澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

エドムンド・ロスの「日本軍歌集」

2014年05月31日 13時55分10秒 | 音楽・映画
  英国のバンド・リーダー、エドムンド・ロス(1910.12.7-2011.10.21)が、日本のファンのために録音したアルバム「Japanese Military Songs」(「日本軍歌集」 1968年)が、最近、YouTube映像にUPされた。もはやCD化される見込みも少ないアルバム(LP)をよくぞ知らしめてくれたと心から感謝したい。

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エドムンド・ロス「日本軍歌集」(Japanese Military Songs  London SLC223 1968年)

「日本軍歌集」(Japanese Military Songs  London SLC223 1968年)

1 敵は幾万
2 歩兵の本領
3 月月火水木金金
4 荒鷲の歌
5 父よあなたは強かった
6 轟沈
7 同期の桜
8 婦人従軍歌
9 軍艦マーチ
10 戦友
11 雪の行軍
12 ラバウル小唄

 
 このアルバムがリリースされた1968年は、どんな年だったか?まず、1964年に東京オリンピックが開催され、日本は高度成長経済のまっただ中にあった。経済発展は、従来の社会構造を否応なしに変えていく。日本では公害問題や学生運動が最高潮に達した時期でもあった。

 もちろん、第二次大戦終結からわずか23年。社会の中核には、戦争体験者が大半を占めていて、今度は「企業戦士」として働いていた。その頃、会社の歓送迎会などでは、軍歌を歌う人が必ずいたはずだ。そんな背景から、日本のキングレコード(株)英国デッカ社にエドムンド・ロス楽団演奏による軍歌集の録音を打診したのだろう。第二次大戦中、日本と英国は、ビルマ戦線で死闘を戦った。有名な映画「戦場に架ける橋」は、そのビルマ戦線で日本軍の捕虜になった英国軍兵士の物語である。英国では日本軍の捕虜処遇の残虐さを非難する世論がまだ根強く残っていた。まだ、記憶に新しい敵国=日本の軍歌を、たとえ依頼されたとしても、演奏する側に抵抗感はなかったのだろうか。

 ともあれ、エドムンド・ロスは、このレコーディング依頼を承諾して、希に見る素晴らしいアルバムが誕生した。私は、この英国人の度量の広さとビジネスに徹する現実主義に感心する。ちなみに、米国の同種の楽団が、日本の軍歌集を録音したという話は寡聞にして聴かない。それはそうだろう、日本占領期、軍歌を禁止したGHQ=米国が、わざわざそんなものを録音OKするはずもないのだ。

 アルバムがリリースされた1968年、中韓両国はどういう状況にあったのか?中国大陸は、独裁者・毛沢東が発動した「プロレタリア文化大革命」の真っ最中で、国内は内乱状態、多数の国民が虐殺されていた。韓国はと言えば、朴 正煕(1917.11.14-1979.10.26)大統領の強権的な「開発独裁」のまっただ中で、両国とも自国の内部事情で手一杯だった。

 さて、アルバムの写真を見てみよう。ロスの背景には、堂々と「旭日旗」が配置されている。当時の日本人はこのデザインに違和感など感じなかったのだ。昨今、韓国はこの「旭日旗」さえ「日本軍国主義の残虐の象徴」だと言い始めた。このアルバム所収の「婦人従軍歌」などは「従軍慰安婦」が存在した証拠だと言い出しかねない。そんな主張がいかにご都合主義のいい加減なものか、よくわかるだろう。同時に、小うるさい隣国が言うのだから、謝罪しておけばいいというような態度こそ、現在の状況をつくり出したとも言えるだろう。


 今から40年ほど前、軍歌を歌うこと自体が「戦争を賛美する」とかいう意識は希薄だった。それは、戦争を実体験した世代が多数を占めていて、現在横溢しているような口だけの「平和」「共生」などというきれい事の言葉を簡単には信じなかったからに他ならない。
 
 旧・敵国である英国のエドムンド・ロス楽団が遺してくれた日本軍歌集。音楽史の資料としても、ぜひCD化してほしいものだ。







原発事故 東電社員の九割が逃げ出していた

2014年05月21日 04時40分17秒 | 社会
 福島原発事故のまっただ中、菅首相が「東電が福島第一原発からの撤退を進言してきたが、私は”撤退したら東電という会社もなくなる”と伝えた」とマスメディアに語った。これに対して、東電の清水社長は「そんなことを言ったことはない」と否定した。

 以上のようなやりとりをまだ覚えている人も多いはずだが、20日の「朝日」が福島第一原発・吉田所長の「聴取結果書」をスクープ。「東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた」ことが明らかにされた。

 これを見ると、当時の菅首相の発言は、かなり信憑性が高いものだと分かる。もちろん、東電や官僚組織を信用せず、原発危機のまっただ中、東工大の「同窓生」だという理由で吉田所長に会いにでかけた菅首相の危機管理対応を免責するものではないが…。

 
 東電本社に乗り込んだ菅首相は、錯乱状態に陥っていたと伝えられるが、その詳細については「封印」されたままだ。マスメディアは韓国沈没船事故でこれだけ大騒ぎし、「韓国の危機管理能力」まで云々するヒマがあるのなら、この「東電社員撤退事件」こそ追及すべきテーマだろう。


福島第一の原発所員、命令違反し撤退 吉田調書で判明

                              2014年5月20日03時00分

 東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)を朝日新聞は入手した。それによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。

葬られた命令違反 吉田調書から当時を再現
特集「『吉田調書』 福島原発事故、吉田昌郎所長の語ったもの」
フクシマ・フィフティーの真相

■所員9割、震災4日後に福島第二へ

 吉田調書や東電の内部資料によると、15日午前6時15分ごろ、吉田氏が指揮をとる第一原発免震重要棟2階の緊急時対策室に重大な報告が届いた。2号機方向から衝撃音がし、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったというものだ。2号機の格納容器が破壊され、所員約720人が大量被曝(ひばく)するかもしれないという危機感に現場は包まれた。

 とはいえ、緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していなかった。この時点で格納容器は破損していないと吉田氏は判断した。

 午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」

 待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。

 東電が12年に開示したテレビ会議の録画には、緊急時対策室で吉田氏の命令を聞く大勢の所員が映り、幹部社員の姿もあった。しかし、東電はこの場面を「録音していなかった」としており、吉田氏の命令内容はこれまで知ることができなかった。

 吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。

 その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。

ベトナムの反中国暴動と「ひとつの中国」

2014年05月16日 12時49分42秒 | 政治
 西沙諸島の領土問題をめぐって、ベトナム全土で「反中国暴動」が起きている。
 日本のマスメディアは、最大の被害を被ったのが台湾系企業であることを伝えているが、被害者の内訳など詳細については不明のままだ。

 「台湾の声」(5月16日付)には、評論家・宮崎政弘氏の興味深い一文が掲載されている。ここに転載させていただく。




【一つの中国?】ベトナムので反中暴動で最大の被害は台湾企業だった


宮崎正弘の国際ニュース・早読みより転載


 ベトナムの反中暴動、最悪の被害者は台湾企業だった
  暴徒はなぜ台湾企業を中国企業と間違えたか?


 5月12日からベトナム全土で広がった反中国抗議行動、63県のうち22地区で一斉にデモ行進、抗議集会が開催され、一部が暴徒化。工業団地を襲い、中国企業工場に放火、暴力沙汰に発展した。

 とくにハノイから南へ300キロにある台湾企業「台湾プラスチック」の工場が襲われて一名が死亡(『環球時報』は二名死亡と報道.NHKも)、90名から149名が負傷した。同社はベトナムにおける外国企業最大の投資規模を誇る。

台湾政府はただちにベトナムに抗議し、負傷者の治療補償、工場の修理補填を要求した。これは1993年に結ばれた台湾ベトナム投資協定に基づき、万一の暴動などの被害の場合、ベトナムが補償する内容となっている。

台湾企業の多くはすでに中国大陸から撤退しており、最大の移転先はベトナムである。繊維、アパレル、靴、加工食品、農水産加工、プラスチック、家具などが主な産業分野である。

 台湾は与野党あげて、ベトナムへの抗議ならびに現地の安全確保の方策を馬政権に要求した。また当局は「わたしは台湾人です」とベトナム語で書かれたステッカーを二万枚印刷しベトナム駐在の台湾人におくることを決めた。台湾にとってベトナムはアセアン諸国の中で最大の投資先である。

 それにしても何故、ベトナム人の抗議デモが中国企業と台湾企業を間違えたのか?
筆者は2013年にホーチミン郊外の工業団地に台湾企業を訪問したときに目撃した或る情景を思い出した。

それは工場見学のおり、機械設備の要所に「気をつけろ」「注意を怠るな」などの訓辞、注意事項が張り紙されていたが、なんと繁体字ではなく簡体字だった。「どうして中国の省略文字を使用しているのか?」と問うと、工場長は「ベトナムで調達したコンピュータには簡体字しか入っていないからですよ」と気にもしていない風情だったのだ。「どうせベトナム人には読めませんから」。
 そのことが仇になった?


 ▲ベトナムから大脱出をはかる中国人

 他方、中国は死者がでたことに関して外交部がベトナム側に厳重に抗議した。ベトナムからは中国人らがカンボジア国境へ大量に逃げ出した。
カンボジアとの国境ゲートも粗末な入国管理オフィスがあって、パスポートの小銭を挟まないとベトナム側は円滑に通過させてくれないほど末端の官吏たちも腐敗している。強く抗議したが埒があかず、三十分ほど待たされたことも思い出した。

 中国外交部のスポークスウーマン華春栄は「ベトナムで過激な事態に遭遇する可能性がある」と旅行者に警告したとも発言した。

 同時にベトナムと国境を接する広西チワンン自治区には中国人民解放軍のあわただしい動きがみられ、中国軍には「第三級戦闘準備」態勢が取られていることが確認された。これは下位の危機レベルで、「休暇中の兵士は帰還し、随時戦争準備ができる態勢とせよ」というレベルだが、一触即発の危険性はある。

内藤湖南「支那論」が予見した新彊ウイグル動乱

2014年05月06日 00時14分27秒 | 中国
 先日、中国新彊ウイグル自治区・ウルムチ市で起きた爆発事件は、中国共産党(中共)政権に衝撃を与えている。習近平はこの事件を「テロ騒乱事件」と見なし、ウイグル人による反漢族運動の徹底弾圧を命じた。

 そもそも中華人民共和国の「領土」は、清朝を打倒した中華民国の版図を引き継いだもの。満洲人の王朝である清朝は、チベット仏教を通じてモンゴル、チベットとは同盟関係にあった。満洲(現在の中国東北部)は彼らの祖地であったから、漢人が移住することを許していなかった。新たな領土を意味する新彊は清朝時代に版図に組み入れられたが、清朝の統治はそこに居住するウイグル人の伝統、文化を脅かすものではなかった。

 本来、漢人の領域ではなかったチベット、モンゴル、ウイグルが「ひとつの中国」に組み入れられるようになったのは、辛亥革命によって清朝が打倒され、中華民国が樹立されてからだ。中華民国は、伝統的な華夷秩序に基づく少数民族の領域を近代国民国家の「領土」として読み替え、「中国はひとつ」「ひとつの中国」という虚構を打ち立てた。第二次大戦後の混乱期、ソ連の援助を得て「革命」に成功した中共は、この虚構を引き継ぎ、共産党一党独裁の過酷な暴政で少数民族を抑圧し続けている。

 今から百年ほど前、内藤湖南は「中華民国承認について」(1912年)という時評を書いている。「支那論」所収の一文であるが、現在の中共の少数民族支配を見越したような分析の鋭さに驚かされる。

内藤湖南「支那論」

 湖南は章炳の「中華民国解」という一文に着目して次のように論じる。

「…支那種族というものの発展の歴史から結論して、そうしてどこの地方までがこの中華民国に入るべきものであって、どういう人種は中華民国から除いても差し支えないものであるということを解いておるのである。」
「…章炳麟の議論は、漢の時の郡県であった所を境界として論究すると、蒙古や、回部すなわち新彊や、西蔵(チベット)地方というものは、これは漢の領土には入らなかったから、これを経営することは後回しにしても差し支えない。しかし朝鮮の土地は、これは漢の版図に入っておる。安南もやはり同様である。…これらの土地をも恢復することは、中華の民族の職分である。」

「西蔵や回部すなわち新彊、これは明の時にただ王を冊封したに過ぎなかったが、漢の時などはやはり都護(周辺民族を支配するための軍事機関)に附属しておったけれども、真の属国ではない。殊に今の新彊は、漢の時にあった三十六国とは違う。それから蒙古は昔から一度も服従したことはない。それでもしこれらの種族に対して、中華民国が支配することの前後を考えるということになれば、まだ西蔵の方は宗教が同じだから近い点もあるが、回部とか蒙古とかいうものは少しも支那民族と同じ点がないから、中華民国の領域から考えると、…西蔵、回部、蒙古、これは服従してくるなら来てもよし、服従せぬならせぬもよし、勝手に委すべきものである。こういうことを主張しておる。」

「中華民国というものを承認するということは、いくらかこの中華民国が理想であった時代の主張をも承認するという傾きになるのであるから、章炳麟の議論を知っておる国は必ずそのまま承認すべきはずはない。日本が既に現在朝鮮を支配しており、それから安南(ベトナム)はフランスが支配しており、ビルマはイギリスが支配しておる。そういうものに対して中華民国が必ずこれを恢復すべきであるというようなことは、今日の列強の均勢上甚だ不穏当な言論である。」
 

  文中の「中華民国」を「中華人民共和国」に置き換えても、湖南の分析は、今なお通用する。戦後、1970年代に至るまで、多くの中国研究者が「1949年、中国は”新中国”に生まれ変わった」と主張し、その根拠として中共(中国共産党)当局お墨付きの資料を鵜呑みにしていた事実を思い返すと、戦後日本は内藤湖南に匹敵するような中国学者を誰ひとり生み出さなかったのだと痛感する。




支那論 (文春学藝ライブラリー)
内藤 湖南
文藝春秋

台湾「ひまわり学生運動」の総括と評価

2014年05月01日 09時36分10秒 | 台湾
 マスメディアが韓国船沈没事件で枝葉末節を大騒ぎする中、昨日、新彊ウイグル自治区で爆発事件が起きた。多くのTV局は、中国当局が発表するままに「テロ事件」として報道している。

 一方、台湾学生による立法院占拠事件は、3月18日から23日間続いたにもかかわらず、マスメディアはその詳細を伝えることは避けた。この事件を特集の形で採り上げた報道番組は、たったのふたつ。しかも、そのひとつはいささか首を傾げるような内容だった。さらに、韓国船沈没事件では連日バカ騒ぎのワイドショーは、この立法院占拠事件を全く採り上げなかった。
 
 台湾立法院占拠事件に比べれば、韓国船沈没なんて単なる事故であって、日本との関わりなど全くない。しかし、台湾の事件は、台湾の存立、日台関係にも関わる問題だ。

 
 「台湾の声」に興味深い一文が掲載されたので、次のとおり転載させていただく。

  



【台湾VS中国】太陽花の戦い
2014.5.1

「ベクター21」 2014年5月号
         
              鈴木 上方人(中国問題研究家)
           

●中国が台湾を併呑する最後の一里塚・「サービス貿易協定」

3月18日から4月10日まで23日間の太陽花学生運動は、その名を世界に轟かせた。運動の主旨は馬英九政権下で台湾と中国が締結した「サービス貿易協定」への反対だ。
      
本来、島国である台湾は貿易への依存度が高く、自由貿易の受益者である側面が多い。その流れでこの協定がすんなりと受け入れられるはずであったが、相手が台湾に領土野心のある中国であれば話が違ってくる。そもそも経済的有利か不利かの要素は反対の理由ではない。

サービス貿易協定そのものが、中国による台湾併呑の最後の一里塚なのだ。

●台湾では台湾人が少数民族になってしまう

「サービス貿易協定」とは名前の通り、サービス業の自由化である。サービス業とは、人が中心になるので人的往来と定住の自由化は必要条件となり、貨物の貿易協定よりも一体化が進みやすい。

中国との一体化の結果がどうなるかは現在のチベット、ウイグル、内モンゴルを見れば一目瞭然だ。台湾は中国に併呑されるだけでなく、いずれ台湾では台湾人が少数民族になってしまうだろう。

事実、中国ではすでに「4万元で台湾移住」という広告が出されている。4万元とは日本円で50万円ほどの金額だ。中国なら数千万単位の人間がその金額を出して台湾移住を希望するであろう。

●国民党も民進党も中国傾斜の元凶

 台湾の中国傾斜の流れは2000年の陳水扁政権から始まり、2008年の馬英九政権で更に加速された。陳水扁時代の中国傾斜は経済中心であったが、馬英九時代になると政治も含めた全面的傾斜となり、中国政府に操られている政府機関の言動は国民の誰もが感じている。

元々馬英九は中国との統一を「歴史的偉業」にしたいという魂胆があるのだが、最大野党である民進党も陰に陽に中国に媚び、経済的利益を得ようとしている。実際、民進党の政治家たちはほぼ例外なく家族や親戚の名義で中国と商売をやっている。彼らは陳水扁政権時代からすでに中国と利益共同体になっているのだ。

●「イチゴ族」と言われていた大学生たちが立ち上がった

台湾社会では政権や企業の中国傾斜とは裏腹に、反中国感情が高まっている一方、中国傾斜を食い止める政治勢力は実質的に存在していない。こうした無力感が漂う台湾社会で、今まで軟弱な「イチゴ族」と揶揄されてきた台湾の大学生たちが立ち上がった。

20代の台湾人は親たちの世代とはどう違うのか?彼らの親の世代は、国民党による中国人教育を受け、思想成熟期に美化された虚構の中国をそのまま受け入れている。対する現在の大学生たちの世代は、ネットや中国留学生や観光客を通じて現実の中国をみて成長してきた。彼らにとって台湾における中国的な部分は異様に感じられ、結果として親の世代よりも台湾人意識が強いのだ。

●起こるべくして起こった反体制運動

3月18日夜の国会占拠は計画的なものではなく、学生たちのとっさの判断による偶然の産物だが、太陽花運動そのものは起こるべくして起こった運動と言えよう。

運動のシンボルである「ヒマワリ」は中国語では「向日葵」というが、台湾語では「太陽花」と呼ばれている。暗雲が立ち込めている台湾に射し込む希望の光になるということだ。その延長線で運動のテーマソングである「島嶼天光」も数日後に作られ、この島国の隅々に光が届くよう願いが込められている。

また3・30のデモで決めたシンボル服の黒いシャツには、台湾に命を与えてくれた太平洋を流れる「黒潮」への感謝と希望の意味が込められている。

「サービス貿易協定」の撤回という明確な目標を定め、短期間で戦略と戦術を決め、協力体制を作り、シンボルカラー、シンボル花、テーマソングまで出来たこの太陽花運動は、学生運動の枠を遥かに超えた歴史に残る社会運動と言えよう。

●女性パワーが原動力に

テレビでは雑然とした議場の光景を映されていたが、実際の彼らは秩序ある行動をとっており、それぞれ得意とする分野のチームワークができていたのだ。中国語、英語、日本語などを流暢に操り、国内外に発信する広報班をはじめ、外部からの援助物資を管理分配する物資班、清潔を維持する掃除班、ごみを分類処理するごみ処理班、警察の突入を防ぐ警備班、全員の食事を用意する炊事班、そして現役の医者と看護学部の学生たちが構成する医療班である。

リーダー格である林飛帆氏と陳為廷氏は男性だが、多くの幹部は女性である。議場内では禁煙、禁酒とし、整理整頓も行き届いていた。議場内の学生たちは約200名だが、議場を囲んだ支援者は常に数千人いる。道路の両側には数百のテントが設置され、それぞれのテントに分りやすく「何故サービス貿易協定に反対するのか」を説明する担当者がおり、センスのいいユーモアあふれるポスターが道路の両側に掲げられているのだ。

更に即席の講演会や座談会も周辺のあちこちで開いており、誰でも手を挙げて自由に発言することができる。国会周辺を取り囲んでいる物々しい警察や機動隊の存在さえ無視すれば、まるで大学の学園祭の光景だ。反体制運動とは言え、殺伐とした雰囲気は微塵も感じられず、ほんわかとした南国の特有の空気である。

●既有政党を超えた組織力

クライマックスである3・30デモは三日前に決めたにも関わらず、当日は50万人もの参加者が会場周辺の道路を埋め尽くし、学生たちの誘導で整然と行動していた。参加者はそれぞれ手作りのプラカードやヒマワリを持ち、自己流で反サービス貿易協定をアピールした。特筆すべきは、デモの参加者のほぼ半数が女性であり、中には子供連れの若い母親もかなりいたことだ。

デモ終了の時間になるとこの50万人はわずか30分程で、ごみ一つ残さずに完全に解散した。学生たちの企画力、動員力、組織力は台湾の既有政党を遥かに超えたのだ。幹部の多くが女性であるためか、運動全体はソフトな雰囲気で芸術的にすら感じられる。

●台湾の守護者になった学生たち

国会占拠は4月10日に幕を下ろしたのだが、学生たちの戦いは終わらない。彼らは国会議場から出て、太陽花運動の種を台湾全土に播き、全国に開花させると宣言した。この23日間の国会占拠によって台湾の学生たちは台湾人の自信と誇りを確実に勝ち取った。彼らはすでに台湾の守護者となり、台湾を中国に併呑されない最大の砦となったのだ。

(すずき かみほうじん)