年には急進的な台湾独立派の団体の敷地に放火し逮捕、起訴されている。男は自身を日本統治時代の義賊になぞらえる発言も投稿。像の頭部を指すとみられる「八田さん」を、中華統一促進党の「党本部に届ける」などとする記載もあった。

 ● 台湾・八田像損壊犯は元台北市議だった FBで公表し出頭

 この中華統一促進党というのは、台湾の三大マフィア組織の一つ、「竹聯幇(ちくれんほう)」の元幹部で、「白狼」という異名で呼ばれる張安楽氏が2005年に自らが総裁となって結成した政党です。

 とはいえ、張安楽は台湾にいたのではなく、有価証券偽造などの罪で台湾当局から追われていたため、1996年から17年にわたって中国に潜伏していました。そして2013年に台湾に突然帰国し、台湾当局に逮捕されたのです。

 ● 伝説の大物マフィア「白狼」を逮捕・保釈 台湾

 しかし、多額の保釈金を支払って保釈され、以後、中華統一促進党の活動を展開しているのです。張安楽は中国で逮捕されたわけでもなく、中国潜伏中に中華統一促進党を結成しました。そのため、台湾の撹乱組織として中国政府の意向を受けている可能性は十分にあります。

 実際、中華統一促進党は、旧日本軍の軍服を着て、民進党本部に「感謝状」を届け、民進党を「媚日」だと批判するパフォーマンスを行うなど、たびたび騒動を起こしています。

 ここで少し八田與一についておさらいしておきましょう。日本統治時代の台湾に土木技師として台湾に渡り、各都市の上下水道の整備に従事した後、発電と灌漑事業に従事しました。

 八田の台湾での功績は数えきれないほどありますが、何より台湾に貢献したのは嘉南平野に造ったダムです。正式名称を「烏山頭ダム」といい、八田はその設計・監督を務めました。嘉南平野はもともと洪水、干ばつ、塩害にあえぐ地域で不毛地帯でした。そこへダムを造ることで、穀倉地帯へと変貌させたのです。

 烏山頭ダムの満水貯水量は1億5,000万トンで、これは黒部ダムの75%に相当します。さらに、八田はダムを造るだけでなく、「三年輪作法」という農作方法を採用しました。これは、1年目には稲を栽培し、2年目にはあまり水を必要としないサトウキビ、そして3年目には水をまったく必要としない雑穀類の栽培をするという輪作農法です。

 これにより15万haの耕地を灌漑することができ、米栽培、そして砂糖栽培が飛躍的に成長し、台湾南部は大穀倉地帯となりました。水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍。ダムの規模は東洋一でした。

 その業績は国民中学の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されており、最後まで貿易が赤字だった朝鮮とは異なり、台湾が早くから黒字に転じたのは農産物のお陰であると言い切っています。

 ● 台湾経済を変えた日本人 ‐ 八田與一(はった よいち)の偉大なる功績

 また、八田は台湾の現地人を差別することなく、現地人従業員をとても大切にしたと台湾で伝わっています。台湾人からも慕われていた八田ですから、ダムの完成時には銅像建立話が持ち上がりました。しかし、八田はこれを固辞しつづけました。

 そこで、八田の思いを忖度した地元民や周辺の者たちが、偉そうな立像ではなく、ダムを見下ろしながら思案にふける八田の姿の銅像をつくったと言われています。

 八田與一は1942年5月、フィリピンの綿作灌漑調査のために広島の宇品港から大洋丸に乗船して出航したものの、途中でアメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、八田も死亡したのです。そして八田の妻・外代樹は、1945年9月、八田の後を追うように烏山頭ダムの放水口に身を投げました。

 八田の台湾への貢献および、台湾人に分け隔てなく接した態度は、台湾の人々からも非常に尊敬されています。蒋介石時代には、大日本帝国の建築物や顕彰碑が次々と壊されましたが、八田與一の銅像は地元の人々の協力で隠され続け、守られてきたのです。そして、1981年に、八田ダムがよく見渡せる場所に、八田與一の墓とともに設置されたのです。

 そのような、台湾人にとっても思い入れのある八田與一像の首が、中台統一を主張する統一促進党の幹部によって切断されてしまったわけです。ちなみに、統一促進党は、中国で沖縄の中国領有を主張する「中華民族琉球特別自治区準備委員会」という組織ともつながりが囁かれています。もちろんこれは中国政府の息がかかっています。台湾独立阻止と沖縄独立を目論む中国とつながりのある統一促進党が、日台の絆の象徴である八田與一の像を破壊したということは、ある意味で、わかりやすい構図です。

 5月8日には八田與一の命日にあわせて式典が予定されていることもあり、今回の事件によって壊された銅像の修復が急がれますが、そこで登場したのがわれらが奇美グループの創始者である許文龍氏でした。ダムに設置されている銅像を模したものを奇美美術館が所蔵していることから、切断された頭部に美術館所蔵のものの頭部を接着させると申し出たのです。

 ● 壊された八田與一像、台南・奇美博物館が週内に修復へ/台湾

 台湾経済はこうした名士に支えられている面があります。彼らは、戦後何もない状態から財を築いて現在の台湾経済を支えてきました。もちろんそれは、彼らの血のにじむような努力の賜物ですが、その努力ができたのは、八田ダムのような日本統治時代に築かれた国家としてのベースがあることも忘れていません。だからこそ、彼らは日本に感謝し、日本を愛し、日台友好のための支援を惜しまないのです。このメルマガでも以前に取り上げたエバーグリーングループの創業者であり、東日本大震災のときにポケットマネーで10億円の寄付をした張栄発氏もその一人です。

 それに比べて、今回の事件を起こした人物の幼稚さは際立っています。台湾では、統一派と独立派の対立は常に存在していますが、こういうバカげたことをするのはいつも統一派です。前述したように、中国の意向を受けて日本人の台湾へのイメージを貶め、日台離反を画策しようとしている可能性もありますが、かえって逆効果ではないでしょうか。

 台湾人にしてみれば、中国に対する嫌悪感が増大しますし、日本人にしても台湾に対する知識がここ数年で深まっていますから、大陸派が行ったということはすぐに分かるでしょう。中国が「一つの中国」を声高に叫べば叫ぶほど、台湾での独立気運の高まり、そしてそれをぶち壊そうとする大陸派がいるということが、日本人にも意識されるようになっています。

 台湾の大陸委員会は、中国の人権活動家による難民申請を検討する用意があると発表しました。政治亡命者は受け入れられなくても、長期滞在を提供することはできるとの見解を公式に示しました。台湾は、統一派たちの幼稚な言動に少しも動揺ないばかりか、中国の人権活動家を支援しようとしています。

 李登輝から始まった民主国家台湾は、今、蔡英文総統に受け継がれ民主国家としてあるべき姿を引き続き追い続けています。中国との差は広がるばかりだし、独立こそ認められていませんが、国家としてあるべき姿は具現化しています。今後も統一派による嫌がらせは何度もあるでしょうが、台湾は揺るぎません。

 『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html


宇野重昭氏の訃報

2017年04月16日 14時18分41秒 | 社会

 最近になって、宇野重昭氏の訃報を知る。

 宇野重昭(1930-2017

 このブログで「成蹊大学宇野ゼミナール50周年記念誌」について書いたことがあり、宇野先生の薫陶を受けたゼミ生の方々は本当にいい先生に巡り合ったのだなあと改めて思った。私は、宇野先生が兼任講師できていた大学で授業(中国共産党史)を聴いただけなのだが、その熱心な講義、温かな人柄は実に印象的だった。
 社会人になってからは、一度だけ講座の講師をお願いしたことがあった。それと、父が教師をしていた中学校に、ご子息の重規氏が転校してきたというエピソードを父から聞いた記憶があるくらいだ。もちろん、宇野先生はそんなことをご存知のはずはない。

 けれども、不毛の砂漠のような私の学生時代、宇野先生の授業だけは干天の慈雨と言ってよかった。

 晩年、その宇野氏が教え子である安倍首相に対して「安倍君は間違っていると涙ながらに苦言を呈した」と伝えられた。これを書いたのは、「安倍叩き」の急先鋒である評論家の青木理。だから私は、これは事実を伝えていないはずだと直感した。

 天下の秀才だった宇野先生から見れば、私立大学生などは「凡才」そのものだっただろう。もちろん、成蹊大学生だった安倍晋三氏も含めて。だが、宇野先生の授業には、学生を尊重し、育て上げようとする「教育」に対する熱意がひしひしと感じられた。同時期、衛藤瀋吉東大教授が兼任講師として行った授業とは対照的というより、対極的だった。と言うのも衛藤氏の授業は、格下の私立大学生を見下した、自慢話のようなものに過ぎなかったからだ。

 宇野先生の教育の成果は、前述の「50周年記念誌」に遺されている。こんな先生を持てたゼミ生は、やはり羨ましい。

 心よりお悔やみ申し上げたい。

 

宇野重昭氏が死去 元成蹊大学長

2017/4/5 22:22  日経新聞
 宇野 重昭氏(うの・しげあき=元成蹊大学長)1日、肺炎のため死去、86歳。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男で東大教授の重規氏。

 専門は現代中国政治。島根県立大学長もつとめた。著書に「中国共産党史序説」など


「田中克彦 自伝」を読む

2017年04月07日 12時36分00秒 | 

 「田中克彦 自伝~あの時代、あの人びと」(田中克彦著 平凡社 2016年12月)を読む。
 著者・田中克彦(1934.6.3~ )は、著名な言語学者で一橋大学名誉教授。モンゴル学者でもあり、言語や歴史など幅広い分野で大きな足跡を残してきた。
 
 3年前、私は東京外国語大学で「モンゴル近現代史」(二木博史教授)の授業を聴講した。受講生(学生)が15名程度、教授の手作りのレジュメ、資料で進められる、極めて密度の高い講義だった。そのとき、かつてこの大学のモンゴル語学科卒業生であり、一時期、同学科の専任講師を務めたことのある著者・田中克彦の名前は、授業の中にもたびたび表われた。このモンゴル語学科は、1911年、大陸進出という国家目標を念頭に設置された。(当時は東京外国語学校蒙古語科)だが、戦後、東西冷戦が先鋭化して、モンゴル人民共和国が「鉄のカーテン」の向こう側にいってしまった関係で、モンゴル語の有用性が問われる時期が長く続いた。それでも、東京と大阪の外国語大学に設置されたモンゴル語学科は廃止されることはなく、研究、教育活動は地道に続けられてきた。都立戸山高校に在籍していた著者が東京外国語大学モンゴル語学科を受験すると決めたとき、高校の教諭は「どうしてそんな言語を選ぶのか」「本校始まって以来だ」と言ったという。



 当時の国立大学には一期校、二期校の区別があり、旧帝国大学、旧制大学に由来する大学は一期校(3月3日から入試)、旧制の高等専門学校に由来する大学は二期校(3月23日)とされた。東京外国語大学はその出自からして二期校であったが、問題だったのは、二期校が一期校に落ちた人が初心貫徹できずやむを得ず入る大学という位置づけだった点にあった。田中克彦は本書の中で「一期校は東大に願書を出し落ちた」と書いてあるのだが、対照的に故・中嶋嶺雄(前国際教養大学学長、元東京外国語大学学長)は、自分が一期校のどこを受験したのか一言も触れていない。あたかも、東京外大中国語学科を第一希望に入学したかのように、その著書には書かれている。中嶋嶺雄が一期校である東大や一橋大を受験せずに、東京外語大だけを受けたなどとは、だれ一人思わないだろうにもかかわらず…。

 田中克彦はモンゴル語学科を選んだ理由を次のように書いている。

「ぼくがモンゴル語科を選んだ理由は、他の語科の案内に比べて最も学問への道を強調していることだった。就職に有利だとか、そんなハシタナイことは書いていなかった。書こうにも書けなかったからであろう。…モンゴル語とは対照的に、もうかる商業言語であることを強調して目立っていたのはスペイン語である。…スペイン語科というところは、モンゴル語科というところに比べて何という下品なところだろうと思った。」(本書、p.130-1)

 モンゴル語の需要はゼロという時代が続き、著者が入った年は学生が四人。それが教授、助教授、助手、外国人講師に教わったのだから、なんというぜいたくであろうか、と著者は言う。この状況を、坂本是忠(元東京外語大学長 モンゴル学)は、「一期校を落とされた学生たちは、親に金があれば、早稲田か慶応にいくはずだ。金もなく、力もないやつが来るのが外語なんだよ」と言っていたという。(p.133)

 著者はモンゴル語学科を卒業した後、一橋大学大学院社会学研究科に進学する。当時の二期校には、大学院が整備されていなかった。研究者を志すとすれば、一期校の大学院に行くしかなかったが、一橋大社会学研究科は二期校の優秀な学生の入学を受け入れていた。二木博史、佐藤公彦教授(現在は名誉教授)も同じような足跡をたどったようだ。もっとも最近、一橋大はSEALDsの奥田某を明学大から入学させたりしているが。

 このように、ユニークなコースをたどった著者のエッセイ(本著)は、文句なしに面白い。大学紛争については、次のように書く。

「1968年から69年にかけて発生した大学紛争は、東京外語にも、かなり激しい形をとって及んだ。……ぼくが最も失望したのは、たとえばインドネシア語学科では、それまで教えられてきた、オランダ語の授業をやめろという要求である。なぜなら、オランダ語はインドネシアを支配してきた植民地権力の言語だからというのである。この要求の理由は、学生が単にラクをして、外国語を学ぶ時間をなるべく減らしてもらいたいというのが動機である。考えてみれば、東京外語の学生のかなりの部分が、一期校に入れず、こころならずも、外国語学習を主な目的とする大学に入らざるを得なかったという、みずからの不満を訴えていることになるのだから、つまり、大学のあり方と、彼らの要求との間にずれがあるのだから、彼らが東京外語にいることじたいが間違っていることになる。…そのばあい学生がやるべきことは、みずからすすんで大学を去るか、その誤った存在である東京外語を解体して廃校にすべきだということになる。」(p.236-7)

 著者の立場は、学生に十分に同情的だったと思われる。大学紛争のしこりがのこったためだろう、その後著者は岡山大学に移るが、そこでのモンゴル関係プロジェクトは、東京外語の学長、日本モンゴル学会会長だった坂本是忠に潰されてしまう。そのとき、「東京外語のH君に参加させるという提案をのみ、そこでHを通訳として付けた」(p.255)と書かれているH君とは、二木博史先生のことかもしれないと思った。

 他にも面白いエピソードがたくさんある。
 著者は、西ドイツに留学中、ボンで篠原一(故人 東大名誉教授 ヨーロッパ政治史)とアパートの部屋を引き継いだ。留学を伸ばしたいと相談したら、篠原は「二年なら大丈夫だよ、もっとも東大法学部なら三年だっていられるんだがね。ただし東大でも、ほかじゃだめだよ。法学部じゃないとね」と言ったとある。これは好意的に書かれている一文なのだが…。篠原一の授業は、(兼任講師として来ていた某私大で)聴いたことがあるので、いい先生だったと付け加えたい。

 また、モンゴル史の大家・岡田英弘とボン大学で会った時の話だが、「岡田さんは、ぼくがソ連に行こうとしているのを知って、ぼくを車に乗せて、ソビエト大使館に連れていってくれた。岡田さんがぼくを自分の車に乗せてくれたのは、これが最初にして最後であった。…かれには当時若い奥さんがいた。その奥さんはぼくを一目見て毛嫌いしてしまったらしく、あんな下品な人を、あなたは乗せるべきではないと言ったらしい。家柄のいい女だとかで、岡田さんはその若い妻のいいなりだった。その後、岡田さんはずいぶん長い年月をかけて、離婚を達成し、今の宮脇淳子との結婚をとげたのである。」(p.192-3) 

 東京外語出身者のホープだったのかも知れない中嶋嶺雄については、「東京外語の紛争中に、中嶋嶺雄が勤務評定法を考え出した。教員の評価は、管理、教育、研究と三つの領域に分け、それぞれ三分の一とし、研究には極めて低い評価しか与えなかった。こういう人は、根っから、学長になるために大学に勤めているような人である」(p.257)と一刀両断にしている。

 様々なエピソードからは、著者の反権力的な自由人たる人物像が浮かび上がってくる。