澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「夕焼け小焼け」と父の思い出

2015年10月22日 23時12分34秒 | 音楽・映画

 何年も前、父が亡くなったとき、葬儀場ではバイオリンの生演奏で童謡「夕焼け小焼け」のメロディが奏でられた。

 父はこの童謡が作詞された地区で、長い間仕事をして、作詞者である中村雨紅とは親交があった。
 遺品というべきものを残さなかった父が、生前、唯一私に手渡したのが、この雨紅自筆の「夕焼け小焼け」の書だった。


  童謡「夕焼け小焼け」の歌詞 作詞者・中村雨紅による自筆書 

 今年7月、英国Vocalion社から、思いがけないCDがリリースされた。ウェルナー・ミューラーの「Werner Müller in Japan(1971)+ New Holiday in Japan(1970)」という2on1CDで、このブログでもすでに書いたことがある

 このCDには「夕焼け小焼け」が入っている。1970年のデッカ録音なので、ウェルナー・ミューラーが「リカルド・サントス」名義で録音したポリドール盤(1958年頃の録音)とは、若干アレンジが異なっている。ポリドール盤は、YouTubeにUPされているので、こちらに貼り付けてみた。


 リカルド・サントス(=ウェルナー・ミューラー)楽団の「夕焼け小焼け」

 初めて聴く若い人は、山里の夕暮れとはほど遠いけたたましさ、国籍不明の(つまり中国風な)アレンジに驚き呆れるかもしれない。けれど、1958年頃から60年代初期まで、外国人が演奏した日本メロディのアルバム(LPレコード)がいくつも大ヒットした。戦後わずか十数年、敗戦によって「内地」に閉じ込められた日本人は、無意識のうちに音楽で世界とのつながりを確認したかったのかも知れない。

 「きだみのる」の名著「気違い周遊紀行」は、この「夕焼け小焼け」の村で書かれた。山寺は今も存在するが、童謡に歌われたような情緒・風情も、きだみのるが描いた日本の山里の原風景も、今やどこにも見られない。





Werner Müller in Japan(1971)+ New Holiday in Japan(1970)

 

 

 

 


「昭和天皇 退位論のゆくえ」(冨永望)を読む

2015年10月19日 11時01分42秒 | 

 7月末、公開された米国の外交文書によって、1971年、中国の国連代表権問題をめぐって、昭和天皇が佐藤栄作首相に「蒋介石を支持してほしい」と伝えた事実が明らかになった。このことについては、このブログでも感想を書いた

 昭和天皇のこの発言は、最近の映画「日本のいちばん長い日」に描かれたような、昭和天皇が一億玉砕、一億総特攻を主張する「軍部」を抑え、戦争終結の「聖断」を下したというような「神話」を自ら葬り去ってしまうほど衝撃的だ。つまり、天皇の戦争責任問題に再び火をつけかねない問題なのだが、御身大事のマスメディアは、決してそこまで踏み込んで報道することはない。 

 そこで、いろいろな本を漁ってみたのだが、「昭和天皇 退位論のゆくえ」(冨永望著 吉川弘文館 2014年)は、戦争直後からGHQ時代における天皇退位論を新聞史料を中心にたどっていて、ど素人の私でも読みやすく、興味深かった。


「昭和天皇 退位論のゆくえ」(冨永望著 吉川弘文館 2014年)

 天皇の戦争責任に言及した高松宮との確執、「退位」の圧力に屈せず「留位」した政治力などを知ると、昭和天皇が極めて「自覚的」にこの国の政治を動かしてきた事実を認めなければならない。終戦に至る政治過程を詳細に見つめれば、「天皇のご聖断が今日の平和を築いた」(上述映画のキャッチコピー)などと、口が裂けても言えないはずなのだ。

 出版元のHPには、次のような解説が添えられている。

日本史上最も長く続いた年号「昭和」が、昭和天皇の譲位によって実際より早く終わる可能性は、少なくとも4回あった。敗戦直後、東京裁判判決、講和条約発効、皇太子の御成婚…。昭和天皇の戦争責任に端を発する退位問題はどのように巻き起こり、論議されたのか。日本社会における天皇の位置づけを考え、戦後の日本人が選択しなかった道を探る。」
 
 「昭和」が遠くなり、巷には団塊世代のジジババが徘徊する時代となったいま、自らの来る道、そして生末を重ね合わせ、「日本社会における天皇の位置づけを考え、戦後の日本人が選択しなかった道を探る」のも一興ではないのか。
 同時に、天皇の戦争責任、天皇制国家の功罪を考えることは、近未来の国家的危機に際して、再び同じ愚行を繰り返さないためにも、ぜひ必要なのかもしれない。

  
 


ノーベル平和賞なんて要らない 文学賞もね…

2015年10月10日 11時35分59秒 | 社会

  昨晩はノーベル平和賞の発表でひと騒ぎ。
  結局、日本人にとって最も疎遠なアフリカの人が受賞したので、騒ぎも一瞬のうちに収まった。

 「憲法第九条をノーベル平和賞に」と最初に言い出したのは、神奈川県の一主婦だったらしいが、すぐにマスコミが飛びつき、全国的な話題となった。
 昨年までは、憲法第九条が受賞した場合、それは「日本国民」に対して与えられるという説明だった。ところが、昨日のニュースでは「受賞対象者が九条の会」にすり替わっていた。「九条の会」と言えば、大江健三郎が実質的代表者、バックには岩波書店が…。大江はすでに文学賞を受賞しているから、平和賞をもらえば、大江は「二冠王」、まさに日本を代表する人物となってしまう。だが、そうは問屋はおろさなかった。それは当然だろう。世界の東の果て、極東の島国で「平和憲法」「非暴力無抵抗」を叫んでも、そんなものは広い世界には届かない。中には逆に、米国製の屈辱的憲法を70年”守り通した”という日本人を、軽蔑する人たちさえいるだろうに、と思う。

 この騒ぎで連想するのは「夜郎自大」の四文字。護憲・平和妄想は夜郎自大的でなければ成立しえない。坂本龍一が「安保法制反対デモ」の中で「平和憲法フランス革命の理念と同様、世界に誇るべきものだ」と言ったが、そんな妄言を「世界の人々 」が信じるとでも言うのだろうか。坂本は、今やフランス革命の「負の遺産」に光が当てられていることを知らず、大昔の教科書に載っていた陳腐なスローガンを真に受けたままだ。

 今後万が一、「第九条」が平和賞を受賞したら、それは米中などの大国の陰謀、策謀の結果だと疑うべきだ。故・佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞したのは、日本国が将来にわたって核兵器保有を断念させられたことの「代償」だったが、同じようなことが起きないとも限らない。すなわち、日本人がごく普通の「愛国心」「ナショナリズム」を持つことさえ禁じられる代償として、平和賞が与えられるかもしれないのだ。「平和の代償」が「ノーベル平和賞」ということだ。

 

池田大作氏もノーベル平和賞候補CNNが報道

産経新聞 10月9日(金)13時16分配信

 米CNNテレビは8日の電子版で、2015年ノーベル平和賞の候補に、創価学会の池田大作名誉会長や日本の憲法9条が挙がっていると報じた。

 CNNは、受賞予想で有名なオスロ国際平和研究所や、ブックメーカー(賭け屋)の情報をもとに10の有力候補を挙げた。池田氏は、メルケル独首相やローマ法王フランシスコとともに候補の1人として紹介された。(ニューヨーク支局)

ノーベル賞:「今年こそ平和賞を」…9条・市民団体

 

毎日新聞 2015年10月06日 00時08分(最終更新 10月06日 14時30分)

 

「憲法9条にノーベル平和賞を」と訴える鷹巣直美さん(中央)らメンバー=相模原市内で10月5日午後2時半、大場弘行撮影
「憲法9条にノーベル平和賞を」と訴える鷹巣直美さん(中央)らメンバー=相模原市内で10月5日午後2時半、大場弘行撮影

 昨年に続き今年のノーベル平和賞で「憲法9条を保持している日本国民」の受賞を求める神奈川県の市民団体10+件「『憲法9条にノーベル平和賞を』実行委員会」(相模原市)が5日、同市内で記者会見し、「安全保障関連法が成立した今年こそ、国民を勇気づけてくれる賞がほしい」と訴えた。平和賞は9日にも発表される。

 1人で運動を始めた同県座間市の主婦、鷹巣直美さん(38)は「廃案を求め子供や母親が『戦争したくない』と声をあげた。声はノーベル委員会にも届いているはずだ」と語った。【大場弘行】

 


大村智氏、ノーベル賞受賞

2015年10月06日 06時37分04秒 | 社会

 「今年も日本人がノーベル賞受賞」でマスメディアは大騒ぎ。確かに喜ばしいことなのだが、数ある賞賛、美談の中には「(山梨大学)卒業後は都立墨田工業高校定時制の教員をしながら東京理科大学大学院に進学したという苦労人だ。」と伝える記事(下記参照)もある。

 この記事を書いた記者はご存じないようだが、昼は大学院生、夜は定時制教員というような「苦労人」の生活も今や昔話だ。
 大村氏が定時制高校に勤めていたのは、1960年代初頭の4年間。その頃の定時制は、経済的理由で全日制に進学できない優秀な生徒が数多くいた。同時に、高校教員の処遇も恵まれていて、特に勤務時間においては融通が利いた。規則上の勤務時間は、概ね午後1時前後から午後10時前後までなのだが、実質上、午後5時から10時ほどの5時間勤務が労使関係上の「慣例」で容認されていた。だから、大村氏は大学院生と教員という二足のわらじを履くことができたわけだ。
 
 だからどうした、ノーベル賞受賞にケチをつけるのか?と言われそうだが、そうではない。私が感じるのは、社会の変化そのもの。ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」で描かれたような、勉学に勤しむ定時制高校生の姿は今や見られない。一方、社会の管理強化は学校にまで及んでいて、研究と教育が両立するような職場環境は考えられなくなった。

 つまり、大村氏は古き良き時代の体現者で、このノーベル賞受賞は高度成長経済期の輝かしいサクセスストーリーと言えるだろう。これからは二度と起こりえないような……。

 

ノーベル賞の大村智さんは元定時制高校の先生

 今年のノーベル医学生理学賞に、北里大特別栄誉教授の大村智さん(80)らが選ばれた。日本人の受賞は昨年に続く快挙だが、その異色の経歴にも注目だ。

「メディカル朝日」2014年10月号の「サムライたちのクスリ PART2 『ニッポン発の創薬』を目指して 第4回 イベルメクチン」(取材・塚崎朝子)によると、大村さんは1935年、山梨県韮崎市の農家の長男として生まれ、高卒後は家業を継ぐものと考えていたが、父に大学進学を認められて山梨大学学芸学部自然科学科に入学。卒業後は都立墨田工業高校定時制の教員をしながら東京理科大学大学院に進学したという苦労人だ。修士課程を終えて助手に採用されたのが母校の発酵生産学科(当時)。山梨大はワインの研究が盛ん。ブドウ糖からアルコールをつくる酵母の働きをみて、「とても人にはまねできない」と、微生物のはかりしれない可能性に開眼したという。

 北里研究所時代には抗生物質研究室室長として、自らも含むメンバーに通勤時や出張時にビニール袋を持たせ、スプーン1杯の土を持ち帰ることを課した。1グラムの土には1億個以上の微生物がいるという。1974年、静岡県伊東市のゴルフ場近くで採取された土の中にいた新種の放線菌から作り出された物質が、今回の受賞業績「寄生虫による感染症の治療法に関する発見」へとつながる。大村さんが開発した新薬「イベルメクチン」は、熱帯地方で猛威をふるっていた感染症「オンコセルカ症」の特効薬として、多くの患者を失明から救ったのだ。