台湾(中華民國)の元総統・李登輝氏逝去のニュースが伝わった。李登輝氏は台湾の日本語世代を代表する人物。蒋介石の国民党独裁時代を生き抜き、ついに自らの手で台湾の民主化を成し遂げた人。
総統退任後、東京・日比谷公会堂で講演会が開かれた折、私もその姿、お話に接することができた。坂本龍馬の「船中八策」を採りあげ、日本という国の将来について憂い、励ましに近い言葉をいただいた。やや台湾訛りの強い日本語であったが、論理的で緻密なお話だった。さすが旧制高校、帝国大学で身に着けた教養にあふれていると感じた。
李登輝氏は、大日本帝国と中華民国(台湾)という二つの国を生きた。日本が台湾から去った直後、蒋介石の国民党軍は台湾に上陸し、台湾の知識人階層の多くを問答無用に虐殺した。(228事件)このとき、彼は大陸から来た「支那人」の残虐さ、謀略性を思い知ったのだろう。農業専門家(農業経済学者)に徹して、国民党独裁体制の内部を生き抜き、最終的には総統(大統領)の座についた。総統として李登輝氏は、台湾の民主化を無血で成し遂げた。
現在の台湾が「親日的」であることはよく知られているが、それを顕在化させたのは李登輝氏だったろう。国民党独裁時代の台湾は、40年近く戒厳令が敷かれたままで、台湾人が集会を開いたり、日本語でしゃべったりすることも禁止されていた。学校では「反日教育」が行われたが、子供たちが家に帰ると、親が「そんなことはウソだよ」と教えたという話が広く伝えられている。すなわち、社会の建前は「反日」であったけれど、当時の台湾人の多くが日本時代の教育を受けていて、蒋介石の「反日教育」を跳ね返すだけの知力があったということだ。李登輝総統は、台湾人日本語世代の「本心」を引き出した。
韓国にも李登輝氏のような日本語世代がいたはずだ。京城帝国大学(現ソウル大学)卒業の朝鮮人エリートの中からは、ついに李登輝氏のような人物は現れなかった。それが台湾と韓国の決定的な違いだ。
李登輝総統の登場によって、われわれ日本人も「日本が悪いことをした」というばかりの自虐史観から目を覚まされた。日本の台湾統治、朝鮮統治が、悪行の限りを尽くしただけというのなら、何故、李登輝氏のような人物が出現するのだろうか、と思うのは当然だ。
いまは、李登輝氏が台湾に遺した足跡が、そのまま次の世代に引き継がれていくことを祈ろう。「台湾と日本は運命共同体」などというと、特定の政治的立場の表明のうように誤解されやすいが、「今日の香港、明日の台湾、明後日の沖縄」と言われるように、中共(=中国共産党)の暴虐は留まることを知らない。中共が台湾に手をかければ、真っ先に否定されるのは李登輝氏の政治的功績だろう。李登輝氏の足跡、人生そのものが、「無機質でニュートラルで」そして忖度ばかりの戦後日本へのアンチテーゼだったように、今は思われてくる。
前總統李登輝享耆壽98歲…晚間病逝台北榮總|三立新聞網 SETN.com
李登輝元総統が死去 97歳 台湾の「ミスター・デモクラシー」
(台北中央社)
李登輝元総統が30日午後7時24分ごろ、台北市内の病院で死去した。97歳だった。入院先の台北栄民総医院が発表した。 今年2月に自宅で牛乳を誤嚥(ごえん)し、肺浸潤(はいしんじゅん)が見られるなどで入院を続けていた李氏。ここ数日は容体の悪化が伝えられ、蔡英文(さいえいぶん)総統が29日、急きょ頼清徳(らいせいとく)副総統、蘇貞昌(そていしょう)行政院長(首相)と共に見舞いに病院を訪問していた。 1923年、日本統治下の台湾で生まれた。太平洋戦争中に台北高等学校(現台湾師範大学)を卒業し、京都帝国大学(現京都大学)農学部に進学するも、学徒出陣で旧日本陸軍に入隊し、日本で終戦を迎えた。 戦後は台湾に戻り、後に2度にわたり米国に留学。1968年に米コーネル大学で農学博士号を取得後、農業問題の専門家として当時の国民党政権に重用され、行政院政務委員(無任所大臣)や台北市長、台湾省政府主席、副総統などを歴任した。 副総統を務めていた1988年、蒋経国総統の死去により台湾出身者として初めて総統に就任。憲法改正で実現させた史上初の総統直接選挙(1996年)で当選して続投を決め、2000年に退任するまで12年にわたり総統を務めた。台湾の民主化に大きく貢献し、米ニューズウィーク誌から「ミスター・デモクラシー」と称された。 総統退任後は独立志向を鮮明にし、「台湾ファースト」を掲げる政党・台湾団結連盟の精神的指導者と仰がれた。近年は国家アイデンティティーの確立や市民社会の強化などを柱とした「第2次民主改革」の必要性を訴えてきた。大の親日家としても知られ、総統を退いてからは日本を計9回訪れており、2018年6月の沖縄訪問が最後になった。 (編集:羅友辰)