澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

有本香の言語力

2017年03月30日 10時02分56秒 | マスメディア

  朝鮮半島有事がささやかれる昨今だが、地上波TV局は国民に一度たりとも注意喚起などせず、「森友問題」「小池劇場」の報道にうつつをぬかしている。朝昼のワイドショーを見られるような身分になってからだいぶ経つが、この種の番組には違和感だけが先に立つ。枝葉末節に大騒ぎするだけで、モノゴトの本質を報道しようという姿勢が全く見られないからだ。

 そんななかで、ジャーナリスト・有本香の発言の鋭さは爽快だ。昼の「バイキング」(フジTV系)に出演しているが、その番組の裏話を「虎の門ニュース・楽屋入り」で語っていて、「芸能ムラ」の住人である芸能人の無個性、長いものには巻かれろ的根性を暴露している。「同調圧力」のこの国では、本来「一匹狼」であるはずの芸能人でさえ「場の空気」を察し、「バスに乗り遅れるな」式の行動しかとらないことが分かった。



 「虎の門ニュース」での舌鋒の鋭さは言うまでもない。下記に貼り付けた最新版(3月30日放送)では、「森友」「豊洲」にうつつを抜かし、北朝鮮の脅威、安全保障問題を報道しない既存メディアは、「特定の勢力に乗っ取られている」かも知れないと看破している。

 私が有本香の存在を知ったのは、彼女が新彊ウイグル、チベット問題を採りあげ、中共(中国共産党)政権を鋭く批判していたからだ。この問題に正面から取り組めば、大手マスメディアからは「お声」がかからない。それを承知でここまで発言力を高めてきた彼女の意志と能力は、本当に大したものだと思う。

 彼女は東京外国語大学卒業だが、専攻した語学はなかなかわからなかった。ところが、ネット上で東京外大の「インド、パキスタン語専攻」の同窓会(外語会)が作成した「所在不明」リストの中に「有本香」が載っていたので、ヒンディー語専攻だったことが分かった。「虎の門ニュース」の中で彼女は「大学は小さな村みたいな感じで面白くなかった」という話をしていたから、早稲田のようなマンモス大学の方がぴったりだったのかもしれない。だが、彼女の的確な言語力、分析力は、やはり東京外大時代の恵まれた教育環境の中で培われたのだろう。

 国際性を売り物の女性評論家は数多いるが、有本が他の人たちと全く異なるのは、はっきりと非西欧からの視点を持っていることだろう。それゆえ、その発言は鋭く深みがある。

 


「ワイルド・ストリングス」~ウェルナー・ミューラーの新譜CD

2017年03月06日 23時26分25秒 | 音楽・映画

 今年になって、ワーナーミュージック・ジャパンがウェルナー・ミューラー楽団(Werner Müller & his Orchestra)のオリジナル・アルバム(LP)のCD化に乗り出した。3月末までに計7枚のCDがリリースされる。

 ウェルナー・ミューラーが活躍したのは、1950年代後半から70年代まで。高齢者の世代には、リカルド・サントスの別名の方が通りがいいかも知れない。最大のヒット曲であった「真珠採りのタンゴ」(The Pearlfisher)を知らない人はいないと言っていい。



 私は、7枚のうち、次の3枚のCDを購入して聴いてみた。



 上から「ワイルド・ストリングス」(1962年録音)「ベラ・イタリア」(1969年)「ルロイ・アンダーソン曲集」(1964年)。  

 どれもがVocalion社(英国)によってすでにCD化されているが、今回の日本盤CD(ワーナーミュージック・ジャパン)の音質は、英国盤をはるかに凌駕する。2017年に至って、こんな素晴らしい音の新譜CDを手にできるとは夢にも思わなかった。若者はウェルナー・ミューラーの名前さえ知らないだろうから、ジジババがせっせと買わなければ、続くリリースは望めないかもしれない。懐かしいなと思ったり、興味を持った方は、最後のチャンスかもしれないので、購入を考えてみてはいかが?

 「ワイルド・ストリングス」の一曲目は、次の「そよ風と私」(The Breeze and I)。アルバムタイトルどおり、緻密な弦のアンサンブルが疾走する。

 ついでに、ウェルナー・ミューラー自身が登場する珍しい映像が、こちら。

 

 


晩節を汚した「石原天皇」

2017年03月03日 18時00分50秒 | 政治

 昨日、「虎の門ニュース」(下記の映像参照)は、ジャーナリスト・有本香が石原慎太郎にインタビューした映像を放送した。大方のマスメディアが「小池劇場」に肩入れし、石原叩きを図っているという観点から、石原擁護を狙ったとも思える内容だった。

 私は、舌鋒鋭くウイグル、チベット問題を論評する有本香に好感を持っているので、「虎の門ニュース」の石原を見て、石原の立場も大変なんだなあと、シンパシーを感じたりした。

 だが先ほど、石原の記者会見をTVで全部見て、驚きあきれ果てた。手柄は自分、疑念のある案件については、副知事、局長等に責任を転嫁するのを見て、在職時あれだけ権勢をふるった男がこんな卑怯な奴だとは思わなかった。

 石原知事時代、都職員だった私の知人は、部下の身心障害者(身障者枠採用)の不祥事に関して、「管理監督責任」を問われて、早期に退職を余儀なくされた。このときの局長は、石原知事お気に入りの石原もどきの「独裁者」だったという。このような組織では、累がトップに及ぶのを避けるため、部下はさっさと切り捨てられるのが常だ。

 きょうの石原は、「独裁者」というよりも、「石原天皇」に見えた。すべてを「よきにはからえ」と部下に押し付け、「豊洲」の責任は知らん顔。都庁に出勤するのは、週一日だけ。ネポティズム(縁故主義)の権化で、自分の一族だけを偏愛し、他者の命運については一顧だにしないという点で、独裁者より「石原天皇」が相応しい。

 石原の老残、醜悪ぶりは、百条委員会でさらに白日の下にさらされるだろう。因果応報、身から出た錆、ざまあみろ等々、「石原天皇」の落日を見ようと、多くの関係者がその日(3月17日)を待ち望んでいるはずだ。「小池劇場」を囃し立てるマスメディアも腹立たしいが、自己保身、唯我独尊の老・石原の戯言は万死に値する。

 


「ラ ラ ランド」を見た

2017年03月02日 02時50分53秒 | 音楽・映画

  昨日、朝一番で隣県のシネコンに行き、映画「ラ ラ ランド」(La La Land)を見てきた。週日の朝なので、観客の入りは五分の一程度、そのほとんどは中高年だったが、中には大学生風のカップルもいた。

 ほとんど映画を見ない私が、なぜ隣県まで足を伸ばして、この映画を見たのには理由がある。知り合いが松竹の株主優待カードで好きな映画を見るように勧めてくれたからだ。「海賊と呼ばれた男」はとてもいい映画だったが、この「ラ ラ ランド」は、オッサンである私に相応しいチョイスなのかどうか、自分でも疑問に思った。

 「ラ ラ ランド」(La La Land)は、文字通りLa=ロサンゼルスを指し、全米の中では特異な街・ハリウッドに集う、夢見人(Dreamers)のサクセスストーリーを描いた作品。

 その昔、「サウンド・オブ・ミュージック」などのミュージカル映画を見たときは、異国の映画とはいえ、そこに感情移入や一体化をすることができた。つまり、一瞬であっても映画の主人公になったような気分、高揚感に浸ることができた。しかし、「ラ ラ ランド」では、もはやムリ。その結果、枝葉末節な部分が気になってしまった。

 まず、ジャズの現況。主人公であるエマ(ミア・ドーラン)がジャズを「エレベーターの中で流れるBGM」だと言う場面がある。「エレベーター・ミュージック」とは、当たり障りのない、消耗品の音楽というニュアンスが強い。ジャズ・ピアニストを目指すライアン(セバスチャン・ワイルダー)が往年のジャズ巨星をリスペクトしても、LA(ロサンゼルス)にはもはやジャズの居場所はなくなっているのだ。エマとライアンが別々の道を成功裏に歩んだあと再会する場面があるが、このときライアンが弾くこの映画のモチーフとなる曲は、まさにジャズとは程遠い「ラウンジ・ピアノ」(あるいはカクテル・ピアノ)に過ぎない。

 次に、「ラ ラ ランド」の人種構成について。この映画の主要人物は、すべて白人。黒人は音楽に関連して登場するが、基本的には、往年のハリウッド映画を彷彿とさせる白人第一主義の映画だ。アジア人(東洋人)は一人として登場しない。日本をイメージさせるのは、駐車場に並んだトヨタ・プリウスだけ。中国人に関しては、白人ビジネスマンが携帯電話で「謝謝!(Xie Xie!)」と会話する場面、そして「中国がニカラグアで運河を掘ろうとしている」という会話が登場する。

 映画終了時に延々と続く字幕を眺めていたら、この映画には香港資本が関与していることが分かった。バブル期の日本を彷彿とさせる中国の勢い、対する日本は「プリウス」だけかあ、と嘆息。
 まあ、オッサンの感想はこんなものでした。