澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

菅直人の政治責任を追及せよ~福島原発民間事故調報告

2012年02月28日 18時22分14秒 | 政治

 あの原発事故からほぼ1年経とうとする今日、民間有識者で構成された福島原発事故調査委員会(=民間事故調)が報告を発表した。
 
 思い返すと、3月11日から18日の一週間、私たちはまるで北朝鮮のような「情報封鎖空間」に置かれていた。政府の発表は「現時点では問題ない」というような責任逃れの言葉ばかり。原発事故に関する客観的な情報は、何一つ政府から発表されなかった。マスメディアも完全に自主規制態勢をとった。民放はいつもの下劣なバラエティ番組を止めて、被災地からの報道に切り替えた。それは結構なことだったが、問題だったのはNHK。NHKの衛星放送は、毎日、BBC,ZDFなど世界各国の放送局のニュースを放送していたが、この期間、一切放送を中止した。ところが、世界各国のニュースは、福島原発がメルトダウンしたと報道していたのだ。これは、「深刻な事態ではない」と強弁する政府発表とは異なっていたから、政府の意向に添ってNHKは放送をしなかったのだろう。

 それにしても、民間事故調に書かれた菅直人という人間は、首相の器どころか、官庁の管理職にも及ばない。これほどに責任感に欠けた、小心な、自己中心的な人物が、一国の首相になってしまった悲劇…。
 菅直人は、原発危機の最中、カメラマンを同行させて、福島原発に向かおうとした。それを枝野・官房長官が「必ず後で政治批判されるから、行かない方が良い」と忠告したそうだが、菅は「原発に立ち向かわないでどうする。政治批判は気にしない。」と言い返したそうだ。「それならどうぞ」と枝野が応酬したらしいが、まるでマンガではないか。菅直人の頭の中は、想像以上にスカスカ、空っぽだったということらしい。「政治主導」を唱える政治家のトップが、マンガのような世界観しかなかったのだ。このとき、枝野は、家族をシンガポールに避難させたそうだから、枝野も”愛国心”のかけらさえないエゴイストだ。

 考えてみれば、菅直人の大学時代は学園紛争花盛り。菅自身も学生運動にのめり込み、ろくに物理学など勉強しなかったはずだ。それなのに、原発事故が起きれば、天佑とばかりに「私は原子力工学を知っている」と騒ぎだし、混乱の中で自分の名声を高めることだけに腐心する。このワンパターンで、菅はここまでのし上がったのだ。

 厚生労働省の係長が「郵送料減免申請書」に勝手に公印を押したとされ、逮捕され、失職した。その上司・村木女史は、周知のように見せしめ逮捕までされた。公務員には、職務と権限に応じて、このように小さな実務にも責任が問われるのに、首相の「政治犯罪」は追及されないのだろうか。
 日本政治史上、稀に見る無能政治家・菅直人は、3月11日当日、国会で在日朝鮮人からの政治献金問題が追及されていた。あの大地震が起きて「オレはラッキー」ぐらいにしか思っていないのではないか。
 菅の政治責任は、厳しく追及されなければならない。

民間事故調、「しがらみなし」 官邸や東電の責任ばっさり

 東京電力福島第1原発の事故原因を、民間の立場で独自に検証してきた「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」が27日、報告書をまとめた。政官業とは一線を画した立場からの報告は、菅直人前首相の行動を「混乱や摩擦のもとになった」と批判する一方、東電の事前対策の不備を「人災」と断罪。他の事故調が出した報告書とは異なり、当事者責任に深く踏み込み、「第三の事故調」の存在感をアピールする内容だ。(原子力取材班)

 民間事故調の最大の特徴は、しがらみがない、自由度の高い調査だ。政府が設置した事故調査・検証委員会(政府事故調)や国会が設置した事故調査委員会(国会事故調)とは異なり、特定の機関から調査を委託されていないためだ。

 これまでに公表された政府事故調や東電の中間報告は、「原発内で何が起きたのか」という物理的事実の解明が中心だった。

 事故対応について、政府事故調は「官邸内の連携が不十分だった」と構造的な問題点を指摘したものの、政治家個人の責任追及はしておらず、東電は「厳しい環境下での対応を余儀なくされた」と自己弁護に終始している。

 「政府と東電が『国民を守る』責任をどこまで果たしたか検証する」と掲げた民間事故調は、菅前首相ら政府関係者の聞き取りを重視し、事故対応に当たった官邸の問題点を精力的に検証した。

 報告書は、事故直後の官邸内の政府首脳の言動や思考を浮き彫りにすることで、「官邸による現場介入は無用な混乱を招いた」と厳しく指摘。さらに、他の事故報告書が触れていない「最悪シナリオ」にも言及し、政府が情報を隠蔽(いんぺい)してきた側面も強調した。

東電に対しても、国際原子力機関(IAEA)の原則を引用して「第一義的な責任を負わなければいけない」として追及しており、過酷事故への備えがなく、冷却機能喪失に対応できなかったことを「『人災』の性格を色濃く帯びる。『人災』の本質は東京電力の過酷事故の備えの組織的怠慢にある」と言い切った。

 東電が「国と一体となって整備してきた」と釈明し、政府事故調が「極めて不十分だった」とするにとどめた姿勢とは対照的だ。

 ただ、課題も残った。国政調査権に基づく調査や証人喚問が要請できる国会事故調、公的な後ろ盾があるため「調査協力を拒まれた例はない」とする政府事故調と違い、民間事故調の調査は任意のため、相手の同意を得られなければできない点が、今回はネックとなった。東電に調査協力を拒まれ、技術的な問題点については、政府事故調の結果をほぼ追認する格好になってしまった。
                      (産経新聞 2月28日)

 


「地震雑感 津浪と人間」(寺田寅彦著)を読む

2012年02月22日 15時58分13秒 | 

 寺田寅彦著「地震雑感 津浪と人間」(中公文庫 2011年7月)を読む。

 寺田寅彦※(1878-1935)は、物理学者にして随筆家。東京帝国大学で物理学を講ずる傍ら、数々の随筆(エッセイ)を執筆した。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6

 ある程度の年配の人なら、寺田の随筆を「国語」「現代国語」の教科書で読んだことがあるのではないか。
 寺田は、東京帝大地震研究所長も務めた地球物理学者。1923年9月1日、東京を襲った関東大震災※について、地震学者として調査を行うとともに、大震災前後の社会状況についても、詳しく記録を残している。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD

 「M7クラスの東京直下地震が4年以内に起こる確率は70%」という衝撃的な発表が話題になっているが、寺田の随筆を読むと、関東大震災前後の状況も、今と似通ったものだと分かる。次の一文は、今日書かれたとしても何の違和感のない文章である。

「大正十二年の大震災は帝都と関東地方に限られていた。今度のは箱根から伊豆にかけての一帯の地に限られている。いつでもこの程度で済むかというとそうは限らないようである。安政元年十一月四日五日六日にわたる地震には東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、四海諸道ことごとく震動し、災害地帯はあるいは続きあるいは断えてはまた続いてこれらの諸道に分布し、到る処の沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数百、家屋の損失数万をもって数えられた。これとよく似たのが宝永四年にもあった。こういう大規模の地震に比べると先年の関東大震災などはむしろ局部的なものとも云える。今後いつかまたこの大規模地震が来たとする。そうして東京、横浜、沼津、静岡、浜松、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島から福岡辺まで一度に襲われたら、一帯我が日本の国はどういいうことになるであろう。宝永安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが次の場合はそうは行かないことは明らかである。むかしの日本は珊瑚かポリポ水母(クラゲ)のような群生体で、半分死んでも半分は生きていられた。今の日本は有機体の個体である。三分の一が死んでも全体が死ぬであろう」
(同書p.53-54   「地震国防」 昭和六年一月「中央公論」に発表)

 小松左京のSF小説「日本沈没」が決して絵空事ではないと思えてくる。この暗い予感は、特に若い人たちに重苦しくのしかかっていくのだろうか。

 

地震雑感/津浪と人間 - 寺田寅彦随筆選集 (中公文庫)

寺田 寅彦

中央公論新社                             

                                                               

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李登輝氏の「船中八策」

2012年02月16日 02時22分50秒 | 政治

 2009年9月5日、東京・日比谷公会堂で開かれた講演会で、李登輝氏(元・台湾総統)は、坂本竜馬の「船中八策」を採り上げ、現代日本の政治状況を分析して、日本の若い世代に期待を寄せた。

 いま、橋下徹・大阪市長の「船中八策」が注目を集めているが、その内容は李登輝氏の足元にも及ばない。
 橋下は、参議院廃止、首相公選、道州制を挙げ、憲法改正を唱えている。だが、肝心の憲法第九条については口を濁したままだ。「国のかたちを変える」とまで言うのなら、真っ先に取り組むべきは憲法第九条問題ではないのか?
 
 ここに、李登輝講話の抄録を再び掲載したい。

  

【李登輝講演録】
竜馬の「船中八策」に基づいた私の若い皆さんに伝えたいこと

         
       二〇〇九年九月五日(日比谷公会堂)
 
                          李登輝





一、はしがき

  栂野理事長、安藤副理事長、ご来賓の皆様、青年会議所の会員の皆様。こんにちは!台湾の李登輝です。

 今年の四月三日、東京青年会議所の栂野慶太(トガノ ケイタ)理事長、安藤公一(アンドウ タカカズ)副理事長をはじめ、幹部の方々が台湾を訪問され、九月五日の「東京青年会議所六〇周年記念フォーラム」で講演するよう、私のもとにわざわざ依頼にいらっしゃいました。せっかくのご依頼でしたので、熱心な日本の若き青年に対して、日本人としての誇りを再確認していただきながら、目前に存在する日本の政治的行き詰まりを打開する方法についてお話しできないかと考えてまいりました。

『折しも、日本では民主党政権が誕生しました。日本国民の民意により、鳩山内閣が発足することを心よりお祝い申し上げます。今後日本で、二大政党による、よき政権交代が行われるかどうか、定着するかどうかは、鳩山民主党政権が国民から評価される政治を行えるかどうかにかかっています。僭越ながら、新しい総理大臣が、つねに国民の幸福、安寧を第一に考えられるようにと申し上げたく思います。

と同時に、日本が国際社会から一層の尊敬を受けるような外交政策を展開されるよう期待しております。ぜひ日米協調路線を基軸に大陸中国と節度ある交流をするとともに、独立した存在としての台湾との一層の連携強化に取り組んでいただきたいと思います。』

日本政治が大きな転換点を迎える、この節目にあたってどのようなお話をすればよいか、色々と考えた結果、本日は、坂本竜馬の「船中八策」に託してお話ししてみようと思います。



 二、坂本竜馬の「船中八策」

 近代日本の幕開けに欠かすことの出来ない人物と言えば、まず坂本竜馬でしょう。徳川幕府の末期、倒幕、佐幕と各藩が分裂していた頃、又倒幕派も薩摩、長州という大藩が分かれていた中で、これをうまく調停して日本を戦火から救ったのは、奇才坂本竜馬でした。彼の生涯は僅か三十三年に過ぎませんでしたが、明治維新の成功に彼の遺した業績は素晴らしいものでした。

現代日本の課題を考える人々の心中にも彼の精神は生き続けています。多くの作家が違った表現で竜馬を語っています。「海を翔ける龍」、「竜馬がゆく」、「竜馬が歩く」と云われる様に、土佐藩を脱藩して勝海舟の門下に入った竜馬が暗殺されるまでの五年間に、竜馬は地球を一周するくらい、海に陸にと旅をしています。彼は忙しく動き回り、新しい国づくりに全身全霊を注ぎました。中でも大仕事だったのは、倒幕に対する薩長両藩の異なる意見を調整することでした。

 この間に彼の行った政治活動は数え切れない程多いものでしたが、中でも、「船中八策」は、彼の遺した最重要の政治的功績ではないかと思います。大政奉還への動きを促進すべく長崎から京都に上る船の中で、「国是七条」を手本に、竜馬が提示した新しい国家像、それが「船中八策」です。将軍が新しい国づくり案を理解し、幕府が政権を朝廷に返せば、内戦なしで日本は近代国家に生まれ変わる。そうした希望を託した日本の将来像「船中八策」は次のようなものでした。

 一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。

 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。

 一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。

 一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。                         
 
 一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。

 一、海軍宜しく拡張すべき事。

 一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。

 一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

 
 以上八策は、方今(ほうこん=この頃の)天下の形勢を察し、之を宇内(うだい=世界)万国に徴するに、之を捨てて他に済時(さいじ=世の中の困難を救う)の急務(=日本を急いで救うための手立ては)あるなし(=あるはずもない)。苟(いやしく)も、此(この)数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立(へいりつ)するも亦(また)敢て難しとせず。伏して願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新(こうしいっしん)せん。
 
 この「船中八策」には、幕府と藩に代わって議会制度を持つ近代国家「日本」の実現を目指す竜馬の心がよく表れています。大政奉還がなり、朝廷の許しを得た後、竜馬は喜びのうちに、「船中八策」をもとにして、新しい政府のあり方についての新政府綱領を書き上げたと言われています。
 明治政府成立後に示された五箇条の御誓文や政治改革の方向は、やはり竜馬の「船中八策」に沿うものでした。



 三、坂本竜馬の「船中八策」に託した江口先生の私への提言

 明治維新を動かした憂国の志士は丁度みなさんのような三十代前後の青年達です。徳川末期の若者達が、その置かれた立場の違いにもかかわらず、申し合わせたように政治改革の必要性を感じ取っていたことは実に印象的です。
忘れてはならないことは、竜馬が長崎から京に上る船の中で、改革案を八箇条にまとめたことに表れているように、当時の青年達は、ただ血気にはやってことを進めたのではなく、よく国勢を了解し、国運を己の使命と受けとめて活動していたということです。

 竜馬の「船中八策」は、古今を問わず、日本の若い青年を鼓舞するものであり、若い青年たちの命を賭した実践は、永く歴史の記憶に刻まれています。
 日本だけではありません。日本と同じく周囲を海に囲まれた台湾に住む私自身も、「船中八策」に大いに励まされてきたのです。

 平成九年(一九九七年)四月二十九日、私が総統として台湾の民主化と自由化に努力奮闘している時、PHP総合研究所社長の江口克彦先生から竜馬の「船中八策」に託した激励のお手紙と提言をいただきました。
 
 江口社長は、私にとってきわめて重要な友人のひとりでありますが、とくに、当時の台湾が置かれていた内外の情勢と私の主張を実に適確に理解しており、「船中八策」に託しての私への提言は非常に意義深く、総統である私に大きな勇気を与えてくれるものでありました。

 江口社長の提言は又、台湾に住む我々にも坂本竜馬の「船中八策」は、非常に重要な政治改革の方向であったこと。これが私の言う脱古改新、即ち中国的政治文化に対する離脱であったと共に、私たちにとっても、誇りを持って実践に当たる使命感が強化されました。時間の都合上、本日の講演では江口社長の台湾の提言は、残念ながら割愛せざるを得ません。
 四、「船中八策」に託した私の日本への提言

 明治維新は、東西文明の融合を促進し、日本をして封建的制度から近代的立憲国家へと発展していく方向を決めた政治改革でした。それにより、日本が世界五大強国に列せられる基礎が作られたのです。その後日本は、第二次世界大戦に敗戦国となりましたが、焦土の中から立ち上がり、ついに世界第二位の経済大国を創り上げました。政治も大きく変化しました。民主的平和国家として生まれ変わり、世界各国との友好・共存関係を築いてきました。

 しかしながら、現在の日本は戦後に於ける種々の束縛から抜け出ることが出来ず、窒息状態に置かれています。
 今こそ、明治維新と並びうる平成維新を行うべき時でしょう。そこで、江口克彦先生に倣って、私も竜馬の「船中八策」に託して、今後の日本の政治改革の方向についての私見を、若い皆さんにお話してみようと思います。
日本の内情について台湾人である私があれこれ申し上げるのは差し出がましいことと承知してはおりますが、日本の外側の、心ある友人からはこう見えるということでお聞きいただければと思います。
ではまず、「船中八策」の第一義です。 

 第一議・・天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
 何よりもまず、主権の所在を正さねばならないということです。戦後の日本は完全な自由民主主義国家となりました。しかし、政治家と霞が関官僚と一部の業界団体が癒着する既得権政治が今なお横行しており、真の意味で国民主権が確立しているとはいえないのではないでしょうか。

 官僚主導政治を許している根本原因は、私の見るところ、総理大臣の政治的リーダーシップの弱さにあります。日本の総理大臣は、アメリカ合衆国の大統領や台湾の総統のように、国民の直接投票によって選出されていません。小選挙区比例代表並立制という特殊な方法で衆議院議員が選ばれ、その議員の投票結果で総理大臣が決まっています。総理大臣の政策実践能力が弱いのは、ひとえに国民の直接的な支持を得ていないことによるものと考えます。

 しかも、一般の国民が、国会議員になることは容易ではありません。その典型が世襲議員ですが、彼らは、父親から、たとえ能力がなくとも、旧来の地縁、血縁を引継ぎ、担ぎ上げられ、議員に決まってしまっています。いわば、烈々たる使命感、日本という国を良くしたい、世界から尊敬される国にしたいという強烈な志を持って政治の道に進むのではなく、単なる職業とか家業として政治家になる議員が多いのではないでしょうか。

 このような状況は主権在民という民主主義の原則に反しているのではないでしょうか。また、それゆえに、たとえ総理大臣になっても、志も、実践能力も弱く、国民の期待に、ほとんど応えることもできないということになるのではないかと思うのです。

 それは、やはり国民の意思を直接受けていない総理大臣、いわば、総理大臣の後ろに国民がいないからであり、また、それゆえに、国際的においても、自信に満ちた発言や提案をすることも出来ず、さらには世界各国から、必ずしも日本が尊敬されない原因になっているのではないかと思うのです。

 
 第二議・・上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
 竜馬は立法府について言及していますが、広い意味での「国のかたち」を論じたものと解釈できるでしょう。今日の日本の「国のかたち」の最大の問題は、都道府県行政が、法的にも制度的にも、霞が関官僚の意向にしばりつけられており、地域のリーダーが十分実力を発揮できなくなっていることではないかと思います。

 日本の雑誌、新聞を読んでいると、このところ、日本では、勇気ある知事の人たちが出てきて、国政にも影響を与えるようになってきているようです。すみやかに霞が関官僚体制、言い換えれば、中央集権体制を破壊して、「新しい国のかたち」に転換する必要があるのではないかと思います。最近、日本では、地域主権型道州制の議論が盛り上がりを見せているようです。その方向で、日本は「国のかたち」を代えることが望ましいのではないでしょうか。

 地域のことは地域に任せ、権限も財源も委譲する。そして、それぞれの地域が自主独立の精神で独自の政策を展開し、競い合って日本を高めていく。社会の閉塞感を打ち破るには、中央集権体制を打破転換する地域主体の発想が不可欠でしょう。若い皆さんが、先頭に立って、新しい国・日本をつくる活動を展開されることを期待しています。 


 第三議・・有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
 資源を持たない日本にとって、人材こそが何よりも重要であることは言うまでもありません。日本の未来を担う人材をどう育成していくか。日本においては、日本人の高い精神性と自然とが調和して、禅や俳句など、独自の美意識をもつ文化、芸術が生み出されてきました。こうした日本文化を背景に、品格と価値観を、よくわきまえた教育者が、教養を中心に教えていたのが、私の受けた戦前の日本の教育でした。

 これからの日本の教育は、高い精神性や美意識といった日本人の特質を更に高めていくものであるべきでしょう。そのためには、戦前の教育の長所を思い起こし、戦後のアメリカ式教育から離脱し、日本本来の教育に移行していくことが必要です。

 安倍内閣時代に教育基本法の改正がなされましたが、今後更に日本の伝統文化に適った方向に教育を改革していくことが求められるのではないでしょうか。私は日本人の精神性や美意識は、世界に誇るべきものだと考えています。


 第四議・・外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
 現在の日本外交は、敗戦のトラウマによる自虐的、かつ自己否定的精神から抜け出せていないように思います。反省は大事なことです。しかし、反省も過ぎては自虐、卑屈になってしまいます。自虐、卑屈の精神では、健全な外交は不可能です。そのような考え方では、世界中から嘲笑されるばかりです。事実、いまだかって、私は「尊敬できる日本」という言葉を聴いたことがありません。
 
 アメリカへの無条件の服従や中華人民共和国への卑屈な叩頭外交、すなわち、頭を地につけて拝礼するような外交は、世界第二位の経済大国の地位を築き上げた日本にそぐわないものです。
 特に、これからの日本と中華人民共和国との関係は、「君は君、我は我なり、されど仲良き」という武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ)の言葉に表されるような、「けじめある関係」でなければならないと思います。

 この言葉を、先日、私は「台湾は中国とけじめをつけて付き合わなければならない」というスピーチのなかでも使いましたが、中国の将来の不確実性を考えれば、日本も台湾も、目の前の「中国のにんじん」に幻惑されず、「君は君、我は我」という毅然とした、主体性を持った態度、そして、そうでありながら良き関係を構築することが必要と考えます。

 これまで日本は、外交において、相手の主張を唯々諾々(いいだくだく)と受け止め、できるだけ波風を立てないよう留意してきたと見受けられます。しかし、残念ながら、いくら謙虚さを示しても、外国人には理解されず、そのような態度姿勢は、外国から、かえって軽んじられ、軽蔑されるということを、皆さん方はしっかりと認識しておかなければならないでしょう。今こそ日本は、自主独立の気力を持って、また、主体性を持って、いずれの国とも、積極的な堂々たる外交を展開すべきだと思います。
第五議・・古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。

 国の基本法たる憲法をどうするかは、今日の日本にとって大きな課題でしょう。皆さんもご承知の通り、戦勝国アメリカが、日本を二度と軍事大国にさせないために押し付けたのが、現在の日本国憲法です。日本国憲法の第九条は、日本の再軍備を禁止しています。そのため、日本はアメリカに安全保障を依存することになりました。

 しかし、その実、日本の自衛隊は種々の軍事行動をアメリカの必要に応じて要請されるようになっている、いわばアメリカに、いいように使われるというのが実情ではないでしょうか。
  
 うずくまり、行動を起こさない日本政府に対し、多くの、心ある有識者が「アメリカにノーと言える日本を」と求めていますが、日本のひ弱な指導者たちは、こうした意見を理解しようとせず、理解したとしても行動を起こす勇気もありません。気骨なき政治家ばかりで、日本は大丈夫なのでしょうか。

 日本が真に自立するために何が必要であるか、歴史をふまえ、その具体策を検討する必要があります。その際、憲法問題を避けて通ることはできないように思われます。

 日本では、「国民投票法」の本格的な施行(しこう)が来年に迫っているにもかかわらず、憲法審査会も機能を開始しておらず、いわば、頓挫(とんざ)しているようです。今回の衆議院選挙でも、憲法問題が本格的に論じられることはありませんでした。私の見るところ、国民の間でも、憲法問題は、ほとんど論じられず、むしろ、忘れ去られているような感じすらします。このような日本国民の憲法問題に対する無関心が、次第に「日本人としてのアイデンティティ」を不明確にさせ、国民の精神にも大きな影響を与えていくと私は感じています。

 六十年以上も一字一句、改正も変更もされないのは、私には、異常としか思えません。歴史は移り変わり、時代は変化し、日本および日本の皆さんが置かれた状況も大きく異なってきているにもかかわらず、国家の根幹である憲法を放置していては、日本国家は遠からず、世界の動き、時代の動きに取り残され、衰退し始めるのではないでしょうか。
 

 第六議・・海軍宜しく拡張すべき事。
 近年、海洋国家日本が直面する世界の情勢は急速に変化しています。アメリカ一極支配が終わりを告げ、五~六の地域大国がしのぎを削る多極化世界に移りつつあります。特に西太平洋の主導権争いは、中国の軍事的膨張により、米国に大きな負担を強いています。
 こうした状況下で、日米同盟をいかに運用すべきか、日本がどのような役割を担うべきか、あらためて問われています。日本の民主党は、アメリカとの間で、率直な対話に基づく対等なパートナーシップを築くことを目指しているようです。その考え方は、おおいに評価されるべきだと思います。

 今こそ日本は、日米関係の重要さを前提にしつつ、日米同盟のあり方を根本的に考え直す必要があります。現在の日米同盟は、あまりにも片務的ではないか、日本が負担を背負いすぎているのではないかと思うのは、私だけでしょうか。若い皆さんはどのようにお考えでしょうか。


 第七議・・御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
 もともとは防衛の重要性を述べたものですが、ここでは少し視点を変えて、日本防衛にとっても、大きな影響を持つ台湾の動向について述べることにしましょう。台湾の変化に気を配らなければ、日本にとって思わぬ危険を見落とすことになるからです。
  私が総統時代に掲げた「台湾アイデンティティの確立」に基づいて、台湾は民主化と近代化に向けて、大きく舵を切りました。しかし、残念ながら、二〇〇〇年以後の三回にわたる総統選挙で、台湾の民主化は進歩どころか、後退してしまっています。

 先日亡くなった『文明の衝突』で有名なハーバード大学のサミュエル・ハンチンチントン教授が指摘したような、民主化への反動が生じているのです。民主化に反対する保守派が政権を掌握し、皇帝型統治による腐敗が続き、政府による国民の権利の侵害が行われています。「台湾アイデンティティ」に逆行した中華思想の浸透もはかられています。台湾政治が、今中国に傾き、ゆがみ始めていることは間違いありません。
  
 今回の台風被害への対処にみられるように、現政権において、国民の側に立った政治が行なわれていないことを私は憂えています。
 私は、台湾にとってはもちろん、日本の繁栄と安全を確保するためにも、日台の経済関係を安定させ、文化交流を促進し、日本と台湾の人々の間の心の絆を固めることが不可欠と考えています。日本の指導者の方々には、「東アジア共同体」という枠組みを考える前に、崩れつつある日台関係の再構築と強化に、積極的に力を注いでいただきたく思います。

 日本が台湾を、もし軽視でもするようなことになれば、それはたちまちのうちに、日本の国の危機を意味することを認識しておかなければなりません。地政学的にも、台湾は、いわば日本の命運を握っているといっても過言ではないと思います。

 このことは、もっと日本の指導者の方々は真剣に考える必要があるのではないでしょうか。「木を見て森を見ない」外交政策は、日本に重大な問題をもたらすこと必定と、私は考えています。


 第八議・・金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 最後に、経済政策について申し上げましょう。私のみるところ、日本経済が「失われた十年」の大不況にみまわれた根本原因は、日本の金融政策を担う日本銀行が、一九九〇年代以降間違ったマネジメント、総量規制などをおこなったことにあります。 
 その後日本経済は一時的に回復しましたが、その際の経済成長はあくまで輸出に頼ったものでした。国家的プロジェクトをつくり、さまざまな分野で世界をリードするイノべーションに国家をあげて取り組むべきところを、実際には、ほとんど取り組まず、また、国内の需要不足という根本問題を放置したまま、日本は、昨年秋のリーマン・ショック以降の世界金融危機を迎えることになったのです。
 
 経済の苦境を打開するには、日本は、インフレ目標を設定するなど、大胆な金融策を採用すべきでしょう。同時に大規模な財政出動によって経済を強化することも必要かもしれません。

 日本は莫大な個人金融資産を抱える国です。この金融資産が投資資金として市場にきちんと流れる道筋をつくることが重要です。そのためには、国民の将来不安、すなわち、老後の不安をいかに解消させるか、老後の医療、年金、介護などの、「老後安心政策」を、政治家の人たちは、明確に打ち出す必要があるでしょう。そうなれば、高齢者は安心して個人の金融資産を市場に提供するようになるでしょう。
 加えて、日本国内だけでなく、海外に対する投資も進めていかなければなりません。それにより、日本は世界経済に大きな貢献をすることになるはずです。


 五、結び
 以上、坂本竜馬の「船中八策」になぞらえて、現在の日本政治改革の要点を述べてまいりました。言うまでもなく、明治時代と平成の現在とでは政治・社会・経済・外交の各面で、大きく実情は異なっています。しかし、「船中八策」を道標(みちしるべ)とし、それを再検討することにより、今日の日本の青年が、誇りと自信をもって、現実的実践による改革を進めることができるものと私は確信しています。

 政治はつねに改革され続けなければなりません。日本は今、明治維新以来最大の改革をしなければならないときだと思います。

 しかし、この改革を為し遂げるためには若い皆さん方が志を{・ュもって行動することが不可欠です。すばらしい日本を築くため、若い皆さん方が立ちあがり、行動を開始されることを、私は心から期待しています。

 加えて、東アジアの一層の安定平和のために、台湾と日本のさらによい関係を構築していただきたい。アジアおよび世界の平和のために、ぜひ、日本の若い皆さんたちが、高い志を持って、積極的に台湾の若者たちと力と心を合せてくださることを切にお願いし、私の皆さんたちへの、私の思いを込めたお話とさせて頂きます。

 ご清聴ありがとうございました。

李登輝と橋下徹の「船中八策」

2012年02月14日 06時43分16秒 | 政治

 幕末、坂本竜馬が京都に向かう船の中で書いたと言われる「船中八策」。その骨子はつぎのようなものであった。

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。                     
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

 2009年9月5日、李登輝氏は、日比谷公会堂(東京)において講演をおこなった。このときの講演は、坂本竜馬の「船中八策」をベースに、現代日本の抱える問題について語った。このブログでもその概要を掲載した。※
※ http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/f003c219d084ef172dfa4430e7431fea

 一方、昨日、橋下徹の「大阪維新の会」が発表した「船中八策」の骨子は、次のとおり。

 「統治機構の再構築」を掲げ、「参議院の廃止」「道州制の導入」を謳っている。これらを実現するためには、日本国憲法の改正が必要である。「憲法改正」については、別項で掲げられているが、ここで気になるのは、「外交・安全保障」との関わりで「憲法第九条」改正問題が採り上げられていないことだ。
 李登輝氏の「船中八策」講話の中では、日本国憲法を「皆さんもご承知の通り、戦勝国アメリカが、日本を二度と軍事大国にさせないために押し付けたのが、現在の日本国憲法です。日本国憲法の第九条は、日本の再軍備を禁止しています。そのため、日本はアメリカに安全保障を依存することになりました」と位置づけ、憲法改正に言及している。
 
 橋下徹が何故、憲法改正を提起しながら、「第九条改正問題」に触れないのかは、明らかだろう。「タブー」はタブーとして曖昧なかたちに残しておき、自らの政治的影響力保つためだろう。肝心要な問題は棚上げにする。これをポピュリズムと酷評する向きも多い。
 だが、「日本国憲法」は、その生い立ちからして改正が困難なように意図的に作られている。橋下が「参議院廃止」「道州制」をぶち挙げて、「憲法改正」論議にまで踏み込んだ”度胸”はおおいに評価されるべきだろう。

 キャスター・辛坊次郎は、「橋下徹は半年以内に”狙撃”される」と”予言”している。これは冗談半分にしても、橋下の過激な改革案には、ある種の勢力から過激な”抵抗”がありうるのかも知れない。 

 
李登輝氏講話 「船中八策」について(2009.9.5 日比谷公会堂)より

第五議・・古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。

 国の基本法たる憲法をどうするかは、今日の日本にとって大きな課題でしょう。皆さんもご承知の通り、戦勝国アメリカが、日本を二度と軍事大国にさせないために押し付けたのが、現在の日本国憲法です。日本国憲法の第九条は、日本の再軍備を禁止しています。そのため、日本はアメリカに安全保障を依存することになりました。
 しかし、その実、日本の自衛隊は種々の軍事行動をアメリカの必要に応じて要請されるようになっている、いわばアメリカに、いいように使われるというのが実情ではないでしょうか。
  
 うずくまり、行動を起こさない日本政府に対し、多くの、心ある有識者が「アメリカにノーと言える日本を」と求めていますが、日本のひ弱な指導者たちは、こうした意見を理解しようとせず、理解したとしても行動を起こす勇気もありません。気骨なき政治家ばかりで、日本は大丈夫なのでしょうか。

 日本が真に自立するために何が必要であるか、歴史をふまえ、その具体策を検討する必要があります。その際、憲法問題を避けて通ることはできないように思われます。

 日本では、「国民投票法」の本格的な施行(しこう)が来年に迫っているにもかかわらず、憲法審査会も機能を開始しておらず、いわば、頓挫(とんざ)しているようです。今回の衆議院選挙でも、憲法問題が本格的に論じられることはありませんでした。私の見るところ、国民の間でも、憲法問題は、ほとんど論じられず、むしろ、忘れ去られているような感じすらします。このような日本国民の憲法問題に対する無関心が、次第に「日本人としてのアイデンティティ」を不明確にさせ、国民の精神にも大きな影響を与えていくと私は感じています。



大阪維新の会 「船中八策」8つの柱、概要固まる

2012.2.13 14:00 (1/2ページ)west政治

 

 大阪維新の会が、次期衆院選の公約として策定を進めている「維新版・船中八策」の骨子が13日、判明した。統治機構の再構築や行財政改革、憲法改正などの8項目が柱。細目では、首相公選制の導入や、憲法改正の発議要件を衆参両院それぞれの3分の2から過半数に改めることを盛り込む方針だ。また、経済対策や社会保障制度改革の一環として、最低限の生活に必要な所得を全国民に保障する「ベーシック・インカム」(最低生活保障)の導入も検討しており、議論を呼びそうだ。

 船中八策の柱は、統治機構の再構築▽行財政改革▽教育改革▽公務員制度改革▽社会保障制度改革▽経済政策▽外交・安全保障▽憲法改正-の8つとなる見通し。維新代表の橋下徹大阪市長が目指す「国と地方の仕事の仕分け」「民間での資金流動を活発化させる税制」「一生使い切り型の社会保障」などを反映させる方向で、今後、所属地方議員や「維新政治塾」で議論し、細部を詰める。

 統治機構改革や憲法改正では、参院を現在の形から首長が兼務する代表機関に改めることも盛り込む方針。維新幹事長の松井一郎大阪府知事は13日、参院について「衆院のカーボンコピー的な形はいかがなものか。首長が兼務すれば、国と地方の意思伝達がスピーディーに協議できる」とメリットを語った。

 ベーシック・インカムは、年金や雇用保険、生活保護など複雑化したセーフティーネットを一元化する方策として検討。維新は、働けば働くほど収入が増える仕組みで、社会保障上の利点のほか、勤労意欲の向上や経済活性化などにもつながるとみている。

 維新では、ベーシック・インカムと併せ、最低生活水準に達しない低所得層に所得税を免除し、逆に給付金を支出する「負の所得税」制度とセットで盛り込むことも検討している。 (「産経新聞」2012.2.13)

 


「霧のカレリア」(Karelia)の原曲を見つけた!

2012年02月11日 21時18分51秒 | 音楽・映画

 1965年、スウェーデンのインストルメンタル・グループ「ザ・スプートニクス」(The Spotnicks)がヒットさせた「霧のカレリア」という曲を覚えている人もまだ多いはず。
 この曲は、メインのメロディーの他に、間奏部分でロシア民謡「トロイカ」が挿入される。「トロイカ」は有名な曲なので、ここで採り上げるのは、メインのメロディーについて。

 映画「カサブランカ」(1942)の酒場のシーン。よく知られる映像だが、そのバックにはこの「霧のカレリア」のメロディーが流れる。第二次世界大戦中に「反ファシズム」をテーマに作られた、ある種のプロパガンダ映画であるから、流れる音楽にもそれなりの意味が込められているはずだと思った。実際、オーケストラが演奏する「カサブランカ組曲」では、フランス国歌「ラ・マルセエーズ」が挿入されている。反ファシストのフランス・レジスタンス運動を取り扱った映画なのだから、これは当然のこと。酒場の音楽は、当然、年代から考えて「霧のカレリア」の原曲ということになる。

 米国映画「カサブランカ」(1942年)

 ネットはやはり便利だ。長年、気になっていたこのことが、一気に氷解した。
 まず、「霧のカレリア 原曲」で検索すると、「ロシアの声 ハバロフスク局制作番組」※に辿り着き、「スプートニクスでお馴染み「霧のカレリア」の原曲は「馭者よ馬を駆らないで」っていうことも知りました」という記述を見つけた。
※ http://members.jcom.home.ne.jp/dialkid/vericard41.htm

 さらに「馭者よ馬を駆らないで」を検索すると、「女性合唱団 チャイカ」というHP※へ。

※ http://sea.ap.teacup.com/chaika/341.html

 ここには次のような解説があった。

哀愁を帯びたロマンスの名曲!
御者よ、馬を急かすな!
Ямщик, не гони лошадей            

       
♪ はるか道遠く
  夜霧につつまれ
  わびしい鈴の音
  胸せまる夜よ
   馬を急かすな御者
   静かにかけゆけ
   愛する人去り
   私はひとり
                 (木内宏治詞)


ロシアで大変有名なロマンス『御者よ、馬を急かすな!Ямщик,не гони лошадей!』です。日本ではほとんど知られていません。わずかに北海道合唱団が取り上げていると思われます。上に挙げたのは同合唱団発行の曲集『北方圏のうたを訪ねて』に『御者よ』のタイトルで収録されているもの。同曲集ではロシア民謡となっていますが、作られた時期も新しく、正しくはロマンスです。作詞はニコラーイ・リーッテルНиколай Риттер、作曲はヤーコフ・フェーリドマンЯков Фельдман

♪ あたりは何と寂しげで、陰鬱なことか
  わが行く道はやるせなく、憂鬱だ
  過ぎし日は夢のごとく
  傷ついた心胸を苦しめる

  御者よ 馬を急かすな
  私にはもう急いで行く所はない
  私にはもう愛する人はいない
  御者よ 馬を急かすな
                  (中島章利訳)


面白いのはこの曲は「御者よ、急げ!」という曲に対する返答歌として書かれたということです。次回はこの曲のエピソードをご紹介していきましょう。

画像/作曲者ヤーコフ・フェーリドマン。彼は20世紀初頭に生きたユダヤ人です。 『御者よ、馬を急かすな!』の曲集表紙
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《ドミートリィ・フヴォロストーフスキィ》   (「女性合唱団 チャイカ」より引用)


 この「女性合唱団 チャイカ」の記事には、「御者よ、馬を急がすな」を歌う映像が添付されているので、「霧のカレリア」の原曲が、この曲であることを確認することが出来た。ただし、この記事を書いた人は
、「日本ではほとんど知られていません」と書いているから、1965年に「霧のカレリア」として大ヒットしたことは知らないようだ。
 YouTubeを検索すると、赤軍合唱団がこの曲を歌った映像を見つけた。これは、映像を貼り付けられなかったが、下記のアドレスにアクセスすれば見ることが出来る。
 
 何故、映画「カサブランカ」の中にこの曲が流れていたのか、これで疑問が氷解した。「反ファシズム」という一点においては、あのとき米国とソ連の利害は一致していたから、わざわざロシア民謡を挿入したのだった。
 それにしても、「カレリア」は、本来フィンランドの領土だったカレリア地方のこと
シベリウスの管弦楽作品には「カレリア組曲」があることはよく知られる。この地方を武力侵略して略奪したのが、ソ連のスターリンだった。北方領土と同様、カレリア地方は今なお、ロシア領土とされたままだ。
 ソ連(ロシア)の民謡にわざわざ「カレリア」というタイトルを付けたのは、プロテストのような意味があったのだろうか。それとも、何か他に深慮遠謀が…?

※ 赤軍合唱団「御者よ、馬を急がすな」 Red Russian Army Choir -Coachman Don't Spur On The Horse →→
http://www.youtube.com/watch?v=d5S2CK_uda8

ザ・スプートニクス「霧のカレリア」

 


「満州の丘に立ちて」と「さすらいのギター」

2012年02月10日 13時52分59秒 | 音楽・映画

 1962年頃、日本でもヒットした「さすらいのギター」。日本語歌詞がつけられて小山ルミが歌った。インストルメンタルでは、フィンランドのザ・サウンズというグループが最初にこの曲を採り上げた。この曲の原題(英語)が「Manchurian Beat」(満洲のビート)だと知ったのは、ずっと後なってから。

 「満洲」という言葉がひっかかったので、ネットを検索してみたら、この曲の原曲は、帝政ロシア時代の満州駐在のロシア軍楽隊長によって作曲されたことを知った。原曲のタイトルは「満洲の丘に立ちて」。その由来は、「二木紘三のうた物語」というブログで、次のように説明されている。 

満州の丘に立ちて

作詞:A.マシストフ、作曲:I.A.シャトロフ、
日本語詞:笹谷榮一郎

1 静かに霧は流れ
  雲の彼方に 月は輝きぬ
  白く光る十字架
  安らかに勇士は 丘に眠りぬ
    面影わすれじ 永久(とわ)
    勝利の誓い はたさん
    やがて平和は来たりぬ
    我等が上に(繰り返す)

2 静かに霧は流れ
  雲の彼方に 月は輝きぬ
  白く光る十字架
  安らかに勇士は 丘に眠りぬ
  なつかし母 若き妻 嘆き悲しむ
  勇士を偲び惜しむ 全ロシア
  静かに霧は流れ
  雲の彼方に 月は輝きぬ

 

《蛇足》 日露戦争終結後の1906年、ロシア軍の軍楽隊長だったイリヤ・アレクセーイヴィチ・シャトロフによって作曲されました。
 日露戦争が始まると、満州各地で激戦が展開されましたが、わけても奉天大会戦は両軍合わせて16万人の死傷者(日本側7万、ロシア側9万)を出すという史上まれに見る大激戦でした。
 シャトロフが所属していた第214モクシャ歩兵連隊も、この戦いで多くの犠牲者を出しました。その死を悼んで作ったのがこの曲です。当初のタイトルは『満州の丘のモクシャ連隊』で、歌詞なしの吹奏楽でした。
 ほぼ同じ頃(明治38年、1905)、日本では『戦友』が作られ、多くの人に愛唱されました。「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の……」で始まり、14番まで続く長い歌です。一般には軍歌とされていますが、私には、表向きのフレーズの裏に強い非戦の思いが隠されているように思えてなりません。

 それはさておき、『満州の丘のモクシャ連隊』は、やがてロシア全土で演奏されるようになり、それとともに歌詞を求める声が高まりました。それに応じて、何人かが歌詞をつけましたが、いずれも日本には伝わっていません。
 1917年、帝政が崩壊し、ソヴィエト(労農)政府が樹立されました。時あたかも第一次大戦の真っ最中で、共産主義勢力の拡大を恐れる連合国は、革命に干渉するため、日本軍を主力としてシベリアに出兵します。
 東シベリアに領土的野心を抱く日本は、米・英・仏軍が撤退したあとも、白衛軍(帝政派などの反革命軍)を支援して、赤衞軍(ソヴィエト軍、のち赤軍)と戦い続けます。
 日本軍の干渉戦争は1918年から8年間に及びましたが、膨大な戦費を費やしたあげく、列強の不信を買っただけで終わりました。
 1922年にはソ連、すなわちソヴィエト社会主義共和国連邦が成立。4年後の1926年、アレクセイ・イワノーヴィチ・マシストフがこの干渉戦争で倒れた兵士を悼む歌詞を発表、再びロシア人たちに愛唱されるようになりました。 のちにベンチャーズがこの曲を“MANCHURIAN BEAT”(邦訳題名『さすらいのギター』)として演奏、世界的なヒットとなりました。往時の歌声喫茶体験がない人には、この曲をベンチャーズの演奏で記憶している人が多いかもしれません。(「二木紘三のうた物語」より引用) 

 戦前の満洲を知る人も数少なくなって、満洲といえば、「日本が悪いことをした場所」というくらいの認識しか持たない人が多数派になった。「中国はひとつ」だと主張する中共(=中国共産党)は、満洲が征服王朝であった清朝の故郷であったことから、この言葉を忌み嫌い、 「中国東北部」と言い換えさせた。今でも、親中派の学者・文化人やマスメディアでは、満洲という地名を呼ぶときは、カッコをつけて「満州」と呼ぶことになっている。
 だが、歴史を振り返れば、満洲は近代日本にとって、最も深く関わった「外地」であったのだが、「敗戦」の傷痕によって我々は、今なおこの地を「直視」することさえできない。
 
 ありふれた流行歌の中にも、いろいろ考えさせられることが多い。映画「カサブランカ」の酒場の場面で、「霧のカレリア」(Karelia)のメロディが流れるのだが、年代的には映画の方がずっと古いので、映画の中のメロディが「霧のカレリア」の原曲となる。このあたりも、興味深いのだが、未だ分からない。


「気違い部落周游紀行」の原風景~八王子市上恩方町上案下

2012年02月07日 02時01分56秒 | 

 親族の遺品を整理していたら、昔の写真がたくさん出てきた。この写真は、東京都八王子市上恩方町上案下(かみあんげ)の昭和の初めの光景。当時は、東京都南多摩郡恩方村上案下という地名だった。


 昭和初期、恩方村上案下(現・八王子市上恩方町上案下)の風景
 
 どこにでもある典型的な山村の風景だが、第二次大戦の戦中・戦後期、この村に移り住んだ文筆家がいた。「きだみのる」がその人だが、今やその名前を知る人も少ない。
 「きだみのる」をWikipediaで検索すると、次のように書かれている。

「若年期は転居、家出、旅を多くする。アテネ・フランセ創設者のジョセフ・コットに身近く薫陶を受け、後には仏語教師として自らもアテネ・フランセの教壇に立つなどした。開成中学慶應義塾大学中退後にパリ留学。ソルボンヌパリ大学)でマルセル・モースに師事し社会学人類学を学ぶ。帰国後は戦中戦後の長期に亘り、東京恩方村に、こもるようにして暮らすことになった。1948(昭和23)年気違い周游紀行』で第2回毎日出版文化賞を受賞。」

 きだみのるの代表作「気違い周游紀行」は、この恩方村(現・八王子市恩方)の「ムラ社会」における人間模様を描いた作品。今や「放送禁止用語」となった「気違い」と「」が重なった書名であるから、勘違いして、眉をひそめる人もいるかも知れない。だが、もちろん、「気違い」が登場するわけでも、「問題」を描いたものでもない。日本の原風景とも言える「ムラ社会」を、近代主義的な立場から、ユーモアも込めて描き出した作品だ。
 
 この恩方地区は、童謡「夕焼け小焼け」の里としても有名。作詞者の中村雨紅(1897-1972)※が生まれ育った村でもあるからだ。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85

 今やこの写真の面影は、残っていない。写真ではきれいに手入れされているように見える山や林が、現在ではかなり伐採されて放置されているのが残念だ。

  なお、きだみのる著「気違い周游紀行」は、現在も入手可能。それだけ、普遍性のある作品なのだろう。興味のある方は、下記のamazonをクリック!
 

気違い周游紀行 (冨山房百科文庫 31) 

                             

クリエーター情報なし

冨山房                        

 


「岩波書店」が公然とコネ採用!?

2012年02月03日 17時23分28秒 | マスメディア

 この不況下、大学生で一部上場企業やマスメディア関係に就職出来る人はごくわずか。そんななか、「岩波書店」がコネ採用を広言したというニュースが、波紋を呼んでいるようだ。

 だが、出版社がコネ採用というのは、昔から珍しいことではない。出版社は、その知名度の割には、小さな会社が多いので、関係者を採用して済ますことも多かった。もちろん、小学館や講談社などの大手では、きちんと採用していると思うのだが。「岩波書店」については、以前、知人から「在日朝鮮人の女子が高卒採用で入社していた。、どうやって、”天下の”岩波に入ったんだろうと思った」という話を聴いたことがある。

 「岩波」が「進歩的文化人」のご子弟を採用したとしても、社会的にそれほどの波風は生じない。だが、TV局ともなると、話は別だ。「みのもんた」の子ども3人が、日テレ、TBSに入社していることは有名。田淵幸一(野球)の息子はフジテレビ。東京都副知事・猪瀬直樹の娘はNHK、田原総一朗の娘がテレ朝、古くは、中曽根康弘の娘がNHKアナというのも有名だ。民放各局にはコネ採用ゴロゴロで、実力入社は、東大、京大、一橋大クラスまでと言われる。問題なのはNHK。「岩波書店コネ採用」の問題にコメント(下記参照)している、小宮山洋子・厚労大臣自身が、故・加藤一郎・東大総長のご令嬢なのだから、身も蓋もない話だ。

 地方公務員の採用についても、東京都や横浜市など少数の自治体を除けば、コネ採用が依然としてまかりとおっているはずだ。
 その点、国家公務員Ⅰ類(旧・上級職)試験は、学力が際だっていれば、出身大学や門閥に関わりなく採用される。「公務員バッシング」の嵐の中、実は、最も公平な就職試験が国家公務員Ⅰ類だというのは、皮肉なことだ。

応募条件は「コネのある人」 岩波書店が来年度採用で

2012.2.2 22:37 就職・転職  産経新聞

 出版社の岩波書店(東京)が平成25年度定期採用の応募条件として「岩波書店から出版した著者の紹介状あるいは社員の紹介があること」とし事実上、縁故採用に限る方針を示したことが2日分かった。

 岩波書店は大正2年創業の老舗。就職先として人気が高く、例年数人の採用に対し1千人以上が応募している。

 「縁故」に限ったのは、出版不況が続く中、有能な人材を効果的に採用するのが狙いとみられるが、機会平等の観点から議論も呼びそうだ。

 

小宮山厚労相:岩波書店の縁故採用に言及

 小宮山洋子厚生労働相は3日の閣議後の記者会見で、岩波書店が13年度の定期採用で同書店の出版物の著者や社員の紹介を応募資格にしたことについて「公正な採用・選考に弊害があるという指摘かと思うので、早急に事実関係を把握したい」と述べた。

 厚労省職業安定局によると、年齢・性別を限定して採用することは雇用対策法や男女雇用機会均等法に抵触するが、縁故採用について明確に規制する法令はないという。

毎日新聞 2012年2月3日 11時10分(最終更新 2月3日 15時53分)


首都直下地震、130万人避難先なし

2012年02月03日 00時42分04秒 | 社会

 「首都直下地震、130万人避難先なし」という記事が、読売新聞に掲載された。昨年9月、東京大学地震研究所が発表した「首都直下地震の確率、4年以内70%」という衝撃のデータを、先日ようやく報道したのも読売新聞だった。この重要な情報を三ヶ月間も放置していたのは何故なのか、知りたいところだ。

 このふたつのニュースから見えてくるのは、首都圏には地震に対する備えなど無いに等しいということ。すべては「運まかせ」なのだ。
 TVは、連日、東日本大震災の「被災地復興」を報道している。仮設住宅の住民の話題、被災地で開かれた復興イベントの様子など、「復興」に向けてのプラス面だけを強調した報道ばかりだった。

 だが、「首都直下地震の確率、4年以内70%」の報道以来、ようやく東京23区の火災被害想定や立川断層地震の可能性が語られるようになった。

 首都直下地震が起きたら、23区内では130万人が避難先がないというニュースは、明日以降、TVのワイドショーなどで繰り返し話題になることだろう。阪神大震災や東日本大震災では、少なくとも震災当初、被災者を収容するだけの公共施設があったし、およそ一ヶ月後には仮設住宅への入居が始まっていた。だが、首都直下地震では、一時的に雨露を防ぐだけの施設(体育館など)さえ足りず、仮設住宅を建設する用地さえ十分に存在しない。首都直下地震が引き起こす、弱肉強食、阿鼻叫喚の地獄絵は、「絆」などという甘ったれた言葉、さらに言えば日本人の「共同幻想」を吹き飛ばしてしまうだろう。それは明日かも知れないのに…。


 首都直下地震、130万人避難先なし…被害想定

読売新聞 2月2日(木)14時32分配信

 

 
 発生が予想される首都直下地震で、東京23区のうち11区で避難所の収容量が大幅に足りないことがわかった。

 都心が震源の場合、、住宅が被災すると予想される都民の1割以上にあたる27万人分の避難所が不足。また東日本大震災を機に、対策の見直しが進められている「帰宅困難者」を含めると、試算では約130万人分以上の新たに避難先の確保が必要になる。すでに公共施設の収容能力は限界で、各区は今後、企業や商業施設、ホテルなどに受け入れ協力を求める。

 都の被害想定では、首都直下地震の発生で、23区内で自宅を失うなどして避難所生活を余儀なくされる住民は計239万人と推計。しかし、足立、大田、目黒など11区では、小中学校などの公共施設をすべて活用しても、計約27万6000人分が足りない計算だ。

 一方、公共交通機関がストップすることで自宅に帰れない帰宅困難者は推計で約448万人。これまでは避難所を利用することは想定していなかったが、東日本大震災では、交通手段がなくなった人が、区などが住民向けに指定する避難施設に殺到した。

 震災後、都などでは民間企業に対し、地震発生後は従業員を3日間程度、会社にとどめて帰宅させないように求めている。しかし、都内では観光や買い物などで訪れている人が多く、こうした人が身を寄せる避難先の施設提供が問題として浮上していた。

 国の調査では、震災があった昨年3月11日、首都圏にいて帰宅できなくなった人の32%が「買い物などの外出中」だったことが判明。各区などの試算では、少なくとも100万人以上が避難先がないことがわかった。