澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「日本統治時代の台湾」(陳柔縉 著)を読む

2016年06月27日 23時30分12秒 | 

 「日本統治時代の台湾~写真とエピソードで綴る 1895-1945」(陳柔縉 著 PHP研究所 2014年)を読む。本書の原題は「人人身上都是一個時代」、2009年に台湾で刊行された。

 

 本書の原題は「人人身上都是一個時代」。日本統治時代の50年間、台湾には人々の普通の生活があったことを教えてくれる好著だ。1964年生まれの著者は、「日本語世代」の台湾人古老から聞き取りを進めるとともに、日本統治時代の新聞や雑誌を調べて、数々のエピソードを紹介する。
 その手法は、イデオロギー的な見方、すなわち植民地統治を断罪するのではなく、あくまで普通の人々の暮らしや意識を採り上げる。
 例えば、ヤマハピアノは台湾統治の初期から台湾で販売され、1920年代には多くの学生がピアノを弾いていた。また、日本統治時代の台湾においても、大陸から多くの出稼ぎ労働者が来ていて、双十節には中華民国国旗が掲揚されたという。他にも、数々のエピソードが盛り込まれている。そのどれもが、日本統治時代は、台湾の人々にとって、特別ではない普通の時代だったことを示している。はっきり言うならば、日本が去った後の蒋介石時代よりずっといい時代だったのである。台湾社会の近代化は、日本統治時代に進められた。交通、医療、産業、教育、行政制度など、日本統治時代に成し遂げられた社会インフラは、中国大陸よりはるかに進んでいた。これは朝鮮半島についても言えることなのに、「植民地支配」断罪が声高に叫ばれる中で、日本人自身が近代化遂行者としての誇りを忘れてしまったのだ。
 現在の台湾が「親日」と言われる理由もよくわかる好著だ。

 著者のインタビュー記事を以下に転載させていただく。

 

 日本と台湾が最も密接な関わりを持った日本統治時代。当時の台湾の人々からすれば異民族による統治は決して歓迎すべきことではなかっただろう。だが、どのような時代であっても人々は着実に自らの生活を営んでいた。そこには人間臭くも豊かなエピソードがあまた埋もれている。陳柔縉〔ちんじゅうしん〕『日本統治時代の台湾──写真とエピソードで綴る1895~1945』(天野健太郎訳、PHP研究所)はそうした一つ一つを丁寧に掘り起こしてくれる。 「歴史名探偵」とも言うべき旺盛な好奇心としなやかな行動力を兼ね備えた著者の陳柔縉さん。台湾人の立場から日本統治時代をどのように捉えているのか、お話をうかがった。

(1)なぜ日本統治時代に興味を持ったのか?

 

もっと台湾(以下、も):日本統治時代に関心を持つようになったきっかけは何ですか?

陳柔縉(以下、陳)私は以前、政治記者をしていました。特に政商関係をテーマとしていたのですが、政財界のキーパーソンたちの家族関係を調べ、インタビューしていると、必ず日本統治時代の話題が出てくるんです。どうしても避けられないテーマなんですね。

戦争中の日本についてはマイナスのイメージが強かったんです。ところが、インタビューをしていくと、日本統治時代は良かった、と語る人が多いんですよ。李登輝・元総統も「自分はかつて日本人だった」と語っていましたね。私自身の祖父にも「日本人と中国人、選べるとしたらどっちが良い?」とたずねてみたら、「もちろん、日本人だよ!」と返ってきました。ある高齢の大学教授はこんなたとえ話をしていましたよ。「日本統治時代の台湾はお嬢様。ところが、中国人がやって来て、そのお嬢様が無理やりヤクザと結婚させられてしまった感じ」(笑) 聞けば聞くほど、私自身が学校教育で習った歴史とは全然違う。祖父の世代は一体どんな体験をしたんだろう? どうして歴史の見方がこんなに分裂してしまっているんだろう? 真相を知りたいと思いました。

台湾が民主化される以前の歴史教育では、中国史を台湾へ接ぎ木するように持ってきただけで、1945年以前の台湾についてはほとんど無視されていました。日本統治時代についてのキーワードは皇民化、植民地統治、経済的圧迫…こういったステレオタイプだけで、その他のことは一切触れられません。この空白の時代はいったいどんな状況だったんだろう? 自分の住んでいる土地に根差した視点が欲しかったんです。

も:陳さんのご著書を拝読いたしますと、日常的に見慣れたものの由来とか、過去にあった意外な出来事とか、そういったエピソードを一つ一つ紹介していく語り口がとても面白いです。言い換えると、事実の積み重ねを通して、「上から目線」ではない見方で歴史を描こうとしていると理解してもいいでしょうか?

陳:そうですね。この本の原題『人人身上都是一個時代(一人一人に刻まれた時代)』の通り、一人一人が自分の歴史を持っていますし、また歴史を見るにしても一人一人が自分の歴史観を持つのは当然のことです。しかし、以前の台湾の学校教育では歴史の見方を押し付けられてきました。そうしたことへの反発から、何事も疑いをもって見るようになりましたね。私自身が学生の頃、法律を勉強したことも関係しています。自分自身で証拠を集めて、真相は何であったのかを調べる。総合的な判断によって自分自身の歴史の見方を組み立てていくことが大切だと思います。

も:日本統治時代について調べる際にはどのような資料が役立ちましたか?

陳:当時を体験した方々からうかがったお話が貴重な資料となります。そういったお話を記録しておくのも大切な仕事です。

も:当時を知る方々もすでに相当なご高齢ですが、焦りはありませんか?

陳:戦後も60年以上たってしまうと、ご存命の方々が覚えていることも日本統治時代後半の時期に偏ってしまいますね。台湾で生活面の発展が著しかった1920年代について語れる方はもうほとんどいません。焦ったところで、諦めるしかありません。自分でこの仕事をしながら、そうした限界は感じています。もっと前の時代を調べるには史料に頼るしかありません。例えば、『台湾日日新報』1 などは時代的に網羅されていますし、生活面の情報もたくさんあって役立ちます。

『日本統治時代の台湾』著者・陳柔縉さんに聞く #2

投稿日 : 2014年9月19日 | カテゴリー : Interview

 

 

(2)ディテールから当時の生活実感に迫る

 

も:『日本統治時代の台湾』の内容についてお話をうかがいます。タバコ工場の女子工員たちの意識調査が紹介されていますね。アンケート結果を見ているとなかなか面白いのですが、「つらいこと」として「中国語の勉強」を挙げている人がいます。これはどういうことなのでしょうか?

陳:ここでいう中国語とは、古典の中国語、日本で言う漢文のことです。このアンケートは戦争が始まる前に実施されたものですが、当時はまだ日本語が全面的に強制されていたわけではありません。例えば、『台湾日日新報』にも当時は漢文版があって、漢文が日本語と併用されていました。会社内のサークル活動で漢文を勉強するものもあったようです。普段は台湾語をしゃべり、日本語を勉強し、さらに漢文の勉強もしないといけない。サークル活動ですから任意なんでしょうけど、女の子たちの感覚からすれば、「やっぱり苦手だな、古臭くて役に立ちそうもないし、面倒くさいし…」。

も:そこは日本人の若者と同じ感覚だったかもしれません(笑)。若者の感覚という点では第2章「モダニズム事件簿」で色恋沙汰をめぐる騒動が取り上げられていますね。日本でも20世紀初頭は、古い道徳観から開放的な考え方への移行期で、こうした背景は台湾とも共通すると思います。ところで、「男女関係の乱れ」について、当時の日本では西洋化の悪影響と考える人がいましたが、台湾では日本の悪影響とみなされていたのが興味深いです。

陳:台湾での西洋化のプロセスは日本からもたらされたものですから、当時の台湾人が日本の悪影響と考えたのは当然でしょうね。日本で明治維新が起こったのは1868年、台湾を領有したのは1895年、だいたい30年のズレがあります。台湾の西洋化もやはり30年ズレると考えていいでしょう。

戦後の私たちの世代では、恋愛問題で自殺するなんて事件はあまりありませんでした。ですから、この当時、どうしてこんなに心中事件があったのか不思議な感じもします。古い道徳観の時代には恋のために死ぬなんて発想が最初からあり得ない。現代は誰を好きになろうが全く自由で、反対されることなんてないし、反対されたとしても勝手にすればいい。やはり、過渡期の現象なんでしょうね。

も:台湾で暮らしていますと、旧暦(太陰暦。台湾では農暦という)が今でも日常生活の中に根強く残っているのを実感します。対して日本は明治時代以降、太陽暦で完全に一本化してしまいました。例えば、お正月といえば、日本では1月1日ですが、台湾では春節です。日本統治時代にも旧暦はしぶとく生き残ったんですね。

陳:日本統治時代は約50年間にわたりますが、その影響が生活の隅々にまで浸透してしまうほど長かったわけではありません。例えば、家事を切り盛りしている普通のお母さんたちは学校へ行く必要もなく、昔ながらの生活習慣をそのまま続けていました。その子供たちが学校へ通ったり仕事へ行ったりしても、家へ帰れば昔ながらの生活習慣が待っているわけです。日本のお役人もそこまでは干渉できません。政府の権力が家庭の中まで及ばない時期が意外と長かったんですね。日本人社会の側でも旧暦など台湾の伝統的な慣習をむしろ面白がって受け止める雰囲気があって、新聞記事でもよく取り上げられていました。

も:「味の素」が当時の台湾でも大流行だったそうですが、人気があるだけニセモノにも悩まされたというあたり、商売人のずる賢さを感じさせます。

陳:中身を入れ替えた悪質なニセモノもありましたし、パッケージ・デザインやネーミングを似せたり、色々なケースがありました。戦後の台湾でも、「味王」「味丹」「味全」といったメーカーがありますが、こうした社名はやはり「味の素」を意識していると思います。日本ブランドのイメージをパクって売り込みに利用しようという発想もありました。例えば、蚊取スプレーを作っている「必安住」という台湾企業がありますが、これはかつて日本で有名だった「安住の蚊取線香」(安住伊三郎[1867-1949]が創業、空襲で工場が焼失して廃業)から名前を取っています。

も:「味の素」が台湾での市場調査をもとに大陸へ進出したというのは初めて知りました。

陳:日本人から見れば、台湾は漢人が住む地域ということになりますからね。戦後になっても、日本企業が海外展開を図るとき、まず一番近い隣国である台湾への進出から始めるというケースは多かったですよ。この場合は日本企業が台湾を選んだというよりも、台湾人の企業家が誘致した可能性もあります。日本統治時代に育った人は日本語ができますから、言語の壁がないのでやりやすかったのだと思います。

も:本書にも登場する台南のハヤシ百貨店が今年の6月、再オープンしました。台湾各地で日本統治時代の建物を修復・復原して観光名所としているのをよく見かけますが、どんな背景があるとお考えになりますか?

陳:両蒋(蒋介石と蒋経国)時代の国民党政権にとって台湾は大陸へ戻るまで一時的に滞在する場所に過ぎませんでした。ですから、わざわざ新しいものを建設しようという発想がなく、日本統治時代の建物で使えるものは使おうと考えたわけです。壊すのもお金がかかりますしね。彼らは保存しようと考えたわけではなく、単に放っておいただけですよ。

1988年に李登輝が総統に就任して以降、台湾では「本土化」の気運が高まります。台湾人自身の歴史を見直そうという発想から、古いものを保存しなければいけないと考えるようになりました。現存する古い建物というと、ほとんどが日本統治時代のもので、それ以前のものは寺廟くらいです。今の台湾人にとっては、ずっとそこにあって見慣れたもの。日本統治時代が良いとか悪いとか、特にそういった意識はありませんね。

も:当時の建物が保存されているのを見ると、日本人としては何となく嬉しくなりますが、現地の台湾人とは受け止め方にズレもありそうです。

陳:日本人が残した建物は頑丈だし、きれいだし、レベルが非常に高いです。私が卒業した高校の校舎も日本統治時代のものでしたが、てっきり国民政府が作ってくれたものだとばかり思いこんでいました。そういうことは学校で教えてくれませんでしたから。戦後、国民政府が建てた建物はあんまり良くなくて、こっちの方が先に壊されたりしました(笑)。

日本統治時代の台湾』著者・陳柔縉さんに聞く #3

投稿日 : 2014年9月20日 | カテゴリー : Interview

 

 

(3)台湾人が日本に残した足跡

 

も:台湾が日本の植民地だった時代、多くの台湾人が日本へやって来ました。彼らが日本に残した足跡についてうかがいたいと思います。日清戦争の結果、日本が台湾を領有したのは1895年のことです。翌年の1896年、李春生〔りしゅんせい〕1が東京へ来ました。彼が見た東京の印象はどんな感じだったのでしょうか?

陳:彼は日本での見聞をもとにした旅行記を『台湾新報』(後の『台湾日日新報』)に掲載しています。上野の動物園や博物館、それから国会、見るものすべてが新鮮だったようです。当時の台湾は農村社会で、これといったものは何もありませんでしたから、カルチャーショックは相当に大きかったはずです。

も:明治日本は西洋文明との落差を痛感して急速な西洋化を進めていましたが、李春生も東京で西洋的な文物を目の当たりにして、同じような切迫感を抱いたわけですね。

陳:西洋化を目指していたのは日本だけではありません。清朝を倒した中国の革命家たちも東京へ留学して近代的な知識を学ぼうとしていたでしょう。大きな時代の流れの中で捉える必要があります。

も:東京駅の前で、林献堂〔りんけんどう〕2 をはじめ台湾議会設置請願運動の人々が記念撮影した写真がありますね。この運動にはどのような意義があったのでしょうか?

陳:当時、台湾総督府は独裁的な権力を握っていましたから、台湾人には民主的な制度が欲しいという気持ちがありました。清代にはそんな発想すらありません。日本統治時代に入ってから民主主義への要求も芽生え始めたと言えます。日本の大正デモクラシーが台湾へ波及したという側面もあるかもしれませんが、それだけではありません。やはり台湾総督府は言うことを聞いてくれない。ですから、もっと上の人たち、つまり東京という政治的中枢へ直接訴えかけないといけいない。台湾人の民族性は穏やかですから、テロとか過激な手段は好みません。あくまでも合法的に運動を展開しようとしました。

台湾議会設置請願運動は実質的には東京の留学生が担っていました。林献堂のような有名人はその上に乗っかっている感じです。

も:東京にいた留学生はどんな人たちでしたか?

陳:多くの場合、やはり裕福な家庭の子弟ですね。東京で苦学した楊逵〔ようき〕(1906-1985、『新聞配達夫』で日本の文壇に登場したプロレタリア作家)のような人はむしろ例外的です。

台湾人女性の留学生もいました。例えば、女医ですね。台湾総督府医学校は女性の入学を許可していませんでしたので、台湾で最初の女医さんは東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)の出身です。ここを出た眼科の女医さんに会ったことがあります。怒ったところを誰も見たことがないほど本当に優しいおばあちゃんです。日本の洗練された教育を受けたんだなと感じました。私も年取ったらこうなりたい。もう理想のおばあちゃんです!

も:本書には林献堂が林熊徴〔りんゆうちょう〕 (1889-1946、台湾五大名家の一つ・板橋林家の当主) に招かれて、東京の旅館「松泉閣」で裸踊りを見たという話が出てきます。

陳:裸踊りとはいっても、女性のストリップとか、そういうのではありません。男性がお腹に顔を描いて踊るという…。

も:ああ、日本の酒宴で盛り上がると、そうやって場を盛り上げる人がいましたね。しかし、林献堂といえば台湾民族運動のリーダーとして台湾総督府から睨まれる存在、林熊徴といえば逆に台湾総督府と利権的なつながりの深い「御用紳士」、お互いに敵対し合っているイメージがあります。そういう二人が一緒にお酒を飲んでいたというのが面白いです。

陳:はい、やはり色々なつながりはあったわけです。実際の歴史は複雑で、単純に黒白つけられるものではありません。安易に貼られたレッテルは剥ぎ取っていく必要があります。

も:本書には芸術を志した留学生も登場します。彼らは東京でどのようなことを学び、その後の台湾にどのような影響をもたらしたと考えられますか?

陳:うーん、芸術というのは影響関係が客観的に見えるものではありませんから、難しい問題ですね。例えば、音楽家の呂泉生〔ろせんせい〕(1916-2008)のようにたくさんの生徒を教えたのならともかく、油絵の陳澄波〔ちんちょうは〕(1895-1947)は二二八事件で命を落としてしまいましたし、日本画の陳進〔ちんしん〕(1907-1998)の場合にはそもそも日本画というジャンルがなくなってしまいましたし…。戦後は存分に能力を発揮できる舞台がなかなかありませんでした。

芸術に限らず、様々な分野の留学生が東京に来ていました。彼らの影響をはっきりと見て取るのは難しいですが、少なくとも中堅層として台湾社会を支え、台湾が発展する力となったことは確かだと思います。

中国人留学生の東京体験について書かれた本はたくさんありますね。魯迅一人だけでも結構あります。しかし、台湾人留学生についてはあまりありません。日本と台湾の交流はこんなに密接なのに、なぜでしょうね。もっと調べる必要があると思います。

 質問に答えながら不明瞭な部分に行き当たると「ああ、今すぐ図書館へ調べに行きたい!」と身悶えしていた陳柔縉さん。「優秀な若い研究者が活躍し始めているから、私の出番はもうありません」などと謙遜されていたが、いやいや、ヴァイタリティーあふれる行動力は健在である。次は日本統治時代の広告からうかがえるマーケティングについて新刊を準備中だという。当時の時代相をどのように浮かび上がらせてくれるのか、楽しみである。

(了)

 


あばよ舛添、サラバ「団塊の世代」

2016年06月22日 10時32分16秒 | 社会

 先ほど、鳩山邦夫氏の死去が伝えられた。鳩山邦夫は1948年9月生まれの「団塊の世代」で、舛添要一とも同学年。ともに東京大学法学部でトップを争った「天下の秀才」だった。

 6月20日、舛添要一は無言のまま憎悪に満ちた表情で、記者団の前を通り過ぎていった。「この愚民どもめが…」と言いたげな舛添の表情に、「団塊の世代」の末路を見る思いがする。



 最近話題になった「団塊の世代」には、元航空幕僚長の田母神俊雄がいる。こちらも、「大言壮語」の顔とは裏腹に、セコイ選挙資金問題で失脚してしまった。

 「団塊の世代」(1947-49年生まれの世代)は、戦後ベビーブームの申し子で、630万人を数える。その最大の特徴は、粗製濫造の教育を受けてきたことにあるのではないか。
 それはもちろん「日教組」による「反日教育」のことではない。そもそも貧しい時代であったので、教育環境が極めて劣悪だったためだ。小中学校は、児童生徒の増加に施設が追い付かず、午前と午後に分けての二部授業が行われた。一クラスは56名前後、まさに満杯の教室での授業だった。
 この世代の高校進学率は七割弱、大学進学率は四分の一程度だった。団塊の親の世代には、高等教育への憧憬が根強く残っていたから、「せめて子供たちは大学へ」という意識が強かった。

 当時の国立大学は、一期校、二期校に区分されていた。これは「大日本帝国」時代の教育体系を継承したもので、旧帝国大学、旧単科系国立大学(一橋、東工、東京教育大など)旧制高校のナンバースクールは一期校(3月3日から数日が試験日)、旧制の高等専門学校(東京外国語学校など)は二期校(3月23日から試験)とされた。例えば、一期校で一橋大学、二期校に横浜国大経済学部を出願する学生が、一橋に合格したあと、さらに横浜国大を受けるケースは皆無だった。二期校は、完全に「滑り止め」扱いだったのだ。
 かといって、現在のように私立大学が評価されることはなかった。一期校の東工大を第一希望、二期校の東京農工大を第二希望として、滑り止めに早慶の理工学部を受けるのが普通だった。当時の学費格差は、私立大学の学費は国立のほぼ十倍だったので、二期校でも十分に優秀な学生が集まった。そもそも、旧制の高等教育制度においても、私立大学は大学を名乗ってはいるものの、「帝国大学」と比べるべくもない存在で、旧制高等専門学校(例えば、小樽高商、大阪外語など)の方が私立大学よりは優秀だとみなされていた。

 1968年前後に全国を揺るがした「大学闘争」「学園紛争」は、依然として旧帝国大学の頂点たる東京大学で「帝国主義大学」の特権が糾弾される一方、「日大全共闘」は名ばかりの大学教育、営利追求ばかりの大学経営を徹底的に批判した。1969年春には、東大、東京教育大(現・筑波大)の入試が中止となり、東京外国語大学においても変則入試(一科目が30分で内申重視)が行われた。そしてこのとき、東大安田講堂は、全共闘と機動隊の衝突によって廃墟と化した。

 舛添と鳩山は、現役で文一合格を果たした「天下の秀才」だったが、「東大闘争」とはどうかかわったのか。奨学金で勉強していた舛添は、全共闘の主張には一切耳を貸さず、ひたすら「栄利栄達」の道を選んだ。あの騒然たる時代に、自己(エゴ)を貫いた舛添が、今ここに至ってみると、ドストエフスキーの小説の主人公のように見えてくる。

 天下のお坊ちゃま秀才・鳩山邦夫が病死。舛添は、知事職を途中放棄。田母神は検察によって取り調べ中。
 「団塊の世代」の政治家は一人も首相になれなかった。せいぜい獲得した都知事の地位もこのありさま。「量」は多くても、「質」が伴わなかったというのが、この世代の歴史的評価になるのだろうか。
  
 
   

 
  
 


東京五輪招致 竹田JOC会長の疑惑と利権

2016年06月16日 22時33分45秒 | 社会

 5月24日付の本ブログでは、同じ「団塊の世代」に属する舛添要一と竹田 恆和(たけだ つねかず)JOC会長の「明暗」について書いた。枝葉末節(?)でマスメディアに糾弾され、火だるまになって自爆した舛添要一。一方、東京五輪招致疑惑が報道され、竹田JOC会長が「闇資金」を決裁したと認めたものの、それは五輪招致のための「必要悪」であるかのように伝えられた。そのため、竹田会長自身が経営する「海外業務渡航」を専門の旅行会社が、実はJOCの海外出張業務などを一手に引き受けているのではないかという疑惑が追及されることはなかった。

 だが、今日発売の「週刊文春」では、竹田会長の旅行会社と「電通」の関係が指摘され、「五輪利権」というべき構図が明らかにされている。



 石原都知事が言い出して、招致に動き出した東京五輪だが、一度「落選」した後に、あの東日本大震災が起きた。まともな国であれば、あれほどの大災害の後、続く大地震が予想される中で、「復興を世界に示すため」に五輪大会など開くはずはない。まず、国民が求めるのは、国土強靭化であり震災対策であるはずなのに、この国においては、「オリンピック」「ノーベル賞」は「絶対善」であるという妄想が存在するためか、防災対策をそっちのけにして、五輪招致へと暴走してしまった。「世界が日本を見ている」「日本は素晴らしい」という「ホルホル番組」が毎日流され、あたかも東京五輪を「世界の人々」が待ち望んでいるかのような「幻想」がふりまかれてる。
 
 だが、今回の「週刊文春」で明らかになったのは、「東京五輪」で金儲けを企む五輪関係者の醜い姿だ。竹田JOC会長がどんなに「高貴」なお方であろうとも、もし、自分の旅行会社が東京五輪招致に関連して利益を得ているのであれば、舛添同様、厳しい追及がなされて然るべきだろう。でなければ、この国はまともな法治国家ではない。

 そして、今からでも遅くはない。東京五輪などさっさと返上すべきだ。熊本地震さえ収束していないのに、今日は北海道でも震度6弱の地震が発生した。わずか二週間の「運動会」に「世界の夢」を託すなんて、何と愚かなことか、と何故誰も言わないのか。日米開戦も阻止できず、敗戦処理もできなかった「一蓮托生の島国」の悲喜劇は、相変わらず続いている。


天安門事件27年と蔡英文発言

2016年06月04日 18時04分54秒 | 中国

 1989年6月、北京天安門広場を血に染めた、あの「天安門事件」から27年。
 中共政権の情報統制は依然として厳しく、大陸においては「天安門事件」と検索しても何も表示されないという。
 中共(=中国共産党)一党独裁に異議を唱えた学生たちも、今や中年の域に。事件の当事者であった学生たちのひとり、ウイグル族出身のウーアルカイシはいま、台湾(中華民国)に在住し、独自の政治活動を行っている。


 天安門事件時のウーアルカイシ


  現在のウーアルカイシ(右)

 国民党(=中国国民党)一党独裁を克服し、無血で民主化を成し遂げた台湾(=中華民国)では、先日、民主的選挙によって、民進党(民主進歩党)出身の蔡英文女史が総統(大統領)に選出された。
 
 その蔡英文総統が、「天安門事件27周年」にあたって、「中国大陸の民主化に期待」というコメント(下記参照)を発表した。「27年前に天安門広場にいた学生たちの民主主義と自由に対する渇望を、かつて同じ道を歩んだ台湾の人々は誰よりも理解している」「中国大陸にも台湾の民主化の経験を分かち合ってほしい」との言葉は、実に重く深い。 

 

蔡総統、中国大陸の民主化に期待 天安門事件から27年/台湾

中央社フォーカス台湾 6月4日(土)15時10分配信

(台北 4日 中央社)中国大陸・北京で民主化を求めた学生らが武力弾圧された天安門事件から4日で27年を迎えた。蔡英文総統は同日、自身のフェイスブックを更新し、いつか両岸(台湾と大陸)が、民主主義と人権について同じ見方ができるようになることを望むと述べ、大陸の民主化や人権状況の改善に期待を示した。

蔡総統は、27年前に天安門広場にいた学生たちの民主主義と自由に対する渇望を、かつて同じ道を歩んだ台湾の人々は誰よりも理解していると指摘。中国大陸にも台湾の民主化の経験を分かち合ってほしいと語った。

さらに、民主主義と人権は天から降ってくるのではなく、人民が努力によって勝ち取るものであり、「中国大陸もその例外ではない」と強調。一方で、もし大陸がより多くの権利を人民に与えられれば、世間の人々はさらに大陸を尊敬するだろうと述べた。

(呂欣ケイ/編集:杉野浩司)



 


台湾人の「愛国行進曲」

2016年06月04日 08時01分04秒 | 台湾

  台湾通のマイミク氏が「台湾の台南ではこのような歌を歌っても何ら問題ありません。韓国や中国で歌うとヘタしたら殺されるでしょうね」というコメントをつけて、台湾人が歌う「愛国行進曲」の映像を紹介してくれた。(下記参照)

 「愛国行進曲」は、もちろん日本の歌曲、軍歌と呼ばれるべきかもしれない。右翼の「街宣車」が大きな音で流す曲でもあるので、聴いたことがある人は多いはずだ。何故、そんな曲が先月末(2016.5.29)台南・赤嵌樓(せきかんろう)で歌われたのか?

 李登輝氏が政治舞台に登場する1980年代末までは、台湾では国民党(=中国国民党)の独裁政権下で、言論の自由が著しく制限されていた。その後、民主化が実現するにつれ、「日本語世代」の祖父母から引き継がれてきた親日的な感情が、一気に顕在化した。今では、台湾でもっとも有名な史跡・観光地である台南・赤嵌樓でも、このような集会が自由に行われる。

 「ネトウヨ」と呼ばれる人たちは、この映像を「親日台湾」の証拠だと言い募るのかも知れない。他方、日本の「団塊の世代」が、「戦争を知らない子どもたち」を歌うのと同じではないか、という意地悪な見方もあるだろう。
 この曲を歌う「日本東亞合唱團+郭一男滑音吉他團」について、上記のマイミク氏は次のように説明してくれた。

滑音とはglissandoと言い音樂の表現手法の一つです。吉他團とはギター団の意味です。日本東亜合唱団は台湾にも支部が あり日本人と台湾人が仲良く軍歌を中心に歌っている合唱団です。」

 この「愛国行進曲」の後半部分は、歌詞を替え歌にして次のように歌っている。

見よ東條の禿げ頭 よくよく見れば毛が三本 頭の上で運動会 滑って転んで一等賞 おおテカテカの禿げ頭…」

 
戦前からさまざまに歌われてきた「替え歌」なのだろう。東條英機をからかった歌詞であることは間違いない。いま、この替え歌の歌詞を聴いたことで、重苦しさから解放される日本人もいることだろう。替え歌を唄うのは「娯楽も含んでいますので」と マイミク氏。

 いずれにしろ、この映像は、日本のマスメディアが絶対に採りあげない、現代臺灣のひとつの素顔を描き出している。やはり、台湾は台湾、中国の一部などではない、むしろ、日本との絆こそ、今見直されるべきだ。そんなことを強く考えさせられた。
 

愛國行進曲 // 日本東亞合唱團+郭一男滑音吉他團 合唱2016.5.29.於赤嵌樓


愛国行進曲(日本版 日本語歌詞表示)


あえて「舛添要一 擁護論」

2016年06月02日 18時50分51秒 | マスメディア

 舛添要一・東京都知事が火だるまになっている。「新党改革」時代の政党交付金の使途問題、都知事になってからの海外出張費、公用車の使用問題など、「囃す、貶す」ばかりのマスメディアには、格好のネタになってしまった。セコク、ずるがしこく、往生際が悪い「ねずみ男」というのが、現下のイメージだろうか。



 だが、私はあえて次のように「舛添擁護論」を言いたててみた。

1 「天下の秀才」だった舛添
 まず、舛添要一は類まれなる秀才だったという事実。団塊の世代(昭和22-24年生まれ)630万人の中で、東大法学部に入学できたのは、およそ1,800人。舛添は、その中で「学士助手」(当時は「助手」)に採用され、官費でフランス留学、その後東大教養学部助教授に任用された。ひとつの無駄もない、典型的なエリート・コースをひた走った。福岡県生まれの舛添は、中学生の時、父親が病死したことで、家計を考えて高専に進もうかと考えたほど、生活が苦しかったという。その当時の社会状況と言えば、東海道新幹線さえまだなく、電話がある家は稀で、もちろん、コンビニもスーパーマーケットもなかった。公共図書館も整備されていなかったので、本を通じてさまざまな情報を得ることも難しかった。全国をネットワークで結ぶ受験予備校などもまだ存在しなかった。舛添は、そんな時代に、全国模試で一二を争い、自分の能力だけで東大入学を果たした。経済的に恵まれて受験テクニックを磨き、私立中高一貫校から東大生となるというような、現在の若者とは全く異なる生き方だ。舛添が「成蹊(安倍晋三)や学習院(麻生太郎)卒ではこの国を統治できない」「細川護煕はバカ殿」と言ったのも、「言わずもがな」ではあるものの、ホントのこと(事実)を言ったまでなのだろう。

2 エリートとしての貴族趣味と大衆蔑視
 「天下の秀才」舛添は、国際政治学を専攻した。当時、この分野を志す人は、東大の中でも家柄がよく裕福な家庭の子弟が多かったはずだ。というのも、法解釈学に比べると、著しく実用性が低い。海外留学をするチャンスがなければ、研究テーマを結実できない。また、複数の外国語に極めて堪能でなければならない。当時、カセットレコーダーでさえ、なかなか入手できなかったのだから、語学の習得には現在の何倍もの努力が必要だった。何しろ庶民にとっては、海外に行くことが夢のような時代でもあったのだ。

 国際政治学者の三浦瑠麗は、舛添が「貴族的」趣味があると語った。母子家庭だった舛添には、本人の能力だけで数々の困難を克服し、現在に至った、自分こそ真のエリートであるという強烈な自負がある。それが、自分の成育歴の中では得られなかった「貴族的」なものへの憧れにつながっているのかも知れない。それは同時に、自分より能力的に劣ったものたちを見下す心情にもつながっている。

3 叩かれる人、叩かれない人
 「一般大衆」は扇動されやすく、嫉妬深い。舛添は、ポピュリズム(大衆迎合)に乗って、名を売り、政治家に転身した。舛添ほどの「秀才」が大衆の愚かさと同時に、その怖さを知らなかったはずはない。
 「大衆」は舛添という人間に、「成り上がり」の醜さを見たのだろうか。マスメディアの舛添叩きが意図的としか思えない執拗さだとしても、「街の人」がシンクロしなければ、これほど盛り上がるとは思えない。
 このブログでもすでに書いたことだが、舛添とは対照的な人物に竹田 恆和(たけだ つねかず)JOC(日本オリンピック委員会)会長がいる。同じ「団塊の世代」だが、舛添とは「王子と乞食」ほどの差がある。「明治天皇」の何とかと言う、元・華族の竹田は、幼稚舎(小学校)から大学まで慶応義塾。大学では馬術部に属し、オリンピックにも出場したという、典型的な日本的エスタブリッシュメントだ。あるデータによれば、舛添が東大に進学した頃、東大文一(主に法学部進学)の偏差値は72、一方、慶応大学法学部の偏差値は56だった。舛添から見れば、竹田も「バカ殿」のひとりに過ぎないが、ことここにきて、両者の明暗がはっきりと分かれた。

 竹田 恆和 JOC(日本オリンピック委員会)会長

 舛添が何をやっても叩かれる一方、竹田は「東京五輪」招致に当たってIOC(国際オリンピック委員会)関係者に二億円以上のわいろ金を送ったという事実が暴かれたにもかかわらず、マスメディアの反応は「五輪招致には必要悪」という鷹揚なものだった。さらに竹田は、自身で「エルティーケーライゼビューロージャパン」という旅行会社を経営し「業務渡航・海外出張専門のトータルツアーエージェント」を主業務としている。もしJOCの海外出張(まさに業務渡航・海外出張!)がこの会社を使って行われているのであれば、舛添以上の大疑惑になるはずなのに、誰も騒がないというのが摩訶不思議だ。

 つまるところ、 この国にはダブルスタンダードというか、「本音と建て前」があって、民主主義は建前に過ぎず、実は「身分主義」国家ということなのだろう。法の下に万人が平等という建前であっても、下賤な「成り上がり」はいずれ叩かれ、「高貴」なお方は逃げ延びる。そういえば、竹田と親戚筋の御方は「戦争責任」さえ免れた…。

 舛添と同じように「世論」のバッシングに遭った堀江貴文は、舛添を高く評価する。舛添が都知事を辞めても、次は「清貧のボンクラ」が就任するだけだというのだ。鋭い指摘と言うべきだろう。

   対照的な二人の団塊男。70歳の黄昏を目前にする、やがて哀しき団塊の世代…。嘆息のほかに何が残ると言うのだろうか。