澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

紅白歌合戦の姜尚中

2008年12月31日 20時00分33秒 | マスメディア
「出たがり屋」の極致というべきか、東京大学教授である姜尚中が紅白歌合戦の審査員として登場した。
これまで、「日曜美術館」「スタジオパーク」「知るを楽しむ~夏目漱石」などのNHK番組に出演してきた姜尚中だが、まさか紅白歌合戦の審査員にまでしゃしゃり出るとは思わなかった。
この人の精神構造は、いったいどうなっているのだろう!?

在日朝鮮人で私大(早稲田大学)出身ながら東大教授になったという異例の人物だが、彼を採用した東大当局は、姜がこんな浅はかな「タレント教授」だと承知していたのだろうか。姜の専攻は「政治思想史」だが、東大の政治思想史といえば、丸山真男を引き合いに出すまでもなく、秀才中の秀才が集まるところだ。姜の所属は法学部ではないが、姜のポストに座るべき人材は東大の中にいくらでもいたはずだ。にもかかわらず、こんな男が任用された理由は何なのか知りたいところだ。

「在日」「東大教授」を看板にして、姜がすさまじいまでにマスメディアに露出するのは何故か?
姜は「在日」であることを「出世」と「金儲け」のために利用した。「在日」であることの”痛み”を売り物にしたのだ。
姜のもうひとつの目的は、金儲け。これまで出した「著作」を総計すると、数億円の印税を稼いだと推測される。
狂おしいばかりの権力欲と金銭欲、これが紅白歌合戦審査委員・姜尚中の実体だ。



英語が話せればよいのか~学習指導要領の改訂

2008年12月23日 05時30分19秒 | 社会

学習指導要領が改訂され、高校の英語の授業は、すべて英語で行うという方針が打ち出された。


 

【学習指導要領】「能力アップ」「教師も負担」英語で授業に期待と不安

2008.12.22 22:43

日本語を使わない北海道旭川北高校の英語の授業。身ぶり手ぶりもまじえ、教室は活気にあふれる=北海道旭川市(同校提供)日本語を使わない北海道旭川北高校の英語の授業。身ぶり手ぶりもまじえ、教室は活気にあふれる=北海道旭川市(同校提供)

 文部科学省が22日に公表した高校の新しい学習指導要領案で、英語の授業は、基本的には英語で行うことが盛り込まれた。英語のコミュニケーション能力を高める狙いで「英語力は必ずアップする」との期待は大きい。一方、複雑な文法は日本語で教えることも認められているとはいえ、「生徒にも、そして教師にも負担がかかる」と現場からは戸惑いの声も漏れてくる。

 北海道立北海道旭川北高校は現在、全学年で、英語の授業をすべて英語で行っている。平成17年度に文部科学省から英語指導の重点校に指定されたのがきっかけだった。

 授業で和訳は行わない。難しい文章は、教師が易しい英語に言い換えたり、文脈から推測させたりする。文法は使いこなせるまで徹底的に練習させる。「長文は100%理解できなくても、60%分かればいい。あとは想像すれば十分」と英語科主任の松井徹朗教諭。

 教師側も授業の進行マニュアルを英語で作成する。毎年、模擬授業をしては指導法を見直している。もちろん生徒以上に戸惑いはあった。「それまでの訳読中心の授業から、準備も進め方も変えなくてはならない。教師の頭の中を切り替えることが一番大変だった」と、松井教諭は振り返る。

 4年間にわたる取り組みで、確実に生徒の英語力は向上した。1年間の授業で模試での偏差値が約5ポイントも上昇した。松井教諭は、こうした指導法の効果を強調する。

 「3年生では英語でプレゼンテーションができるぐらいには上達できる」

 一方、英語での授業に不安を感じている教諭も少なくない。都立高で英語を教える40歳代の女性は「どのような授業になるのか、イメージできない」と話す。

 大学時代に米国留学の経験はあるが、日常会話で授業が成り立つのかと思う。何よりも、文法中心だった指導法を一から見直さなくてはならない。学習指導要領案では、複雑な文法は日本語で教えることも認めているが、「確かに、英語は話すことで身につく。しかし、試験英語に慣れた今、新しい指導法に取り組むことは大きな負担になる」。

 別の50歳代の男性教諭は生徒への負担を懸念する。「底辺校では、生徒がついてこれない可能性もある。どこにレベルを据えればいいのかが見えてこない」。そもそも、「自分に英語で授業をするだけの技量があるのか…」。不安は尽きない


ここで議論されているのは、相変わらずの「教養英語」か「実用英語」かという話だ。
「試験英語」「教養英語」では、生の英語が話せない、「国際人」にはなれないと、ずっと言われてきた。それは、果たして本当なのだろうか?

日本人が外国語習得が下手と言われるのには理由がある。①漢字文化圏に属し、「読み書き」が主流だったこと、②島国であるため、外国人との日常的な接触が少ないこと、③欧米列強の植民地とならなかったことだ。
これらのことを考えれば、「英語が下手」であることを特に卑下する必要もない。理科や数学が国際水準以下では困るけれども、外国語習得は能力の問題ではなく、習得する環境によるのだ。

自分の高校時代を振り返ると、東大英文科を出た教師(後に国士舘大学教授)とICU(国際基督教大学)大学院出身で後に米国ケント大学に留学した教師(いずれも男性)に教わったのだが、現在のように、オウム返しにヒアリングを強要されるようなことはなかった。特に、ICU出身の教師は、ペンギンブックスの哲学書(仏陀に関する本)を自分でタイプ印刷して、副教材とした。生徒にとっては、その英文和訳は苦行に等しかったが、後になってみると「宗教」「比較文化」等の初歩を学ばせてくれたのだと思った。

これからの高校英語が、「話し方」中心となり、NOVAのような授業になるとすると、「読み書き」の能力は下がるに違いない。インターネットを使いこなすには、「読む」能力が必要であるのに、これ以上学力が下がっていいのかどうか疑問である。また、「英文法」のような「理論」がなおざりにされる結果、国語の学習能力も低下するのではないかと思われる。外国語の習得には、国語力が必要であり、彼我の文法比較といった観点も欠かせない。

英語教師を選ぶ視点が、どれだけネイティブに近く話せるかとなってしまうと、それも問題となる。薄っぺらな英会話が上手でも、専門的な知識や自国語に対する理解が不足しているならば、良い教師にはなれないだろう。
物理や数学に秀でている、真に優秀な人材にとっても、人前で「オウム返し」のような英会話が好きになれるのだろうか?「英会話」が嫌いなために、東大や東工大に入れないという理科系秀才が出てくることも考えられるが、たかが外国語のために優秀な理科的能力を評価されないのでは、もったいないのではないか。

NOVAのような英語授業を公教育でするのならば、先だってしなければならないことがある。それは、英語を大学入試科目から外すことだ

 


桑田真澄の”悪名”ロンダリング

2008年12月19日 12時18分29秒 | Weblog

あの桑田真澄が、早稲田大学大学院を受験するという。「スポーツ科学研究科」でスポーツ・マネージメントを研究するそうだ。

桑田と言えば、江川卓と並んで、”悪名”高い男だ。PL学園高校から早大に進学すると言いながら、巨人が指名したとたん、前言を翻しちゃっかりと巨人に入団した。このとばっちりを受けたのが清原だった。

巨人在籍中は、不動産投資に熱中し、「投げる不動産王」とか揶揄されたが、バブル崩壊で多額の借金を負うことになった。本来、不動産投資は自己責任なのだが、桑田は被害者のような顔をして、しおらしくしていたのが印象に残る。読売からカネを借りるためだったのだろう。こういう男は、もし、バブルで大もうけしていたら、人を人とも思わない尊大な態度を取っていたに違いない。

巨人をお払い箱になると「大リーグ」への挑戦だ。中年サラリーマンの”星”というようなストーリーをでっちあげ、バカなマスコミもこれを持ち上げた。しかし、本人は大リーグを話題づくりにしただけであって、予想どおり「チャレンジを終えて」帰国した。「この経験を活かして、指導者としてやっていきたい」などとぬけぬけと話している。

それに続く最後の総決算が、今度の「大学院挑戦」だ。「早大はずっと前から行きたかった」と言っているが、それなら、あのとき進学していればよかったのにさ、と思うのだが。「カネ」儲けしか頭にない桑田が、今度は「早稲田」をネタにして、プロ野球の指導者になるというわけだ。
こういうのを、マネーロンダリングならぬ”悪名のロンダリング”と言うのだ。



こんな男を早稲田が入学させるのかどうかみものだが、早稲田も金儲けが大好きだから、入学させるだろうね…。


介助犬付き地方公務員?

2008年12月17日 00時45分51秒 | 社会

兵庫県の職員採用試験(障害者枠)で介助犬の付き添いを拒否された受験者が、マスコミに訴え、次のようなニュースとなった。

 

【12/12 毎日新聞】

兵庫県:介助犬を拒否 採用試験で「犬嫌いに配慮」

 兵庫県が先月、身体障害者向けに職員採用試験を実施した際、女性受験者の「介助犬同伴で受験したい」との申し出を拒否していたことが分かった。女性はやむを得ず犬を家族に預けたが、「介助犬と使用者は一体。不安でしかたがなかった」と訴えている。公共施設への介助犬同伴受け入れは「身体障害者補助犬法」(02年施行)で義務づけられており、同法を所管する厚生労働省も「法的に不適切な措置で、残念な行為」と指摘している。

 介助犬は身体障害者の代わりに物を拾うなどの介助動作をし、用がなければ静かに待つよう訓練されている。受験したのは、車いすで介助犬と暮らす同県宝塚市の女性(26)。採用試験は11月19日、神戸市中央区の県施設「県立のじぎく会館」などで実施された。

 この女性が受験書類に「介助犬同伴」と記して応募したところ、採用担当の職員課から「犬を連れてくるなら試験中は別室で預かる」との連絡があり、介助犬の役割を説明しても受け入れられなかったという。試験は学科や面接など午前、午後に分かれて実施された。女性は「離れるのはとても不安だった。自宅に置いて受験するしかなかった」と話す。結果は不合格だった。

 同課は毎日新聞の取材に「犬嫌いやアレルギーの人がいる可能性もある」などと釈明。しかし同じ県の障害者支援課は過失を認めたうえで、「犬アレルギーの人がいれば、使用者に介助犬同伴で別室で受験してもらうなどの措置を取れたはずだ」と指摘した。

 一連の対応に「日本介助犬使用者の会」(宝塚市)の木村佳友会長(48)は「県は法律の普及をリードする立場でもあり、考えられない対応」と批判している

非正規労働者の解雇が相次ぐ世相の中で、こういうニュースを聞かなければならないのは、非常に残念だ。
公務員試験に障害者枠があることは法に定められており当然のことなのだが、次のような疑問が生じる。車いすで介助犬を必要とするような人が、本当に公務員として仕事ができるのだろうかということだ。
もし、採用された場合、車いすの職員を配置するだけでも、当該職場をバリアフリーに整備しなくてはならない。未整備の職場では、改修工事に何百万円もの費用がかかるはずだ。その上に、介助犬への対応が必要だとなれば、いったい、どれほどの経費、維持費がかかるのか分からない。

最近の「公務員バッシング」はすさまじく、ちょっとしたことでも「私たちの税金を使って!!」と叩かれている。それ故か、人事当局は、まるで腫れ物にさわるかのように障害者に対応しているように見える。

ある採用試験で本当にあった、こういう話がある。人事当局は、障害者枠(高卒程度)で脳性麻痺(一級)の職員を採用した。その主な理由は、当該職員が大学院修士課程を出ていたからだ。
「高学歴」だから仕事もできると単純に判断したのだろう。
ところが、その職員は手が不自由で、まともに書類作成などできない。そこで結局、最初の職場は追われ、各種職場ををたらい回しとなった。最後の行き先は、養護学校。同じような身障者が多いので、理解がある職場と見なされたわけだ。だが、一般職員の10分の一も事務能力がない障害者職員を受け入れた職場(養護学校)は、その職員のあかげで様々な問題や軋轢が生じ、惨憺たる状況となった。給食の皿も自分で持てない職員を配置しながら、人事当局は、その職員が原因であることを決して認めず、責任のすべてをその職場の上司に「管理監督者責任」として押しつけたのだ。

兵庫県のニュースを聞くと、障害者の「権利主張」を恐れるあまり、県当局が譲歩するのではないかと心配になる。そうなれば、介助犬付き公務員が誕生し、膨大な税金が投入されることになる。加えて、その職員が配属された職場は、上述のようなケースになる可能性が高いので、上司である管理監督者が「障害者職員の不始末による犠牲者」となるわけだ。

障害者の権利主張もほどほどにと思うのは私だけだろうか。


原と麻生のバカ殿ジャパン

2008年12月16日 13時05分48秒 | Weblog
昨日、WBCのチーム・メンバーが発表になり、「侍ジャパン」の原辰徳・監督のインタビューを聞いた。相変わらずの「言語明瞭、意味不明」で、何を言いたいのかさっぱり分からない。

本当に能力のある人は、難しいことを易しくいうのだが、その逆は「簡単なことを難しく表現しようとする」そうだ。先日、久米宏が「原監督はますます長嶋さんに似てきましたね」と嫌味たっぷりに言っていた。
久米の揶揄に賛同するのもシャクだが、この発言は的はずれではない。原辰徳の発言を注意深く聞いていると、文を区切らず、接続してだらだら喋るので、終いには何が主語だったか分からなくなってしまう。J・リーガーにもよくいるのだが、「…ですし~、……ですし~」というしゃべり方だ。それとともに、「優勝というものに対して、私の中では本当に真剣に戦っていきたいと思う」というような表現も多い。「優勝を目指して本気で戦いたい」とは言わないのだ。

麻生首相も同様の傾向だ。「不況対策というものに対しましては」「基本的に私の中では…」といった、無駄な言葉がやたらと多い。基本的単語を忘れることも多く、開き直ったぞんざいな言い方が、聞き手の気に障るのだ。優秀な官僚が作った想定問答集という模範回答があるのに、あんなしゃべり方しかできないと言うのはちょっと信じがたいことだ。

野球監督も政治家も言葉がすべて。活字にしたら意味不明のような言葉を話す原も麻生も、国やチームを預かる”器”などでは到底あり得ない。
「侍ジャパン」などと暢気に言っているが、試合前からもう負けたも同然だ。
舛添要一は、かつて麻生と細川を「バカ殿」と呼んだ。「学習院や成蹊を出た人じゃ、この国は任せられない」とも放言している。

こんな原辰徳や麻生太郎に、夢を託さざるを得ないこの国は、まさに「バカ殿ジャパン」ではないか。


加藤周一 1968年を語る

2008年12月15日 13時51分30秒 | Weblog

先日、89歳で亡くなった評論家・加藤周一氏の「加藤周一 1968年を語る」(NHK教育TV)を見た。

1968年は、確かに特別な年だった。「プラハの春」と言われたチェコスロバキアの「人間の顔をした社会主義」に対して、ソ連は7000両の戦車を投入した。当時、ウィーンに在住していた加藤氏は、そのときの経験を「言葉と戦車」(1969年)として著した。

アジアでは、中国の文化大革命が内乱の様相を示し、またベトナム戦争が「北爆」にエスカレートした年でもあった。

あらゆることが急速に変化する時代でもあったので、フランスの学生運動、米国のヒッピー文化など、体制にNOを突きつける運動も顕著だった。日本では、全共闘運動が全盛を迎え、時を経ずして東大・安田講堂の陥落と突き進んだ。

晩年の加藤氏は、1968年の社会事象を歴史の中で意味づけていく。だが、TVのインタビューを見る限りでは、「わかりやすい」というか、かなり平凡な議論をしているように思われた。

ふと考えたのは、「言葉と戦車」の「言葉」の方だ。「戦車」は、昔も今も物理的強制力を備えているが、「言葉」は、この40年間で大きく変質したのではないか。
加藤氏のような超エリートの「解説」を待つまでもなく、一般大衆が、インターネットの世界に入り込むことで、容易に情報を取得できるようになり、同時に自己の主張をアウトプットできるようになったのだ。こんなことは当たり前と言われるかも知れないが、1968年を出発点に考えてみると、出版やTVとは全く異なる、革命的なメディアが出現したことが分かる。

1968年のように戦車で放送局を占拠しても、もはや情報を統制することなどできない。
中国では「零八憲章」がネット上に公開され、中国政治の民主化を求めている。これを中国当局は必死に鎮圧しようとしているようだが、2008年の今、どれほどのことができるというのか。



 


畳の上で死ぬということ~近隣諸国の死者の意味

2008年12月14日 16時37分02秒 | Weblog

田母神氏の発言以来、村山談話や自衛隊の文民統制の問題がクローズアップされている。
「平和憲法」のおかげか、日米安保による米軍の庇護のためか知らないが、第2次世界大戦後、日本人の戦死者や紛争による被災者は皆無だった。

ところが、東アジアの近隣諸国は全く違う。



朝鮮戦争の死者<

  1950年6月に始まった朝鮮戦争で、北朝鮮の死者は250万人、韓国市民100万人、韓国軍人5万人、米国人5万4000人、中国軍人100万人。(J・ハリデク「朝鮮戦争」岩波)南北朝鮮の合計死者数が355万人というから、太平洋戦争での日本人死亡者221万人をはるかにうわまっている。アメリカ軍人の死者も、ベトナム戦争の時より1万人も多いチベット人虐殺

  1950年に中国に併合されたチベットでは、数十万人の住民が殺された。アジア監視委員会では「1950年から1980年に百万人を超えるチベット人が不自然な死を遂げたと推定される」と報告されている。(タッド・シュルツ「1945年以後」)
 

ベトナム戦争>

  1973年1月28日、南ベトナム全土で停戦が発効。アメリカ軍の死者46000人、重軽傷者303000人。南ベトナム軍民の死傷者は300万人以上。<>

 

カンボジア内戦<

  ポルポトのクメール・ルージュ政権は1975年のアメリカ軍撤退後の4年間に、300万人の朝鮮戦争の米兵死者数3万7千人に下方修正(読売)


 

1947 2・28 台湾 「2・28事件」 蒋介石の国民党軍が2万8千人の市民を虐殺。
1966-76年 中国・文化大革命で2,000万人が虐殺される

 
この60年を見ただけでも、こんなにも人命が軽く扱われてきた。特に中国では、中国共産党の暴政により、まともな知識人や宗教家は根絶やしにされた。ジョークだとは思うが、ここまで生き抜いてきた中国人は、みんな”悪人”ばかりだという話を聞いたことがある。悪人はふてぶてしく生き残ることができるのだ。


「平和」「人権」などときれい事を言い続け、隣国に譲歩を重ねる「ひよわな」日本は、いずれ呆然とする目に合わされる日が来る。

田母神発言を偉そうに批判する「市民」たちは、本当に畳の上で安楽にその死を迎えられるのだろうか? 

 

 



 


弁護士の時代がやってきた

2008年12月14日 14時05分54秒 | Weblog

弁護士の時代がやってきた……
こういうと、大阪府知事になった橋下弁護士をはじめとする、タレント弁護士の”活躍”のことと思われるかも知れないが、そうではない。
何でも法律問題としてしまう昨今の風潮は、言うまでもなく伝統的な家族関係、人間関係の崩壊を物語っている。

私の周囲では、仏教の総本山に墓があるために、嫁いだ妹から「墓の分与」を要求された、気の毒な人がいる。その妹は、家族会議で話し合い、「あの墓なら夫も娘も入りたいと言っている」と言って、分与を公然と要求したそうだ。実父の葬儀で墓に行き、家族全員が「ステータスがある」と思ったそうなのだ。その理由は、近くに日活の大スターだったI・Yの墓があるということなのだ。そんな理由で、実家の墓を乗っ取りたいと考えたそうなのだ。墓の乗っ取りが困難だと察知すると、次は、さらなる金銭要求を突きつけてきているそうだ。

こういう事例に介在するのは、今やどんな案件にも口を出す、悪徳弁護士だ。まともな弁護士なら相手にしない、このような案件でも、引き受ける悪徳弁護士は存在する。

近々、裁判員制度がいよいよ導入される。これまで、司法制度に素人が介在するのは、家庭裁判所の調停委員くらいだった。調停員は、言わば「盲腸」のようなもので、無能な人でもつとまる仕事だった。だが、裁判員は違う。刑事裁判を担当するのだから、死刑判決に関与することもありうるのだ。

法科大学院と裁判員は、日本社会を”米国化”しようとする策謀の最終仕上げに思えてならない。それは旧来の人間関係の破壊に他ならない。
上記の問題で、悪徳弁護士と素手で渡り合った知人は、偉いというか、ドン・キ・ホーテと言おうか、とにかくご苦労さまではあった。

 


 

 


「ポール・モーリア」(セルジュ・エライク著)を読む

2008年12月13日 21時24分15秒 | 音楽・映画
セルジュ・エライク著「ポール・モーリア」(審美社 2008年)を読む。(Serge Elhaik"Paul Mauriat , Une vie en Blue" 2002)
本著は、フランスで限定出版されたポール・モーリアの「自叙伝」の「縮刷日本版」である。




ポール・モーリア
セルジュ エライク
審美社

このアイテムの詳細を見る



1962年「愛のシャリオ」(=I will follow him)がヒットするまでのフランスでの下積み生活、1968年「恋は水色」が全米ヒットして一躍有名になってからの活躍などを中心に、興味深いエピソードが数多く盛り込まれている。

ポール・モーリア自身は、シャイで、おごり高ぶることのない性格だったという。日本ツアーでは、必ず夫人を同行させ、精神面での安定を図ったようだ。
音楽ビジネスは一筋縄ではいかないらしい。ちょっと眼を離せば、ミュージシャンたちは手を抜き、自身が描いた音楽とはほど遠いものとなってしまう。ポール・モーリアもその辺の葛藤に悩んだようだ。

「恋は水色」は彼の名前を有名にしたものの、米国での彼の人気は「一発屋」に近いものだった。「ビルボード」チャートを見れば、そのことははっきりしている。
その彼を救ったのが、日本のファンだった。米国ツアーはたった3年で終わったが、日本には毎年のように訪れ、合計1200回ものコンサートを開いた。
晩年、フランスでは忘れ去られ、町を歩いても気づく人もいなかった。1993年には、フィリップスとの契約をうち切り、日本のポニーキャニオンと録音契約を結んでいる。「蒼いノクターン」「涙のトッカータ」「オリーブの首飾り」といった一連のオリジナル曲は、米国やフランスでは、ほとんど知られていないようだ。

かくも日本で人気があるのは何故か?
日本人のフランスに対するあこがれ(片思い)を巧みに取り入れ、誠実な人柄でファンサービスを熱心に行ったことが、大きな要因かも知れない。

本書は、約310頁で3,360円。残念なことに、ディスコグラフィ、年表等の基本的資料は省かれているので、やや物足りない感じもする。しかしながら、今年、イージーリスニング音楽関連でこういう本が出版された事実は、ファンとして心強い。



最近の毛沢東論

2008年12月13日 20時58分53秒 | 中国
2冊の毛沢東論を読んだ。

1 「毛沢東」(ジョナサン・スペンス著 岩波書店 2002年)
2 「中国がひた隠す毛沢東の真実」 北海閑人著 草思社 2005年)





1は、英国人の歴史学者によって、1999年に書かれた本。あの岩波書店が選んだだけあって、権威があり、定評のある本らしい。(原書は「ペンギン・ブックス」)だが、その昔、スチュアート・シュラム、ジェローム・チェンといった人たちの毛沢東伝を読んだ記憶があるが、それらとどう異なるのかはよく分からない。あえて言えば、何故、いま出版するだけの価値があるのか、わからないという感じだ。

2は、キワモノ的な印象を与えるが、内容は核心を突いている。著者は中国在住の元共産党幹部党員で、香港の月刊誌「争鳴」に連載した記事をまとめたものが本書である。
現在の中国では、改革開放が始まった30年前よりも、毛沢東批判はむしろ後退している。大躍進や文化大革命という暴政は否定されたものの、毛沢東の評価は、誤りが3割に過ぎず、7割は肯定的とされている。
中国共産党史上、「富田事件」(ふでん)という紅軍将校の大量虐殺事件がある。スターリンが行った「カチェンの森事件」と同様の事件なのだが、もしこの真相究明がなされるならば、真の毛沢東批判が進行するだろうと言われていた。ところが、この事件は結局、タブー扱いとされ、現在に至っている。

著者は、この事件を分析し、毛沢東の差し金だったと断定する。また、延安整風運動が、毛沢東自身の権力確立のための策謀だったと主張する。これについては、1の著者でさえも、毛沢東の「イメージ戦略」であると記している。

かつて「延安整風運動」は、エドガー・スノウによって世界に紹介され、中国革命の核心であるとして高く評価された。ところが、この整風運動をもうひとつの側面から見れば、毛沢東の絶対的権威を確立するための陰謀でもあったのだ。延安そのものが、外界から孤立した世界であり、マインドコントロールを施すには格好の場所だった。「オウム真理教」のサティアンのようだと言ったら言い過ぎだろうか。

中国国外の毛沢東に対する評価は、いまや「暴君」「病的な独裁者」という方向に収斂しつつあるようだ。かつてロマンティックに「中国革命」に夢を託した、日本の若者も今や老年を迎えた。彼らは、新しい毛沢東伝を読むたびに、中国に生まれなくて良かったと思うに違いない。

「零八憲章」(08憲章)の検証

2008年12月12日 20時55分53秒 | 中国

中国の民主化を訴える「零八憲章」がネット上に登場し、中国当局は神経をとがらせているそうだ。今日の朝刊でこのニュースを採り上げたのは「産経新聞」のみ。「産経」は「反中国」だからと思う人もいるだろうが、文化大革命時期、もっとも正確な中国報道をおこなったのが「産経」だったことを忘れてはなるまい。

今週、NHK・BSでは「中国・庶民の改革開放30年」という特集を放送しているが、第2回の「革命の聖地・延安」では、朝令暮改の農業政策に翻弄される農民の姿をレポートしていた。開放改革政策で自営農地を与えられた農民が、たばこなどの商品作物でもうけをもくろむが、地元政府の役人によって必ず潰されてしまう。その53歳の農民は、ついに出稼ぎを余儀なくさせられる。出稼ぎ先の社長は、13歳下の同じ村の出身者で、その農民は「あいつは早く村を出て、大学を出た。おれは文革時代に育ち中学校も行かなかった。こうなるのも仕方ない」と嘆息する。その社長は、「腐敗がなければ社会は回らない。役人の接待は必要だ」とインタビューにクールに応えていた。

これが中国社会の現実なのだが、その変革を目指す「零八憲章」を日本のマスメディアがあまり採り上げないのは、中国に対する遠慮があるとしか思えない。
文化大革命期、広州で「李一哲の大字報」が貼り出され、中国全土に大きな衝撃を与えた。暴君でもある「皇帝」毛沢東の実像を暴き、「階級闘争」の名目で互いに殺し合い、「挽肉器」にも例えられた中国社会の実相を鋭くえぐり出したのだ。


[双書9]李一哲の大字報(日中出版)

チイ・ハオほか編/山田侑平・小林幹夫訳
■定価 1575円(税込) ■*ISBN4-8175-1033-1 ■1977年9月刊
1974年11月、広州市に新聞用紙67枚を連ねた長大な大字報が出現、大反響となった。これが李一哲の大字報「社会主義の民主と法制について」だった。四六判上製/240頁


今回の「零八憲章」は、その李一哲の大字報に匹敵するものと言えよう。情報伝達の手段としては、「李一哲」は壁新聞、「零八憲章」はインターネットと雲泥の差があるのだが、その主張する内容は、基本的に同一である。
この30年間、中国は経済的には豊かになったものの、中国共産党一党独裁による抑圧政治は何一つ変わっていないということだ。

「朝日新聞」などの親中派マスコミはこの憲章を無視したが、文革期の「秋岡記者事件」と同じように、後年、これが朝日の不見識、不誠実さを示す格好のエピソードとなることを願わずにはいられない。

 

宣言内容

《零八宪章》分“前言”、“我们的基本理念”、“我们的基本主张”和“结语”等四部分,主要内容是阐述自由、人权、民主、宪政等概念,主张修改宪法、实行分权制衡,实现立法民主,司法独立,主张结社集会言论宗教自由,宣言共提出6点理念与与19点的主张。[4]

基本理念

  • 自由:言论、出版、信仰、集会、结社、迁徙、罢工游行示威等权利
  • 人权:人是国家的主体,国家服务于人民,政府为人民而存在。
  • 平等:公民不论社会地位、职业、性别、经济状况、种族、肤色、宗教或政治信仰,其人格尊严、自由都是平等的。
  • 共和:要求“大家共治,和平共生”,分权制衡与利益平衡。
  • 民主:主权在民和民选政府。
  • 宪政:主张以法治限制政府权力和行为的边界。

基本主张

19点主张包括了修改宪法、分权制衡、立法民主、司法独立、公器公用、人权保障、公职选举、城乡平等、结社自由、集会自由、言论自由、宗教自由、公民教育、财产保护、财税改革、社会保障、环境保护、联邦共和、转型正义等。触及了政治改革、经济改革、城乡差距与环境保护各面向。

各界反应

在消息传出后,签署声明的北京学者刘晓波、张祖桦于8日晚间遭到拘捕,刘晓波被刑事拘留,张祖桦随后则获释。至10日下午,参与签署者的上海维权律师郑恩宠也遭三名公安从家中带走,目前情况仍不明[5]

不过在海外,该声明则得到了余英时哈金陈一咨方励之胡平宋永毅苏晓康万润南王丹等多位著名人士的支持[5]


中国「零八憲章」を読む

2008年12月11日 09時33分02秒 | Weblog

中国の立憲政治100年、世界人権宣言公布60年等に当たる今年、中国ではその2008年を採り入れた「零八(08)憲章」が、ネット上で公開されて、大きな反響を呼んでいるそうだ。
「零八憲章」の「前言」では、近代中国から現在までの立憲政治に言及し、改革開放下の現況でいかに民主化が必要かを主張している。
この憲章には、中国各地の知識人303名が署名している。

「われらの基本理念」と題する第2章には、次の点が強調されている。

1 人権 2 平等 3 共和 4 民主 5 憲政 

「中国では皇帝の時代が過ぎ去り、世界でも権威主義体制は黄昏を迎えている。公民は国家の主人公であり、賢明な君主や清廉潔白な官吏に頼るのではなく、公民意識を持って、自由、民主、法治を実践しなければならない」と結んでいる。

「われらの基本主張」は、次のような具体的提案を行っている。

1 憲法改正 2 三権分立 3 司法独立 4 人権保障
5 民主選挙の実施 6 二重戸籍の廃止(都市・農村に分かれた二つの戸籍を一つにする) 7 結社・集会の自由 8 言論の自由
9 宗教の自由 10 公民教育の民主化 11 私有財産制の確立 12 社会保障の確立 13 環境保護 14 香港・アモイの民主制度を維持し、中国各地区の平等発展を図る 15 政治的非迫害者の名誉回復

インターネットの普及によって、中国当局はこのような政治的主張の流布を阻止することができなくなった。もはや「壁新聞」の時代ではない。文革期、「李一哲の大字報」が注目されたが、壁新聞(大字報)とインターネットの違いはあっても、その主張は驚くほど酷似している。

この憲章は、中華世界全般にじりじりと浸透し、やがて中国共産党一党独裁をうち破る起爆剤になるのではないか、と思わずにはいられない。

 

 

 

 


ある早大教授の”真実”~「日華事変と山西省」を読んで

2008年12月08日 09時22分39秒 | 中国

「日華事変と山西省」というウェブサイトに興味深い記事を見つけた。
このHPの筆者は、中国・山西省と関わりのある人らしく、日中戦争期のかくされたエピソードを採り上げている。
その中で興味をひいたのが、次の記事である。全文に近くなってしまうが、引用をさせていただく。


孫東元さんの人物像―安藤彦太郎『虹の墓標』批判

かつて文革を評価した親中派の論客として著名な早稲田大学名誉教授の安藤彦太郎。安藤が1995年に勁草書房から出版した『虹の墓標―私の日中関係史』は、安藤の記憶に残る20人の中国人との交遊の思い出が書きつづられている。郭沫若、周恩来、廖承志などそうそうたる人物とともに、戦争体験談で紹介している孫東元さんも登場している。表紙をめくると、当時孫さんと一緒に撮影したとする写真が載っているが、そこに写っている顔は確かに若かりし頃の孫さんといって良い顔だ。しかし、一章(60~67頁)をさいて安藤が紹介している孫さんとの思い出話は、このホームページで紹介している事実と大きく異なっている。

安藤は孫さんを、1937年(昭和12年)の廬溝橋事件を機に帰国していった愛国学生の一人として描いている。安藤は「孫君はひたすら事変の不拡大をねがい、医学を身につけるまでは、と頑張っていた。だが、ついに七月末に孫君も引き揚げることになった」(64頁)とし、留学生活を三週間で切り上げ、博多から船に乗って天津経由で帰国したという。しかし孫さんは官費支給がうち切られた後も日本に残り、1940年(昭和15年)まで九州医専で私費の留学生活を続けている。廬溝橋事件の時に帰国した事実はない。

安藤にとって孫さんは愛すべき祖国のために生きようとする立派な愛国学生として記憶されており、その思いは次のようなエピソードに込められている。
孫君は熱烈な愛国者で、こう言った。「僕は日本に来て良い日本人をたくさん識った。君はその一人で、僕の心の友と言っていい。でも君は、日本の兵士として召集されて中国に来るかもしれない。僕は帰国して抗戦に参加する。そして戦場で君に逢ったら断固として君を刺し殺す」。そのとき、マルクス・ボーイであった私は「いや、そういう考えかたは小児病的ではないかな」と、利いたふうな答えをした。するとかれは眉を揚げて、「でも僕は君を刺し殺す以外にないのだ」と言い切った。(64-65頁)
そして7月30日頃に東京駅で安藤は孫さんを見送り、乗船の直前によこした手紙を最後に消息が絶えたとする。安藤は「気性は激しいが快活で、ときおり皮肉な笑いを浮かべるおもしろい青年だったが、抗戦のなかで死んだにちがいない」(67頁)とし、あくまでも抗日に命をささげた愛国学生と記憶しているようだ。しかし孫さんは抗日どころか、一時帰郷中は傀儡政権が設立した医学専門学校で教壇に立っていた。たとえ"心の友"であっても、日本人=敵である以上"刺し殺す"と涙を浮かべて主張するほどの愛国心に固まった青年像。安藤が著書で描くその姿と、傀儡政権に職を得た事実から受ける印象には大きな隔たりがある。

安藤は著書の中で、当時の日本では反中・嫌中の嵐が吹き荒れ、孫さんをはじめ中国人が肩身の狭い思いや身の危険を感じていたという印象を与える書き方をしている。しかし、違和感がある。孫さんは、保証人を引き受けた布施先生をはじめ学友たちも皆が戦争前と全く変わらず接してくれたとし、むしろ戦火の広がる祖国を心配してくれた彼らへの感謝を今でも忘れないと語っている。安藤の日本人と中国人との関係についての見方は、もうひとつのエピソードでも違和感を与える。安藤は孫さんが"帰国"したあとに父親の達生さんから手紙が届いたとしてその内容を紹介しているが、それは父が日本留学時の自分の経験からして「日本人は中国人を軽蔑し、戦時はとくにひどいと思われるから、途中できるだけ日本人を装って帰るように」と指示したとする(67頁)。もちろん、彼はその手紙を自分が受け取って孫さんには渡していないと書いているから、たとえ孫さんが父親からそのような指示を受けた記憶がないと言っても不自然ではない。しかし孫さんは反対に戦火が迫りつつある太原に居る家族に対して当時なんら心配はしなかったという。日本の大学を卒業した知日家の父なら、日本軍が来ても全く心配ないと思っていたからだ。日本人を警戒して息子を帰国させようとする父親が、日本軍が攻めてくる太原に家族と一緒にそのまま居続けるだろうか。

安藤の書く孫さんとの思い出は、孫さんが自ら筆者に話してくれたものと比較して事実関係で大きな開きがあり、性格描写は正しい印象を与えるものの、人物像という点では正反対に近い。安藤が話を脚色しているのか、"愛国者"の振りをして孫さんが彼を騙したのか。すでに70年も前の話で、しかも当事者の一方である孫さんが既に他界している今、それを第三者が判断することは難しい。しかし少なくとも安藤が古き良き思い出として書いたこのエッセイは、次の事実によって痛烈な歴史の皮肉として彼自身に跳ね返ってくる。

安藤が評したように"気性は激しい"孫さんは、中共治下の集団狂気にも怯むことなく自己主張を続け、反動のレッテルを貼られて三角帽をかぶらされることとなった。安藤が中国共産党の治世と文化大革命を賞賛していたとき、孫さんは1950年代の反右派闘争から1970年代の文革終結までの20年もの間、政治的迫害を受けていた。現地の人は皆一様に、孫さんは「投獄されていた」という。判決を受け、罪人として獄につながれた。良く言われる労働矯正よりも深刻だったのだ。安藤はエッセイの中で「太原には一九六四年、北京シンポジウムの旅行で一晩立ち寄ったとき以外、行っていないが、いちど達生医院のことを訊ねたいと思う」(67頁)と呑気に書いているが、1964年に彼が太原を訪れたとき、父親の達生さんは毛沢東の失政で中国全土を空前の飢餓が襲っていた二年前に他界しており、孫さん自身は長治市の郊外に設けられた強制収容所にいたようだ。

戦後に孫さんが受けた迫害については詳しく聞き取りをしていない。精神的に限界までいったトラウマに触れることを恐れたからだ。孫さんの自宅には、部屋中に周恩来の写真(毛沢東ではない)が貼られ、一種異様な雰囲気を醸し出していたのを憶えている。足腰が弱くなり、移動には車椅子を使っていたが、迫害を生き抜いた老人は、同行していた省政府の歴史研究員を前にして「閻錫山の治世は素晴らしかった」「中共はスローガンばかりだった」と大きな声で堂々と話した。これぐらいの内容でも彼らのような戦前世代が口にするには相当の覚悟が今でもいるのだ。布施先生のご子息をはじめ、数年前に連絡がとれるようになった日本の同窓生からは学術誌が定期的に届いていたが、80歳を過ぎたその時も医学論文に目を通すことを楽しみにしていた。私が取材した数ヶ月後に他界した。現地の人たちは皆一様に彼の気質を「すごい」と評する。何度も復活を遂げた小平になぞらえて「不倒爺」とも呼ばれた。親日と反骨に生きた83年の人生だった。

            (「日華事変と山西省」より引用)

疑問符を付けられた著作は、安藤彦太郎著「虹の墓標ー私の日中関係史」(頸草書房 1995年)である。
著者である安藤氏は、元・早大政経学部教授(中国語・中国経済論)で、中国の文化大革命を賛美した「進歩的文化人」でもある。文革期に「北京留学」という「恩恵」を中国から授かり、文革がいかに素晴らしいかというレポート(「中国通信」)を書き続けた。それは、当時の学生等に大きな影響を与えた。同僚で「文革礼賛派」でもあった故・新島淳良が、文革終結後、早大教授を辞して、「ヤマギシ会」に入ったのとは対照的に、安藤は早大教授のポストに座り続けた。

この人の変わり身の早さはすごかった。文革が収束すると、「文革礼賛」をすぐに引っ込め、新しい中国指導部のお追従を始めた。「学者」として文革を総括することもなく、その後は「中国語と近代日本」(岩波新書)というような、中国の威光を借りて日本を批判する本ばかりを出版した。

そういう安藤氏は知っていたが、上記の引用文献を見て、「そこまで不誠実な人だったのか」と改めて驚いた。
そういえば、安藤氏が育てた学者、研究者は皆無に等しい。自身の学問的業績も「満鉄ー日本帝国主義と中国」(お茶の水書房)くらいしかなく、早大以外の場所では評価もされていない。おそらく、早大内部の「日中友好運動」家として幅を利かせ、教授にまで登り詰めた人なのだろう。それはそれで文句を付けることではないが、自己の都合のため真実をねじ曲げる態度は、到底許されないことだ。
孫東元氏と安藤氏がどちらが真実を語っているのか、それは言うまでもないことだろう。安藤氏もいよいよ毛沢東に会う年齢となっているのだから、不誠実な自己弁護は止めるべきなのだが、「日華事変と山西省」の著者の問い合わせには次のように答えたという。

追記:安藤彦太郎氏からの手紙

安藤氏に手紙で事実関係を質問したところ、著書での記述はフィクションではないとの返事を頂きました。安藤氏は孫さんの談話内容との乖離について、「対日協力者の複雑な心境ではないか」と評しています。そもそも"対日協力者"であるのは私からの手紙で初めて知ったはずで、しかもその談話の内容は、(中共治下では)自らに不利な内容で、かつ嘘をつく必要のないものです。

安藤氏からの手紙を読んで、孫さんが雑談のなかで話していたことを思い出しました。「ある日本の古い友人が、戦前の私のことを本に書いているが、事実が違っているので訂正を求める手紙を出した」というものです。その本が安藤氏の著作がどうかは、孫さんが亡くなった今では確認できません。

文革」が「魂に触れる革命」などではなく、「世紀の大厄災」であったことは、今や明らかだ。当時、日本でも「文革」を礼賛した「知識人」「大学教授」が何人も出た。その多くは、後に自らの不明を恥じるのだが、安藤に限っては、全くそういうそぶりも見せず、「中国当局」へのお追従を貫いた。早大退職後も、「日中学院院長」として中国との太いパイプを持ち続けた。

「文革」期に安藤の言説に欺かれた若者は、今や疲れ切った還暦世代に。
彼らが孫東元氏のエピソードを知れば、「安藤のようなやつが、うちの会社にもいるなあ~」と嘆息することだろう。その「安藤のようなやつ」は、きっとしっかり会社の中枢に収まっているのだ…。

 

繁体字の運命

2008年12月07日 02時19分51秒 | 台湾
日本人の三分の二に嫌われている中国だが、漢字の世界では着々と勢力拡大しているようだ。

周知のとおり、中国大陸では「簡体字」が使われ、台湾、香港および東南アジアの華僑社会では「繁体字」が使用されている。日本の漢字は、たとえば「台」の繁体字が「臺」であるにもかかわらず、略字の「台」を正字としているので、必ずしも「繁体字」を使用しているとは言い難い。もちろん、簡体字は使用していないのだが…。

最近聞いた話だが、大学の中国語の授業は、ほとんどが「簡体字」を使用したテキストを使っているそうだ。中国語教育の伝統ある大学(たとえば、二松学舎大学)では、「繁体字」を使う授業もあると聞く。
しかしながら、台湾で発行された「繁体字」のテキストは、あまり売れず、台湾書籍を扱う書店は、閑散とした有様のようだ。



これがその一冊なのだが、繁体字は風格があるのがよく分かる。第一、漢字の成り立ちがよく分かるし、書道をやるなら繁体字に限ることだろう。
繁体字が風前の灯火という現状にあるのは、日本の知識人にも大いに責任がある。「新中国」「人民中国」を礼賛するあまり、中国文学者さえもが、「簡体字」に肩入れした歴史があるからだ。中国農民の9割は文盲と言われたなかで、難しい繁体字を彼らに教えることは困難とされ、簡体字が作られたわけだが、漢字の本来の成り立ちなどお構いなしに省略化した結果、表意文字としての意味をなさなくなった漢字が増えてしまった。「人民」が主人公になれば、「文化」は廃れるという、いい見本のようなことになったのだ。

1945年当時、台湾の識字率は、ほぼ100%近かったと言われる。これは、日本の文教政策の功績だった。蒋介石の国民党が台湾に逃れてきたとき、幸いにも彼らは「繁体字」を捨てる理由はなかったのだ。台湾にあっても「中華」を自認する彼らは、むしろ「繁体字」を守ることが使命だと感じたに違いない。
だが、政治、経済などの面で、大陸中国が圧倒的な存在感を示すようになった今、漢字もその影響から逃れることは難しいのかもしれない。

歴史に翻弄される繁体字の運命は、これからどうなるのだろうか?

中国に親しみを感じない人…66%

2008年12月06日 22時01分40秒 | Weblog

中国に対する国民感情が冷え切っているという調査結果がでた。

中国に親しみ、最低の31.8%=日米関係良好、7割切る-内閣府調査 12月6日19時1分配信 時事通信  

内閣府が6日発表した「外交に関する世論調査」によると、中国に「親しみを感じる」人は昨年10月の前回調査から2.2ポイント減の31.8%で、1978年の調査開始以来、最低を記録した。「親しみを感じない」も過去最高の66.6%(前回比3.1ポイント増)。日中両政府は「戦略的互恵」を掲げて協力強化に取り組んでいるが、「食の安全」の問題などもあり、国民の対中感情は和らいではいないようだ。
 中国に親しみを感じる人は、80年の78.6%をピークに減り始め、2005年には32.4%に低下した。日中関係についても、「良好と思わない」が71.9%(同3.9ポイント増)で過去最高となった。
 一方、日米関係を「良好」とする人は68.9%(同7.4ポイント減)で、質問が現在の内容になった98年以降、初めて7割を切った。「良好と思わない」は28.1%(同7.7ポイント増)。ブッシュ政権が北朝鮮のテロ支援国指定を解除したことや、米国発の金融危機が影響したとみられる。ただ、米国に「親しみを感じる」は前回と比べ2.3ポイント減(73.3%)にとどまっており、親近感の面では大きな変化はなかった。
 

調査では、「食の安全」問題が影響したかのように書かれているが、必ずしもそうではない。1972年の日中国交回復以来、中国の対日政策は、パンダを日本に贈り、日本人の中国イメージを赤い「共産中国」から親しみのある国へと変換させることにあった。このもくろみは、一応成功した。だが時折、中国が見せる「微笑の陰の素顔」に日本人は、やっと気付き始めたのではないか。チベット暴動、新彊ウィグル自治区におけるテロに対する、中国政府の対応は、「力がすべて」という彼らの本音をかいま見せた事件だった。いくら「平和呆け」したわれわれでも、それくらいは察知したということだろうか。

かつて8割近くの人が親近感を感じた中国だが、いまや3分の2の人が嫌う国となった。相手も同じような状況なのだから、ようやく「片思い」は消えて、イーブンになったと言えるだろう。
こうなったら、歴史認識の問題についても、言うべき事は言うという態度が必要となるだろう。台湾をこれ以上見捨てるような態度を取るべきではないし、大国主義丸出しの中国に対しては厳しく立ち向かうべきだ。