澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

ねつ造ではなく過剰演出??…NHKやらせ疑惑の結末

2015年04月28日 08時38分37秒 | マスメディア

 「NHKの報道番組「クローズアップ現代」などでやらせが指摘されていた問題で、NHKの調査委員会(委員長、堂元光副会長)は視聴者に誤解を与える過剰演出があったとする一方、やらせによる捏造(ねつぞう)はなかったとする最終報告をまとめた。」
                                                 
(「毎日新聞」4月28日)

 「クローズアップ現代」だけが”クローズアップ”されるのも心外なほど、NHKのドキュメンタリー番組には問題が多い。

 件の「クロ現」が「捏造ではなく、過剰演出」だったというのなら、これまでの問題となったNHKスペシャル「魂の旋律 音を失った作曲家」Japanデビュー「アジアの”一等国”」も少なくとも「過剰演出」に該当するのは間違いない。だが、NHKは、些細な部分については「反省」のポーズを見せたものの、詐欺師・佐村河内守を「現代のベートーベン」と祭り上げた古賀淳也、日本の台湾統治を徹底的に歪めて描いた「アジアの”一等国”」の浜崎憲一の二人のプロデューサーの責任については、不問に付した。 

 「アジアの”一等国”」に登場した日本語世代の台湾人医師・柯徳三氏は浜崎憲一に対して「お前は中共から金をもらっているんだろう」と詰問した。NHKからインタビューを受け、日本統治時代を体験した台湾人として、台北一中、台北高校、台北帝国大学医学部での懐かしい思い出を語ったはずだったのに、その発言は真逆に歪められて放送された。中共(中国共産党)の意向を受けて、NHKは意図的に「反日の台湾」をでっちあげたではないか、と抗議したのだ。

 こんな偏向番組を是正するために就任したはずの籾井会長は、慎重さを欠いた失言ばかりで、野党の格好のターゲットになってしまった。
 捏造ではなく過剰演出…と結論付けたNHK。おどろおどろしい音楽とナレーション、真偽のほども疑わしいコメント、視聴者を一定の方向へ誘導するかのような番組の展開等々、これらが「過剰演出」という曖昧な結論で済まされるのか?

 こんなNHKに受信料を払う必要などない、と感じた人がさらに増えたことだけは間違いがないだろう。

 

<NHK>「捏造なかった…過剰演出」会長ら20人処分

毎日新聞 4月28日(火)7時30分配信

 NHKの報道番組「クローズアップ現代」などでやらせが指摘されていた問題で、NHKの調査委員会(委員長、堂元光副会長)は視聴者に誤解を与える過剰演出があったとする一方、やらせによる捏造(ねつぞう)はなかったとする最終報告をまとめたことが、27日分かった。担当記者の停職など約20人の処分とあわせて28日に公表する。籾井勝人(もみい・かつと)会長を含む会長ら役員は、処分の規定がなく、報酬を自主返納する方向。

 問題の番組は、昨年5月14日に放送した「追跡“出家詐欺”~狙われる宗教法人~」。多重債務者がブローカーを介して、出家の儀式を受け、名前を変えて融資などをだまし取る詐欺の手口を紹介した。同様の内容は同年4月25日の関西ローカル「かんさい熱視線」でも放送されていた。いずれも大阪放送局の男性記者が担当した。

 やらせが疑われているのは、取材で突き止めたブローカーとされる男性の元に、多重債務者とされる男性が相談に訪れる場面。ブローカーとされた男性はブローカーであることを否定。同調査委の中間報告では、記者は多重債務者とされる男性と8~9年前から知り合いで、この男性にブローカーとされた男性を紹介されていた。

 最終報告は、やらせではなく、ブローカーとされる男性と知り合った実際の過程が、放送では逆になっていたことなどから、演出が過剰だったと判断した。【望月麻紀】


「ベトナムの韓国軍慰安所」を暴いたTBS支局長が左遷

2015年04月28日 05時39分26秒 | マスメディア

 「週刊文春」3月25日号に掲載された「米公文書が暴いたベトナムの”韓国軍慰安所”」は、ブーメランのように「従軍慰安婦」問題で執拗に日本を攻撃する韓国を直撃している。
 
 この記事を書いたのがTBS・山口敬之ワシントン支局長。米国の公文書に書かれた事実を掘り起こした記事であるのに、TBSでは全く報道されなかった。他局のTV・ラジオもほぼこの記事を無視した。TBSの朝鮮半島偏愛報道はつとに有名なので、たとえワシントン支局長の大スクープであっても、週刊文春に書くしかなかったのかと思った。

 ところが、この山口氏は、TBSから「15日間の出勤停止処分を受け、営業局ローカルタイム営業部への異動を内示」されていたという。(下記の「夕刊フジ」記事参照)

 先日のラジオで「あなたは、日本が”戦争ができる国”になることを賛成ですか、反対ですか」というリスナー調査をやっているのを聴いたが、このようにTBSの「集団的自衛権反対」「安倍政権叩き」は、報道機関としての一線を超えた、異様なものになっている。そのさなかの「左遷」「懲罰人事」であるのだから、部外者でも見過ごすことはできないだろう。「報道の自由」にかかわる問題であるのだから…。

 この人事のキーパーソンは、間違いなく金平茂紀という男だ。TBSの執行役員で、在日韓国・朝鮮人。
 報道機関の中枢にまで、在日外国人が食い込む傾向が顕著なのは、実に憂慮すべき事態だと思うのだが、肝心のマスメディアは何も語らない。

 

TBS支局長、不可解な異動で営業部門へ 『文春』で「韓国軍慰安所」スクープ

夕刊フジ 4月27日(月)16時56分配信

 韓国軍がベトナム戦争中にサイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-とするスクープ記事を「週刊文春」に掲載したTBSの山口敬之ワシントン支局長が、同社から15日間の出勤停止処分を受け、営業局ローカルタイム営業部への異動を内示されていたことが25日、分かった。関係者の間では、取材の成果を他社の媒体に発表したため左遷されたという見方も広がっている。

 記事は3月26日発売の文春に掲載された。山口氏が米国内で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたとする内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言も盛り込まれている。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心である「強制連行」の根拠は崩壊したが、いまだに韓国は筋違いな「解決」を求め続けている。韓国軍の慰安所の存在が明らかになれば、これまでの日本への批判は天に唾するものだったことが白日の下にさらされることになる。

 まさに「意義あるリポート」(ジャーナリストの室谷克実氏)といえるが、これだけの歴史的スクープをなぜ自社で報道しなかったのか。そして、なぜスクープを物にした有望社員が突然、異動の憂き目にあったのか。

 TBS関係者は「ローカルタイム営業部というのは関東ローカルの番組を扱う部署で、花形とは言いがたい。門外漢である記者、しかも海外支局長クラスを送り込むというのは、嫌がらせとしか思えない」と述べ、今回の異動が出勤停止処分と併せた事実上の左遷であるとの見方を示す。

 TBS広報部は、夕刊フジの取材に「人事についての詳細は公表しておらず、お答えできない」としているが、憶測は広がるばかりだ。


「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史」を読む

2015年04月20日 22時09分28秒 | 

 「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史(楊海英著 文芸春秋社 2014年)を読む。
 昨年度、ある大学で「モンゴル近現代史」という授業を聴講したので、大国に翻弄され続けたモンゴル民族の歴史に対して、それなりに理解を深めたと思い込んでいた。

 しかし、この楊海英・静岡大学教授の著作で、モンゴル騎兵のあまりに壮絶な運命、苛酷な史実に触れ言葉も出なかった。書評については、渡辺利夫・拓殖大学総長が「産経」に書かれているので、それを読むのが手っ取り早いと思う。(下記に転載させていただいた。)

 私の心に突き刺さるのは次のようなことだ。

1 ブリアート共和国(現・ロシア)、外モンゴル(現・モンゴル国)、内モンゴル(現・中華人民共和国内モンゴル自治区)に分かれて居住するモンゴル民族は、満洲国が成立し、その国内にモンゴル人の居住地域が定められ、自治軍などの保有も認められたことで、三つに分かれた国がひとつのモンゴル人の国になれるかもしれないという、近代史上、最初で最後の夢を描いた。

2 だが、日本の敗戦によって、満洲はソ連に占領され、中共の支配下に。満洲国に協力したモンゴル人たちには粛清の運命が待っていたが、毛沢東は邪悪な企みを考えついた。彼は、勇猛果敢で漢人に恐れられたモンゴル騎兵をチベット制圧の先兵として使った。まさに「夷を以て夷を制す」の言葉通りの残虐な策謀だった。その後、文化大革命が始まった1966年、中共はモンゴル独立運動の陰謀があったとして、内モンゴル自治区に住む何十万人ものモンゴル人を迫害し、死に至らしめた。

3 モンゴル人と漢人の相克の歴史は、つまるところ遊牧民と農民の土地をめぐる戦いだ。満洲族の王朝であった清朝は、モンゴル人の居住領域(草原である牧草地)に漢人農民が入植することを禁じたが、その末期に至っては、事実上多数の漢人農民が開拓民として満洲に不法移住した。「五族協和」を唱えた満洲国は、国内のモンゴル人の居住領域を保護し自治を認めるとともに、近代的教育を施した。中共の圧政と歴史ねつ造がなければ、台湾の日本語世代と同様に、きっと多くのモンゴル人が日本に対して好感情を持っていたはずだった…。

 以上のようなことがらが、「日本は満洲で”悪いこと”をした」という教条のために、歴史の授業では全く教えられていない。そもそも「満洲」という言葉自体が「中国東北部」と言い換えさせられている始末だ。中共(中国共産党)の「正史」は、「中華民族」による「ひとつの中国」にあるのだから、広大な少数民族の領域である内モンゴル自治区やチベット、新彊ウイグルなどは、今や漢人の植民地とされてしまった。日本は悪いことをした、と懺悔や謝罪を繰り返すだけでは、決して収まり切れない、今も続く歴史がここにある。日本が「満蒙」と言われる広大な領域にどう関わってきたのか、さらに検証される必要があるのだろう。
 
 著者は本書の「まえがき」で「日本人よ、”モンゴル”をわすれないでほしい」と、そして「あとがき」で「日本人よ、”自虐”にも、”自尊”にもなるな」と書く。これは、中国国籍(内モンゴル自治区のモンゴル人)から日本国に帰化した著者ならではの、日本人に対する熱いメッセージだ。
 

 
(「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史楊海英著 文芸春秋社 2014年)

拓殖大総長・渡辺利夫が読む『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』楊海英著
                                                                                            201
4.11.30 「産経新聞」

自決求めるモンゴルの叫び

 中国という巨大国家の闇を覗(のぞ)くには、実に多角的なアングルが必要である。この国家の特徴的な一面はその残虐性であり、それを知るには、何よりも帝国の支配下におかれたモンゴル、チベット、ウイグルなど少数民族の血を吐くような声に耳を傾ける必要がある。『墓標なき草原』以来、この著者が書き綴(つづ)ったいくつもの著作を私は読んできた。

 本書は、中国支配下のモンゴルで起こった、日本人には信じ難い規模でのジェノサイドを、その惨劇から奇跡的に生き延びてなお存命の人々との濃密なインタビューを通じて描き出した秀作である。読み通すのがつらくなるほどのリアルな記述に満ちている。

 しかし、本書の目的は惨劇の描写それ自体ではない。むしろ、中国の圧制に抗しつづけたモンゴル民族主義者の、一方では雄々しく、他方では切ないまでに鬱屈(うっくつ)した心情を記述することにある。

モンゴルの民族主義的な戦闘集団の先陣は、日本陸軍が満洲国で創立した興安軍官学校の卒業生たち、日本刀を自在に操る勇猛果敢なモンゴルの「サムライ」である。その秀才の一人で日本陸軍士官学校に留学、三笠宮殿下とも親交のあったドグルジャブを主人公に、その苛烈な人生を追いながら物語の全編が紡がれる。

 民族自決権を付与するとの共産党の甘言に乗せられ、中国人民解放軍内モンゴル軍区の騎兵として同じ少数民族であるチベット族への侵攻の先兵に仕立てられ、中国による凄惨なチベット支配に加担させられてしまったことへの、今に生き存(ながら)える元騎兵隊兵士の慙愧(ざんき)の思いを本書は切々と伝える。結局は、モンゴルもチベットもウイグルも、刃(やいば)を抜き取られて民族自決は遥(はる)かなるものとなってしまった。

 本書の最後で著者は「本書を書いている間、私はずっと一種の昂揚(こうよう)感に包まれていた。興奮状態だった」と記す。そうにちがいない。モンゴル騎兵の精神を探る旅に出て気づかされた、自決を求めてなお衰えることのないモンゴル人の熱い魂を描写しようというのだから。著者の昂揚感は私にも深々と伝わる。(文芸春秋・1850円+税)

 


茨城・鉾田市イルカ漂着は大地震の前兆ではないのか?

2015年04月10日 19時23分34秒 | マスメディア

 きょう、TV各局は、茨城県鉾田市の海岸に150頭ものイルカが打ち上げられたというニュースを一斉に伝えた。

 NHKとTBSニュースを見たら、「茨城県内では2011年3月、鹿嶋市の下津海岸にカズハゴンドウが54頭打ち上げられ、地元の住民らか救出作業に当たりました。このときは、32頭が死に、22頭を海に帰しました」と伝えるだけ。(下記参照)

 2011年3月と言えば、東日本大震災が起きた月。イルカが打ち上げられたのが、大震災前なのか後なのか、この記事では故意にだろうか、全く触れていない。NHKも同様で「
2011年3月」というだけだった。

 そこで、ネットを検索してみた。そこに「地震の前兆?東日本大震災の1週間前にもイルカ打ち上げ」という記事を見つけた。それによれば、イルカ漂着があったのは、2011年3月4日だという。
 3月4日と言えば、大震災の一週間前ではないか?これを何故、地震の宏観現象だと疑わないのだろうか?
 ふだん、安倍政権批判では言わずもがなのことまでいうTBSが、なぜ、「きょうのイルカ漂着は、東日本大震災の直前の一週間前にもあったことなので、注意が必要です」と言わないのか?

 「朝日」の「従軍慰安婦ねつ造」、NHKの「佐村河内報道」「クロ現やらせ疑惑」、TBS、テレ朝の異様なまでの安倍叩きを思うとき、今日のイルカ騒ぎを表面的にしか報道しないマスメディアは、呆れるほどに犯罪的だと言っていい。

 万が一、近日中に茨城県近辺を震源とする大地震が発生したら、マスメディアはうすうす予兆を知りながら、意図的に情報を隠ぺいしたのだと非難されるだろう。



4年前にも同じ茨城でイルカが打ち上がる

TBS系(JNN) 4月10日(金)19時2分配信

 茨城県鉾田市海岸で150頭ものイルカが打ち上げられているが見つかりました。実は4年前にも同じ茨城県の海岸で、50頭ものイルカが打ち上げられていたんです。

 「茨城県鉾田市上空です。たくさんのイルカが広範囲にわたって打ち上げられています」(記者)

 一体何が起きたのでしょうか。広い海岸線に沿ってイルカが点々と打ち上げられていることが確認できます。

 「ご覧ください、こちらのイルカ、体が乾かないように湿ったタオルがかけられています。ヒレもわずかながら動かしています。懸命に生きようとしています」(記者)

 10日午前6時15分ごろ、“イルカが100頭以上打ち上げられている、生きているので救助してほしい”といった内容の通報が相次ぎました。警察や市などによりますと、海岸線などでおよそ10キロにわたり、およそ150頭のイルカが打ち上げられているといいます。

 「すれちゃって傷ついているけど(海に)戻しても戻らないし。方向感覚がないんでしょう。海の方に戻っていかないんだから」(地元の人)
 「こんな上がったことはないよ。初めてだよ」(地元の人)

 地元の人などが打ち上げられたイルカを懸命に海へ戻そうとしていますが・・・。弱ってしまっているのでしょうか、波の勢いに押され、前に進むことができません。

 「元気がなくて助からないであろう個体は残念ですが安楽死です」(水族館関係者)

 イルカなどが打ち上げられると、自治体から救出の要請が入る大洗水族館です。

 「現場のスタッフから連絡がありまして、カズハゴンドウで間違いない」(海獣展示課 高石慎也主任)

 カズハゴンドウは暖かい外洋に生息し、体長は2~3メートル、体重は200キロ前後。およそ100頭から、多いときには1000頭を超える群れをつくり、行動するといいます。

 「大洗水族館では残念ながら、野生の動物を保護収容できる施設がない。現場で健康状態を見極めながら、元気な個体から優先して、できるだけ速やかに海に戻すというのが最善の方法」(獣展示課 高石慎也主任)

 イルカやクジラなどが大量に打ち上げられる現象は、「マス・ストランディング」と呼ばれます。周辺の海岸では年に数回、イルカなどが打ち上げられるものの、一度にこれだけの量が打ち上げられるのは、最近では珍しいといいます。考えられる原因について、専門家は・・・

 「優秀なイルカでも天候が悪いと(位置が)分からなくなって座礁してしまうことや、サメとかシャチが天敵なので、追いかけられているうちに砂浜に上がってしまうなどそういう説もある。ただ今回の場合、一番考えられる理由はやはり餌を追って、深追いして座礁してしまったというのが一番自然に考えられる説です」(東海大学海洋生物学科 村山司教授)

 茨城県内では2011年3月、鹿嶋市の下津海岸にカズハゴンドウが54頭打ち上げられ、地元の住民らか救出作業に当たりました。このときは、32頭が死に、22頭を海に帰しました

 およそ150頭が打ち上げられた10日の救出作業は、容易ではありません。午後になりますと、警察や海上保安庁も救出に参加。イルカをクレーンで引き揚げて船に乗せ、沖合から海へ帰す作業が行われました。

 一方で、海岸では、死んだイルカを埋めるための大きな穴が掘られていました。鉾田市や水族館などによりますと、衰弱が激しいものは安楽死させることもあるといいます。(10日18:06)

 

 

 


台湾人は漢民族ではない ~ 林建良氏の主張

2015年04月09日 08時22分23秒 | 台湾

 台湾独立・建国運動を展開する林建良氏が「何度も言う 台湾人は漢民族ではない」という一文(下記に転載)を「台湾の声」に寄せている。 

 日本のマスメディアでは、「30カ国の国と地域が参加した」というような表現が使われる。この「地域」とは、ほとんどの場合、台湾(中華民国)を指す。戦後、大陸(中華人民共和国)、台湾(中華民国)双方が「ひとつの中国」を主張してきたが、前者の国連加盟、後者の国連脱退によって、中華人民共和国政府が「ひとつの中国」を代表すると認められた。それ以来、台湾(中華民国)は「地域」の名称に甘んじてきた。1971年、台湾(中華民国)が国連を脱退を決意したとき、中国共産党は台湾が一般加盟国として国連に留まることを是としていたという事実がある。だが、蒋介石は「ひとつの中国の代表という面子にこだわり、実質的な台湾独立のチャンスを自ら放棄してしまった。

 国際法的な論議はともかくとして、現実の国際情勢を見れば、中共(中国共産党)が一党独裁を続ける中華人民共和国は、本来漢民族の領域ではなかった内モンゴル、チベット、新疆ウイグルを制圧し植民地化を続け、さらには南シナ海に領土拡張を進め、虎視眈々と台湾併呑を狙っている。

 このような状況のもと、この論文は台湾独立の「理論的根拠」のひとつとなりうるだろう。

【何度も言う】台湾人は漢民族ではない 

      「台湾の声」編集長 林建良(りんけんりょう) 

■台湾人と中国人は同じ民族と見る日本人

 台湾という国を、日本の皆さんは知っているようで知らない。どうせ中国と同じ民族なのだから仲良くやればいいじゃないか、と言う人が少なくない。一般の日本人ばかりでなく、台湾について勉強している学者や研究者でさえ、同じようなことを言う。つまり台湾人は、二パーセントの原住民、一三パーセントの外省人(蒋介石と一緒に台湾にやってきた人間)、残り八五パーセントの本省人(戦前に台湾に移住してきた人間)なのだから、九八パーセントはもともと漢民族ではないか、と。 

 これは誤解でしかないが、ほとんどの日本人が台湾人は漢民族であると考えている。実は、なによりわれわれ戦後の台湾人が「お前たちはもともと漢民族である中国人なのだ」という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面がある。しかし、これは間違いなのである。 

 台湾が世界史に登場してきたのはつい最近で、一七世紀になってからである。では、それ以前の台湾にはほんの一握りの人間しか存在していなかったのかというと、そうではない。

台湾が歴史に登場したのは一六二四年で、オランダがアジアとの貿易をするうえでの中継点として登場した。ご承知の通り当時のオランダは、非常に航海技術が優れていて、貿易が盛んだった。今の会社の原型といわれる東インド会社も彼らによってつくられた。当時の彼らは、西洋のものを日本や中国に売り、あるいは東洋のものをヨーロッパに売ったりしていた。オランダはその中継点として、台湾と中国のあいだにある島で、大きさは新潟県の佐渡島の五分の一ぐらいの澎湖島という島を選んだ。 

当時の明朝はその島をめぐってオランダ軍と戦い、結局は和解したが、明朝の条件としては、澎湖島は返してもらう、その代わりに台湾をあげるからというものだった。台湾は中国にとって、そのくらい無用のものだった。そして一六二四年、オランダ人が台湾を統治することになる。それが台湾人が体験した初めての国家としての権力であった。 

 著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば、当時の台湾の人口は五十万人だったという。今から十年ほど前までは、台湾では原住民のことを「山胞」、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに三分の二は山でも、三分の一は平野である。住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどというおかしなことはない。実は、当時の台湾人のうち二十万人は山に、三十万人は平野に住んでいたのである。

余談だが、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。 

■台湾に来たがらなかった中国人 

 オランダ人は台湾を統治するために、中国から労働者を輸入する。その数は七千人から八千人で、五十万人の中の八千人だ。人口の一、六パーセントにすぎない。 

 鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが一六六一年であるから、オランダの統治は三十八年間続いたことになる。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功がたくさんの中国人を連れて海を渡ってきたことに求められている。しかし、一六六一年の台湾の人口は六十二万人であり、中国からやってきた鄭成功一族と彼の軍隊はその中のたった三万人なのである。 

 その一族が台湾を統治したのは二十二年間で、清朝によって滅ぼされた。当時の台湾の人口は七十二万人になっており、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人だ。なぜ中国人が台湾に行きたがらないかというと、当時の台湾はまさに瘴癘の地だった。瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延していた。「台湾に十人行けば七人死んで一人逃げ帰る。残るのはせいぜい二人」という中国の諺が残っているほどだ。 

 実際、清朝は二百年のあいだ台湾を統治するが、その間、統治者は三年交替だった。三年交替の統治者で生きて中国に帰れたのはほんの数人、十人を超えていない。もちろん統治者としてやって来るわけであるから、いちばん良い食事、いちばん良い環境、いちばん良い住まい、つまりいちばん良い衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。 

 そして、一八九五年に日本が台湾を領土としたときの人口は二百五十万人だったが、清朝出身者のほとんどが中国に引き揚げている。だから、このように歴史をたどってみれば、われわれ台湾人が漢民族であるという認識の間違っていることがよくわかるのである。 

■税金のために漢民族になろうとした原住民 

 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した。漢人、つまり漢民族しか苗字を持っておらず、原住民のことは、野蛮人を指す「蕃」を使って「生蕃」「熟蕃」と呼んだ。この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われた。 

熟蕃というのは漢民族と一緒に住んでいる、人を殺さない野蛮人を指す。山に住んでいる台湾人は首を狩る。そのことを我々は「出草」と言う。自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。 

 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は「では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう」と苗字を与えた。苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。だから、台湾人は漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。 

■血液学からも証明 

 台湾の人口は、一六二四年の五十万人から一九四五年にはざっと六百万人になった。環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である。清朝統治の二百年間には、台湾に渡るなという禁止令があった。それは、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたので、人が増えることは好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。 

日本が統治した当時の人口は二百五十万人で、もちろん日本統治の五十年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいなかった。正常な人口の成長で、五十年間で六百万人になった。一九四五年に台湾から引き揚げた日本人が四十万人いたから、総数としては六百四十万人ということになる。その中にもし中国人がいたとしても、ごく僅かなのだ。

血液学的調査にもそうだし、台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明している。 

台湾人は漢民族ではない。

 『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html


「わが軍」と「この国」

2015年04月01日 17時06分21秒 | 

 安倍首相の「わが軍」発言が、マスメディアの格好のネタになっている。国会質疑をそのまま見る限りでは、日米合同演習に関連して、「米軍」との対比において、自衛隊を「わが軍」と言ったに過ぎない。ところが、TBS、テレ朝など、安倍叩きに狂騒するメディアは、発言の一部だけを切り取って、「それ見たことか!」と大騒ぎ。

 アベタタキニモマケズ…

 この「わが軍」という言葉で連想したのが、「この国」という言葉。「わが国」ではなく「この国」という人々がいることに、私はかねてから疑問を感じていた。
 「この国」派の代表は、故・筑紫哲也

 TBSはまだ生きている…

 ソフトな印象とは裏腹に、筑紫哲也はバリバリの左翼であり、プロ市民派だった。まさに「従軍慰安婦」をねつ造した「朝日新聞」そのもののような人だった。
 私は、筑紫が「わが国」とか「日本国は」と言うのを聞いたことがない。戦前の歴史を全否定して、戦後民主主義が輩出した「市民」を持ち上げる。筑紫にとっては、「国民」よりは「市民」に価値があるのだから、「わが国」とはいいにくい。だから、「この国」を多用したのだろう。

 だが、あの司馬遼太郎も「この国のかたち」を著している。だれが左翼か右翼かといった俗世間の些事をはるかに超越した、彼のような大作家が、なぜ「この国」という言葉を使ったのか?

 この疑問は、「司馬遼太郎の”かたち”~”この国のかたち”の十年」(関川夏央著 文春文庫)を読んでようやく氷解した。司馬遼太郎は、書き上げた作品に「この土(くに)のかたち」という表題を付けた。しかしながら、編集者は「土」を「くに」と読ませるのは、読者に馴染まない。だから、「くに」は「国」という漢字にしてほしいと頼んだのだそうだ。

 「この土(くに)のかたち」としたかったが…

 関川夏央は次のように書く。

 『これは私の考えだが、”この国”といういいかたが、永らく左翼に愛用された事実も気になったかも知れない。左翼は”わが国”とは決していわなかった。”この国”といった。自分がその国民ではないといいたげな気分、またあたかも、たまたま日本に住んでいるにすぎない外国人であるかのような気分が、”この国”と発語するときに感じられたのである。
 しかし、やはり「この土(くに)のかたち」では落ち着かない。”この土(くに)”と”この国”、四角いほうの”国”にもLandの意味はこめられていると思います、と堤(編集者)は力説し、奥様はいかがお考えですか、と尋ねた。「私も、どちらかといえば、国の方が良いと思います」「だったら二人で先生を口説きましょうよ」
 その結果、「二人がそこまでいうんなら、国でいこか」という司馬遼太郎の意向が、やがて伝えられた。』
                        
(関川「司馬遼太郎の”かたち”」p.40)

 司馬遼太郎の真意を知って、ほっとした思い。今頃、そんなことを知ったのかと言われるかも知れないけれど…。