澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

台湾マンゴーが発芽

2021年07月24日 11時07分28秒 | 台湾

 6月末、台湾の友人からマンゴー5kgが届いた。12個のマンゴーを家族で分けて、美味しくいただいた。みずみずしさ、香りの強さが、今までにないものだった。

 7月初めにマンゴーの種をひとつ、プランターに植えてみた。あとでネットで調べると、マンゴーの種は「水耕栽培」で育てるのがよいと書かれていた。なので、あまり期待をせずに、水やりは続けていた。

 3~4日前、プランターをふと見ると、チョコレート色の葉っぱが。約一か月たって、思いもかけず、マンゴーの発芽を確認した。さっそく、台湾の友人にもメールを送る。 
 さきほど、東京五輪のアーチェリーを見たら、台湾選手が登場していた。今回の五輪では、台湾(中華民国)の呼称を「台湾」と表記していることに気づいた。これまでは、「チャイニーズ・タイペイ」(中華台北)という呼称だったはず。東京五輪では、台湾の国際的立場が改善されたのならば、喜ばしいことだと思った。

 


「マオとミカド~日中関係史の中の”天皇”」

2021年07月19日 09時49分23秒 | 読書

 「マオとミカド~日中関係史の中の”天皇”」(城山英巳 著 白水社 2021年)を読む。

 マオ(Mao)とは、毛沢東(Mao Zedong)を指す。ミカドは、天皇を意味する。つまり本書は、中国共産党の指導者であった毛沢東の天皇認識を中心に日中関係史を論ずるものである。


 
 新刊書紹介サイトは、次のように紹介している。

工作と諜報に明け暮れた裏面史

 「天皇陛下によろしく」――。毛沢東や周恩来ら中国共産党の歴代指導部は1950年代以降、訪中した日本の要人に必ずこう語り掛けた。
 日中戦争の記憶も生々しいこの時期、激しい反日感情を圧してなぜこうしたメッセージを発したか? 1920年代から50年代にかけての米ソ日中の史料や証言を掘り下げて解明していくのが本書の基本視角だ。
 まず指摘できるのは「向ソ一辺倒」から「平和共存」へと、中国の外交方針が大きく転換したことだ。超大国として米国が台頭する中、米国務省日本派が練り上げた「天皇利用戦略」を換骨奪胎しつつ、西側諸国を切り崩す外交カードとして天皇工作を焦点化していったという。
 他方、毛沢東は戦争中、のちに「闇の男」「五重スパイ」などと語り継がれる日本共産党の野坂参三と延安で頻繁に接触していた。
 野坂は共産党関係者を一斉摘発した三・一五事件で逮捕されて以降、「君主制ノ撤廃ニ異論」を唱えており、野坂との交流が「皇帝」毛沢東をして「万世一系」の天皇が持つ不思議な求心力について喚起せしめたという。「志那通」からチャイナスクールまで、帝国陸軍から自民党・共産党まで、大陸で暗躍した人々の群像!

 毛沢東が天皇に関心があったことは、よく知られている。1960年代、日本からの「訪中団」と接見したときに、「日本のおかげで中国革命は成功した」という主旨の発言を毛は繰り返した。「大日本帝国」の敗北を見越した毛沢東は、「持久戦」論を説いて、共産党軍の勢力温存を図った。「大日本帝国」崩壊後、待っていたとばかりにソ連軍の支援を受けて、「国共内戦」に勝利し、「中国革命」を成就させた。毛沢東にとっては、日本は中国革命の恩人なのだ。

 本書の中で特に興味を覚えたのは、1972年、昭和天皇が佐藤栄作首相(当時)に対し、国連の中国代表権問題で「蒋介石を支持するように」と発言したことだ。これは近年、成蹊大学の井上准教授が発掘した史実なのだが、マスメディアからは完全に無視された。

「昭和天皇は戦前から戦後も一貫して中国に関心を寄せたが、特に象徴天皇となった戦後、日本国憲法の規定により国事行為には内閣の助言と承認が必要であると縛られ、政治的発言を公式に発することはなかなかできなかった。近年まで表に出なかった事実であるが、1971年に国連の中国代表権が大きな転換点を迎える中、天皇が佐藤栄作首相に対し、日本政府がしっかり蒋介石を支持するよう促したことは、「以徳報怨」政策で天皇制を守ってくれた蒋介石への感謝の表明であった。七二年に中国と国交正常化すると今度は、駐中国大使の信任状捧呈という外交舞台で中国指導者に「過去の不幸な戦争」への「遺憾」の思いを伝えている。いずれも水面下であるが、政治的にきわどい政治発言と言える。天皇の戦前の中国問題へ関心は戦後、「反省」の念に重点を変えながら連続性をみることができよう。」(本書P.18) 

 つまり、毛沢東は戦略的に日本・日本人を理解するカギとして天皇および天皇制に関心を持った。一方、昭和天皇は「戦争責任」を免れた代わりに、「象徴天皇」の地位に置かれたが、その意識は「大日本帝国」時代とさして変わらなかった。「無限無責任体制」(丸山正男)の元凶は、今も昔も変わっていない。宮内庁長官が「今上天皇は五輪開催を危惧しておられる」と”忖度”すると、マスメディアが一斉に煽る。基本的にこのワンパターンなのだ。

 私見では、このマオとミカドは、鮮やかな日中対比論となる。長期を見据えて、戦略、謀略を図り、その実行に当たっては犠牲を顧みない毛沢東。「責任」の観念が希薄で、常に「良きにはからえ」という意識の昭和天皇。これでは、勝負にならないな、と実感。

東京五輪“無観客”で日本は世界に恥をさらす!

2021年07月12日 09時23分21秒 | 新型コロナウイルス

 予想外の東京五輪無観客開催。

 「人の命は何よりも大事」という” きれいごと”(Political correctness)が囃し立てられる中で、菅首相が「無観客」を選択したのには、大いに驚かされた。菅首相のキャリアからすれば、コロナ禍騒ぎの裏面を知り尽くしているはず。であるので、日本医師会の傲慢、小池都知事の策謀を諫めるべく、堂々と観客を入れて開催するはずだと思っていた。

 「さざ波」に過ぎない感染者数をこれほど騒ぎ立て、無観客五輪を決めてしまったこの国は、「世界に恥をさらす」と門田隆将は憤る。(下記映像)

 私も同感、もはや五輪など何の興味もない。

【門田隆将】東京五輪“無観客”で日本は世界に恥をさらす!【WiLL増刊号#572】


中国共産党が結党百周年

2021年07月01日 08時56分17秒 | 中国

 今日は中国共産党結党百年の記念日。100年前のきょうの上海、コミンテルン(共産主義インターナショナル)から派遣されたロシア人、ドイツ人のソ連共産党員が見守る中で中共(=中国共産党)の結党が宣言された。参加者は数十名、全くの非合法政党としてのスタートだった。翌年の1922年、全く同様の形で日本共産党が設立されている。中共、日共は、言わば兄弟同士だ。

 中共が政権奪取に成功したのは、日本の敗戦、つまり大日本帝国の崩壊の起因する。毛沢東が訪中した日本人に対し「政権を奪取できたのは、日本のおかげ。日本人に感謝する」という趣旨の「お言葉」を何度も放っている。これは決して皮肉ではなく、むしろ毛の本心だったと思われる。

 つい先日、評論家の石平氏が「中国共産党暗黒の百年史」を出版した。その章立ては次のようになっている。

一章 浸透・乗っ取り・裏切りの中共裏工作史
二章 繰り返される血まみれの大量虐殺史
三章 侵略と虐殺と浄化の少数民族弾圧史
四章 紅軍内大虐殺、陰謀と殺し合いの内ゲバ史
五章 周恩来、美化された「悪魔の化身」の正体
六章 女性と人民を食い物にした党幹部の貪欲・淫乱史
七章 日本人をカモにした対日外交史と反日の系譜
最終章 危険すぎる習近平ファシズム政権の正体と末路

 一昔前だったら、これを見ただけで「右翼の本」と見捨てられたはずだが、今やむしろ中共の実態を鋭く表現していると思えるようになった。新疆ウイグル、チベット、南(内)モンゴルにおける民族浄化政策、香港の民主勢力弾圧を見れば、そのことは明らかだ。

 石平氏は同書を著すにあたって、戦後日本で刊行された中国共産党史関係の書物を調べたが、「当該書籍のほとんどが中国共産党の史観に基づき書かれていた」と言う。
 私の時代は「中国共産党史序説」(宇野重昭著 NHK出版)が出版された頃で、著者による大学での講義を聴講しつつ、教科書としてそれを読んだために、ある程度客観的な史実を知ることができたと思っていた。ところが、この本でさえ、中共の出自とコミンテルンとの関係や少数民族政策については、表面的な記述にとどまっている。中国共産党の本質を衝いた研究書としては、中嶋嶺雄著「現代中国論」が唯一無二だったように思われる。

  八年ほど前、東京外国語大学で「東アジア政治論」の授業を聴講したことがある。中嶋嶺雄の愛弟子である井尻秀憲教授の授業だったが、「中国共産党政権はこの10年以内に崩壊する」という発言を何度か聴いた。遺憾ながら、現実はその逆に推移しているように見える。

 さきほど、小沢一郎、枝野幸男といった政治家が中国共産党百年を祝って、中国政府に祝辞を送ったというニュースが伝えられた。今に至って、まだこういう輩がいるとは驚きだ。中国における人権弾圧を非難する決議が、国会で先送りになったことを合わせて考えると、中共の影響力が日本の中枢を侵食しているように思える。中共党史百年は、石平氏が言うように、まさに暗黒の百年史だった。

 

 

 

【DHC】2021/7/1(木) 有本香×石平×居島一平【虎ノ門ニュース】

暴虐の党「中国共産党」100周年、その始まりはあまりにも「ショボイ」ものだった…!

 

7/1(木) 8:01配信

現代ビジネス

 2021年7月1日、中国共産党は創設100周年を迎える。

 

 当局の公式発表によれば、中国共産党の党員数は2019年末時点で9191万人に達した。中国の総人国14億人から見れば6・5パーセントにすぎないが、実数としてはドイツやフランスの総人口をも上まわり、世界一の巨大政党であることは間違いない。

 

【写真】中国人観光客が、日本の電車・バスに「感動している」意外なワケ

 

 今頃首都の北京では記念式典の準備が慌ただしく進められると同時に、抗議活動やテロに備えた物々しい警備体制も布かれていることだろう。

 

 緊張が漲(みなぎ)るという点では100年前の創設時も同じだったが、1921年に開かれた創設大会を兼ねた第一回全国代表大会には華やかさなど微塵もなかったことはあまり知られていない。なにしろ、そこに参集した国内外代表はわずか13人にすぎなかった。

 

 これまた意外に思われるかもしれないが、創設当時の中国共産党の党員数は国内外を併せても50余人にすぎず、全国政党としては寂し限りの船出だったのである。

 

 今回は、そんな知られざる中国共産党の誕生当時を振り返ってみたい。

 

 

 

慌てて作られた党

 

 当時は社会主義思想が世界的に大流行していたが、中国にも研究サークルがいくつも生まれながら、資金やノウハウの不足など、さまざまな事情から一個の政党を築くまでに至っていなかった。

 

 それらの難題を一気に克服できたのはコミンテルンのおかげだった。コミンテルンの正式名称は共産主義インターナショナル。第三インターナショナルとも呼ばれる。モスクワに本部を置く各国共産主義政党の国際統一組織で、ソビエト連邦(ソ連)を防衛する国際戦略の一環としてシベリアのイルクーツクに極東支局を成立。中国で共産党を設立することが可能かどうか探りを入れるため、副局長のヴォイチンスキーを送り込んだ。

 

 ヴォイチンスキーがまず接触したのは、北京大学図書館主任・北京大学教授にして新文化運動(1917~1921年まで行われた、文学・思想の改革運動)の主要な担い手であった李大○(金篇+刂)で、李の推薦で、次には上海の陳独秀に接触する。新文化運動の先導役を担った雑誌『新青年』の編集責任者で、「思想界の明星」とも称された人物である。

 

 これよりヴォイチンスキーの資金援助と巧みな助言のもと、李・陳両人の人脈を通じた組織化が進められ、1920年8月に上海で結成されたものを皮切りに、国内外に八つの共産主義グループが誕生するが、実のところそのグループの名称がはっきりしない。共産党小組や社会主義小組、あるいは最初から共産党ないしは社会党と呼ばれていたなど、当事者の記憶が一致しないためで、これはある意味当然かもしれない。

 

 新文化運動の当事者たちは、清末以来の立憲君主制や偏狭な漢族至上主義、賢人独裁、聯省自治(アメリカ型の連邦主義)、アナーキズム(無政府主義)などあまたの主義や政党が浮沈を繰り広げる様を直接目にしてきた。

 

 そんな彼らからすれば、新たに立ち上げたグループが従来のものとは別格との確信を抱けずとも無理はなく、中国共産党が歴史に名を刻む超巨大政党になるなど想定外であったはず。となれば、創設大会が特別な行事、創設記念日が特別な日として、記憶に強く刻まれるはずもなかった。

 

 ヴォイチンスキーが来訪してからの進展は目まぐるしかったが、1921年6月3日にコミンテルン中央の代表マーリンが上海に来訪、その直後にヴォイチンスキーの交代要員としてニコルスキーがやって来ると、事態はさらに加速した。

 

 功に逸(はや)る二人は陳独秀が広東に出かけて不在と知っても構わず、留守を与(あずか)る人員たちをせっつき、全国大会の招集と中国共産党の正式な設立を急がせた。これにより創立大会の日程は同年7月20日、場所は上海と定められ、旅費や宿泊費、食事代などはすべてコミンテルンが負担するから、各地の共産主義グループには代表各二名の派遣が要請された。

 

 「代表」と言えば聞こえはよいが、陳独秀は帰還の目途が立たず、李大○も北京を離れられない状況にあった。「南陳北李」と併称された重鎮が二人とも欠席だから、選ばれた者ではなく、都合のついた者が参集したに過ぎなかったのだ。それでも予定の20日には予定の人数が揃わず、23日になってようやく開会となったというのだから驚く。

なぜ7月1日なのか

 ここでまた疑問が浮かぼう。創設大会が開かれたのは7月23日なのに、創設記念日はどうして7月1日なのかと。  答えはあきれるほど単純明快である。1938年に創設17周年を祝おうとした際に、正確な日付がわからなかったからなのだ。そのため、おおよそこのあたりだろうと推測された7月1日が創設記念日になったのである。  これは中国共産党が茨の道を歩み続けたことと関係する。軍閥や中国国民党による外からの弾圧に加え、内部では主導権争いや路線対立が絶えず、1938年7月までに創設大会出席者13人のうち7人が離党、4人が死亡(離党と死亡で重複1人)。  生き残った3人に対しても、創設記念日を確認するためだけに使いを送ったとは常識的には考えにくい。後日、正確な日付(7月23日)が判明したのは、何かについでに聞き出したか、事態が平穏化してから改めて回顧してもらったかのどちらかだろう。  右の13人のうち最年長は45歳、最年少は19歳で、平均年齢は27・8歳と、かなり若い。また、これは世界のどの共産党にもあてはまることだが、草創期の指導層は知識人で、なおかつそれなりの資産を持つ家庭の出身者で占められた。  識字率が非常に低かった当時の中国では、親がそれなりの資産家でなければ高等教育を受けることは非常に難しく、13人のうち確実にプロレタリア(無産者、賃金労働者)出身と言えるのは、湖南の小作農の家に生まれた上海代表の李達ひとりだけだった。  李達が高等教育を受けられたのは、その利発さを気に入った地主が全面的に資金援助をしてくれたからだ。地主と言えば、世界中概(おおむ)ね「土豪劣紳(悪徳地主)」というイメージが強いが、当時の中国の地主が「土豪劣紳」という言葉でくくられる存在でなかったことを示す一例である。

日本への留学生も多かった

 13人の経歴からは、さらに面白いことがいくつかわかる。「秀才」が2人、留学中を含め日本留学経験者が4人いたことだ。「秀才」は王朝時代の官吏登用試験である科挙の一次試験合格者を指し、「生員」とも呼ばれる。2人は科挙廃止直前の1903年にその資格を得ており、合格するためには学問に専念できる環境が不可欠で、その環境を提供できるのは不労生活者を養っていける裕福な家庭に限られた。  また私費での海外留学で欧米を選べたのは富裕層のなかでも上位に位置する家庭出身者に限られ、それ以外の者は近くて生活費も安い日本を選ぶしかなかったが、同じく漢字文化圏というのも大きなメリットとなった。  清末以来の傾向だが、中国への西洋思想の紹介は原典からの翻訳ではなく、日本語訳からの重訳に頼っていた。日本語に習熟していなくとも、漢字の部分だけを見て概略を訳すことができたからで、抄訳や現在で言う超訳に近い。それだけに誤訳がなかったはずはなく、それはのちの路線対立の一因ともなった。  1938年7月23日の大会は上海のフランス租界で極秘に開会された。当時の上海の中心部はフランス租界、英米共同租界(公共租界)、華界の三つに区分され、それぞれ独自の行政・警察権を有していた。共同租界で盗みや殺人を働いてもフランス租界で逮捕されることはなく、華界で指名手配されていても両租界では大手を振るって歩くことができた。  中国共産党の創設大会もこのような事情を汲んで、フランス租界の高級住宅街で行なわれたが、15人もの人間が毎日のように集まっていればさすがにフランス租界警察の注意を引かないはずはなく、7月30日にはとうとうフランス人と中国人からなる計7人の警察官が事情を聴きに訪ねてきた。  その日は型通りの聞き取りで終わってから無事に済んだが、一同は万が一に備え、場所と日にちを改め、未決事項の討議をすることにした。8月3日、上海から南西に約90キロ離れた浙江省嘉興にある南湖の船上で行なわれたのがそれで、ここに創設大会はようやく完結した。このため現在では、創設記念日は7月1日でも、フランス租界に残る洋館に加え、南湖上に再現された屋形船も創設の地として多くの観光客を集めている。
  こうした偶然までも伝説作りに活用するたくましさがあったことが、50人でスタートした共産党を現代の巨大組織に成長させたのかもしれない。

島崎 晋(歴史作家)

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