澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

教員組合が支配した「名門都立高校」

2020年12月17日 10時23分12秒 | 教育

 手元に「紫芳会報No.59」という同窓会誌がある。かつての”名門”都立高校の同窓会誌だ。

 この中に、かつてこの高校で日本史を教えていたH女史(現在80歳)へのインタビューが掲載されている。
 このH女史は、東京教育大学(現筑波大学)大学院修士課程卒、「教科書訴訟」で有名だった家永三郎門下だ。東京都教員採用試験に合格し、名簿登載されたあと、この高校の”採用面接”を受ける。

 このとき、面接をしたのは、校長ではなくて、社会科教員の代表だった倉〇という人物。「日本史を教えていた目〇という教員が倫理社会を教えることになったので、日本史の教員候補として面接を受けた」という。この倉〇という人物は、東大文学部東洋史専攻卒で中国古代史を専攻した。面接で「Hさん、専攻は?」と訊かれ、「日本近代史」と応えると、「古代史と近代史だとバランスが取れていい」という理由で、採用になったという。そして、このH女史は、25年もの間、この高校で日本史を教えることになった。

 このエピソードには、ただ懐かしいなどでは済まされない、重大な事実が示されている。すなわち当時、教員採用の人事権は、校長ではなく教員側(都高教=都立高校教職員組合)にあったという事実だ。教員側と言っても、社会科以外の教員はその人事に口を挟むことはできず、事実上、各教科の教員に人事権が委ねられていたことが分かる。
 この”採用”で周囲の仲間(教員)に気に入られれば、定期異動を気にすることなく、20年以上もの間、同じ職場にいられる。そこでは、大学教授に準ずるような気ままな"講義”を続けることが許された。受験指導等の煩雑な仕事は軽視され、”自主性”の美名のもとにすべて生徒に丸投げされた。東京都教育庁は、このような実態を知らなかったはずはなく、むしろ都高教との”談合””野合”の道を選択したということだろう。

 思い起こすと、社会科の中でも友〇教諭は東京教育大卒、前出の倉〇、目〇教諭は東大卒などと、微妙に東京教育大と東大の棲み分けができていたようだ。絶妙な「学歴社会」。私大卒など、歯牙にもかからなかった時代のことだが。

 都立高校の衰退の理由が、これではっきりと分かった。組合支配の教職員にとっての「楽園」が、切磋琢磨の私立中高一貫校に勝てるはずはない。この都立高校の没落の歴史を改めて思った。