澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

マーティン・デニーのエキゾティック・サウンズ

2008年07月31日 13時08分47秒 | 音楽・映画

マーティン・デニー(1911.4.10※-2005.4.2)は、米国の楽団リーダー、「エキゾティック・サウンズ」の創始者。       (※1921年生まれという記録もある。)


夏になると、必ずどこかで流れてくるのが、このマーティン・デニーの音楽。小編成のバンドが、こんなに多彩な音を出すのかと驚くほど、様々な楽器をもちいて、エキゾティック・サウンズを彩っている。
つい最近まで、ハワイのクラブで演奏していたと伝えられているので、活躍期間は優に60年を超えたわけだ。

彼の最大のヒット曲は「静かな村」(Quite Village)。「ビルボード誌」アルバム・チャートには、次のアルバムがチャートインしている。

1 "Exotica"   最高位  1位( 1959.5.4) 61週チャートイン

2 "Quiet Village"  最高位 8位(1959.9.14)  48週チャートイン

3"A taste of honey"  最高位 6位(1962.10.6)   21週チャートイン


彼の音楽は、欧米の白人がイメージする「Mistic East」を音で表現したものだと考えられる。どこの国だか分からないが、遙か離れた東洋の神秘を感じさせる土地を音楽化した。視覚的には、ディズニーランドにある「チキ・ルーム」がぴったりと当てはまるだろう。

1963年坂本九の「スキヤキ」(上を向いて歩こう)が「ビルボード誌」で1位になると、マーティン・デニーは早速この音楽を彼のアルバムに入れた。日本の琴でメロディを奏で、バックはロックのリズムというユニークな演奏だった。

また、1970年代末、「イエローマジック・オーケストラ」(YMO)が採り上げた「花火」(Fire Cracker)は、マーティン・デニーの作品であった。YMOのアルバム「東風」(Tongpoo)は実によく売れたので、マーティン・デニーを知らなくても、彼の作品を知っている人は多いに違いない。


実は、1970年前半、ホテルのラウンジで流されるような音楽は、すでに時代遅れになっていた。音響技術の発達に伴い、生演奏に代わって録音された音楽をナマと遜色のない音で流せるようになったためである。


だが、時代はめぐり、90年代になると、「ラウンジ・ミュージック」「モンド・ミュージック」などの名称で、これらの音楽が再評価されるようになった。これは古いファンにとっても、喜ばしいことだろう。


この暑い夏のまっただ中で聴くマーティン・デニー、これは結構いけます。聴きながらビールでも飲むと、気分はトロピカル。ハワイか宮古島にいる気分です。
秋風が立ち、秋の虫がさえずり始める前に、ぜひお試しください。




《ウィキペディア》

http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Denny



 

 


「イージーリスニング音楽」と中国

2008年07月26日 14時49分06秒 | 音楽・映画

中国で言う「イージーリスニング音楽の世界三大オーケストラ」とは何だろうか?


最近、「ヒストリー・チャンネル」で放送された「毛沢東」(Arte France フランス制作 2006年)を見ていたら、90歳を超えた元・紅軍(共産党軍)兵士が、長征の想い出を語った。英雄的な物語を語るのかと思っていたら、「紅軍は辛い体験だった。多くの人が逃げ出そうとしたが、見せしめのため直ちに射殺された」と語っていた。

ちょっと前だったら、こういう本音の発言は「革命神話」を冒涜するものとして絶対に許されなかっただろう。その意味では、中国社会が開かれつつある証拠だと実感した。


1949年の「中華人民共和国」の建国、1958年の「大躍進」の開始、1966年から10数年間に渡った「プロレタリア文化大革命」というように、中国大陸は常に政治の暴風が吹き荒れた。音楽はただ共産党を賛美するためにのみ許された時期も長く続いた。クラシック音楽さえ「ブルジョア音楽」と断罪されたこともあり、「イージーリスニング音楽」「ムード音楽」などが聴かれる余地は全くなかった。


1958年には米国でステレオ・レコードが発売され、欧米諸国ではLP・ブームが起きた。居間でくつろぎながら聴く音楽として、「ムード音楽」はぴったりだったので、マントヴァーニなどのアルバム(LP)が大ヒットした。それ以降、1980年代、CDが登場するまで、LPレコードは、音楽の主要メディアであり続けた。


しかし、この時代の中国では、あらゆる西側音楽を聴くことが禁じられていた。
1980年代半ばになって、ようやく「イージーリスニング」などの音楽を聴くことが可能となったのだ。政治や教養とは無関係の「イージーリスニング音楽」を聴くことが、個人のささやかな楽しみだとすれば、それが可能となった時代は、好ましいと言うべきだろう。


1950年代から80年代半ばまで政治闘争に明け暮れた中国には、西側音楽の蓄積、共有体験が全くない。西側音楽が流入したあとは、突然、カオス状態に陥り、中国人の音楽理解は、彼ら独自のご都合主義的なものとなった。


そこで、上記の「3大オーケストラ」の正解だが、それはつぎのとおり。

①ポール・モーリア楽団
②マントヴァーニ楽団
③ジェームス・ラスト楽団


何か変だなと感じるのは、私だけだろうか?

 

 

 

 



 

 

 

 


サウンズ・オーケストラルの「風の吹くまま」

2008年07月23日 09時21分59秒 | 音楽・映画

英国のスタジオ・ミュージシャンで編成されたオーケストラ、サウンズ・オーケストラル(Sounds Orchestral)は、1965年、「風の吹くまま」(Cast your fate to the wind)というヒット曲を放っている。「ビルボード誌」には9週チャート・イン※して、最高位は11位だった。(1965.6.19付 ※アルバム(LP)チャート)


後に独立して有名になった、ジョニー・ピアソン(Johnny Pearson)がピアノを弾き、ドラムスとエレキトリック・ベースが刻むリズムにストリングスが絡むという比較的地味な曲だったので、米国でヒットしたのは意外だった。


すでに述べたとおり、英国のオーケストラが米国で成功を収めるのは、極めて難しいことだった。マントヴァーニは例外と言えるが、フランク・チャックスフィールドなど多くの楽団は、米国での知名度はそんなに高くはないのだ。

そう考えると、「風の吹くまま」のヒットは、奇跡的だったと言えるかも知れない。この曲は、オリジナル曲であり、ロックビートを加えたインストルメンタル曲という点で、それまでの「ムード音楽」とは一線を画した新鮮さがヒットにつながったようだ。ポール・モーリアが演奏する「恋は水色」の大ヒット(1968年)を予感させる曲でもあった。

「風の吹くまま」をお聴きになりたい方は、次のYoutubeでどうぞ。

http://jp.youtube.com/watch?v=BCHgr-UfCqo

 

 

 

 

《ウィキペディア》より

Sounds Orchestral

From Wikipedia, the free encyclopedia

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Sounds Orchestral was an British studio based easy listening group, assembled by John Schroeder. Schroeder was a record producer at Pye Records; Sounds Orchestral was intended to be a competitor group to EMI's successful Sounds Incorporated. Johnny Pearson (piano), Kenny Clare (drums), and Tony Reeves (bassist, later played with Curved Air) filled out the group, and their cover version of Vince Guaraldi's tune "Cast Your Fate to the Wind" hit #1 on the U.S. Adult Contemporary chart and #10 on the 8 May 1965 Billboard Hot 100 chart.[1] With Sound Orchestral's peak that week, the British Commonwealth came closer than it ever had or would to a clean sweep of a Hot 100's top 10, lacking only a hit at #2 instead of "Count Me In" by the American group Gary Lewis & The Playboys.

The group released several albums and continued to exist in one form or another into the 1980s.[2]

 


ビルボード・チャートに見る「イージーリスニング音楽」(2)

2008年07月22日 10時41分48秒 | 音楽・映画
先日も採り上げた「ビルボード・トップ40アルバム 1955-86年」(ジョエル・ホイットバーン編 音楽之友社 1989年)から。


《トップ・アーティスト ベスト30》   (1955-86年)
1 フランク・シナトラ
2 エルビス・プレスリー
3 ローリング・ストーンズ
4 バーブラ・ストレイザンド
5 ビートルズ
6 ジョニー・マチィス
7 ミッチ・ミラー
8 マントヴァーニ
9 キングストン・トリオ
10 レイ・コニフ

11 ボブ・ディラン
12 テンプテーションズ
13 エルトン・ジョン
14 アンディ・ウィリアムス
15 ハーブ・アルパート &テイファナ・ブラス
16 ローレンス・ウェルク
17 ビーチ・ボーイズ
18 ハリー・バラフォンテ
19 ヘンリー・マンシーニ
20 シカゴ

21 ニール・ダイアモンド
22 ポール・マッカートニー
23 ビリー・ヴォーン
24 アレサ・フランクリン
25 ロジャー・ウィリアムス
26 ジャファーソン・エアプレイン
27 シュープリームス
28 レイ・チャールズ
29 スティービー・ワンダー
30 イノック・ライト 


上記のデータは、1955-86年までの間に「ビルボード誌・アルバム・チャート」にチャート・インしたアルバムの記録を点数化して、順位をつけたもの。

ポップス、ヴォーカル、ジャズ、クラシックなどすべてのジャンルを含むランキングである。「ベスト30」の中で「イージーリスニング音楽」と呼べるものは、ミッチ・ミラー(7位)、マントヴァーニ(8位)、レイ・コニフ(10位)、ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス(15位)、ローレンス・ウェルク(16位)、ヘンリー・マンシーニ(19位)、ビリー・ヴォーン(23位)、ロジャー・ウィリアムス(25位)、イノック・ライト(30位)だけである。

なお、このチャートは、100位まで掲載されているが、31位から100位までの中には「イージー・リスニング音楽」を演奏するオーケストラは含まれていない。


特筆すべきことは、マントヴァーニの孤軍奮闘ぶりである。外国人アーティストとして全米を席巻したのは、英国人であるマントヴァーニが最初だった。「ビートルズ」以前の偉業であるが、何故かあまり語られることはない。


アメリカ人好みのサウンド・メーカーとして、レイ・コニフが10位にチャート・インしている。彼の音楽は、スーパー・マーケットの音楽とも呼ばれ、明るく豊かで、何の翳りも感じられない、脳天気なサウンドだった。
ローレンス・ウェルク、ビリー・ヴォーンも基本的には同類で、当時の日本人にはさほどフィットするような音楽ではなかったが、とにかくアメリカ人には受けたということだ。


マントヴァーニに関しては、日本でも絶大な人気があった。今年の秋、大手通信販売会社から「マントヴァーニCD集」(10枚組)がリリースされる予定だが、このように今なお静かな人気を保っている。

ビルボード・チャートでみるイージーリスニング音楽

2008年07月20日 14時39分58秒 | 音楽・映画

これまで気ままに「イージーリスニング音楽」「ムード音楽」について、思いついたことを記してきた。

ところが、中には私の事実誤認もあり、「PMイースタン」さんからは、親切なご指摘をいただいた。(フランク・プウルセルは来日公演をしたことがない、と書いたが、それは誤りであることを教えていただいた。)


そこで、きょうは真面目に手許に本を置いている。
「ビルボード・トップ40アルバム 1955-86」(ジョエル・ホイットバーン編 音楽之友社 1989年)という本で、アルバム(=LPレコード)のチャートが記録されているところがミソだ。

ポップス、ヴォーカル、ジャズ、クラシックまでも含んだチャートなので、インストルメンタル系の音楽は、思いのほか“苦戦”していることが分かる。
また、日本では有名な楽団、例えばフランク・プウルセル、レイモン・ルフェーブルといった名前が出てこないのだが、米国ではほとんど人気がなかったことを示すデータに他ならない。


【ヒット・アルバム・チャートのゴールド・ディスク&プラチナ・ディスク】
●→ゴールド・ディスク(50万枚) ★→プラチナ・ディスク(100万枚)
( )内の数値は、チャート・インしたアルバム総数

レイ・コニフ     8●  1★(28)

ビリー・ヴォーン   3●    (18)

ローレンス・ウェルク 2●    (24)

ロジャー・ウィリアムス 4●   (19)

パーシー・フェイス   2●   ( 9)


アンドレ・コステラネッツ 0    (1)
ヘンリー・マンシーニ   4●  (16)
イノック・ライト     1●  (11)
アーサー・フィードラー  0   ( 6)

ベルト・ケンプフェルト  3●   ( 6)  ※ドイツ

マントヴァーニ      6●   (30)  ※英国 

スタンリー・ブラック   0     (2)  ※英国 

フランク・チャックスフィールド 0  (1)  ※英国

ジョージ・メラクリーノ  0     (2)  ※英国 

ポール・モーリア     1●    (1)  ※フランス
101ストリングス    0     (2)

《参考》

ザ・ビートルズ      21● 2★ (27)

エルビス・プレスリー   20● 2★ (49)

 

このように見てくると、アメリカ以外のアーティストで大成功を収めたのは、ベルト・ケンプフェルト(ドイツ)マントヴァーニ(英国)だけだということが分かる。ポール・モーリア(フランス)は、「恋は水色」のシングル盤が大ヒットしたおかげで、アルバム・チャートにも1枚がチャート・インしてゴールド・ディスクを得ているが、米国の音楽市場では単なる「一発屋」で終わってしまった。

「引き潮」「ライムライト」で有名なフランク・チャックスフィールド(英国)もポール・モーリアと同様の有様、「スペイン!」がヒットしたスタンリー・ブラック(英国)も2枚のアルバムがチャート・インしただけである。

 

日本では、人気のある「アルフレッド・ハウゼ」「ウェルナー・ミューラー」(以上ドイツ)「レイモン・ルフェーブル」「フランク・プウルセル」などは、1枚のアルバムもチャート・インしていない。
イージーリスニング音楽に関しては、日米の好みの違いが、はっきりと現れているのが興味深い。


 
  


フランク・プウルセル

2008年07月19日 10時05分59秒 | 音楽・映画

フランク・プウルセル(1913-2000)は、フランスのバンド・リーダー。
FM放送「ジェット・ストリーム」のテーマ曲「ミスター・ロンリー」は、今なお心に残る名演奏だ。


いまから45年くらい前だろうか、NHK・TVに「世界の音楽」という番組があった。外国の音楽番組を放送し、かなり人気があった。
当時、家庭用ビデオがなかったので、見たい番組を見るチャンスはたった一度だけ。
ある日、「フランク・プウルセル」の特集があったのだが、私は万全を期して食い入るようにこの番組を見た。
白黒の画面に、70名ほどのオーケストラが映し出され、フランク・プウルセルがっさそうと登場した。シャンソンの名曲などを演奏したはずなのだが、曲名はもう忘れてしまった。ゴージャスで洒落たサウンド、それがいま覚えているすべてだ。


「フレンチ・サウンド」の後輩に当たるポール・モーリア、レイモン・ルフェーブルが、何度も来日し、コンサート・ツアーを行ったのに対し、フランク・プウルセルは、70年代に数回来日しただけだ。
彼が日本嫌いだったわけではなく、多分、コンサート・ツアーそのものを好まず、レコーディングに専念したためだろう。


この季節になると、「空と海と太陽」「急流」などの初期のヒット曲を聴きたくなる。最近、彼の初期のシングル盤を集めた「Originals」というCDがリリースされたが、これはいい企画だと思った。


音楽評論家・出谷 啓氏は、「イージーリスニング音楽」「ムード音楽」を堕落させた張本人として、このフランク・プウルセルをやり玉に挙げている。(「ムード音楽 イージーリスニングのスタア達」)
その理由は、ロックのビートをこの分野に持ち込んだこと。それが、かえって音楽をつまらなくしてしまったと言うのだ。この意見には、私も全く同感。
当時、斬新に聴こえた「フレンチ・サウンド」をいま聴くと、かなり古くさく、退屈に感じるのだ。

一方、アンドレ・コステラネッツ、マントヴァーニなどのオーソドックスな「ムード音楽」は、飽きることはなく、ときどき聴きたくなる気分にさせる音楽だ。


「ウィキペディア」(下記参照)には、フランク・プウルセルは、米国のパーシー・フェイス、英国のマントヴァーニと並んで、世界の3大オーケストラ・リーダーなどと書かれている。当時、そんなことを誰が言っていたのか、全く記憶にはないが、多分、日本のレコード会社関係者がでっち上げた、いい加減なコピーなのだろう。


フランク・プウルセルもポール・モーリアも、そしてレイモン・ルフェーブルも、北米大陸の音楽市場では、全くマイナーな存在だった。「ビルボード」誌のアルバム・チャートにもほとんど登場することはなかった。普通のアメリカ人は、多分、その名前さえ知らないだろう。彼らが好む音楽は、「ビリー・ヴォーン」であり「ローレンス・ウェルク」だったのだ。

もちろん、この事実は、フランク・プウルセルの名を汚すものではないけれど…。




【ウィキペディア】より

フランク・プゥルセル(フランク・プールセル、フランク・プルセル、Franck Pourcel、1913年8月11日 - 2000年11月12日)は、フランス生まれの指揮者。

[編集] 主な活動

1950年代初めに、彼の率いる楽団はデビューをし、50年代は、米のパーシー・フェイス、英のマントヴァーニと並んでイージーリスニング界の3大リーダーの1人と言われる。ヒット曲としては、先ず1955年過ぎに「急流」(オリジナル・モノラル録音)が全世界において大ヒットし、その後「オンリー・ユー」(プラターズのカバー)が、1959年にアメリカのビルボードHOT 100で9位にランクインする大ヒットとなった。

その後も録音活動を積極的に行い、イージー・リスニングの分野を中心に、クラッシックの分野でもアルバムを発表していた。

彼の楽団による演奏は、日本に於いて多くのラジオ、FM、テレビの番組のテーマ曲に使われている(詳しくは「テレビ、ラジオ、FMで使われた彼の演奏による音楽」を参照のこと)。 例えば、同楽団の演奏による「ミスター・ロンリー」は、1967年(昭和42年)7月3日に放送開始し、TOKYO FMが当時FM東海と称していた頃から続いているラジオ番組「JET STREAM」のテーマ曲として日本国内でも有名である(現在、同番組では溝口肇による編曲・演奏バージョンを使用。)。更に1972年には、フジテレビ系列で放送されたドラマ「光る海」のテーマ曲に使われた「アドロ」が日本で大ヒットした。

ストリングスによるアレンジを得意とする。元となる楽曲はクラシックをはじめタンゴ、シャンソン、ポップスや映画音楽など多岐に渡る。日本国内では1950年後半から同80年頃にかけて、東芝音楽工業、東芝EMI(現EMIミュージックジャパン)からオデオン(Odeon)、エンジェル(ANGEL)、及びキャピトル(50年代のみ)レーベルにて、シングル、アルバム及び17cmミニLPが多数発売された(いずれもEMI系列の仏パテ原盤)。


ポール・モーリア

2008年07月15日 13時27分40秒 | 音楽・映画

ポール・モーリアは、フランスのバンド・リーダー。
1968年、「恋は水色」が世界的に大ヒットし、一躍有名になった。

日本では、「イージー・リスニング音楽」を演奏する楽団は結構人気があるが、米国では他国のイージーリスニング系楽団が参入するのは、極めて困難だった。その先鞭をつけたのが英国のマントヴァーニだったが、彼は「ビルボード誌」のアルバム・チャート(LP売上げ・チャート)で8枚のミリオンセラーを記録した。
フランスの楽団では、1950年代末にフランク・プウルセルが「オンリー・ユー」のシングル盤でヒットを記録しているくらいだ。

「恋は水色」はシングル盤では大ヒットしたが、同曲を含んだアルバム(LP)は、ミリオンセラーにはならなかった。ポール・モーリアが全米でヒットしたアルバムは、この1枚だけというのが事実だった。


だが、ポール・モーリアの音楽は、日本では大歓迎された。
その理由としては、①自作曲が多かったこと、②時代に合わせたリズム、ビートを巧みに取り入れたこと、にあるのではないか。

①については、「涙のトッカータ」「蒼いノクターン」といった類の曲だが、それまでのイージーリスニング楽団が、既存のスタンダード曲や映画音楽に素材を求めていたのに対し、かなりイージーではあるものの、オリジナルの曲を前面に押し出した点である。フランス好きの日本人のテイストには、ぴったりだったのではないか。

②は、ロックやラテンのリズムを強調し、それまでのストリングス中心のアレンジを変えてしまったことだ。これは、PA装置の高性能化とも関連している。コンサート・ホールの客席でも、自宅のステレオの前で聴くような”音づくり”が可能になったということだ。


音楽評論家の出谷 啓氏は、上記の彼の音楽を批評して「イージーリスニング音楽、ムード音楽をダメにした張本人のひとり」と指摘する。
こんなエピソードもある。ポール・モーリアは、来日コンサートの実施に当たって音楽(オーディオ)評論家の菅野沖彦氏に「レコードと同じに聞こえるように、マイクやPAをセッティングしてほしい」と依頼したそうだ。菅野氏は、「楽しい仕事だったが、音楽は本当にこれでいいのか」と思ったと回顧している。(中野雄「丸山真男~音楽の対話」)


私見を述べると、時代はもう一度「アコースティックな音」を求め始めているのではないか。ポール・モーリアのような、電気で完全武装した音楽ではなく、本来のスコアをナマの楽器で演奏すれば、コンサート・ホールではそのまま自然に響くような音楽、つまりアコースティックな音楽が、人の心を癒すということが認知されてきたのではないだろうか。


そう考えると、ポール・モーリアの音楽は、彼の死去に伴い、急速に忘れ去られていく可能性もあるのではないか。

 

【ウィキペディア】より

フランス南部マルセイユに生まれ、9歳の時からピアノを学び、1941年マルセイユ国立音楽院を卒業。その後、アマチュアジャズバンドを結成し、ポール・フュガンの名で活動。1952年にイレーヌ夫人と結婚し、同年にフランク・プゥルセルの後押しでバークレー・レコードと契約、スタジオ・ミュージシャンとして活動した。1959年パリへ進出し、1960年シャルル・アズナブールアルハンブラ劇場公演でオーケストラを指揮する。

1965年フィリップスと契約を結び、ポール・モーリア・グランド・オーケストラを結成、1968年に『恋はみずいろ』を世界的にヒット(約500万枚)させ、全米ヒットチャートで連続5週トップを記録、これでグラミー賞を受賞し、一躍名を馳せた。

日本においては、その後も『蒼いノクターン』(彼自身による作曲)『エーゲ海の真珠』(メルシャンワインCM曲)『涙のトッカータ』『オリーブの首飾り』『そよ風のメヌエット』(これも彼自身による作曲で、メルシャンワインのCM曲として使われた)等と立て続けにヒットを重ね、「イージーリスニング界の大御所」「音楽の魔術師」「一家に一枚ポール・モーリア」と言われるようになった。池田満寿夫監督の日合作映画窓からローマが見える』の音楽担当や、来生たかおの『白いラビリンス』の編曲、1995年阪神・淡路大震災の際には、『カルテット・フォー・神戸』を作曲し、フランク・プゥルセルバイオリン)、フランシス・レイアコーディオン)、レイモン・ルフェーブルフルート)らと、チャリティーアルバムの制作を行うなど、日本と縁の深いアーティストであった。

1969年に初来日して以来、1990年まで毎年、その後、1996年1997年1998年と来日し約1,200回の公演を行った。最後の来日となった1998年のジャパンツアーを最後に指揮者を引退した。

2006年10月末、フランス南部ペルピニャンの別荘に滞在中、体調不良を訴え検査入院したところ、急性白血病であることが判明した。同年11月3日午前1時、急性白血病による心不全のためペルピニャンの病院で逝去。6日に火葬にふされ天国へ旅立った。81歳であった。


マランド楽団

2008年07月09日 13時04分43秒 | 音楽・映画

マランドは、オランダのバンドリーダー、アコーディオン奏者。
戦前から1960年代まで、タンゴ・バンドのリーダーとして活躍した。
「オレ・グアッパ」の作曲者としても有名。


私は、マエストロ亡き後の「マランド楽団」のコンサートを3度ほど聴いている。アルフレッド・ハウゼ楽団と比べると、編成も少なく、コンチネンタル・タンゴの楽団というよりも、本場のアルゼンチンのタンゴ楽団のようだった。


生前のマエストロの演奏は、TVとFM放送のライブで聴いたことがある。驚いたことに、バイオリン奏者が、全員、金管楽器に持ち替えて、ラテン音楽を演奏した。異質な楽器を使いこなす器用さに、ヨーロッパのダンス音楽の奥深さを見たような気がした。


タンゴのCDは、もう人気がないのだろうか。マランド楽団のCDは、コンピレーション盤を中心にわずかに発売されているだけだが、この春「幻想のムード音楽」シリーズで次の2枚組CDがリリースされた。

http://joshinweb.jp/dp/4988005505026.html


現在、マランド楽団は、マランドの孫に当たる人によって運営されているらしい。CDも何枚か出ているが、往年の輝きはもう見られない。

 


ノーマン・キャンドラー~マジック・ストリングス

2008年07月08日 09時13分52秒 | 音楽・映画

ノーマン・キャンドラー(Norman Candler  1937ー )は、ドイツのバンドリーダー、アレンジャー。1970年代に個性的なストリングス・サウンドで人気を博した。


彼の音楽の特徴は、大編成のストリングス。「ノーマン・キャンドラー楽団」は、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のピックアップ・メンバーを中心に構成されたレコーディング・オーケストラだった。いかにもドイツらしい、というと月並みすぎる表現だが、精密で律儀なアンサンブルには、ぴったりの修飾語だった。


マントヴァーニの楽団テーマ曲である「シャルメーヌ」を彼の演奏で聴くと、オケがより大編成であり、録音が新しいためか、シンフォニックな響きがする。滝が流れ落ちるようなと形容された「カスケーディング・ストリングス」も、マントヴァーニにまさるとも劣らない出来上がりである。


だが、ノーマン・キャンドラーは、日本ではあまり人気を得なかった。その理由は、デビューの時期にある。1968年、フランスのポール・モーリアが「恋は水色」で大ヒットをとばしたが、ちょうどその時期に重なるのだ。ノーマン・キャンドラーの演奏は、それまでの「ムード音楽」の流れをくむ重厚なストリングスを中心とした音楽。一方、新しいポール・モーリア・サウンドは、ロックのリズムを前面に押し出した、当時としては斬新なアイディアに満ちたものだった。その時点で、ノーマン・キャンドラーの音楽は、「古くさく」聞こえてしまったのだ。


現在、アルバム(LP)の多くがCD化されていない、ノーマン・キャンドラー。クラシックを基調とした彼の音楽は、今となっては貴重だ。ぜひ、CD化を進めて欲しいと思う。

 

《ウィキペディア》より

ノーマン・キャンドラー (Norman Candler, 1937年 - ) は、19701980年代に活躍した、ドイツ ミュンヘン出身の作曲家編曲家楽団指揮者ギタリスト

1971年ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のピック・アップ・メンバーによって、ノーマン・キャンドラー楽団を結成。ただし、海外におけるクレジットは"ザ・マジック・ストリングス"。 その楽団は、ヴァイオリンだけで48名という、総勢80名からなるストリングス中心の大オーケストラである。

なお、スタジオ録音のみの活動であり、日本においても数枚のアルバムを残しているが、大多数は海外版である。

 


カラベリ~きらめくストリングスは今…

2008年07月05日 11時54分25秒 | 音楽・映画

カラベリ(Caravelli 1930.9.21~ )は、フランスのバンドリーダー。

6月末、レイモン・ルフェーブルの死去が伝えられ、フランスの「イージーリスニング音楽」のマエストロは、今やこのカラベリを残すだけとなった。


もう6-7年前になるだろうか。70歳を超えたカラベリは、来日コンサート・ツアーを行った。このときと17年前の来日コンサートを、私は聴くことが出来た。私は残念ながら、アルフレッド・ハウゼ、パーシー・フェイス、レイモン・ルフェーブル、マントヴァーニなど、リアルタイムで本物の演奏を聴いたことはない。どれもマエストロ亡き後の楽団を聴いただけなのだ。
本物のマエストロといえば、他にはヘンリー・マンシーニ(ロイヤル・フィル・ポップスと来日)、ミシェル・ルグラン(2007年秋)を聴いたくらいだ。


だが、カラベリだけは、2度ナマの演奏を聴くことが出来た。これだけで、彼の音楽には愛着が湧くわけだ。

カラベリのアルバムは、気まぐれというか、玉石混淆というか、とにかくそういう印象が強い。特に感じるのは、レイモン・ルフェーブルやポール・モーリアと比べると、アレンジが結構イージーだということ。ヒット曲などは、凝ったアレンジを施さず、ほとんど原曲のまま演奏している印象が強い。


しかし、実際のコンサートで聴くカラベリは、ストリングスの美しさに感心させられる。「弦のファンタジー」で始まるアンサンブルは、非常に精緻で、品の良い響きがする。さすがに、マエストロが目を光らせていると、オケもいい音を出すのだなと感心した。

アルバムの中では、「タンゴ集」がいいと思う。これは、SONYが制作依頼したアルバムで、日本人の嗜好をしっかりと理解して作られていると思う。現在、廃盤だが、ぜひCD化してほしい名盤だ。


カラベリももうすぐ80歳。もう遠路はるばる、来日ツアーは無理だろう。ぜひ、元気でいて、長生きして欲しいと思う。「イージーリスニング音楽」の火を消さないためにも…・。


ジェームス・ラスト~「イージーリスニング音楽」最後のマエストロ

2008年07月04日 09時50分43秒 | 音楽・映画

ジェームス・ラスト(1929。4.17ー  )は、ドイツのバンドリーダー、アレンジャー。昨年、半世紀以上に渡る音楽活動から引退を表明した。


ヨーロッパでの人気は高く、マントヴァーニなど「ムード音楽」創生期のスターがピークを過ぎた70年代になって、さっそうと登場した印象が強い。
DVDなどで見る彼の楽団は、ビッグバンド編成に数十人のストリングスを加え、バックコーラスを従えたゴージャスな編成。PAの進歩によって、レコードと全く同じ音をコンサート会場でも再現できるようになっている。また、聴衆を楽しませようとするショウマン・シップは立派で、「Gentleman of Music」と呼ばれるのも分かる気がする。


「スタンダード集」「クラシック小品集」などのオーソドックスなものから、ノンストップ・ダンシング・ミュージックまで、彼のジャンルは幅広いというよりも、オールラウンドだ。どのアルバムを聴いても、ジェームス・ラストらしいアレンジを楽しむことが出来る。


ヨーロッパでは絶大な人気を誇り、中国でも「世界三大軽音楽楽団」※のひとつとされ、中国公演も行ったジェームス・ラストだが、日本での人気はいまひとつだった。1976年にはNHKに招かれ、日本公演を行って、大好評であったが、レコード売上げはいまひとつという感じがする。当時は、オーディオ装置の前にかしこまって音楽を聴くという鑑賞スタイルが主流だったので、ジェームス・ラストの音楽はフィットしなかったのかも知れない。

今やipodの時代になると、かえって彼の音楽は、新しく聴こえるのかも知れない。

 

   ※ジェームス・ラスト、ポール・モーリア、マントヴァーニの三楽団。もちろん、CD                 セールス用のキャッチ・フレーズだが…。 


ジェームス・ラストのファン・サイト「James Last Japan Site」をご紹介したい。

http://www1.odn.ne.jp/james-last-japan/

 

hansさんという日本人の方が主管するサイトで、彼は、実際にジェームス・ラストとも親交があるというすごい人だ。このサイトでは、珍しい中国公演の写真などを見ることができる。ちなみに、hansというのは、ジェームス・ラストの本名。彼の楽団は、デビュー当時「ハンス・ラスト楽団」と称していたこともある。

  


アンドレ・リュウとヨハン・シュトラウス・オーケストラ

2008年07月02日 12時12分51秒 | 音楽・映画

昨年、ジェームス・ラストが演奏活動から引退を表明して、「イージーリスニング音楽」「ムード音楽」の分野で今なお活躍するのは、このアンドレ・リュウとヨハン・シュトラウス・オーケストラだけになった。


7年ほど前になるが、アンドレ・リュウの初来日コンサートに私はでかけた。場所は、東京の国際フォーラム・Aホール。収容人員が5千人という大ホールなので、70人編成のオーケストラでもナマの音だけでは響かない。そこで、公然とPA(パブリック・アドレス 拡声装置)が使われたのだが、向かって右側に配置されているはずのチェロやコントラバスの音色が左側のスピーカーからも聞こえてきたりして、何とも奇妙な感じがした。


コンサートそのものは、ショウ・アップする要素が組み込まれていて、十分に楽しめた。例えば、「アンドリュース・シスターズ」のメドレーを女性管楽器奏者が器用に歌ったり、グレン・ミラー・メドレーを始めたりで、盛り上がったことを覚えている。


このコンサートで初めて聴いたのが、ショスタコーヴィチの「セカンド・ワルツ」。彼の「ジャズ組曲」の中の3つのワルツの一つなのだが、哀愁を帯びたメロディに惹かれた。ショスタコーヴィチは、何か意図があってこんなにもうらぶれたメロディを書いたのかと思った。後にこの曲のいろいろなヴァージョンを集めるきっかけともなった。


アンドレ・リュウのサイトを見ると、2008年末までぎっしりとコンサートのスケジュールが組まれている。前半はヨーロッパ大陸が主で、年末にはオーストラリア・ツアーが組まれているようだ。このように、アンドレ・リュウとヨハン・シュトラウス・オーケストラが、今なお人気があり、健在であることは喜ばしい限りだ。

視覚的にも十分楽しめる彼のコンサートは、オススメ。来日したら、ぜひ…聴きに行ってください。



《ウィキペディア》より

アンドレ・リュウAndré Rieu, 194910月1 - )は、オランダ音楽家指揮者ヴァイオリニストマストリヒト出身。「音楽は楽しむもの」という信念のもと、人々にクラシック音楽を楽しく・気軽に楽しめるように、各種ユニークな演出を試みながら指揮・演奏をするスタイルをとり、ヨーロッパやアメリカで爆発的な人気を誇っている音楽家である。世界中で演奏活動を行い、近年、日本をはじめ、アジア各国でもその演奏は知られるようになった。2002年公開の映画『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督)の主題歌を演奏するなど、日本においても近年知名度が高くなった音楽家である。自身でヨハン・シュトラウス・オーケストラを結成し、ヨハン・シュトラウス2などのウィンナワルツに特に造詣が深いことでもしられている


レイモン・ルフェーブル

2008年07月01日 23時51分04秒 | 音楽・映画

6月27日、レイモン・ルフェーブルが死去した。
フランク・プウルセル、ポール・モーリアが相次いでなくなり、フレンチ・ポップスと呼ばれたマエストロはカラベリを残すのみとなった。(今や「映画音楽」の巨匠となった、ミシェル・ルグランは健在だが…。)

「ウィキペディア」によると、彼の来歴は次のとおり。

レイモン・ルフェーブル(Raymond Lefèvre、1929年11月20日 - 2008年6月27日)はフランスの編曲家、指揮者、作曲家、ピアニスト、フルート奏者。イージーリスニング界の第一人者として有名。 
フランスのカレーに生まれる。パリ音楽院を卒業。パリ音楽院の学生時代に、ジャズに興味を持ち、1956年9月、女性歌手ダリダのデビュー曲「バンビーノ」の編曲と伴奏指揮を自ら受け持ったことが、彼のグランド・オーケストラの始まりである。1968年に「ばら色の心」「シバの女王」が大ヒットし、この2曲が全米ヒットチャートにもチャートインしたことにより、その名が知れ渡る様になる。
日本公演は、1972年の初来日から数多くある。自ら引退するまで(ファンのためにオーケストラによる公演は続いている)約700曲を録音したと言われている。契約レコード会社はフランスのバークレーで、日本ではキングレコードからロンドンレコード、ポリドールと発売権が移ったが、1989年にビクターエンタテインメントが日本でのアーティスト独占発売契約を行い、現在に至っている。
これにより、リチャード・クレイダーマンと彼の楽団による共演のアルバム「郷愁の詩」が発売された(1995年4月21日)。 2008年6月27日、パリ郊外で死去。享年80(満78歳没)。7月1日現在、死因は伝わっていないが、長く闘病生活を送っていたという。

 

「シバの女王」を最初聴いたとき、ストリングスの重厚なアレンジが新鮮だった。チェロの低音をエコー・エフェクトにかけて強調し、ロックのビートをかぶせるところなど、それまでの「ムード音楽」のオーケストラにはない試みだった。

4-5年前、ルフェーブルの子息が主管する「レイモン・ルフェーブル楽団」の演奏会を聴きに行った。会場は、東京のサントリー・ホール。
この会場は、「クラシックの殿堂」のようなもの。ナマの音(アコースティク・サウンド)を聴くためのホールだ。
そこでこの楽団は、PA(パブリック・アドレス 拡声装置)をガンガン使って演奏した。幕間で私は、後部座席にいたPA担当者に、何故ナマの音で演奏しないのかと尋ねてみた。「……」「…こうしてほしいと言われているもので…」といった、要領の得ない答えが返ってきた。

このコンサートは、決して忘れられない。何故かというと、サントリー・ホールまで行って、カラオケを聴いてきたような気分になったからだ。

今晩、久しぶりにルフェーブルのCDを聴いてみた。「哀しみの果てに」「この胸のときめきを」など、これはいいなあと思った。