「熊本地震」は、18日の朝を迎える現時点でも、一向に収まる気配がない。マスメディアは、相変わらず皮相的な報道ばかりで、肝心なことを伝えない。視聴率稼ぎの「衝撃映像」と被災者への「同情」を煽るのに熱中しているよう見える。
最新のニュースでは、舛添要一東京都知事がワシントンで記者会見して「東京にもブロードウェイのような場所がほしい。早速検討してみたい」と語ったと伝えられる。熊本地震が起きてもなお、こんな発言をする舛添は、東大法学部を首席で出た秀才だったはず。だが、この「団塊の世代」の勝利者は、ひとかけらの「公」の精神も、他者に対する優しさも持ち合わせていない、冷酷なエゴイストだった。
「東日本大震災・福島原発事故」があってもなお、「東京五輪」の開催をIOC(国際オリンピック委員会)に申請し続けた日本。オリンピックとノーベル賞は、無条件に「善」と考える国柄だから、森喜郎や猪瀬直樹はその空気を利用して五輪開催を強行した。猪瀬の失脚後、「天下の秀才」たる舛添は五輪開催を見直すのかと思ったら、やはりというか、自らの功名心、権力欲を満たす道を選んだ。
東日本大震災から5年、こんな大地震が起きるのは、まさに想定内だったはず。熊本地震は死者数も少なく、被災者も少ないから、「被災者に心を寄せる」といった偽善的対応も可能。だがもし、東南海大地震がおきたら、被害総額は220兆円、死者40万人、国民の三人に一人が「被災者」という事態に。これは、まさに「国家存亡の危機」であり、政治指導者の的確かつ強力なリーダーシップが求められる。
東京五輪まであと4年。この間に、次の大地震が起きる可能性は、一層高まった。舛添が本当に「天下の秀才」だったのなら、今こそ、その真価を発揮して「東京五輪」の開催返上を決断すべきだ。もちろん、ねずみ男はそんなことをするはずもないけれど…。
きょう、午前11時29分に流された緊急地震速報には背筋が凍る思いをした人が多かったのではないか。というのも「震源地は日向灘、M6.9の地震」という内容だったからだ。
この速報は、結果として、誤報だった。だが、日向灘と言えば、「地震予測」で知られる村井俊治・東大名誉教授(測地学)が「日向灘を震源とする大地震が起きれば、それは東南海大地震の引金になる」と指摘している。村井氏のメルマガは「新たな地震予知方法」として注目されていて、そこにズバリそのものの地震が起きると言うのだから、胸騒ぎがしないはずはない。
YouTube上では、次のような映像がUPされていた。
もし東南海大地震が起きたら、被害予想額は200兆円以上、国民の三分の一は「被災者」となり、「国家存亡の危機」が到来する。いつか来る「その日」といえども、それが今日ではなくてよかった、というのが偽らざる気持ちだ。
<熊本地震>緊急地震速報、データ処理で誤り
毎日新聞 4月16日(土)19時50分配信
気象庁は16日、同日午前に発表した緊急地震速報が2カ所で起きた地震を一つの地震と捉えデータ処理したことによる誤報だったと発表し、陳謝した。
16日午前11時29分に日向灘を震源とするM6.9の地震があり、九州全域と中国、四国地方の一部に震度3~7の地震が発生するとの緊急地震速報を出した。同庁によると熊本県阿蘇地方と大分県中部でほぼ同時に起きたM4程度の二つの地震を一つの地震と誤認識し過大に計算した結果だったという。気象庁は2011年の東日本大震災で誤報を頻発させ、小規模な地震は緊急地震速報に利用しないなどの改善を図っていた。【山崎征克】
16日(土)午前1時過ぎ、熊本でM7.3の「大地震」が発生。これが一連の地震の「今のところ本震と考えられる」と発表された。
1911年3月11日の東日本大震災のときも、その前々日から二日間で250回という、異常な数の群発地震が発生した。そのときのデータの一部が次のとおり。
今回の「熊本大地震」でも、ほぼ同様の経過を示している。
《東日本大震災時の「前震」状況の一部》
今回の「熊本大地震」においても、最初の地震は「前震」に過ぎなかった。活断層に起因する地震らしいので、断層の亀裂が阿蘇山方向に向かう可能性を考えれば、素人でも「阿蘇山大噴火」の悪夢がよぎる。
昨日、TVで次のような発言があった。
「(東南海地震が起きる)そういう見方になりますね…そう思いたくはないが、東南海地震が起きる可能性が高くなった」(4月15日「みんなのニュース」(フジ系)で笠原順三・東大名誉教授(地震学)が発言)
東京大学の地震研究者がここまで明言するとは驚きだった。笠原氏はその根拠として、三重県南東沖を震源とするM6.1の地震(4月1日)を挙げる。また、首都圏直下地震の予兆を示す現象も広まっていると指摘する。
個別の被害報道ばかりの中で、次に起こる大災害の可能性を指摘したのは、勇気ある発言だったに違いない。
マスメディアは「東京五輪」「おもてなし」とばかりはしゃいでいる場合ではない。差し迫る危機をきちんと伝えることが「報道の使命」ではないのか?
「昭和天皇は戦争を選んだ!」(増田都子著 社会批評社 2015年)を読む。本書のサブタイトルには「裸の王様を賛美する育鵬社教科書を子どもたちに与えていいのか」とあり、著者の政治的立場がはっきりと示されている。
著者である増田都子氏は、東京都の中学校社会科教諭を長く勤めたが、東京都教育委員会から「偏向教育」の烙印を押され、学校現場を外され「研修所送り」になった挙句、「分限免職」の処分を受けた。こうした経歴を見ると、本書もすさまじい偏向に満ちているのかと思ったが、意外にも公開資料を丹念に読み込み、実証的な歴史教科書批判になっている。著者がもし義務教育の中学校教諭ではなく、都立高校の社会科教諭だったとしたら、これほど苛酷な処分を受けなかったのではないかと想像される。つまり、都立高校には似たような立場の教員が、何のお咎めもなく、授業を続けられるだけの「教育環境」がまだ残されているからだ。
「昭和天皇は戦争を選んだ!」(増田都子著 社会批評社 2015年)
本ブログでは、昨年7月に公にされた「昭和天皇、蒋介石支持発言」に触発されて、かなりの数の関連図書を読んできたが、究極の到達点が本書だった。著者の政治的立場は明確すぎるほど明確なので、個々の当否をあげつらうつもりは全くない。むしろ、日本近現代史のスタンダードと目される半藤一利、加藤陽子などの著作をいくら読んでも、昭和天皇の戦争責任や個人的資質の問題はよくわからない。何故なら、著者たちが「菊のタブー」には決して触れないからだ。その点においては、本書の迫力は満点だ。加藤陽子には「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」( 朝日出版社、2009年)という著書があるから、「天皇は戦争を選んだ」という本書とは極めて対照的だ。
本書の巻頭には、二つの推薦文が寄せられている。高嶋伸欽・琉球大名誉教授の「安倍政権で勢いを増した歴史修正主義の蔓延、昭和天皇批判に腰が引けているマスコミ」と鈴木邦男・一水会顧問の「天皇制は日本に必要なのかどうか、それは堂々と論争したらいい」だ。
鈴木邦男の帯文(上記写真参照)は「もう天皇を引き込んではならない。天皇を中心にまとまって戦争する時代に戻してはならない。国論が真っ二つになった時、天皇に判断をあおぐことになってはならない。そんな時代にあこがれをもってはならない」(p.10)とし、「この本は大きな問題提起になるだろう。歴史は、失敗も暗い面も含め、すべて認め、そのうえで、天皇制は日本に必要なのかどうか。それは堂々と論争したらいい」と結ぶ。
鈴木邦男は「サヨク」に転向したのか?と思うほどの一文だが、ともあれ真っ当な結論だろうと私は思う。
昨夏、映画「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作)がリメイク上映され、「今の平和は天皇の”ご聖断”がもたらした」というキャッチコピーが散々流された。これは本書の「昭和天皇は戦争を選んだ!」とは対極にある認識なのだが、近年公開された外交文書等の分析を見る限り、本書の方がより説得力があるのは間違いないだろう。
昭和天皇は、沖縄を二度裏切った。沖縄戦で沖縄県民を捨て石に使ったこと、さらに戦後、自己保身と引き換えに沖縄統治を米国に懇願したという事実だ。同様なことは、「大日本帝国」の「臣民」であった台湾人に対しても言える。敗戦によって棄てられた台湾の日本語世代は、昨年夏、『1971年、中国国連代表権問題で昭和天皇が佐藤栄作首相に「蒋介石を支持するように」指示したという事実』の公開で、再び昭和天皇に裏切られた事実を知らされた。1947年、蒋介石の国民党軍は、三万人もの台湾の日本語世代の知識人、リーダー層を虐殺した(二二八事件)。その後、台湾人を圧政の下で支配した独裁者・蒋介石を、自分の「命の恩人」とばかりに庇おうとした昭和天皇。このことが何を意味するのか、論評した人は寡聞にして聴かない。まさに「歴史認識」の根幹に触れる問題なのだから、見て見ぬふりは許されないはずなのに…。「臣民」、否「市民」はもっと憤りを覚えるべきだろう。
世襲(つまり萬世一系)の天皇が、後世の歴史家の批判に耐えうるような決断を次々と下せるはずなどないことは、常識でも推察できるし、また事実として、その愚かな決断によって「臣民」は「史上最大の負け戦」を戦わさせられ、甚大な被害を被った。鈴木邦男が言うように「天皇に判断を仰ぐような時代に二度とは戻ってはならない」のだ。
安保法制には賛成の私だが、近年、マスメディアで吹聴される「日本は素晴らしい」という「ホルホル番組」などを見ると、「この国」がどこに向かっているのか、不安を感じたりもする。近未来、次の大震災がおきたとき、わが「列島民族」(西部邁)はどう「脱皮」「豹変」するのか、あるいはしないのか?そのときが分水嶺となりそうだ。
「昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著 岩波現代文庫 2008年)を読む。
「昭和天皇・マッカーサー会見」(豊下楢彦著 岩波現代文庫 2008年)
このブログで再三採りあげた「1971年中国国連代表権問題で、昭和天皇 蒋介石支持を佐藤栄作に指示」というニュースは、「平和を愛好した昭和天皇」という作為的なイメージをぶち壊すのに十分なほどの衝撃があった。
本書において豊下楢彦氏は、昭和天皇関連の複数の第一次資料を突き合わせ、当時の国際環境を考慮しつつ、昭和天皇の実像を描き出している。
敗戦国日本の主権回復(1952.4)に先立ち、吉田茂首相や外務官僚は、より対等な日米関係を築こうとしていた。朝鮮戦争(1950.6-1953.7)の勃発が、その絶好のチャンスとなるはずだった。しかし、結果として、日米安保条約は著しい不平等条約となり、無条件的な米軍駐留が認められた。その理由を著者は、「天皇外交」の存在に求める。「天皇外交」は吉田外交に並行して、天皇の意向を口頭あるいは文書によって米国側に伝える形で行われた。まさに二重外交である。
吉田茂及び外務官僚は、朝鮮戦争を次のようにとらえた。
「在日米軍基地は(朝鮮)戦争を戦うにあたって、戦略的に不可欠の最重要拠点となったのである。このことは逆に言えば、日本にとって基地の”プライス”が上昇し、基地提供が重要な外交カードに浮上したことを意味した」(同書P.156)
一方、天皇およびその側近は次のように考えた。
「朝鮮戦争において仮に米軍の側が負けるようなことがあれば、側近たちの全員が”首切り”にあうのではないかという恐怖感にさいなまれていた」(p.163)
つまり、昭和天皇は、共産主義勢力の浸透によって、日本に「革命」が起こり、「天皇制」そのものが瓦解することを恐れた。ポツダム宣言受諾の決断を躊躇したのは、「国体」と「三種の神器」を守らななければならないという、昭和天皇の意思だったが、戦後においてもなお、昭和天皇及びその側近は、御身大事が第一で、国家・国民の行く末など二の次だったという事実が、ここに示されている。
現実の政治過程は、「天皇外交」の通りに進んだ。要するに、昭和天皇は戦後の「平和憲法」下においてさえ、実質上の政治権力を行使してきたことが見て取れる。そうであれば、上述の「蒋介石支持」発言も「さもありなん」と理解できる。
本書が「岩波書店」刊であることもあいまって、著者・豊下楢彦氏を「左翼学者」だと誤解する向きもあるかもしれない。もちろん、そうではなく、公開された外交文書を丹念に分析した実証的な研究成果が、本書である。勇ましいネトウヨの方々や、「天皇」を無条件に肯定する、評論家・青山繁晴のような人はぜひこの本を手に取ってみてほしいと思う。
なお、付け加えておくと、著者の昭和天皇を見る目は厳しいが、今上天皇に対しては、日本国憲法の理念を守る存在として、より高い評価を与えている。
「昭和天皇の戦後日本~《憲法・安保体制》にいたる道」(豊下楢彦著 岩波書店2015年)を読む。
これは、実に刺激的で、目から鱗の本だった。
「昭和天皇の戦後日本~《憲法・安保体制》にいたる道」(豊下楢彦著)
著者・豊下楢彦は、京大卒の政治学者で、外交史・国際政治論が専門。昭和天皇実録や日米安保体制の成立過程に関する分析には定評がある。
このブログには何度も書いたのだが、昨年7月、成蹊大学法学部の 井上正也准教授(日本政治外交史)が「1971年、昭和天皇は佐藤栄作首相に中国国連代表権問題に関して”蒋介石を支持するように指示”した」とする外交文書資料を発掘して公表した。日本国憲法下で政治的発言を禁じられているはずの天皇が、かくもあからさまにこのような発言をしていたと知り、これまでの昭和天皇像が完全に覆された。
昨年夏には、「日本のいちばん長い日」という映画が公開され、「いまの平和はあの”聖断”から始まった」というキャッチコピーが喧伝された。昭和天皇を戦争終結に反対する勢力と対置することによって、「平和を愛好する天皇」というイメージを流布しようとした映画だった。戦争を知らない世代が絶対多数を占めるようになると、こんなトンデモ映画が通用するのかと不安さえ覚えた。
本書を読むと、上記のような懸念、疑念を解き明かすような記述に満ちている。私が得心したのは、概ね次のような事柄だった。
① 昭和天皇が「国民」(戦前は「臣民」あるいは「民草」)のことを第一義的に考えたことなど、金輪際なかった。頭の中にあるのは、「国体」(すなわち、御身の生命)と「皇祖皇統」(皇室一族の安寧)の護持だけだった。大空襲、沖縄戦、原爆投下で国土が焦土と化してもなお、「三種の神器」をどう守るか、そのことばかりに拘泥していた。
② 昭和天皇は二度沖縄を見捨てた。沖縄戦の強行、戦後には戦争責任を免れるために、米国に沖縄統治を懇願した。「沖縄戦で民草(=国民)は私を守らなかったのだから、米国に統治してもらうのがよい」旨、放言したと伝えられる。
③ 自らの戦争責任を免れるため、連合国に東条英機以下側近を人身御供として差し出した。マッカーサーの回想録などを利用して、史実を改竄し、自己正当化を図った。
④ 上述の「蒋介石支持」発言のように、日本国憲法下においても、あたかも「皇帝」であるかのように、平然と現実政治に介入した。
⑤ 結論として、昭和天皇は、自らの戦争責任を免れるため、本書のサブタイトルでもある《憲法・安保体制》を受け入れ、米国への従属、属国化を積極的にすすめた。戦争責任を免れた後においても、共産主義勢力による「革命」を恐れ、自らの保身のために、米国にへつらい続けた。
ちょっと前だったら、本書のような内容は、さまざまな「物議」を醸し出したはず。そんな話を聞かないのは、やはり昭和という時代が遠ざかってしまったためか。個人的には、昭和天皇を、「公家」の血筋を引くM小路K秀という国際政治学者の軌跡と重ね合わせてしまった。そのココロは、「公家」という人たちは、極めて自己チューで、容易に変節し、人の痛みなど歯牙にもかけないということだ。そもそも公家、皇室は酷薄、非情な方々なのだろう。
天皇礼賛のウヨク本は論外としても、「昭和天皇実録」を分析した研究書でさえ、いくら読んでも昭和天皇の人となり(というか本性)を知ることなどできない。それは、暗黙のタブーには決して触れないように書かれているためだ。しかし、本書は、公になったいくつもの記録を当時の状況と照らし合わせて、極めて穏当で説得力のある分析をしている。