今日は中国共産党結党百年の記念日。100年前のきょうの上海、コミンテルン(共産主義インターナショナル)から派遣されたロシア人、ドイツ人のソ連共産党員が見守る中で中共(=中国共産党)の結党が宣言された。参加者は数十名、全くの非合法政党としてのスタートだった。翌年の1922年、全く同様の形で日本共産党が設立されている。中共、日共は、言わば兄弟同士だ。
中共が政権奪取に成功したのは、日本の敗戦、つまり大日本帝国の崩壊の起因する。毛沢東が訪中した日本人に対し「政権を奪取できたのは、日本のおかげ。日本人に感謝する」という趣旨の「お言葉」を何度も放っている。これは決して皮肉ではなく、むしろ毛の本心だったと思われる。
つい先日、評論家の石平氏が「中国共産党暗黒の百年史」を出版した。その章立ては次のようになっている。
一章 浸透・乗っ取り・裏切りの中共裏工作史
二章 繰り返される血まみれの大量虐殺史
三章 侵略と虐殺と浄化の少数民族弾圧史
四章 紅軍内大虐殺、陰謀と殺し合いの内ゲバ史
五章 周恩来、美化された「悪魔の化身」の正体
六章 女性と人民を食い物にした党幹部の貪欲・淫乱史
七章 日本人をカモにした対日外交史と反日の系譜
最終章 危険すぎる習近平ファシズム政権の正体と末路
一昔前だったら、これを見ただけで「右翼の本」と見捨てられたはずだが、今やむしろ中共の実態を鋭く表現していると思えるようになった。新疆ウイグル、チベット、南(内)モンゴルにおける民族浄化政策、香港の民主勢力弾圧を見れば、そのことは明らかだ。
石平氏は同書を著すにあたって、戦後日本で刊行された中国共産党史関係の書物を調べたが、「当該書籍のほとんどが中国共産党の史観に基づき書かれていた」と言う。
私の時代は「中国共産党史序説」(宇野重昭著 NHK出版)が出版された頃で、著者による大学での講義を聴講しつつ、教科書としてそれを読んだために、ある程度客観的な史実を知ることができたと思っていた。ところが、この本でさえ、中共の出自とコミンテルンとの関係や少数民族政策については、表面的な記述にとどまっている。中国共産党の本質を衝いた研究書としては、中嶋嶺雄著「現代中国論」が唯一無二だったように思われる。
八年ほど前、東京外国語大学で「東アジア政治論」の授業を聴講したことがある。中嶋嶺雄の愛弟子である井尻秀憲教授の授業だったが、「中国共産党政権はこの10年以内に崩壊する」という発言を何度か聴いた。遺憾ながら、現実はその逆に推移しているように見える。
さきほど、小沢一郎、枝野幸男といった政治家が中国共産党百年を祝って、中国政府に祝辞を送ったというニュースが伝えられた。今に至って、まだこういう輩がいるとは驚きだ。中国における人権弾圧を非難する決議が、国会で先送りになったことを合わせて考えると、中共の影響力が日本の中枢を侵食しているように思える。中共党史百年は、石平氏が言うように、まさに暗黒の百年史だった。
【DHC】2021/7/1(木) 有本香×石平×居島一平【虎ノ門ニュース】
暴虐の党「中国共産党」100周年、その始まりはあまりにも「ショボイ」ものだった…!
7/1(木) 8:01配信
現代ビジネス
2021年7月1日、中国共産党は創設100周年を迎える。
当局の公式発表によれば、中国共産党の党員数は2019年末時点で9191万人に達した。中国の総人国14億人から見れば6・5パーセントにすぎないが、実数としてはドイツやフランスの総人口をも上まわり、世界一の巨大政党であることは間違いない。
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今頃首都の北京では記念式典の準備が慌ただしく進められると同時に、抗議活動やテロに備えた物々しい警備体制も布かれていることだろう。
緊張が漲(みなぎ)るという点では100年前の創設時も同じだったが、1921年に開かれた創設大会を兼ねた第一回全国代表大会には華やかさなど微塵もなかったことはあまり知られていない。なにしろ、そこに参集した国内外代表はわずか13人にすぎなかった。
これまた意外に思われるかもしれないが、創設当時の中国共産党の党員数は国内外を併せても50余人にすぎず、全国政党としては寂し限りの船出だったのである。
今回は、そんな知られざる中国共産党の誕生当時を振り返ってみたい。
慌てて作られた党
当時は社会主義思想が世界的に大流行していたが、中国にも研究サークルがいくつも生まれながら、資金やノウハウの不足など、さまざまな事情から一個の政党を築くまでに至っていなかった。
それらの難題を一気に克服できたのはコミンテルンのおかげだった。コミンテルンの正式名称は共産主義インターナショナル。第三インターナショナルとも呼ばれる。モスクワに本部を置く各国共産主義政党の国際統一組織で、ソビエト連邦(ソ連)を防衛する国際戦略の一環としてシベリアのイルクーツクに極東支局を成立。中国で共産党を設立することが可能かどうか探りを入れるため、副局長のヴォイチンスキーを送り込んだ。
ヴォイチンスキーがまず接触したのは、北京大学図書館主任・北京大学教授にして新文化運動(1917~1921年まで行われた、文学・思想の改革運動)の主要な担い手であった李大○(金篇+刂)で、李の推薦で、次には上海の陳独秀に接触する。新文化運動の先導役を担った雑誌『新青年』の編集責任者で、「思想界の明星」とも称された人物である。
これよりヴォイチンスキーの資金援助と巧みな助言のもと、李・陳両人の人脈を通じた組織化が進められ、1920年8月に上海で結成されたものを皮切りに、国内外に八つの共産主義グループが誕生するが、実のところそのグループの名称がはっきりしない。共産党小組や社会主義小組、あるいは最初から共産党ないしは社会党と呼ばれていたなど、当事者の記憶が一致しないためで、これはある意味当然かもしれない。
新文化運動の当事者たちは、清末以来の立憲君主制や偏狭な漢族至上主義、賢人独裁、聯省自治(アメリカ型の連邦主義)、アナーキズム(無政府主義)などあまたの主義や政党が浮沈を繰り広げる様を直接目にしてきた。
そんな彼らからすれば、新たに立ち上げたグループが従来のものとは別格との確信を抱けずとも無理はなく、中国共産党が歴史に名を刻む超巨大政党になるなど想定外であったはず。となれば、創設大会が特別な行事、創設記念日が特別な日として、記憶に強く刻まれるはずもなかった。
ヴォイチンスキーが来訪してからの進展は目まぐるしかったが、1921年6月3日にコミンテルン中央の代表マーリンが上海に来訪、その直後にヴォイチンスキーの交代要員としてニコルスキーがやって来ると、事態はさらに加速した。
功に逸(はや)る二人は陳独秀が広東に出かけて不在と知っても構わず、留守を与(あずか)る人員たちをせっつき、全国大会の招集と中国共産党の正式な設立を急がせた。これにより創立大会の日程は同年7月20日、場所は上海と定められ、旅費や宿泊費、食事代などはすべてコミンテルンが負担するから、各地の共産主義グループには代表各二名の派遣が要請された。
「代表」と言えば聞こえはよいが、陳独秀は帰還の目途が立たず、李大○も北京を離れられない状況にあった。「南陳北李」と併称された重鎮が二人とも欠席だから、選ばれた者ではなく、都合のついた者が参集したに過ぎなかったのだ。それでも予定の20日には予定の人数が揃わず、23日になってようやく開会となったというのだから驚く。
なぜ7月1日なのか
ここでまた疑問が浮かぼう。創設大会が開かれたのは7月23日なのに、創設記念日はどうして7月1日なのかと。 答えはあきれるほど単純明快である。1938年に創設17周年を祝おうとした際に、正確な日付がわからなかったからなのだ。そのため、おおよそこのあたりだろうと推測された7月1日が創設記念日になったのである。 これは中国共産党が茨の道を歩み続けたことと関係する。軍閥や中国国民党による外からの弾圧に加え、内部では主導権争いや路線対立が絶えず、1938年7月までに創設大会出席者13人のうち7人が離党、4人が死亡(離党と死亡で重複1人)。 生き残った3人に対しても、創設記念日を確認するためだけに使いを送ったとは常識的には考えにくい。後日、正確な日付(7月23日)が判明したのは、何かについでに聞き出したか、事態が平穏化してから改めて回顧してもらったかのどちらかだろう。 右の13人のうち最年長は45歳、最年少は19歳で、平均年齢は27・8歳と、かなり若い。また、これは世界のどの共産党にもあてはまることだが、草創期の指導層は知識人で、なおかつそれなりの資産を持つ家庭の出身者で占められた。 識字率が非常に低かった当時の中国では、親がそれなりの資産家でなければ高等教育を受けることは非常に難しく、13人のうち確実にプロレタリア(無産者、賃金労働者)出身と言えるのは、湖南の小作農の家に生まれた上海代表の李達ひとりだけだった。 李達が高等教育を受けられたのは、その利発さを気に入った地主が全面的に資金援助をしてくれたからだ。地主と言えば、世界中概(おおむ)ね「土豪劣紳(悪徳地主)」というイメージが強いが、当時の中国の地主が「土豪劣紳」という言葉でくくられる存在でなかったことを示す一例である。
日本への留学生も多かった
13人の経歴からは、さらに面白いことがいくつかわかる。「秀才」が2人、留学中を含め日本留学経験者が4人いたことだ。「秀才」は王朝時代の官吏登用試験である科挙の一次試験合格者を指し、「生員」とも呼ばれる。2人は科挙廃止直前の1903年にその資格を得ており、合格するためには学問に専念できる環境が不可欠で、その環境を提供できるのは不労生活者を養っていける裕福な家庭に限られた。 また私費での海外留学で欧米を選べたのは富裕層のなかでも上位に位置する家庭出身者に限られ、それ以外の者は近くて生活費も安い日本を選ぶしかなかったが、同じく漢字文化圏というのも大きなメリットとなった。 清末以来の傾向だが、中国への西洋思想の紹介は原典からの翻訳ではなく、日本語訳からの重訳に頼っていた。日本語に習熟していなくとも、漢字の部分だけを見て概略を訳すことができたからで、抄訳や現在で言う超訳に近い。それだけに誤訳がなかったはずはなく、それはのちの路線対立の一因ともなった。 1938年7月23日の大会は上海のフランス租界で極秘に開会された。当時の上海の中心部はフランス租界、英米共同租界(公共租界)、華界の三つに区分され、それぞれ独自の行政・警察権を有していた。共同租界で盗みや殺人を働いてもフランス租界で逮捕されることはなく、華界で指名手配されていても両租界では大手を振るって歩くことができた。 中国共産党の創設大会もこのような事情を汲んで、フランス租界の高級住宅街で行なわれたが、15人もの人間が毎日のように集まっていればさすがにフランス租界警察の注意を引かないはずはなく、7月30日にはとうとうフランス人と中国人からなる計7人の警察官が事情を聴きに訪ねてきた。 その日は型通りの聞き取りで終わってから無事に済んだが、一同は万が一に備え、場所と日にちを改め、未決事項の討議をすることにした。8月3日、上海から南西に約90キロ離れた浙江省嘉興にある南湖の船上で行なわれたのがそれで、ここに創設大会はようやく完結した。このため現在では、創設記念日は7月1日でも、フランス租界に残る洋館に加え、南湖上に再現された屋形船も創設の地として多くの観光客を集めている。
こうした偶然までも伝説作りに活用するたくましさがあったことが、50人でスタートした共産党を現代の巨大組織に成長させたのかもしれない。
島崎 晋(歴史作家)