澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

戦前のマントヴァーニ楽団 貴重映像 

2019年06月27日 08時52分53秒 | 音楽・映画

 かつて「ムード音楽」の代名詞であったマントヴァーニの名前を知る人も、年々少なくなっている。

 1958年、ステレオ録音によるLPレコード(30cmレコード)が発売されると、オーディオ・マニアと称される人が激増した。マントヴァーニ楽団(Mantovani and his orchestra)のアルバム(LP)は、トレード・マークである「カスケーディング・ストリングス」と彼が所属するデッカ・レコードの優秀な録音技術と相まって、数々のミリオンセラーを記録した。

 マントヴァーニの音楽暦は、大編成オーケストラを編成する以前の戦前にまで遡ることができる。第二次世界大戦以前の主要マスメディアは、ラジオであったから、マントヴァーニは、ラジオ番組でダンス音楽やタンゴを演奏していた。そのことがわかる貴重な映像がUPされているので、興味のある方は、次の映像を。

 なお、真ん中の映像(1:00前後)には「カスケーディング・ストリングス」の生みの親、ロナルド・ビンジ(Ronald Binge)がアコーディオンを演奏する姿が見られる。これもまた、貴重映像!

Mantovani & His Tipica Orchestra (1934)

Mantovani (1934)

Mantovani (1939)


香港デモに無関心な日本人

2019年06月18日 08時58分15秒 | 政治

 香港の「逃亡犯条例」反対デモについて、日本のマスメディアは、及び腰の報道を続けている。それは、中共(=中国共産党)に対する忖度、香港人の”民度”を理解しない、優越意識と傲慢さによるものだろうか。

 香港人の政治意識は、日本人よりもずっと高い。アグネス・チョウ(周庭)さんの記者会見を見れば明らかだ。
 最新の「台湾の声」に「香港デモ 日本人の無関心」と題する一文が掲載されたので、ここに転載させていただく。

 

香港デモ】日本人の無関心

 

                 連帯する日本  幹事  海原 創

 「逃亡犯条例」の撤回を求める香港の民主化デモが200万人に達した。

 日本のマスコミ各社は人口750万人のうち4分の1が結集したと報道するが、幼い子供や高齢者などデモ参加が不可能な人口を除くと恐るべき数の市民行動であったと凝視せざるを得ない。

  今回の条例をめぐる反対運動の背景となっているのは中国政府が香港市民に約束した「一国二制度」が全くの誤魔化しであったことに対する市民の怒りであった。世界の主たる民主主義国家やメディアの反応は早く、こぞって中国の横暴を激しく非難し自由を維持せんとする香港市民の勇気と行動を讃えた。

  そのような動きの中で、日本人だけがなぜ無関心を装うのか。

 日本政府はもとより自由とか人権が侵されることにあれほど口うるさい野党各党、マスコミ、評論家などが誰一人として中国の暴挙を非難したりデモを支持することを明言しようとしない。「香港のデモが200万人に達した」ということを他国で起こった単なる事件として取り上げるだけである。大半の日本人が海外の出来ごとについて決して無知であるとは思われないが、ただそれを決して自らの問題として考えたり反応しようとはしない

  かつて反米闘争や安保反対に馳せ参じた学生や労働組合などのごとく、現代の若者や労働者は、同じ「民主化」を掲げて戦う香港市民に対してなぜ沈黙するのか。またこれに呼応して敏速に行動せんとしている台湾政府や若者たちとなぜ問題を共有しようとしないのか。

 他国の出来事に関し日本人は何もしないことがもっとも安全な処世術と心得え、万事は政府や政治家の責任に転嫁してしまう。臆病な政権与党は国際紛争などに関知することを好まず、野党に至っては国際感覚などゼロに等しい。

 北方領土、竹島、北朝鮮、尖閣諸島などと同じく香港の現実と向き合うことはわが国の安全保障上不可避の現実であり、その危機に立ち向かう以外に遁れる術はないのである。

 政府は今回の香港の市民活動を支持する強力なメッセージを世界に発信すべきであり、民主主義を守るため今後も彼らへの支援を約束することが重要である。また香港の危機に真正面から向きあってきた台湾の人々にとって香港の危機は明日の台湾になりかねない。

 今回の香港事件から日本は明日の台湾がそのまま明日の日本であるということを教訓として学ばねばならない。    

              

 

 


アグネス・チョウ(周庭)香港デモシストメンバー 会見 2019.6.10

2019年06月16日 10時30分43秒 | 政治

 「一国二制度」の形骸化、すなわち中共(=中国共産党)による実質的支配が進む香港で、「逃亡犯条例」に反対する103万人のデモが行われた。

 
 来日して、外国人記者クラブで記者会見した周庭(アグネス・チョウ)の記録映像を見ると、彼女の聡明さ、誠実さが直接伝わってくる。日本のマスメディアは「香港の若者がデモ」という表現で足並みをそろえていたが、その「若者」の実像は具体的に分からなかった。だが、彼女の会見は、独学でマスターしたという完璧な日本語で行なわれ、中共一党独裁政権に対して一歩も譲らないとする気概を示した。香港や台湾の若者は、政治意識の鋭さにおいて、こちらとは全然違うのだなと改めて感心する。

 香港から来た同じアグネスに、中共のエージェント然となった陳美齢(アグネス・チャン)というオバサンもいる。陳オバハンは周庭さんの爪の垢でも煎じて飲んだらどうか?

Agnes Chow, member of Demosistō, Hong Kong
「香港衆志(デモシスト)」の中心メンバーであるアグネス・チョウ(周庭)さんが、中国本土への容疑者移送を可能とする「逃亡犯条例」改正案の撤廃を訴えた。 司会 坂東賢治 日本記者クラブ企画委員(毎日新聞)

アグネス・チョウ(周庭)香港デモシストメンバー 会見 2019.6.10


旧制・松本高校OB絵画展で見た一枚の絵

2019年06月09日 10時08分55秒 | 散歩

 半年ぶりの松本を散歩。梅雨入り直前(6月4・5日)の好天気だったので、松本城の背景には北アルプスの峰々がくっきりと浮かんでいた。



 鰻の名店「まつ嘉」でうな丼を食べた後、旧制松本高校校舎が保存されている「あがたの森」公園へ。公園内にある旧制高校記念館を再訪した。入り口の横では、松本高校OBの絵画展が開かれていた。そこで見つけたのが、この絵画。



 「サンフラワー」と題したこの絵は、三輪公忠氏(松本高校29期 理科)によるもの。上智大学名誉教授(国際関係史)で90歳の今も健在のようだ。私はこの人の授業を聴いたことがあるものの、その印象は最悪だった。外見はキザな英語屋さん、話す内容はとりとめのない歴史小話だった。並行して聴いていた「ヨーロッパ政治外交史」(篠原一)「日本政治外交史」(三谷太一郎)と比べると、恥ずかしくなるような内容だった。のちになって、この人が松本で敗戦を迎えたときのエッセイを読んだとき、おや、この人は意外にもナショナリストだったと知った。
 
 6年ほど前、東京外国語大学の「国際関係論」(井尻秀憲教授)を聴講したとき、思いがけずこの三輪公忠の名前が登場した。井尻教授は故・中嶋嶺雄の愛弟子であり、東外大における中嶋のポストの後継者。東京外大大学院時代、中嶋の肝いりで、三輪教授の話を聴くように言われ、上智大まで足を運んでいたと言う。中嶋のエッセイの中にも、近所の幼馴染として三輪の名前が登場する。同郷の好(よしみ)はずっと続いていたということだろうか。

 井尻教授は「米国による原爆投下について、三輪教授は人種差別によるものだと言うが、私はそうは思わない。当時の国際関係を熟考した結果だ」と話した。聴講する外大生は三輪の名前など知るはずもない。若い学生たちになぜこんなことを言ったのかは分からないが、私にとっては、むしろ三輪の言葉の方が納得できると感じた。三輪の隠れた一面を見たような気がした。

 Wikipediaで「三輪公忠」を調べると、次のように書かれている。
長野県松本市生まれ。松本中学校松本高等学校 (旧制)理科を経て上智大学を中退し、1955年ジョージタウン大学卒業。同大学院修士課程を経て、1967年プリンストン大学大学院歴史学専攻博士課程修了。Ph.D(歴史学)。」

 旧制高校最後の卒業生でありながら、七帝大、官立大学に進まず、何故か無名の上智大学に進学。卒業を待たずに米国留学。40歳を過ぎてからPh.Dを取得。このような経歴は、極めて特殊だ。戦後の混乱期に米国留学ができたのは、おそらくカトリックの「大本山」である上智大学の”威光”と親米的日本人を育成しようとする米国の意図によるものだっただろう。

 三輪は晩年、ホモセクシャルの疑念を抱かせかねないエッセイも表している。これらのことで想起されるのは、三輪がカトリックのエージェントのような役割を担っていたのではないかということだ。イエズス会神父(欧米系外国人)のお眼鏡に叶った典型的な人物ともいえるだろう。

 松本が生んだ文化人の名簿に名を連ね、趣味の絵画で故郷を描く。功成り名を遂げた三輪は、過ぎし日の自分をどう総括しているのか。
 安曇野の夏はまた巡ってくる…。

 

 



 

 


国策通信社「同盟」の興亡~通信記者と戦争(鳥居英晴著)

2019年06月08日 19時40分26秒 | 

 『国策通信社「同盟」の興亡~通信記者と戦争』(鳥居英晴著 花伝社 2014年)を手にした。



 出版社による本書紹介は次のように書かれている。 

・1945年、終戦の年に解散した同盟通信社(通称「同盟」)は、戦時中、国策によって設立され、 政府助成金によって維持された国策通信社で、現在の共同通信および時事通信のルーツとなった巨大通信社です。 同盟は自らを「日本の眼であり、耳であり、その口である」と称した「思想戦の中枢機関」であり、 日本政府のプロパガンダ機関として、アジア全域を拠点としてニュースを発信し続けました。 ・同盟の存在抜きに戦前のメディアを語ることはできないと言われながら、これまで、同盟を含めた通信社に関する研究は乏しく、 同盟の正史とされてきた『通信社史』は、同盟出身者によって書かれた客観性に欠けるものでした。 共同通信出身の著者は、在野でありながら「メディア研究の過疎地帯」とされてきた同盟の研究と歴史的位置づけに挑み、 5年の歳月を費やして本書を書き上げました。 ・800頁を超える大変な労作は、著者の情熱と尽きることのない探究心の結晶です。 ここでしか読めない事実の数々が子細に記録された本書の内容は、メディア史のみならず日本近現代史の史料として 一級の価値を有しています。また、個性豊かな記者たちの群像、日本の戦時情報戦略を扱った壮大な歴史ドラマは、 知的好奇心を刺激してやみません。研究者やメディア関係者はもちろんのこと、歴史ファンの読書人にも自信をもって おすすめできる渾身の一冊に仕上がっています。(出版社(花伝社)からのコメント)

 著者・鳥居英晴氏については、鮮やかな記憶がある。半世紀ほど前、東京都立川市で開催されていた「多摩中国語講習会」で私は彼と出会った。当時、鳥居氏は慶応義塾大学の4年生で、就職は共同通信に決まっていて、中国語とベトナム語を学んでいると話していた。色白の物静かな人で、記者よりも学者の方が相応しいという印象だった。

 この中国語講習会は、新左翼系の労働団体の人が始めたものらしかった。講師は、世田谷日中学院の清田始呂先生で、ずいぶんと熱心に教えていただいた記憶がある。ただ、教材が毛沢東の「老三篇」だったりしたので、政治力?ばかりを培うだけで、会話力、読解力は二の次だった。今どきの大学生が中国語のことを「チャイ語」と言うことになろうとは、当時想像だにできなかった。「慕情」の著者でもあるハン・スーインが書いた「2001年の中国」という本を「なるほど」と鵜呑みにしていた私であったから、今日の中華帝国の再興は、悪夢、いや悪い冗談としか思えない。

 この講習会で思い出すのは、日本電子に勤めていた簑島さん。彼は蝶の収集家で、台湾に蝶を採集するために、中国語を習いに来たと話していた。これこそが、正しい外国語学習の姿。政治性の強い講習会だったので、三里塚闘争に参加していたMさん、後に日産労組をバックに都下の市長選に出馬したOさんなど、政治運動家と目される人たちもいた。

 著者・鳥居英晴氏は、53歳で共同通信を退社したという。今はどのような生活をされているのか。ホラ吹きの青山繁晴とは対極の人だろうから、地味な分野で実証的な仕事を続けられているのではないか、と思う。

 あまりの大著なので、感想を記すほどに読んでいない…。昔話が先になってしまった。嗚呼…。