澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

昭和天皇「蒋介石支持を」~国連代表権問題(1971)、佐藤首相に促す

2015年07月30日 21時25分39秒 | 歴史

 季節がら、戦争を回顧するTV,ラジオ番組、新聞記事がいっぱい。中にはなるほどと納得するものもあるが、大半は現在の視点で過去の戦争を批判的に描くものばかり。「平和」「人権」「市民」「女性」などの概念で、あの戦争の実相を理解することができるのかどうか、はなはだ疑問が残る。とりわけ、現在国会で審議中の「安全保障法制」を批判するために、過去の戦争を持ち出すような態度は、不誠実と言わなければならないだろう。

 そんな中で、驚くべき報道が登場した。1971年、「中国」の国連代表権問題が紛糾するなか、昭和天皇が「蒋介石支持」を佐藤栄作首相に促したというニュースだ。
 日本国憲法のもとでは、天皇は象徴天皇であり、政治的発言は許されていない。だが、この「蒋介石支持」発言は、まぎれもなく政治的発言だ。1971年の時点でなお、このような発言をしたのなら、戦前、天皇が軍部の暴走に翻弄され、平和の意思を貫けなかったなどという通説は、都合のいい作り話としか思えなくなる。

 おそらく昭和天皇は、蒋介石に対して「命の恩人」という意識があったのだろう。国連において「中国」を代表するのは中華人民共和国(大陸)か、中華民国(台湾)かというような議論よりも、敗戦の責任を問われず、自分の命を救ってくれた蒋介石個人にただただ恩義を感じていたのだろう。

 毛沢東の中国共産党(=中共)と蒋介石の中国国民党は、「ひとつの中国」しか認めないという点で、同じ穴のムジナだった。中共は、権力掌握後、チベット侵攻を手始めにウイグル、内モンゴルなどの少数民族居住領域を制覇し、続いて大躍進運動、文化大革命などの暴政を推し進めた。一方、台湾に逃れた国民党は、二二八事件で台湾の知識層、指導層(台湾の日本語世代)を二万人以上虐殺し、以後40年以上にわたって「大陸反攻」を叫び、戒厳令を続けた。

 昭和天皇は、かつて日本国民=臣民であった台湾人(日本語世代)が蒋介石の軍隊によって大虐殺された事実を知りながら、わが身を助けてくれたという理由だけで「蒋介石支持」発言をしたのだろうか。遺憾ながらここには、日本に「見棄てられた」台湾人(本省人)に対する思慮は全くうかがわれない

  昭和天皇の人間性を問われる重大ニュースだけに、今後の解明が待たれる。

 


昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す―日米文書で判明

時事通信 7月30日(木)16時54分配信

   蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の1971年6月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。
 秘密指定解除された米国務省の外交文書で判明した。台湾の国連代表権維持への後押しを伝えたものとみられる。天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例だ。
 この問題について、日本の外交文書にも「陛下が(中国問題を)心配しておられた」というマイヤー大使に対する佐藤首相の発言が記載されている。昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。しかし、国連代表権は71年10月、毛沢東主席の中華人民共和国(中国)政府に移った。
 こうした経緯は、国連の中国代表権問題を詳しく検証した井上正也・成蹊大学法学部准教授(日本外交史)の研究で明らかになっている。「二つの中国」で揺れ動いた戦後70年の日中関係をめぐる「秘密折衝」の一幕が浮かび上がったが、井上氏は「蒋介石の行く末を案じた天皇の意向は、台湾擁護にこだわった佐藤の姿勢に少なからず影響を与えたのではないか」と解説する。
 米外交文書によると、71年6月2日にマイヤー大使と会談した佐藤首相は「天皇は建前上、政治問題に関心を持たないのだが、(蒋介石)総統が過去において日本のために多くのことをやってくれたと述べた」とした上で、天皇による「蒋介石支持」の意向を大使に伝えた。日本側外交文書はこれほど明確ではないが、佐藤首相が大使に天皇の「心配」を伝え、「日本政府としては蒋介石総統に対する信義の問題ということもあり、本問題については慎重検討中である」と説明。「まず台湾の国連における議席を確保する要がある」と訴えた。
 一方、秘密指定が解除された「佐藤首相・マイヤー大使会談」記録を保管する日本外務省の外交史料館(東京)では、「実は先刻陛下に御報告の際、通常陛下は政治問題には直接関与されないことになっているが、特にこの問題については心配しておられた」という佐藤首相の発言を黒塗りにして公開された。外務省は、天皇の政治関与発言が公になることに神経をとがらせているとみられる。
 97年に発行された「佐藤栄作日記」によると、佐藤首相はマイヤー大使との会談に先立ち、宮中に参内し、「中国台湾問題」を奏上したと記している。 

 

 

戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止―蒋介石が早期決定・中国 

時事通信 8月2日(日)15時29分配信

  日本との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。
 蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日本戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。
 時事通信が中華民国の外交文書を公開する台湾の「国史館」や国民党史料を所蔵した「党史館」で入手した複数の戦犯リストや内部文書のほか、「蒋介石日記」の記述で判明した。
 国民政府は終戦前から、戦犯リスト策定に着手しており、45年6月に軍令部が「侵戦(侵略戦争)以来敵国主要罪犯(犯罪人)調査票」を作成。戦犯トップに「陸海空軍大元帥」として「日皇裕仁」を掲げ、「侵略戦争の主犯・元凶」と明記した。日本の軍国主義による侵略の根源が天皇にあるとの見方は中国で根強く、議会に相当する民意機関「国民参政会」も7月17日、「天皇を戦争犯罪人に指名する」決議を可決した。
 これに対して蒋介石は「日記」で9月21日、「当面の急務」として「戦争犯罪人(決定)」を挙げ、10月8日には「外交急務」として「日本軍戦争犯罪人の決定」と記した。同月14日に東条英機(元首相)ら12人を「特務工作の悪事を尽くした」として戦犯指定した。「日記」からは蒋介石の意向が選定に反映されていたことが分かり、9月の戦犯リストから天皇の名前は除外されていた。
 蒋介石が「戦争犯罪人決定」を「急務」とした10月8日、国民参政会の決議に対し、戦犯問題を調査した司法行政部と外交部は天皇の戦犯認定について「蒋主席とトルーマン米大統領が、日皇の運命は日本の民意が自ら選択すべきであると共に表明した」と否定的な方向に傾いた。また当初、天皇を戦犯リストに掲げた軍令部は「皇室は将来的に日本の侵略国策を復活させる源泉だ」としつつ、「同盟国(連合国)によるポツダム宣言の円滑な命令執行と、共産主義勢力拡大の防止」のため、天皇免訴が必要だと方向転換した。
 最終的には蒋介石の統括する国防最高委員会が45年12月28日、「日本問題処理の意見書」を決定。「同盟国の誤解と日本人の反感を回避」するため、「天皇と天皇制存廃の問題は、原則として同盟国の共同意見に従い処理する」との方針を確定した。
 蒋介石政権は46年5月からの極東国際軍事裁判(東京裁判)に向け、東条ら計32人の戦犯リストを2回に分けて連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。

 

 


来日の李登輝氏「ひとつの中国、決して同意できない」 

2015年07月23日 03時29分49秒 | 台湾

  李登輝氏が来日、衆院議員会館で講演を行った。一時重病説が伝えられたが、ここまで回復されたとは。喜ばしい限りだ。
 以前、日比谷公会堂での講演会を聴いた私は、坂本龍馬の「船中八策」をたとえにして、日本の若者に奮起を促す李登輝氏に、日本の古き良き時代の「教養人」の典型を見た思いがした。

 「ひとつの中国」は決して同意できない、という今回の李登輝氏の講演は、特に「中国が自由化、民主化されるような日は、半永久的に来ない」という認識が前提となっている。
 中国に対する安易な親近感、日中友好談義は、もはや影をひそめた昨今だが、「中国市場」への誘惑、自虐史観に基づく中国への贖罪意識は、いまだ根強く残っている。李登輝氏の認識は、中国に幻想を持ち続ける日本人に警鐘を鳴らすとともに、中共(=中国共産党)と国民党(=中国国民党)がともに抱く「ひとつの中国」を改めて否定した。

 李登輝氏と親交のある井尻秀憲・東京外国語大学教授(国際関係論)は、この10年以内に中共政権は崩壊し、中国は連邦制国家に移行していくと予測している。そのとき、台湾は連邦制国家に組み入れられる可能性があるという。
 92歳になった李登輝氏がその日を見届けられることを願わずにはいられない。

 李登輝氏の存在自体が、今や自虐史観に呪縛された日本人へのアンチテーゼ。
 それにしても、日本のマスメディアの腑抜けぶりにはあきれ果てる。李登輝氏の訪日を報じたのは「産経新聞」のみ。他のメディアは、中国筋の目を憚って、すべて尻込みした。

 中国メディアは、氏の来日を口を極めて罵っている。それは李登輝氏の発言が「中国問題」の核心を衝いているからにほかならない。

 

来日の李登輝氏「ひとつの中国、決して同意できない」 衆院議員会館で初講演 

 来日中の台湾の李登輝10+ 件元総統(92)は22日、東京都内の衆院第一議員会館で、国会議員有志らを前に台湾の民主化をテーマに講演した。総統退任後、李氏の訪日10+ 件は7回目だが、国会施設での講演はこれが初めて。

 「台湾パラダイムの変遷」と題した日本語による講演で、李氏は戦後台湾を統治した中国国民党政権を「外来政権」だと指摘。同党の長期支配を受けたことで、「独立した台湾人」という意識が台湾に確立されたと語った。

 李氏は、戒厳令解除から2000年の政権交代までを台湾の「第1次民主改革」として成果を強調する一方、現職の馬英九総統が進めた対中政策が批判を浴びたとして、総統権限の制限を含む新たな民主改革が必要だと述べた。

 中国に関しては、在任中に制定した「国家統一綱領」を例に「中国が自由化、民主化されるような日は、半永久的に来ないと思っていた」と発言。「ひとつの中国」との原則について、「われわれは決して同意できない」と拒絶した。

 講演に先立ち、下村博文文部科学相が超党派議員の発起人を代表してあいさつ。講演会には議員ら約300人が出席した。


映画「ルンタ」 NHKニュースが紹介したけれど…

2015年07月19日 08時18分18秒 | 音楽・映画

 チベットにおける人権、宗教弾圧をテーマにした映画「ルンタ」が上映中。

 私がこの映画の存在を知ったのは、昨晩のNHK・BSニュース。NHKの媚中報道はつとに有名だから、たとえBS放送でもこの種の映画を紹介するのは異例のことだ。今朝4時、NHKラジオ第一放送のニュースでも同様にこの映画を紹介したのには、またまた驚かされた。

 この映画をあるブログは次のように紹介している。

 ドキュメンタリー映画作家、池谷薫による最新作「ルンタ」の公開が決定した。チベット語で“風の馬”を意味する言葉をタイトルに持つ本作は、中国政府の弾圧を受けるチベット人の肉声や日常生活をカメラに収めたドキュメンタリー映画。インド北部の町ダラムサラに住み、チベット人たちの“焼身抗議”をブログから発信し続けているNGO代表の建築家、中原一博が案内役を務める。
 
監督の池谷薫は、「延安の娘」では紅衛兵の親に捨てられた中国人女性、「蟻の兵隊」では終戦後中国に残留して内戦を戦った日本兵、「先祖になる」では東日本大震災で流された家を同じ場所に建て直そうとする老人を描くなど、常に弱者の視点に寄り添う作品を撮り続けている。
 
「ルンタ」は、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほかで7月から全国順次公開。


この映画が本当に「チベット人の心に寄り添う作品」ならいいのだが

 NHKの中国関連報道は、今や中国政府の影響下にある。「ワールドニュース・アジア」の枠内では、北京・上海、香港のニュースを放送しながら、台湾のニュースは絶対に採り上げない。「中国はひとつ」であり「台湾は中国の一部」という、中国の主張に服従しているので、台湾立法院を学生が占拠した「ひまわり革命」についても、ほぼ無視を決め込んだ。
 そのNHKがこの映画を採りあげる意図とは?
 
 この映画を見ていないので、軽々には言えないのだが、「常に弱者の視点に寄り添う作品」という製作者の姿勢を免罪符としているのかもしれない。つまり、チベット仏教僧(=ラマ僧)の「非暴力」抗議を支持する限りでは、中国政府はお目こぼしをしてくれると判断したのだろう。

 映画の紹介では「現地で活動するNGO代表の建築家、中原一博が案内役を務める」とあるが、まさかチベットに日本人の反政府活動家が居住を許されるのだろうかと訝った。案の定、中原一博という人物はインド側のチベット人居住区に在住する人だった。
  中共当局の過酷なチベット支配を考えると、焼身自殺などの「衝撃映像」は、池谷薫自身が取材、撮影したものではありえない。だとすると、どこまで中共(=中国共産党)=漢族のチベット支配の実相に迫っているのか、早々には判断できない。

 「NHKニュースが取り上げた素晴らしい作品」なのか、「あのNHKニュースが誉めるのだから、おそらく駄作」…評価はこのどちらなのか? 

 


「戦勝国の座を争う2つの中国、娯楽化した抗日神話の幻」(楊海英)

2015年07月18日 16時28分56秒 | 中国

 楊海英・静岡大学教授(文化人類学)が「ニューズウィーク(日本語版)」7月21日号に興味深いエッセイを記している。
 「戦勝国の座を争う2つの中国、娯楽化した抗日神話の幻」がそれ。

 楊海英氏は中国・内モンゴル自治区出身のモンゴル人。現在は日本に帰化している。自らの体験から、文化大革命期の中国共産党=漢族によるモンゴル人大虐殺の歴史を初めて公にし知らしめた功績がある。
 モンゴル人の視点も添えて、中共(=中国共産党)の歴史捏造を鋭く糾弾している。日本社会党の委員長・佐々木更三が毛沢東の会見したときのエピソードをわざわざ採り上げているのは、日本人特有の甘い歴史認識、自虐ぶりに警鐘を鳴らすためでもある。
中国共産党も抗日を行った。ただし、娯楽映画の中で」とは、今や隠しおおせぬ事実なのであるから。

 もうすぐ敗戦記念日。戦後70周年なので、例年以上に「戦争の反省」「平和への誓い」が強調されるのだろうが、マスメディアが垂れ流しにするエモーショナルな情報に翻弄される前に、ぜひこの記事で歴史の基本的事実を押さえておきたいものだと思う。
 

戦勝国の座を争う2つの中国、娯楽化した抗日神話の幻

2015年07月17日 18:10  ニューズウィーク日本版

  • ニューズウィーク日本版

 中華民国台湾は今月4日に北部・新竹の軍基地で抗日戦争勝利70年の軍事パレードを行った。「国民党は8年間の抗日戦争を主導した。侵略者の過ちは許すことができても、血と涙の歴史は忘れられない」と馬英九(マー・インチウ)総統は演説した。馬はその数日前にアメリカのテレビ局のインタビューに応じた際に「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」との表現を使った。日本に厳しい姿勢を見せるとともに、中国大陸を意識した行動でもあるのだろう。

 海峡を挟んで対峙する中華人民共和国も、9月3日に大規模な軍事パレードを北京で行う。「第二次大戦を共に戦った」ロシアやモンゴルなどを招き戦勝国として振る舞おうとしている。

 83年に中国の高校を卒業した私の手元に当時の歴史教科書が残っている。中国共産党の「偉業」について次のように書いてある。「全国人民をリードして抗日戦争を勝ち抜いたのは、偉大な中国共産党だ。共産党が戦っている間、国民党はまったく無能で四川省の奥地に潜んでいた。抗日戦争に勝利すると蒋介石は勝利の果実を横取りしようとしたが、毛沢東主席は彼らを台湾に追放した」。共産党の軍隊は「地雷戦」や「地下塹壕戦」で「世界最強の日本帝国主義の悪魔どもを粉砕した」と具体的な戦術にまで触れている。

 歴史を教える教師の語り口はぎこちなかった。実際は、アメリカが広島と長崎に原爆を投下するまで日本軍は中国各地で戦闘を続けていた。結局、ソ連・モンゴル人民共和国連合軍が満州や内モンゴルに侵攻するまで日本は降伏しなかった。こうした事実はどう考えても、「共産党のゲリラ戦による勝利」とは直接結び付かない。

 圧巻は授業の合間に「本当に抗日を行っていたのは、反革命にして反動的な国民党軍だ」という、ブラックユーモアのような教師の一言だった。「歴史研究の醍醐味は、政治による隠蔽に対するレジスタンスのような真相究明にあるのでは」と、少年ながらに思ったものだ。

荒唐無稽な抗日戦の歴史

「建国の父」毛沢東は「日本の侵略に感謝する」と何回も外交の場で述べていた。61年に黒田寿男、64年に佐々木更三をそれぞれ団長とする日本社会党の訪中団を迎えた毛は事実を素直に語った。「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。日本の皇軍なしには、私たちが権力を奪取することは不可能だった」と言って、佐々木らを驚かせた。
 善良な社会党党員らがどう応じたか知らないが、毛の言葉を真摯に受け止めていたら、今日のように解党寸前にまで堕(だ)することもなかったかもしれない。

 それでも一度作られた神話は生き続ける。中国共産党の肝煎りで製作した『地雷戦』という抗日映画は今や古典中の古典となった。今年に入ると、女性の股間から手榴弾を取り出して日本兵をぶっ飛ばす荒唐無稽な作品(『一起打鬼子(一緒に日本の悪魔共をやっつけよう)』)まで登場。抗日の歴史も娯楽化してきた感じが否めない。

 すべては共産党自身が捏造した歴史の産物で、抗日戦を担わなかった歴史への皮肉でもある。「共産党も抗日を行った。ただし、娯楽映画の中で」と皮肉られるように、中国国民の多くも隠蔽された過去を知っている。

 習近平(シー・チンピン)政権は今、日中事変の舞台となった盧溝橋のほとりに立つ中国人民抗日戦争記念館に、国民党軍の抗日の実績を少し書き加えようとしている。馬総統のような「中国的心情」をまだ持っている人々への餌をまいて、台湾の分断を図るためだ。共産党は政権獲得後に無数の国民党軍兵士を「反革命分子」として処刑したり、長期間にわたる強制労働に駆り立てたりしてきた。そうやってさんざん虐待してきた「歴史の不都合な証人」に勲章を授けるという。

 ロシア軍とモンゴル軍は9月、満州やモンゴルでの勝利を胸に天安門広場を行進するだろう。では一体、中国人民解放軍は何を誇りに「戦勝」パレードを飾るのだろうか。

[2015.7.21号掲載]   楊海英(本誌コラムニスト)


「ドルチェ」~島尾ミホの独白

2015年07月11日 14時46分04秒 | 音楽・映画

 今週、聴講している授業の最終日、「ドルチェ 優しく」(アレクサンドル・ソクーロフ監督 1999年制作)を見た。
 作家・島尾敏雄の妻・島尾ミホが、それまでの人生を独白するというドキュメンタリー的な作品※。

 私自身は昔、島尾敏雄のエッセイを一冊だけ読んだことがあった。「ヤポネシア」という視点で、日本列島の周縁(奄美諸島)から見た「日本」について書かれていた。そのときは、島尾敏雄の壮絶な戦争体験、ミホとの恋愛、波乱万丈の家庭生活など、全く知る由もなかった。
 
 授業でこの映画を見て、私はひどく衝撃を受けた。この映画には、島尾敏雄・ミホ夫妻の壮絶な諍いの果て、わずか10歳で言語を喪失し、成長を止めたという長女・マヤが登場する。撮影時でマヤは49歳。敏雄の浮気が発覚して、ミホは精神病を発病して入院、敏雄も続いて同じ病気に。この出来事がマヤを病ませたのだった。49歳になった娘・マヤの痛ましい姿を何故カメラの前に露出させたのか?これは、普通の母親の感覚では到底ありえないことだと感じた。
 だが、母親であるミホは、「神はマヤに試練をお与えなさった」とつぶやくだけ。どこかで聴いたような言い回しと思ったら、やはりミホはカトリック信者だった。日本列島の原風景をとどめるような自然豊かな奄美諸島で、何故、キリスト教流のとげとげしい「神との対話」など必要だったのだろうか?神のご加護や試練を言う前に、わが子マヤに対して犯してしまった自分の「罪」をこそ問うべきではないのか。

 実は、ミホと瓜二つの人物が私の親族にはいた。夫は学徒出陣で小笠原諸島に漁船で特攻出撃、幸い九死に一生を得た。戦後は市井の教師として静かな一生を過ごした。だがしかし、その妻はまさに島尾ミホもどきだった。夫の”浮気”を生涯責め立て、親族の”裏切り”を呪い、自分は”立派な”カトリック信者であると言い張って、その一生を終えた。島尾ミホの独白を聴いていて、その相似性ゆえに、正直、私は背筋が凍るような思いがした。この国には、キリスト教は馴染まない、人を幸福にはしない。そう思った。

 戦争体験、女の執念…何とでも理屈はつけられるに違いない。しかし私にとっては、忌まわしきカトリックの記憶がこびりついて離れない。


陰陰滅滅たる独白は、カトリックの悪夢を呼び覚ます…



※  映画「ドルチェ 優しく

アレクサンドル・ソクーロフ監督と奄美の作家・島尾ミホが出会い、生まれた映像小説。海に囲まれた加計呂麻島を舞台に、ソクーロフのモノローグで島尾家の歴史が綴られて行く。終戦直後の夫婦の出会い、結婚、愛の葛藤、死、自身への問いかけ…。

監督:アレクサンドル・ソクーロフ/撮影:大津幸四郎/音声:セルゲイ・モシコフ/編集:アレクサンドル・ヤンコフスキー、セルゲイ・イワノフ/出演:島尾ミホ/島尾マヤ/島尾敏雄(写真構成。1917-1986)

1999年//63分/カラー/日本+ロシア/2000年ヴェネチア国際映画祭招待作品

DVDの内容紹介

●アレクサンドル・ソクーロフの“日本三部作”第三作

●ロシアのアレクサンドル・ソクーロフと奄美の作家・島尾ミホ。ふたりの出会いがこのような映像となって結実するとは誰が想像しえただろう。
そして島尾ミホその人を知る者はさらに驚くにちがいない。目深に被った帽子と眼鏡をはずすことのない彼女が、本作では赤裸に島尾ミホ自身を演じているのだから。
映画の冒頭は加計呂麻島を臨む海。背中を向けたソクーロフが、古い写真にかさねて、ある男の生涯を語りはじめる。
貿易商の長男に生れた読書の好きな病弱な少年は、長じて青年士官となり、加計呂麻島の海軍基地に赴任する。すべてを国家に捧げた27才の男は、島の小学校の女教師ミホとめぐりあう。出撃を前に終戦を迎えた特攻隊の隊長はその後、作家となった。こうして「死の棘」の島尾敏雄はミホと娘のマヤたちを遺し、1986年、脳内出血で世を去った。
海原に冴える満月。障子の向こうに波間がひろがる。壁にもたれたミホが、ささやくように語りはじめる。アンマー(母)のこと、ジュウ(父)のこと、敏雄との愛の葛藤、そして死。自身への問いかけ、娘マヤとの愛。
ほかに例を見ない正方形に切り取られた画面のなか、ミホは涙して思い出を語り、古謡を口ずさむ。

●過ぎ去った一切は、たとえそれがどんなに辛い記憶であっても、どこか甘い匂いが漂う。ドルチェ=DOLCEという題名は、フェリーニの傑作『甘い生活』LA DOLCE VITA(60)を連想させる。『インテルビスタ』(87/フェリーニ)では、アニタ・エクバーグとマルチェロ・マストロヤンニが『甘い生活』を見るシーンがある。決して齢をかさねることのないスクリーンのふたりを見つめる27年後のふたり!
『そして船はゆく』(83/フェリーニ)のロシア語版を監修したこともあるソクーロフは、島尾ミホにアニタ・エクバーグを重ねているかのようだ。

●さて、ソクーロフと島尾ミホの出会いはどのように導かれたのだろうか。
“日本三部作”の第一弾と呼ぶべき『オリエンタル・エレジー』(96)で、ソクーロフは日本の各地を撮影した。ソクーロフ独自のスタイルがエキゾチックな異国情緒を放つこの作品は、オリエンタルというよりも日本へのエレジーにあふれている。
そして『穏やかな生活』(97)では、奈良県明日香村に暮す老婆の穏やかな生活を綴っている。このような過程で得た多くの日本の友人たちの輪の中で、ソクーロフと島尾ミホとの距離は本人たちが知らないところで急速に接近していたのだ。
 友人からの電話で島尾ミホという存在を知ったソクーロフは、会ったことさえない彼女を撮ることを即断し、日本ではすぐさま製作態勢が整えられた。

●その昔、奄美には近隣の島や本土、沖縄のみならず中国の手品師、ロシアのラシャ売りが訪れ、島尾家ではそうした来客を厚く迎えたという。
ミホが育った島尾家の風土と、ロシア人を「彼ら」と呼び、日本人を「我々」と語るソクーロフのアイデンティティを知れば、ふたりはいつか出会うべく交差する海流に船を浮かべていたのだ。


あるスペイン人カトリック神父と中国布教の歴史

2015年07月10日 07時52分50秒 | 歴史

 何年か前、佐藤公彦教授(現・東京外国語大学名誉教授 中国近代史)の講義「近代中国とキリスト教」を聴講した。中国におけるカトリック神父やプロテスタント牧師のキリスト教布教の過程をつぶさに知ることができたのは、私にとって大いなる収穫だった。

 その佐藤先生の最新刊である「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(集広舎 2015年4月)は、中華人民共和国成立後の宗教政策史に触れている。朝鮮戦争を契機に、中共(=中国共産党)の宗教政策は「統制抑圧」に転じる。

「…朝鮮戦争が始まると、反米の嵐の中、外国人宣教師たちは排斥され敵視されて、'51年初めにプロテスタントの西洋人宣教師三千余名が追放同然に中国を離れた。なお、四、五百名が残っていたが、それも'52年末までに、大部分が中国を離れていった。かれらは台湾に逃れたり、日本に渡ったりした。1970年代まで、こうした中国伝道の経験を持った新旧教の外国人宣教師たちのかなりの数が、日本にいた。かれらはその後、次第にアメリカなどに移って行ったが、日本の中国研究者はかれらから聞き取りをして記録に残したりしなかった。1980年代になって私が近代中国の反キリスト教を研究し始めた時に、当事者の彼らがかって日本にいたことを知って、10年早かったら聞き取りができたかも知れないと、残念に思ったことを思い出す。」(同書 p.338-9) 

 私は講義の中でも同様の話を聴いた。戦後の中国研究は概ね「新中国」に共感し、近代日本を批判するのが潮流であったから、「新中国」のもうひとつの側面に触れるのは「タブー」とされるか、「右翼」とみなされて学界の主流からは疎外された。たとえば、「満洲」はその言葉自体がタブー視され、ある種の踏絵の道具となった。その結果、清朝は満洲族の王朝であり、モンゴル、チベットとはチベット仏教を通じて、同盟関係にあったこと、漢族は被支配者であったことなど、歴史認識のイロハさえうやむやにされた。これは、中共にとってまさに思う壺だった。
 中共は大陸を制圧すると、すかさずチベットに侵攻して、少数民族居住領域に対する支配を強化した。同時に三反五反運動、大躍進政策、無産階級文化大革命などを通して、
扇動(大衆運動)による絶え間ない民衆教化を続けた。それらは、「ひとつの中国」「偉大な中華民族」を「人民」という名の愚民に叩き込むためだった。

 「1980年代になって私が近代中国の反キリスト教を研究し始めた時に、当事者の彼らがかって日本にいたことを知って、10年早かったら聞き取りができたかも知れないと、残念に思ったことを思い出す」という佐藤先生の述懐を読んで、私はあるスペイン人神父を思い出した。それはホルヘ・エステバン・リドニ(Jorge Esteban Lidoni)という方で、1970年代前半の当時、70歳くらいのカトリック神父(上智大学教授・宗教音楽学)だった。私は、この先生から「中国語」を教わった。選択外国語(第三外国語)だったので、受講生は私を含めて3名だけ。そのため、リドニ先生は、身の上話も結構話してくださった。ある日、「私は26年間、イエズス会士として中国に暮し、毛沢東とは二度あったことがある」と話された。当時の学生の間では、毛沢東は輝いていたが、不勉強な私はただただ驚くだけで、先生がどこで、なぜ毛沢東に会ったのかなど、詳しいことを訊くだけの知識はなかった。もし、佐藤先生がその場にいたとしたら、どんな会話になっていたのだろうか?

 歴史の一断面を垣間見た思いと、歴史というものは、時代に合わせてつくりかえられていく、そうつくづく実感した。


佐藤公彦著「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで」
(集広舎 2015年) 


 

 

 

 


ウェルナー・ミューラーの新譜CD ”ニュー・ホリディ・イン・ジャパン” ”ライブ・イン・ジャパン”

2015年07月09日 06時40分59秒 | 音楽・映画

 ウェルナー・ミューラーWerner Müller)の新譜CDが久しぶりにVocalion社からリリースされた。

 ”Melody in the world+Werner Müller in Japan"(Vocalion CDLK4561)で、何と日本に関する二枚のアルバム(LP)をまとめたCD。「Melody in the world」は、日本では1970年に「ニュー・ホリディ・イン・ジャパン」と題してロンドン・レーベル(現デッカ・レーベル。日本の発売元はキングレコード)からリリースされた。これは、1950年代後半にリカルド・サントス名義で大ヒットした「ホリディ・イン・ジャパン」(ポリドール・レコード)を再録音したもの。日本民謡、日本の歌曲をウェルナー・ミューラー独自のアレンジで聴かせる。当時、デッカが誇った「フェイズ4」の録音なので、今なお楽しめる華麗なサウンドだ。

 一方、「Werner Müller in Japan」は、1971年の日本ツアーでのライブ録音(於新宿厚生年金会館ホール)。こちらは、当時のヒット曲やスタンダード曲を織り交ぜた内容。特筆すべきは、トランペットのホルスト・フィッシャーなどのソロ演奏。オーケストラの技術の高さも、半端ではない。この種のオケの日本ライブ録音は何枚も聴いたが、コンサートの雰囲気が十分に伝わってくる、最高の一枚と断言できる。

 日本においては、「ムード音楽」というジャンルはすでに絶え果てた。Vocalion社(英国)がこのように、日本以外では売れそうにもないCDをリリースしてくれたことに、心から感謝したい。このCDは、間違いなく掘り出し物。


  "ゲイシャ"に囲まれて喜色満面のウェルナー・ミューラー

Werner Müller - Melody in the World "Japan" & Werner Mueller in Japan   Original recording remastered

 Werner Müller (Composer), Klaus Holtermann (Artist), & 2 more

Melody in the World "Japan" Original LP SLC 4524 (1970) STEREO Owase Bushi (Trad) Noe Bushi (Trad) Nanbu Ushi-Oi Uta Kora Sansa E (Trad) Hana Flowers (Taki; Takeshima) Oedo Nihonbashi Japan Bridge (Trad) Itsuki No Komoriuta Lullaby of Itsuki (Trad) Soran Bushi (Trad) Sakura, Sakura (Trad) Shiki No Uta The Song of the Seasons (Anon) Yuyake, Koyake (Kusakawa; Nakamura) Kanchororin (Trad) Nanatsu No Ko (Motoori; Noguchi) Haru Ga Kita Springtime (Okano; Takano) Auf Wiederseh'n Tokyo Ne m'en veux pas (Rey) ///
 Werner Muller in Japan Original LP SLK 16691 (1971) STEREO Opening - Kohjoh - No Tsuki (Trad) Sugar, Sugar (Barry; Kim) Venus (van Leeuwen) Dynamite Woman (Sahm) Let it Be (Lennon; McCartney) Hejre Kati op. 32 (Hubay) KH River Song (Berking) HF Casatschok (Rubaschkin) Soran Bushi (Trad) Avant de Mourir (Boulanger) KH Zabrosa (Toucet) ML Raindrops Keep Fallin' On My Head (Bacharach; David) The Pearl Fishers (Bizet) Jalousie (Gade; May) KH Finale: Danke Schön (Kaempfert; Schwabach) A Banda (de Hollanda) KH Klaus Holtermann (solo violin) HF Horst Fischer (solo trumpet) ML Milan Lulic (solo guitar) CDLK 4561