澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「ラ・カンパネラ」を聴く

2009年10月31日 02時36分56秒 | 音楽・映画

数日前、NHK教育TVでフジ子・ヘミングのドキュメンタリーを再放送していた。彼女が有名になったのはこのTV番組からで、「ラ・カンパネラ」は、彼女の十八番の曲だ。

その昔、マニアはジョルジュ・シフラの演奏がいい、清水和音のCDは音がいいとか言っていた記憶があるが、手許にそんなCD、LPは見あたらない。そこで、当然のごとく、YouTube映像を探してみた。
早速、小山実稚恵、ユンディ・リ、フジ子・ヘミング、辻井伸行の映像が見つかった。演奏時間は、小山4:45、ユンディ4:28、フジ子5:38、辻井4:30という感じ。小山の映像(下記掲載)は、指の動きが詳細に撮されているので、この曲がいかに難曲であるかが分かる。
小山は、多分楽譜に忠実な演奏で、テクニックも優れている。辻井は、ハンディキャップにもかかわらず、大胆。ちょっと荒っぽいような気もするが…。ユンディは、ただただすごい。他の人とは違う曲を弾いているかのような印象だ。
http://<WBR>www.you<WBR>tube.co<WBR>m/watch<WBR>?v=hEnf<WBR>ZjqMSy0<WBR>&featur<WBR>e=relat<WBR>ed

フジ子は、テクニックがない分だけ、自己流の解釈を加えている。ただ、他の演奏と比較すると、比較してはいけない、という結論になる。
http://<WBR>www.you<WBR>tube.co<WBR>m/watch<WBR>?v=3IXx<WBR>B2wLoxQ<WBR>&featur<WBR>e=relat<WBR>ed

最後に、私が聴いたのは、カーメン・キャバレロの演奏。そう、「愛情物語」の彼だが、ソロでこの曲を録音している。演奏時間は6分20秒。ちょっとした遊びも入っているが、なかなか面白い演奏で気に入った。これが一番かもしれない…。彼が優れたテクニックの持ち主であることがすぐ分かる。
 (カーメン・キャバレロ)


この曲は、演奏者の素性がすぐに分かってしまう珍しい曲かも知れない。

La Campanella (小山 実稚恵)


日中友好人士・安藤彦太郎の死

2009年10月29日 12時26分16秒 | 中国

 今朝、このブログのデータを確認したら、「安藤彦太郎」でアクセスしたものが、20件近くあったので驚いた。これは、私がこの人について書いたことがあるからだったが、いまだかってそんなに多くのアクセスはなかった。その結果、知ったのは安藤氏の訃報だった。

http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/14313c7d2a0c27d77a91de65684c827f

 若い人はもはや知るよしもないだろうが、この安藤彦太郎(早大政経学部教授・中国語、中国経済論)という人は、60年代末から70年代前半にかけて、「文革礼賛派」の知識人として有名だった人だ。ネット上では、この人についての書き込みもほとんど無いので、完全に過去の人になっていた。

 1970年代前半、私は、この人の授業を聴いたことがある。といっても、早大生である友人に教えてもらって、わざわざ聴きに行ったのだ。当時、中国文化大革命を現地で実際に見聞した人として、安藤氏はよく知られていた。「中国通信」(大安書店)という著書には、いかに中国の文革が正当か、現代マルクス主義の矛盾を克服する戦いであるか等々、今思えば見当違いで噴飯ものの内容が書かれていた。
 同時期、早稲田の政経学部には、新島淳良という教授(中国語)がいて、この人は毛沢東を礼賛し、新左翼の理論家としても知られていた。
 全国に学園紛争が蔓延するなかで早大政経学部は、突出した中国礼賛派(=日中友好運動派)の拠点だったのだ。

 だが、実際に安藤氏の講義を聴いて、私はがっかりした。「中国経済論」と題した授業には、全く「経済」の話など出てこず、日中関係史のとりとめもない羅列という内容だった。自分の自慢話も多く、学生時代(早大政経学部)は「財政学」だけが「良」で、その他は「優」だったが、全優ではなかったので、「満鉄」に行かずに済んだと話していた。これは、「満鉄」に就職していれば、中国側からは白い目で見られてしまうので、文革期に中国へ招待されることはなかっただろうという意味だ。中国に招待され、日中友好運動の先頭にたっていることが自慢でならないのだろうとそのとき思った。
 私のいた大学では、宇野重昭先生(現・島根県立大学学長)が兼任講師として「中国共産党史」という科目を教えていた。この授業は今でも記憶に残る素晴らしいものだったので、安藤氏の授業があまりにお粗末なのに驚愕した。

 中国の言い伝えに「人の評価は棺を覆って決まる」という言葉があるそうだが、92歳で死去した安藤氏のニュースはどう採り上げられたのか。「朝日新聞」は次のように報道している。

早大名誉教授・近代日中関係史の安藤彦太郎さん死去

2009年10月27日23時19分  朝日新聞

写真安藤彦太郎さん

 安藤 彦太郎さん(あんどう・ひこたろう=早稲田大学名誉教授・近代日中関係史、日中学院名誉学院長)が27日、膀胱(ぼうこう)がんで死去、92歳。葬儀は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻陽子さん。

 60~70年代を中心に、中国や日中関係について発言。「毛沢東選集」日本語版の翻訳に協力したほか、戦後50年の95年に開設された日中歴史研究センターのセンター長を務めた。著書に「中国語と近代日本」「虹の墓標 私の日中関係史」など。


 興味深いのは「60~70年代を中心に、中国や日中関係について発言。」と曖昧に書かれていることだ。さすが中国に甘い朝日新聞ならではの記事だ。だがこの時期の安藤は、「文革中国」を礼賛し、返す刀で自分の国である日本社会を批判した、と総括されるべきだろう。"返す刀で”というのは、自分が特権的に見聞した中国事情を武器にして…という意味である。当時の安藤は、文革中国という”神”を奉る”司祭”の役割に自己陶酔していたのかも知れない。

 文革が”脱文革化”のかたちで収束すると、安藤は、自らの言説を自己批判することもなく、新中国指導部へのお追従を貫いた。新しい”神”は、またあちらからやってくる…。同僚・新島淳良が早稲田にいられなくなり、教授を辞し「ヤマギシ会」に走ったのとは対照的に、安藤は最後まで早稲田大学教授のポストに座り続けた。

 早稲田大学は、その授業の質はともかくとして、学生数が多く、なかには優秀な学生もいるので、安藤のような教授でもその影響力は看過できない。特にマスコミに行った学生には、彼の影響を受けて、親中国的感情を今なお持ち続けている人も多いのではないか。
 対照的に、慶應大学の故・石川忠雄氏(中国政治)は、文革を批判し、中国政治を冷徹に分析した。そのゼミからは、多くの中国研究者を輩出している。一方、安藤は、誰一人として著名な研究者を育てられなかった。これは、安藤自身が、何ら実証的な研究実績を残さなかったのだから、無理からぬことだ。

 こういう安藤氏に対しては、ちょっと酷な言い方かも知れないが、古いタイプの活動家の死という表現が適切かも知れない。日本共産党の細胞活動、内部分裂した日中友好運動のなかでの抗争、こういう左翼、反体制運動が生き甲斐だったのだろうか。学問に生きた人というよりも、政治家、活動家の体質を強く感じさせる人物だった。中国人が古くからの友人だと称する「日中友好人士」とは、おおむねこのような人たちなのだろう。中国で一番有名な日本の大学が、東京大学ではなく、早稲田だというのも、もしかして安藤教授の”功績”のひとつなのかもしれない。

 だが、現在の中華民族主義(=中華思想)の中国、反日の中国を育て上げた責任の一端は、安藤のような「日中友好人士」にあることをわれわれは忘れてはならないだろう。



魏徳聖監督の映画「霧社事件」

2009年10月28日 20時18分47秒 | 音楽・映画

台湾映画「海角七号」の魏徳聖監督が「霧社事件」の映画化に着手。
霧社事件は、日本統治時代、原住民が起こした武装蜂起だが、魏徳聖監督は「抗日映画をつくるつもりはない」と語ったようだ。
民主化された台湾では、国民党時代につくられたような「反日映画」は、もはや冷笑の対象でしかない。台湾人の視点で制作された「海角七号」は、台湾と日本の絆をテーマにして、多くの人々の共感を呼んだ。主人公の名前「小島友子」も、日台の絆を確認するかのようだった。今年公開された「一八九五乙未」は、日本の台湾接収に対する客家(ハッカ)の抵抗運動を描いているが、これも単純な「反日映画」などではなかった。
だから、魏徳聖監督の「霧社事件」にも、大いに期待がもてる。ぜひ、見てみたい映画になるはずだ。

また、霧社事件79周年行事が行われたことも伝えられている。タイヤル族の関係者は「愛と包容の気持ちで、日本人も含めた犠牲者を追悼していきたい」と語っているようだ。この言葉もじつにいい。


台湾で霧社事件を映画化 注目の若手監督

 【台北共同】日本統治下の台湾で1930年、中部の先住民が武装蜂起した「霧社事件」を描いた映画が台湾で制作される。作品を手掛ける魏徳聖監督は事件発生から79年を迎えた27日、事件が起きた南投県霧社での記者会見で「恨みを描くのが目的ではない」と話し、抗日映画をつくるつもりはないと強調した。台湾での公開は2011年の予定。

 魏氏は日台の若者の恋愛を描いた「海角七号 君想う、国境の南」(日本公開は今年12月)の大ヒットで、台湾での映画興行収入記録を塗り替えた若手監督。

 会見には主演する台湾人女優、ビビアン・スーさんらも出席。「レッドクリフ」の大ヒットで知られ、今回はプロデューサーとして参加するジョン・ウー監督も姿を見せた。11月末から撮影を始めるという。


 

台湾の先住民族 抗日79年で式典

2009年10月28日 朝刊(東京新聞)

27日、台湾中部の南投県で開かれた「霧社事件」79周年の祈念式典=栗田秀之撮影

写真

 【大同村(台湾中部南投県)=栗田秀之】台湾中部、南投県の山間部に住む先住民族が一九三〇年十月、日本の統治に反発、蜂起した「霧社事件」から七十九周年の二十七日、同県大同村(霧社)で祈念式典が開かれた。

 事件は、高圧的な同一化策などに反発したセイダッカ族の一部が地元の学校や警察などを襲い日本人百三十四人が死亡。日本側は鎮圧に乗り出し翌年までに約千人の先住民族が死亡したとされる。

 式典では、集落のリーダーだったモーナ・ルダオのひ孫モーナ・パワンさん(50)が来年の八十周年に合わせ、事件の舞台となった学校(現在は電力施設)を記念館として整備するよう求めた。パワンさんは「愛と包容の気持ちで、日本人も含めた犠牲者を追悼していきたい」と話した。


 


鳩山首相の所信表明演説~したたかな中・韓と”共同”などできるのか

2009年10月26日 15時07分29秒 | 政治
鳩山首相の所信表明演説を聞いた。TVを見ていて呆れるのは、酒井法子の裁判の方が大きなニュースになっていること。いくら視聴率を取れると言っても、もう少し鳩山首相の演説内容に耳を傾けるべきではないか。



鳩山首相は、「東アジア共同体」の具体的な方策として、中国、韓国の大学と日本の大学間で単位互換制度を設けることを提唱した。結構な提案に思えるが、中台間の学術交流においては、すでに次のようなトラブルが生じていることをご存じなのだろうか。
台湾の大学は、国立大学が主流だが、そのすべての大学の名称には「国立」という言葉が付けられている。日本の東大に匹敵するのは、国立台湾大学(旧・台北帝国大学)、それに続くのが国立政治大学、国立成功大学、国立中山大学だ。これらの台湾の大学が大陸の大学と学術交流をする段階になって、中国側は「国立」の文字を外すように要求してきた。台湾の「国立」とは、中華民國を意味するのであるから、これは認められないという主張だ。台湾側は、やむを得ずこの主張を飲んだようだが、大学間の交流でさえ、中国相手ではこういうトラブルが生じるのだ。

鳩山首相が語る「東アジア共同体」には、いつも台湾が抜け落ちている。先日、李登輝氏が講演で述べたように、東アジア共同体などより先に重要視すべきは台湾との連携なのだが、首相は決してそのことには触れない。

首相が「台湾を中国に売り渡す」ことを考えているとは思いたくないが、「友愛外交」などという甘いサインを送っているうちに、したたかな隣人は”勘違い”をする可能性もある。首相の高邁な理想をヤクザな隣人は”弱腰”と見て、とんでもない行動に出るかも知れない。
格調高い演説の陰に不安な近未来を見た思いだ。



第三次国共合作はあるのか?

2009年10月24日 14時07分04秒 | Weblog

台湾の民主進歩党・呂秀蓮女史が語った「 第三次国共合作」の驚愕情報。
民主党が唱える「東アジア共同体」には、台湾の処遇は明らかにされていない。
このように、中国による台湾併呑さえ現実味を帯びているというのに、何を呆け
たことを…と思わざるをえない。

【呂秀蓮・前副総統】国共合作で三年以内に台湾を併合

            
 呂秀蓮・前副総統(前副大統領)は10月23日にカナダの「The Globe and
Mail」のインタビューの中で、中国国民党と中国共産党が画策する「三三三」平
和統一作戦について語った。

 呂前副総統によると、国共両党は2009年~2011年の3年間に、3つの「国共フ
ォーラム」、「海峡フォーラム」、「台湾海峡交流基金会と中国海峡両岸関係協
会の協議」の3つのプラットフォーム、「経済協力協議」、「軍事安全相互信頼
メカニズム」、「和平協定」の3つの協定を結び、両岸の平和的統一を完成させ
ることを目指しているという。

 呂前副総統は、3年以内に進める根拠として、2012年に胡錦濤・中国国家主席
が引退し、馬英九総統(大統領)は総統選挙を戦う年になることを挙げている。

 また、最近台湾の巷では、馬英九と胡錦濤は平和的統一を宣言することでノー
ベル平和賞を狙っているのではないかと囁かれている。 (「台湾の声」より)

 


もう一つの国慶節

2009年10月24日 07時50分21秒 | Weblog

今朝の「産経新聞」に「もう一つの国慶節」という興味深い記事を見つけた。「緯度・経度」欄に伊藤正記者が書いている。
この記事のネタは、次のウェブサイト。河北省の万安という寒村で行われた国慶節の模様を見ることが出来る。

http://you.video.sina.com.cn/b/25019135-1651667805.html

今年10月1日、中華人民共和国は、建国60周年を迎えた。北京などの大都市では、中国革命、中国共産党を賛美する数々のパレード、催しが開かれた。
一方、万安村では、手作りの廟に毛沢東、周恩来、朱徳の座像が飾られ、その左右には中共軍十大元帥の写真が飾られている。その中には、毛沢東の暗殺を企てたとされる林彪の写真も含まれている。さらに、座像、写真の周りには、村民のお布施(!?)なのだろうか、名前が書かれ寄進額が「100元」などと記入された布がかかっている。

 
毛沢東(右)と蒋介石~そのルーツは同一

村民達が歌うのは、文革時に革命歌とされた「東方紅」「三大規律 八項注意」など。「偉大な領袖・毛主席」「偉大な中国共産党」など、昔懐かしい言葉が次々と出てくる。まるで’60年代にタイムスリップしたかのような光景だ。
高層ビルが乱立し、札束が飛び交う北京、上海、大連などの大都市と違って、河北省などの西北部は、繁栄から取り残されている。その中でも農村の生活は、昔とあまり変わりがないように見える。

文革期に、互いに「革命派」を名乗り殺し合った過去も、今や懐かしい記憶なのだろうか? この村では、馬祖を奉るべき廟が、共産党の指導者を讃える祭壇に代わっただけだ。伝統的な中国社会は、何も変わっていないかのようだ。
その昔、日本の文革礼賛知識人は、当時の中国を「新しき革命」「文明の再鋳造を目指す中国」などと持ち上げた。いま、ご存命の方にはぜひ、上記のウェブサイトをご覧いただき、感想をいただきたいものだ。

ここには、確かに「もう一つの国慶節」「もう一つの変わらぬ中国」が映し出されている。

【もう一つの国慶節】 伊藤正(「産経新聞」2009.10.24) 抄録
「…同じ日に北京で挙行された豪勢な慶祝行事とは無縁。老人を中心とした数十人の農民が、歌と踊りで革命の先達に感謝を捧げる集いだった。…広場の”毛沢東記念館”が行事の中心だ。…正面中央に毛沢東、その両側に周恩来、朱徳の手製座像が置かれ、それぞれに供え物があった。まるで神棚のように。
…ひとしきりの歌と踊りの後、村民達は毛沢東の座像に向い三回頭を下げる礼を捧げた。
…万安村の老婦人は、国家の繁栄を喜んだが、この一見して貧しい山村は繁栄から取り残されているかに見える。祝賀行事に青壮年の姿はなく、出稼ぎに行っているのだろう。それでも、老人達には、革命で解放され、国の主人公になったという自負心が感じられた。
彼らのなかでは、時計は毛沢東革命の時代で止まっているかに見える。ただそこに、中国人が豊かさのみを追求するあまり忘れてしまった何かがある。社会の公正、正義を目指した革命の原点だ。」

  






 


真犯人はどこに? 「菅家さん」でなければ…

2009年10月21日 11時43分16秒 | Weblog

マスコミをにぎわしている「菅家さん」の冤罪事件。今日から再審が始まるようだが、次のような報道が行われている。

菅家さん「真犯人、別にいる」 足利事件再審初公判で

10月21日(水) 11時13分

共同通信

 栃木県足利市で1990年、保育園児松田真実ちゃん=当時(4)=が殺害された足利事件で、殺人罪などで無期懲役が確定、その後釈放された菅家利和さん(63)の再審初公判が21日、宇都宮地裁で開かれた。菅家さんは起訴状の内容をあらためて否定し「わたしは松田真実ちゃんを殺していません。真犯人は別にいます。17年半苦しんできました。真相を解明する無罪判決を求めます」と述べた。

すでに時効になったとはいえ、真犯人が別にいるのであれば、ぜひ真相を解明してほしいものだ。
ずさんなDNA鑑定が問題になったが、鑑定のやり直しでは「菅家さん」のDNAではなかったということが分かったに過ぎない。最近気になった報道では、被害者の家族のDNAを誤って鑑定したのだという報道もあった。これは、DNA鑑定の出発点から対象を間違えていたためで、警察の失態であることは間違いないが、かといって「菅家さん」の無実を証明するものとは必ずしも言えない。

「菅家さん」は、TVのインタビューで、事件当日、被害者の女の子とはパチンコ屋で会い、可愛いので外に連れ出したと言っているようだ。これは一般論だが、もう一人の真犯人が同月同日、同一の場所で、その女の子を狙っていた確率は、いったいどのくらいあるというのだろうか?警察が菅家さんを逮捕したのは、本人も認める疑わしさがあったからに過ぎない。

初動捜査の方法がそもそも誤りで、それを法律論的に指摘されたが故の「無罪」判決。かといって、真犯人が捕まった訳ではない。「菅家さん」も「真犯人は別にいる」と言うのだから、判決が出た後はぜひ、警察と協力して”真犯人”を究明してほしいものだ。そうでないと、被害者家族は浮かばれないだろう。 

 


樟脳をめぐる台湾史

2009年10月20日 10時13分11秒 | 台湾

手許に一冊の本がある。「世界第一・台湾樟脳 The story of Taiwan CAMPHOR industry」(台湾博物館系統双書2 2009.4発刊)だ。台湾における樟脳産業の歴史を綴った本だ。

 (「世界第一・台湾樟脳」(台湾博物館叢書 2009)

「樟脳」(しょうのう)は、衣服の防腐剤などに使われる白い固形の薬品。化学的に合成が可能になる1920年代までは、クスノキを材料として抽出が行われていた。セルロイドの可塑剤、無煙火薬の材料としても使われた。日本の台湾統治以後、樟脳は、サトウキビ、茶葉と並んで、台湾の主要な産業となる。

1895年、日本が台湾接収を行った時点では、樟脳の生産は、主に客家人(ハッカ人)によって行われていた。台湾映画「一八九五乙未」(2008年)には、当時の樟脳生産の模様が再現されている。

 呉湯興家の樟脳寮

クスノキの葉を蒸す工程

樟脳寮の仕事風景

客家人は、中国大陸全土に分布する民族だが、台湾における区分では、「本島人」として扱われる。すなわち、他の原住民と同様、従来から台湾に居住してきた民族という位置づけだ。ちなみに小平も客家人のひとりだ。
1895年、清朝高官が「台湾民主国」を宣言しながらも、日本軍の進駐を前にして戦わずして本土に逃亡したが、客家人は日本軍に激しく抵抗運動を挑んだ。この結果、1万3千人もの死者がでた。この客家の抵抗運動を採り上げたのが、上記の映画「一八九五乙未」である。

NHKの「Japanデビュー アジアの”一等国”」(2009.4.5放送)は、この抗日運動を「日台戦争」とネーミングして、次のように放送した。

http://www.youtube.com/watch?v=sA2IYMzOYGY

私は、この番組の制作手法を「センセーショナリズム」だと見なす。上記の映画や刊行物をつぶさに見れば、NHKのような番組は絶対に作れないはずなのだ。視聴者の受け狙いと、中国へのへつらい(媚中)が産んだ、奇怪な番組だった。「日台戦争」という言葉を使うことで、史実をねじ曲げ、現在の日台関係の離反を願っているかのような内容だった。

幸い、日本と台湾において、台湾の日本統治時代に関する研究は、急速に進んでいる。たとえば、「台湾 重層近代化」(若林正丈・呉密察編 2000年)などの本格的な論文集も刊行されている。

 (「台湾重層近代化」播種者文化有限公司)

このように研究が進展しているのは、1990年代以降、台湾の民主化、本土化が進み、客観的に歴史を見つめようとする気運が高まったからだ。中国や韓国とは、歴史認識の話さえタブーだが、台湾とは共同して研究可能な共通基盤が醸成されているのだ。こういう側面からも、これ以上、台湾および台湾人を見捨てるようなことが行われるべきではないと思う。

上記「世界第一 台湾樟脳」には、貴重な絵図、統計が盛り込まれている。中国大陸の出版物のように、日本帝国主義批判まずありきのようなことは全くない。実に素晴らしい本だ。

(客家人の樟脳生産風景)

 

 (左:樟脳生産は世界一 右:樟脳油のコマーシャル)

 


「日本統治下の台湾」を読む

2009年10月18日 05時04分26秒 | 
「日本統治下の台湾~抵抗と弾圧」(許世楷著 東大出版会 1972年)を読む。台湾史を知るための必読文献とされているのだが、何十年も経ってようやく手にしたことになる。

("Formosa under the Japanese rule" by Koh Se-kai)

許世楷氏は、私が学生時代にすでに津田塾大学助教授として活躍されていた。当時、私の大学に兼任講師として来ていたはずだが、他学部科目だったので聴講できなかったことを思い出す。もっとも、当時、私が台湾史を理解できたかどうか、はなはだ疑問だが…。
周知のとおり、許氏は長らく台湾独立運動に関わり、蒋介石時代(中国国民党独裁政権時代)においては、祖国・台湾に帰国することさえ許されなかった。ようやく陳水扁総統時代になって、駐日代表(=大使)を勤め、政治家として活躍されている。

本書の構成は、次のとおり。
第1部 統治確立過程における抗日運動(1895-1902年)
 第1章 日本領有に対する阻止運動
 第2章 北部における清国への復帰運動
 第3章 中南部における抗日運動の割拠
第2部 統治確立後の政治運動(1913-1937年)
 第1章 政治運動の台頭
 第2章 統一戦線の時代
 第3章 分裂の時代
 第4章 諸団体の凋落
 
私が特に関心を持ったのは、第1部第1章。その理由は、NHKが放送した「Japanデビュー アジアの”一等国”」(2009年4月5日放送)において、「日台戦争」と名付けられた部分であるから。
同番組では、日本の台湾接収に際して台湾人による抵抗運動が起こり、1万数千人の犠牲者が出たことについて、「日台戦争」という言葉を使用した。これを見た視聴者からは「そんな用語は聞いたことがない」という抗議が殺到した。
この点について、本書ではどう書かれているのかを見ると、当然のことながら「日台戦争」などという言葉は一切使われていない。NHKディレクター・濱崎某は、番組を制作する前に果たして本書を読んだのだろうか?と思った。

台湾映画「一八九五乙未」(2008年)の中に、台湾接収を行った近衛師団・北白川宮親王が次のようにつぶやく言葉がある。「…我々は敵を甘く見ていた。これは接収ではなく戦争である」(台詞は日本語)
客家人で科挙の秀才でもあった呉湯興が率いる抗日運動を描いた映画だが、決して「反日」映画ではない。戦火の拡大を憂う北白川宮親王の心の葛藤や、医務官として同行した森鴎外の心情を描いていて、日本人が見ても心打たれる映画だ。(下記映像参照) 北白川宮が語る「戦争」という言葉は、単なる比喩として使われているに過ぎない。

わずか100年余り前の史実が、NHK・TVでは「日台戦争」と名付けられ、自国である日本を断罪する道具と化してしまった。一方、この台湾映画では、日本の台湾接収を”悪”として描かず、むしろ当時の歴史、国際環境のなかでやむをえなかった出来事として捉えているように見える。

許世楷氏の本書は、多くの史料を駆使して客観的に当時の状況を描き出している。たとえば、日本の台湾領有を否定するために清朝政府の役人によって「台湾民主国」が宣言されるが、形勢不利と見た官僚達は戦わずして大陸に逃亡してしまう。このように常に外来政権に翻弄されてきた台湾人の視点から見れば、日本統治も中共(=中国共産党)政権も国民党政権(=蒋介石政権)も”同じ穴のムジナ”に過ぎないことがよく分かる。本書の前書きには、次のような言葉がある。
『本書を いまなお虐げられているわが同胞にささげる』
これは、本書が上梓された1972年当時台湾では、蒋介石政権の「白色テロ」によって多くの台湾人が政治犯として死に追いやられていたことを示している。

本書は、台湾史を理解する基本的文献として、多くの人に読まれるべきだろう。まず真っ先に読むべきは、NHKディレクター・濱崎憲一だが。


1895電影預告片



「Orz ボーイズ」明日TVに

2009年10月12日 19時57分41秒 | 音楽・映画
映画「Orzボーイズ」(台湾 2008年)が、明日深夜、NHK衛星第2で放送される。これはとても素晴らしい映画。録画しておく価値十分…。

【内容】
「爽やかな少年ファンタジー「Orzボーイズ!」。ヤン・ヤーチェ監督の長編デビュー作だ=東京・渋谷で11月2日、筆者撮影 空想の翼を広げれば、異次元へだって飛んでいける。

 台北の小学校。やんちゃ坊主二人の名は、「うそつき1号」と「うそつき2号」。あまりのいたずらぶりに、女先生が命名した。罰として図書室の本の修理を命じられた二人。ところが本を読むうち、心は想像の世界へ。家へ帰れば1号は心を病んだ父と二人暮らし。両親のいない2号は祖母と暮らしている。二人を取り巻く“大人の事情”は、ややこしくて複雑だ。

 楊雅[吉吉](ヤン・ヤーチェ)監督の長編デビュー作「Orzボーイズ!」。爽やかな印象を残す少年ファンタジーだ。9月に台湾で公開後、口コミで観客数が拡大。8月に公開されて大ヒット中の日本・台湾合作映画「海角七号」(魏徳聖=ウェイ・ダーシェン=監督)とともに、“台湾映画復活”を感じさせる快進撃を続けている。

 街を駆け抜ける1号と2号。子供は明るくやんちゃで、大人たちは厳しく温かい。ところどころで挿入されるコミカルなアニメーション。突き抜ける青空、どこまでも広がる海。全編鮮やかな原色に彩られ、すがすがしい風が吹き抜ける。しかし、親の不在は二人の心に影を落とす。ヤン監督は「二人が置かれた環境は厳しいが、明るく元気いっぱいに生きている。大人に見てもらい、励ましたかった」と語る。」(「映画の森」より引用。http://www.cinema.janjan.jp/0811/0811140493/1.php)

NHKも時々いい映画を放映するんだなあと思う。「アジアの”一等国”」問題で懲りているのかもしれないが。






大江健三郎の台湾訪問

2009年10月10日 13時08分41秒 | マスメディア

ノーベル賞作家・大江健三郎が、台湾を訪問した。「日本帝国主義」が台湾で行ったことに対する”贖罪の旅”であるらしい。
だが、一方で、大江健三郎のこの行為を、売名であり、中国の台湾併合に加担するものだという意見も上がっている。「台湾の声」は、下記のとおり警告している。

私見だが、大江という人は、見かけによらず政治的で、狡猾な人だと思われる。「憲法第9条」を道具に、どこの国の人かと思われるような言動を繰り返してきた。この人は、日本という国が心から嫌いなのだなと思わせるような言動ばかりだった。

台湾に行って、また日本を批判し、いいカッコをしたのかと思うと、この人の精神構造はどうなっているのかと疑いたくなる。

(大江健三郎)


大江健三郎が台湾へ「贖罪の旅」/動き出した左翼―「親中反日」姿勢に反響様々【台湾の声】

 
■台湾でノーベル賞受賞作家として歓迎された大江氏 

大江健三郎氏が十月五日に台湾を訪問した。ノーベル文学賞の受賞者の来台とあって、同国内では大きな注目を浴び、台北市内の書店で開かれたサイン会など、開場の一時間前には数百人の長蛇の列ができるとの盛況ぶり。

またマスコミ各社の報道では、「一生涯、反戦を堅持している」などと、日本の「過去」を「反省」する大江氏の姿勢を称える論調が目立った。

沖縄集団自決訴訟についても、「七百人の沖縄市民が日本軍によって自殺に追い込まれた史実の追及まで行い、戦争が日本人に与えた傷を反省したのだが、軍人の遺族や右翼団体から訴えられている」などと大江氏を無批判に同情している。

なかには「大江氏は日本社会における反省力の代表だ。では台湾の反省力はどこにあるのか。新移民などを除外しようとしたことを誰も認めようとはしていない」と言うものもあった。

ここで言う「新移民」とは戦後蒋介石とともに台湾へ逃れてきた中国人(外省人)のことだが、こう報じる記者は間違いなく、その外省人だろう。台湾人は彼らの支配下に置かれて迫害は受けても、その寛容な民族性から、彼らを疎外したことなどない。

それにもかかわらず、民主化で特権的地位を奪われた外省人は被害者意識を抱き、「我々は疎外されている」と訴えだしたわけだ。しかしそれが事実なら、なぜ外省人の馬英九が政権を取れたのだろうか。

このように中国人にとって「反省」とは、敵に要求するものである。台湾人も大江氏のように、中国人に従順ならどれほどいいだろうと思ったに違いない。

■左翼ならではの言い訳―「台湾へ行く勇気がなかった」

もっとも、こうした一部の在台中国人は別としても、台湾人は反日歴史観で愛国心を確認する中国や韓国とは異なり、歴史を冷静、客観的に見ることができる人々であるのだが、それでもやはり日本の「過去」を否定的に見るのはなぜかと言えば、先ず挙げられるのが国民党独裁時代の反日教育の影響だろう。しかしやはりそれより大きいのは、日本自身が進んで「過去」を否定していることではないだろうか。

だからもちろん大江氏の「反省」姿勢は無批判に受け入れてしまう。彼が日本社会で「左翼」と言う反日的な特殊政治思想の持ち主であるなどとは思いも寄らないことだろう。むしろ日本の良心を代表する偉人だと信じて疑うまい。何しろ彼は「ノーベル文学賞作家」なのだ。

六〇年代からたびたび中国を訪問しながら、台湾訪問は初めてと言う大江氏は現地で、「これまで台湾を深く理解する時間がなかったことが残念だ」と述べた。

いかにも中国にシンパシーを抱いてきた左翼知識人らしい言葉である。政治的な配慮で国民党独裁時代の台湾を反共の島として敵視し、民主化以降も台湾への無視、無理解を続け、今になって台湾を訪問する機会が訪れ、その民主主義社会を肯定せざるを得なくなるとの例はよくあることだが、大江氏自身によれば、決してそういうことではないそうだ。

こう「告白」している。

「台湾訪問が遅れたもう一つの原因は、これまで台湾人民に真向かう勇気がなかったからだ。なぜなら日本社会は軍国主義時代の両岸人民に対する行いに対し、いまだ深く反省し、負うべき責任を負おうとしていない」と。

「両岸」と言うのは台湾海峡に位置する台湾と中国のこと。もともとは台中は同じ国であるとし、「台湾と中国」と言えない政治的立場の者が生んだ言葉だが、それはともかく、大江氏は今回の訪台を「贖罪の旅」とも位置づけていたそうだ。

だが反日的な中国へはこれまで七回も行っているらしい。二〇〇六年に訪中した際には、会見した李長春政治局常務委員から「大江先生は中国人民の古い友人。第一回目の訪中では毛沢東主席、周恩来総理、陳毅副総理など老世代の指導者とも会っている」と言われ、「中日両国人民の相互理解を深め和解を達成させるため努力を続けてきた」とまで称えられている。

その大江氏が親日的な台湾へ行くことには「勇気がなかった」と言うのもおかしな話である。

■大江自身が仕組んだ台湾と中国の「学術交流促進」のシンポ

この「贖罪」をかねた旅には、もう一つ大きな目的があった。

それは六、七日に開催されたシンポジウム「国際的視野の中での大江健三郎文学」に出席するためだ。

これは台湾の中央研究院と中国の社会科学院の共催によるもので、大江氏の要請で実現した。台中の「学術交流の促進が目的だ」との報道も見られた。

大江氏は社会科学院とはかねてから提携関係がある。そこで大江作品を台湾に紹介してきた藤井省三氏を通じ、中央研究院と連絡をつけたのだそうだ。

ところが大江氏が台湾へ到着すると、シンポを巡る二つの噂が問題となった。一つは東京大学が協力団体から降りたこと(「国際」から「両岸」に限定)。もう一つはシンポで大江氏との対談が予定されていた台湾の作家、李昂氏が参加を取り止めたこと。それぞれが中国の圧力によるものだと言うのである。

大江氏自身は、「台湾のどの作家が参加しようと意見はない」「対談相手として指定したのは大陸の莫言氏だけ」と説明している。一方、李昂氏は「恩人である藤井省三氏が参加しないことを知ったので、自分も取り止めた」と話す。

■大江氏の言動の矛盾を見事に突いた台湾人の新聞投書

いずれにせよ、従来台湾無視を貫いてきた大江氏が、ここに来て「両岸」を接近させることに動き出したわけだ。「ノーベル文学賞作家」として台湾人の信頼を受けながら…。

シンポでも、主催者が「両岸」との言葉を使用することを評価している。「両岸の文学には同じような関心がある」として。

そのような大江氏の言動の本質を突いたものに、自由時報に掲載された汪安台氏(自由業)の投書がある。タイトルは「大江の光環と盲点」。下に全訳しよう。
 
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ノーベル賞受賞者の日本の小説家、大江健三郎は、来台して文学学術シンポジウムに参加したが、「第二次大戦に関する贖罪」を口にしながら、しばしば親中言論を発していた!民進党議員の管碧玲は「台湾で著名な本土派作家の李昂がシンポから排除されたことで、大江健三郎の来台の意義は大きく損なわれた」と指摘している。

一九四五年、台湾はまだ日本の領土で、米国が広島に原爆を投下し、日本を無条件降伏させた。最近では中華人民共和国が成立六十周年を記念する閲兵式を行たが、それは示威を目的とするものでもあった。大江健三郎はこの大国の武力の乱用を非難しないのはなぜなのか。全世界の平和が、まさに中共のために危機に直面していることを本当に知らないのか。

大江健三郎は日本人でありながら、敢えて中国を批判せず、ただただ日本の「羞恥」と「罪悪」だけを語っている。まさか内心で自分にはノーベル賞をもらう資格などないことを認めているのではないか。

筆者が疑うのは大江健三郎の才能ではなく、母国文化の滋養を敢えて肯定しようとしないところだ。ノーベル賞の受賞者には正確な世界観と国際的視野が求められているはずだ。それて初めて民主主義とそれに見合った使命感を理解することができるようになるからだ。
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■中国の「宣撫工作員」―日本の左翼が台湾へ

このように、どうも台湾人には、日本の左翼の親中反日姿勢、言い換えれば矛盾だらけの贖罪意識の実態が見て取れるようだ。

日本人はやはりこのような人々には、堂々と歴史の真実を伝えて行くべきではないだろうか。誠意を込めて真実を語れば、それを理解できるのが台湾人なのである。そこが台湾人と中国人との大きな違いの一つでもあるとも言える。

さて、大江氏のような左翼が台湾で行ったのは、明らかに中国の台湾併呑への文化面での協力であるが、そこには日本の過去の歴史の否定宣伝を通じた反日意識の拡大工作も含まれているような気がする。

なぜなら国民党であれ中共であれ、台湾人に中国人意識を扶植するために実際に行ってきたのが、反日歴史の教育なり宣伝だったからだ。

中国の「宣撫工作員」と言った役割を果たしてきたのが日本の親中左翼の知識人たちだ。大江氏などはその経歴から見ても、宣撫工作員としては格好の存在だろう。従来は日本国内で反日史観を拡散してきた彼らだが、国民党政権の発足で、いよいよ台湾併呑実現の可能性が高まる中、そちらの工作にも担ぎ出され始めたと言うところか。

日本の一般国民の知らないところで行われるこうした動きには注意が必要だ。そうしなければ何も知らない台湾人には警告の出しようもない。


このブログを誰が読む?

2009年10月08日 10時46分44秒 | Weblog

いろいろな人のブログを眺めていると、どれだけ読まれているのだろうかと思うことがある。他人事ではなく、私のこのブログも極めて少数の人に読まれているに過ぎない。

(澎湖島・白沙)

ブログについて、毎日のデータを確認しているが、これまで最もアクセスがあったのが、1日340人、700ページほどで、そのときは3400位(130万ブログ中)あたりだったと思う。通常は、110~130人で、平均250ページくらいだ。110人くらいでは、1万位までには入らず、順位は表記されない。

(旧・花蓮駅舎)

その日のニュースやら話題を貼り付けるとそれなりのアクセスがあるので、そんなことを試みたことがある。ずっと前に書いた、民主党・姫井由美子議員のスキャンダルや、浅井基文・広島市立大学教授の北朝鮮擁護発言など、今なおアクセスする人がいるのには驚く。何の内容もないので、できればアクセスして欲しくないと思うくらいだ。

(台北植物園)

たとえ少人数でも、共感を持って見ていただけるような内容にしたいのだが、ただただ暗中模索…・。台湾と音楽について語ろうと思うのだが、持ちネタは少ない。
このところ、許世楷著「日本統治下の台湾」(東大出版会)と格闘中だが、なかなか進まない。昔だったら、もっと読むのも理解も早かったのにと、自らの老化に驚く。



 


中川昭一のネポティズム(縁故主義)

2009年10月07日 12時30分18秒 | 社会

中川昭一のコンプレックス

「脱官僚主導」を掲げる民主党政権になってから、マスメディアの公務員攻撃はますますひどくなっている。無駄遣いの洗い出し、天下りの禁止など、もちろん、きちんとやってもらわねばならないのだが、中川昭一死去のニュースを聞いて、「やっぱり」と思ったことがある。
彼の長女は、フジテレビの記者だという。上智大学卒で、フジテレビに入社したというのだが、父親の”威光”はなかったのだろうか? こんなことを言うのも、中川昭一自身が、慶應大学を経て東大法学部に入ったからだ。慶大生として”隠れ浪人”を続け、一般受験で東大文一に受かったのならたいしたものだが、慶應を卒業してから、受験者が著しく限られた学部編入試験で入ったのなら、果たして父親・中川一郎の”威光”がなかったのかが気になる。
もし、そうだとしたら、酒と睡眠薬におぼれた中川昭一の鬱屈したコンプレックスがよく理解できる。

マスコミ各社に溢れる政治家・有名人の子弟

「忘れられた”公共”の電波」という記事を見つけた。元毎日放送記者・鎌田正明という人の記事らしい。

http://plaza.rakuten.co.jp/mimolove18/diary/200910060003/

この記事は、政治家や有力者がその子弟をこぞってマスメディアに就職させていることを問題にしている。ざっと挙げただけでも、このとおりだ。

 NHK=片山虎之助の長男 故松岡農水大臣の長男 青井某というアナ(丸井の御曹司) 遠藤某(遠藤周作の息子)、浅野温子の長男、魚住優、田中邦衛の娘、東京都副知事猪瀬の娘、中曽根の娘、鈴木宗男の娘
日本テレビ=みのもんた娘、福留功男の娘 小渕優子 、石原伸晃、みのもんたの次男、福留功男の娘、嵐・櫻井の妹、
TBS=みのもんたの長男、森元首相の誰か、海部俊樹の息子 加藤紘一の娘 西岡武夫の息子、文藝春秋社の重役の娘・雨宮塔子
フジテレビ=中川昭一の娘、日本香堂の社長次男、かまやつひろしの長男、宇津井健の長男、野球の田淵の息子
毎日放送=橋本元総理大臣の姪

さらに鎌田氏は、次のように指摘する。
民放ではコネ採用は企業戦略の一つとして、むしろ 積極的に行われている。腐臭を放ちながらも温存されてきた、それら「悪習」の影響は自ずと 番組内容に反映される。私はこうした民放の構造的問題が、そのまま日本社会全体に悪影響を与えているような気がしてならない。」
放送免許に基づく”公共の電波”を使いながら、現実にこのように”電波の私物化”が行われているのだ。

国家公務員Ⅰ種採用試験こそが公平で公正

この就職難。どこでもいいから…という学生さえ、就職浪人を余儀なくされている。それなのに政治家や著名人、財界人の子弟の多くが、人気が高く高給で知られるマスメディアに就職しているのは偶然なのか。私が知るところでは、フジテレビにアナウンサーとして就職した有名野球選手(すでに引退)の息子は、A学院大学の卒業単位が危ないという状況でも、フジテレビと電通に受かったそうだ。マスメディアと政治家、芸能人は、持ちつ持たれつの関係なのだ。

まあ、マスメディアに入るにはコネが必要とは、昔から言われてきたことだ。それ自体、今さらどうでもいいが、問題はマスメディアによる官僚攻撃だ。
ニュース・ショーと称する民放番組の中で、口汚く、あるいは面白おかしく「役人攻撃」をするアナウンサーの大半が、コネ入社だと考えると、まともに番組を見る気がしなくなる。視聴者はそのことを考えたことがあるのだろうか?テレビ朝日系の吉澤某などは、特に腹立たしい男だ。
東大法学部を出て、国家公務員Ⅰ種に合格し、「国のため」「公共のため」と思いながら、深夜まで働き「薄給」(マスメディアの半分しかない)に耐えている霞ヶ関の官僚たち。この人達が、不満社会のはけ口になるのを見るのは、残念なことだ。彼らは、国家公務員法に縛られていて、マスメディアの攻撃に対して反論できない。職務専念だとか守秘義務などで、とにかくがんじがらめなのだ。だから、マスメディアは、サディストのように官僚攻撃ができるというわけだ。
だが、言っておく。国家公務員Ⅰ種試験には、コネはない。明治以来、門閥を問わないこの試験は、貧しくても優秀な学生の登竜門だった。有名人の放蕩息子がコネにものを言わせても、受かるような試験ではないのだ。

マスメディアの官僚攻撃によって、最近、国家公務員Ⅰ種試験には優秀な学生が集まらなくなったと聞く。東大法学部の最も優秀な学生は、外資に行ってしまうという。この国の将来にとって、これは憂うべき事態ではないのか?

「第四の権力」を監視しなければならない

「第四の権力」であるマスメディアには、何のチェックも働かない。コネ採用の社員が、下請けプロダクションに番組制作を丸投げして、高給を得る。「報道の自由」とかの名目のもと、弱い立場の人々を批判し中傷する。大手マスメディアが本気で「報道の自由」を追究する気があるのなら、朝鮮総連や創価学会にまつわる問題に取り組んではどうか。自分にとって手強い相手、都合の悪い相手には決して”勝負”せず、いたぶれる相手だけを叩くというのが、今のマスコミの手口ではないか。

コネ採用は、組織を腐食させていく。最近、NHKでも「アジアの”一等国”」のような”トンデモ”番組が出てくるのも、そのことと無関係ではないだろう。
優秀な公務員がマスメディアによって駆逐されていくような社会には、たいした未来はない。いま官僚たちに向けられている不満や嫉妬、怨嗟は、マスメディアによって人為的につくられたものだが、それらはマスメディアにこそ向けられるべきなのだ。





 

 

 

 

 


中川昭一と遠藤周作に見る”学歴”

2009年10月06日 09時18分43秒 | 社会

中川昭一氏が亡くなった。
死者に鞭打たないという言葉どおり、おおかたのマスメディアは、優秀な人材を失ったというような書き方をしている。「飲酒記者会見」問題であれほど牙をむいたのに…と呆れるのは私だけではないだろう。

 (ご冥福を…)

中川氏の死後、ネット上ではその学歴について書き込みが広がっている。これまでの経歴は、麻布高校→東大法学部→日本興業銀行とされていたが、実は慶應大学経由で東大に入ったようなのだ。

「朝日新聞」の訃報ニュースには次のように記されている。

 「中川昭一氏の歩み
1953年7月 中川一郎氏の長男として生まれる
 63年11月 一郎氏が衆院旧道5区で初当選
 72年3月 私立麻布高校(東京)を卒業
 74年3月 慶大経済学部を中退
 78年3月 東大法学部を卒業
 78年4月 旧日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行
 83年1月 一郎氏が札幌市内のホテルで自殺
   12月 一郎氏の後を継いで衆院旧道5区に立候補し、16万3755票を獲得、トップで初当選」

一方、Wikipediaには、次のように書かれている。

「1953年7月19日:東京都渋谷区宮代町(現在の広尾)に中川一郎の長男として生まれる(本籍地は北海道広尾郡広尾町)
1966年3月:新宿区落合第一小学校卒業
1969年3月:私立麻布中学校卒業
1972年3月:私立麻布高等学校卒業
1972年4月:慶應義塾大学経済学部入学
1976年3月:慶應義塾大学経済学部卒業
1976年4月:東京大学法学部政治学科学士編入学
1978年3月:東京大学法学部政治学科卒業
1978年4月:株式会社日本興業銀行入行
1983年2月:日本興業銀行退行
1983年12月:衆議院議員初当選」

上記の「朝日新聞」記事に従えば、中川氏は麻生高校から現役で慶應大学経済学部に入り、2年間で中退し、改めて東大に入り直したことになる。怠惰になりがちな大学生活を”隠れ受験生”として猛勉強し、一般入試で東大文科一類に入るのだから、かなりの根性だ。これに文句を言う人はいないだろう。
一方、「Wikipedia」では、慶應大学経済学部を卒業した後、東大法学部(3年次)に編入(学士入学)したことになる。いずれにしても、東大法学部卒という経歴は偽りではなく、何ら非難されるような点はないのだが、何故、慶應大学在籍の事実をオープンにしなかったのか疑問が残る。(Wikipediaに「東大法学部政治学科」とあるのは、明らかに誤り。当時でも、法学部はコース制を採用していたので、政治学科は存在しない。このように、Wikipediaの記述は、万全ではない。)

世襲議員ばかりの自民党だが、東大を出たかどうかは、その実力の尺度となりうると、私は思っている。細田・前幹事長、谷垣総裁などは、世襲とはいえ、東大を出ている。加えて、細田氏は通産官僚というキャリアがあるので、それなりの識見を持った人物だと判断できる。
中川昭一氏については、もし「Wikipedia」のとおりに学士入学だとすれば、その経歴に若干疑問符を持つ。就職先の日本興業銀行は、父親の威光と東大卒の切符があれば、当然パスできたはずだが、東大の学士入学試験とはどんなものだったのかが釈然としない。まさかとは思うのだが、東大の学士入学は、学科試験以外の要素も絡むのかも知れない…。

中川氏の学歴から連想したのが、故・遠藤周作氏のことだ。

 (隠された経歴がある遠藤周作)

遠藤周作の関係者の証言に次のようなものがある。

「遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。」

ちなみに、Wikipediaの記述は、このとおり。

遠藤周作(Wiki))
1935年 - 灘中学校に入学。カトリックの洗礼を受ける。洗礼名パウロ。
1938年 - 1940年 - 受験失敗→浪人。
1941年 - 上智大学予科甲類に入学。
1942年 - 2月、上智大学退学。受験に失敗→浪人。父の家に移る。
1943年 - 慶應義塾大学文学部予科に入学。父から勘当される。友人宅に居候の後、学生寮に入寮。
1945年 - 慶應義塾大学文学部仏文科に進学。

「遠藤周作文学館」(長崎)の記述は、以下のとおり。

「1935年 昭和10年 12歳 兄・正介とともに、夙川(しゅくがわ)カトリック教会(西宮市)で受洗。
洗礼名ポール。
1943年 昭和18年 20歳 旧制灘中学校卒業後、3年間の浪人生活を経て、慶応義塾大学文学部予科に入学するが、医学部に合格したと思っていた父親が激怒、勘当され、カトリック哲学者 吉満義彦が舎監を務めるカトリック学生寮(信濃町)に入る。
1945年 昭和20年 22歳
昭和16年に合格した上智大学予科(翌年退学)ではドイツ語専攻だったが、佐藤朔の著書と出会い、フランス文学を志し、仏文科に進学。
また、前年肋膜炎を患ったため徴兵には召集されなかった。
1947年 昭和22年 24歳 初めて書いたエッセイ「神々と神と」が認められ、『四季』(角川書店発行)に掲載される。
1950年 昭和25年 27歳 終戦後、最初の留学生としてフランス・リヨン大学大学院に入学。」

「遠藤周作文学館」は遠藤の公式プロフィールだと考えらるが、それにしても奇妙な記述ではないか。「上智大学」の部分をイヤイヤながら付け加えたとも読める書き方なのだ。
劣等生だったと豪語して、学歴のことなど歯牙にもかけない様子だった遠藤なのだが、自らは決して「上智大学に入学した」ことは言わなかった。これはどう考えるべきだろうか。

一般的に、就職や出世競争においては、「高学歴」は必携の武器のひとつ。オールマイティのイメージがある東大卒のキャリアの前では、慶應など目ではない。福島瑞穂によれば、中川昭一は彼女にかつてこう言ったそうだ。「同じ大学なんだから、お手柔らかにね…」(中川氏死去のニュース番組での福島瑞穂の発言) 東大卒のネットワークは、かくも強固なのだ。

狐狸庵センセイこと遠藤周作は、組織人として生きられるような人ではなかった。それなら何故、学歴にこだわったのか。それは多分、父親がいない家庭で、カトリック教徒の母から厳格に育てられた幼少体験によるのだろう。母親への愛と、母親から押しつけられた信仰への反発、それをどこかで調和させようとしたとき、カトリックそのものである上智大学には、窒息するような絶望を感じたのだろう。当時の上智大学は、男子校で、お世辞にも優秀な学生が集まるところではなかった。知名度が多少上がった今でも、卒業生の社会的評価は極めて低い。要するに、卒業してもトクすることなど何もない大学なのだ。

遠藤は、こういう上智の内情を見定めるとともに、慶應卒のメリットも十分に知っていたに違いない。「三田文学」の影響力、文壇での力もしっかりと計算していたのかも知れない。世俗を横目で見ていたかのような遠藤だが、意外に、煮ても焼いても食えない人物だったのかも知れない。

中川昭一と遠藤周作、このように両者には意外な共通点を見いだすことができる。一言で言えば、それはコンプレックス。中川は父親、遠藤は母親へのコンプレックスだった。その重圧を中川は酒で紛らし、遠藤は度はずれた悪戯の数々でごまかした…・。中川と遠藤は、共に子息をフジテレビに入社させているように、ネポティズム(縁故主義)でも似たもの同士だ。




「サヨンの鐘 」を聴く

2009年10月06日 03時54分05秒 | Weblog
映画「練習曲~単車環島日誌」(2006 台湾)の中で、自転車で台湾を一周する主人公が宜蘭(イーラン)に立ち寄る場面があった。そこには「サヨンの鐘」の碑が建てられ、多くの観光客が訪れる場所となっている。
映画では、台湾の原住民のひとつであるタイヤル族の老女達が、日本語らしい歌を歌う場面が出てくる。「…丸木橋…」という言葉が聴き取れるのだが、その歌の由来は分からなかった。

(映画「練習曲~単車環島日誌」)

調べてみると、日本統治時代、タイヤル族の娘・サヨンは、離任する日本人教師を送りに山を下りるが、その帰路、台風で増水した河に流されてしまう。その出来事は美談として伝えられ、1942年、李香蘭主演で映画化(下記の映像)された。
上記のタイヤル族の老女の歌は、古賀政男作曲、西条八十作詞、渡辺はま子の歌唱によってレコードになっていた。
もう80歳を超えた老女が、今なおこの歌を覚えていて、歌っているのが驚きだった。最新の台湾映画の中にも、日本と台湾の”刻まれた歴史”が現れるのが実に興味深い。
現在宜蘭にある「サヨンの鐘」は、10数年前に再建されたものらしい。映画「練習曲」の中では、「これはレプリカです」とだけガイドが説明している。それでは、日本統治時代の「サヨンの鐘」はどこに行ったのか?と思ったら、中国国民党政府が撤去を命じたのだそうだ。40年にも及んだ国民党独裁時代には、日本語はもとより日本統治時代を想起させる事物はすべて禁止・廃棄された。にもかかわらず、現在の台湾では、日本統治時代を見つめ直そうとする気運が高まっている。これは素晴らしいことだ。

(映画「サヨンの鐘」のポスター)

李香蘭主演の映画については、国立民族学博物館で上映された際の解説文があるので、引用させていただく。


【サヨンの鐘上映会の解説文】
「サヨンの鐘」(1943年/75分)
今回のみんぱく映画会では、1943年に封切となった松竹映画「サヨンの鐘」を上映します。
映画「サヨンの鐘」は第二次大戦以前の台湾でおこったある事故がきっかけとなり製作されました。1938年、日本統治下の台湾の宜蘭県にあるタイヤル族の村に赴任していた一人の日本人警官に召集令状が届きました。その警官は普段から村人の面倒をよく見たり、学校の教師もつとめたりして、村人や学校の生徒からとても慕われていました。警官が村を離れるとき、村人たちは彼の荷物を運びながら見送ることにしました。その中に当時17歳の少女サヨンがいました。下山の日は運悪く暴風雨となり、川はいつになく増水していました。荷物を背負ったサヨンは足を滑らせ、川の激流に飲み込まれ、そのまま帰らぬ人となったというものです。
当時の台湾総督は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした愛国美談としてこの事故を扱い、サヨンの村には記念の鐘が贈られました。さらに、この愛国美談は、西條八十、古賀政男という当時の流行歌のヒットメーカーにより、「サヨンの鐘」という楽曲として台湾全島で流行しました。そして、この大ヒットに便乗して1943年に製作されたのが、李香蘭(山口淑子)主演の映画「サヨンの鐘」です。
開催中の企画展「臺灣資料展」の展示資料は1930年代を中心に収集されたものであり、「サヨンの鐘」からは、この時代の台湾の原住民社会の様子をうかがい知ることができます。また、当時の日本が表象した台湾原住民の人々を克明に伝えてくれると思われます。「皇民化」の号令とともに、台湾の人々は日本人としてのアイデンティティをさまざまな形で植えつけられていきます。満州映画界のスター李香蘭を起用した、まさに国策映画として製作された「サヨンの鐘」もそれを進めていく一つの手段とも言えるでしょう。一方で、植民地主義という言葉だけではかたづけることができない、台湾の人々と日本人との関係が当時の台湾にあったことも事実です。映画会では、横浜国立大学教授の笠原政治先生をお招きし、台湾原住民の人々と日本人とが共有した歴史を読み解く機会ももちたいと考えています。
当時の台湾の人々にとって、「日本人」であるということはどういうことだったのかを考えることは、現在の我々にとって、多文化社会のなかのアイデンティティのありかたを考えるうえで、何かしらのヒントを与えてくれるはずです。

〈出演〉李香蘭(山口淑子)、近衛敏明、大山健二
〈監督〉清水宏
〈脚本〉長瀬喜伴、牛田宏、斎藤寅四郎
〈音楽〉古賀政男
〈製作〉台湾総督府・満州映画協会・松竹株式会社



サヨンの歌 - 李香蘭