澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

『帝国日本の「開発」と植民地台湾』(清水美里 著)

2019年10月30日 03時13分37秒 | 

『帝国日本の「開発」と植民地台湾~台湾の嘉南大圳と日月潭発電所』(清水美里 著 有志社 2015年)を読む。



 著者の清水美里(みさと)さんは、共立女子大国際文化学部卒業後、東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)号を取得している。本書は、博士論文をもとにまとめられた。

 本書の帯文には、「開発」の視点から帝国日本と植民地台湾の関係を再考すると書かれていて、嘉南大圳(かなんたいしゅう)および日月潭(にちげつたん)における台湾総督府の「開発」が台湾社会にもたらした社会変動を分析している。
 「あとがき」には著者がこのようなテーマに関心を持つに至った動機として、故郷である神奈川県相模湖町(現・相模原市緑区)の相模ダム建設にかかる出来事について記している。大学の卒業論文のテーマは「戦時期の相模ダム建設における中国人捕虜の強制労働について」だったという。高尾山近くに住んだこともある私にとって、相模湖は親しみのある場所だったが、中国人捕虜の強制労働があったとは、全く知らなかった。著者は「小・中学生時、教室からこのダム湖を眺めながら過ごし、大学では中国文化専攻だった私にとって、それはのどに詰まった小骨のような発話すると痛みが走るテーマだった」と記す。
 このような原体験があったからこそ、著者は台湾総督府による台湾の「開発」に目を向けたに違いない。

 全体的なブックレビューにならないことを承知で書くが、私が最も興味深く読んだのは「補論 八田與一物語の形成とその政治性~日台交流の現場からの視点」(本書p.234~284)だった。
 杉原千畝シンドラーにしても、実像と「物語」の乖離が著しいことは知られていた。杉原千畝に関しては、外務省OBの評論家・馬渕睦夫が「杉原は外務省の方針に従って行動したに過ぎない」として、その「論功」を否定している。
 八田與一については、本来、台湾総督府の業績であるべきものが、大日本帝国の敗北ゆえに、八田本人の偉業に変換されなければならなかった。
 また、八田與一のエピソードについて、日本と台湾ではかなりの差異が見られるという。たとえば台湾側は、敗戦直後、八田を追って烏山頭ダムに投身自殺した妻・外代樹の物語にシンパシーを寄せる傾向が強いというように。
 
 政治的には「八田與一物語」は、中共(中国共産党)の圧力により疎遠になりがちだった日台関係を結びつける絆となった。その内実、プロセスを分析してみせた本論文の意義は大きい。

 共立学園の八王子校舎(中・高部)に通った親族を持つ私としては、あの大学から、このようなテーマで学術論文をものにする研究者が現れるとは夢にも思わなかった。相模湖、高尾の山々そして「台湾」。こんな結びつきに心が躍った。また、著者は「あとがき」で佐藤公彦先生に謝意を表している。7年ほど前、私はこの佐藤公彦教授(当時=東京外国語大学教授 現在=同大名誉教授 中国近代史)の授業(東アジア国際関係史、近代中国とキリスト教、及び現代世界論Ⅰ)を聴講し、その熱意に圧倒された。著者は佐藤先生の弟子だったのかと、改めて親近感を覚えた。


「三島由紀夫と天皇」(菅孝行 著)を読む

2019年10月05日 13時05分54秒 | 

 「三島由紀夫と天皇」(菅孝行著 平凡社新書 2018年11月)を読む。

 三島由紀夫と天皇という組み合わせ、しかも’70年代に活躍した老評論家・菅孝行が書いた新刊書。思わず購入してしまった。


 
 三島由紀夫が自決した日、私はたまたま数キロ以内の大学にいた。しかも、私のクラスには三島由紀夫が組織した「盾の会」のメンバーであるI.Tという人がいた。こんな右翼が跋扈する大学なのだと、自分を惨めに思った。のちにこのI.Tさんは「果し得ていない約束~三島由紀夫が遺せしもの」(2006年)を著した。アマゾン・レビューには私も感想を記した。「今ようやく、著者と私の平行線が交差したように思える」と。

 そんなわけで当時、私にとって三島由紀夫の印象は最悪だった。時代の雰囲気もあって、右翼、軍国主義者などという月並みなレッテル貼りを認めていたからだ。三島が単純な天皇崇拝者などではないことを知ったのはかなり後になってからだ。

 何年か前、井上正也・成蹊大学法学部准教授(日本政治外交史)が注目すべき論文を発表した。それは「1971年、国連の中国代表権問題に際して、昭和天皇が佐藤栄作首相に”蒋介石を助けるように”と下命した」という内容だった。日本国憲法下で「象徴」になったはずの昭和天皇が、戦後四半世紀を過ぎてもなお、現実政治に影響を及ぼす発言をしていた。そういう重大な事実が明らかにされたのだ。マスメディアの反応は皆無だったが、私は昭和天皇という人物の正体をここに見たような気がした。菅孝行は、事実を「平然と<なかったことにする>のが、生身の天皇裕仁が天皇裕仁であることの面目に他ならない」と記すが、ぬけぬけと「蒋介石を助けよ」と言う昭和天皇という人物の核心を衝いた言葉ではある。
 昨今、戦争の記憶が遠のくにつれ、天皇あるいは皇室を再神格化しようとする勢力が息を吹き返した。いわゆるネトウヨとされる人たちだが、彼らの「天皇論」は極めて稚拙で幼稚だ。例えば、青山繁晴などは開口一番「本年は皇紀二千何百年…」などと口走ることで、ネトウヨの教組ヅラをする。三島が存命ならば、こんな連中に冷笑を浴びせたことだろう。

 三島は「英霊の聲」(1966年)の中で「などてすめろぎは人間となりたまひし」(なぜ天皇は人間となってしまわれたのか)と昭和天皇に問いかけた。菅孝行は、三島と天皇の関係性について次のように記す。

「役職上、皇室神道に精通している天皇は、三島の自刃が、単なる自刃でも、諫死でもなく、GHQに「国体」を売って戦後体制の基礎を築いた天皇は、天皇でありながら天皇ではなく、皇室神道における天皇の霊性の源泉は、天皇の肉体にもう宿ることはない、という宣告を三島に突きつけられたことを身に滲みて知ったはずである。」(p.214)

「三島は天皇に自分たちの「行動」の意図が伝わることを十二分に計算していた。だから、三島の目は皇居の天皇のほうを向いていた。三島は天皇を殺しもせず、皇居に赴きもしなかったが、自衛隊でのこの「行動」を通して、戦後体制の腐朽と、その起源となる敗戦時の天皇の「人間宣言」を責め、天皇のあるべき身の処し方に想到せしめようとした。三島の背後には特攻隊の兵士がいた。……もちろん、市ヶ谷での「事件」を知っても、そんなことをおくびにも出さないで、平然と<なかったことにする>のが、生身の天皇裕仁が天皇裕仁であることの面目に他ならないのではあろうが。」(p.212 太字は筆者)

 学徒出陣で九死に一生を得た私の親族は、生涯、戦争を語らず、靖国神社には決して行かず、市井の平凡な一員として一生を終えた。だがもし、上記の菅の言葉を知ったなら、万感の思いを込めて賛同したことだろう。

 無人爆撃機やドローン兵器が開発された今日、いかなる独裁者でも神風特攻隊のような残酷で無慈悲な命令を下す必要はなくなった。つまり、昭和天皇は特攻攻撃を命令した、人類史上唯一無二の政治指導者だったということだ。その本人が何ら戦争責任を問われなかったことが、今のような戦後日本を作り出した。
 
 YouTubeで人気のある、保守的な評論家、ジャーナリストは、天皇や皇室に関しては無条件に賛美するか、あるいは意図的にスルーしている。下手なことを言えば、商売に差し障るからだろう。でも、誰でもいいから勇気を出して、三島由紀夫が提起した「天皇論」を継承しようとしないのか。左翼の立場からは、白井聡「国体論 菊と星条旗」のような本がでているのだから…。要は、右でも左でもいい、もっと天皇制や皇室問題に真摯に対峙してもらいたい。でなければ、日本の国体は菊(天皇)から星条旗(米国)に入れ替わったままなのだ。いま我々が目にする天皇や皇室のあり様は、三島に言わせれば、偽りの姿ということになる。「戦後日本の虚妄」は、実のところすべてここから発しているのだ。
 

 



 

 

  




 


「反日種族主義」著者イ・ウヨン氏に聞く

2019年09月24日 13時14分02秒 | 

 今朝の「虎の門ニュース」で、松木國俊氏が韓国でベストセラーになった「反日種族主義」の著者のひとり、韓国・落星台経済研究所の研究員のウヨン(李宇衍)氏にインタビューした。

 韓国のマスメディアは、日本会議に属しているという松木圀俊氏を「極右」として攻撃し、イ・ウヨン氏を売国奴だと騒ぎ立てている。

 しかし、「反日種族主義」の著者ウヨン(李宇衍)に聞くというこのインタビューは、目からうろこの内容だ。イデオロギーにとらわれず、一見の価値がある。地上波のTV局では絶対にムリ。

 

【DHC】2019/9/24(火) 百田尚樹×松木國俊×居島一平【虎ノ門ニュース】

5. “強制徴用"の神話


国策通信社「同盟」の興亡~通信記者と戦争(鳥居英晴著)

2019年06月08日 19時40分26秒 | 

 『国策通信社「同盟」の興亡~通信記者と戦争』(鳥居英晴著 花伝社 2014年)を手にした。



 出版社による本書紹介は次のように書かれている。 

・1945年、終戦の年に解散した同盟通信社(通称「同盟」)は、戦時中、国策によって設立され、 政府助成金によって維持された国策通信社で、現在の共同通信および時事通信のルーツとなった巨大通信社です。 同盟は自らを「日本の眼であり、耳であり、その口である」と称した「思想戦の中枢機関」であり、 日本政府のプロパガンダ機関として、アジア全域を拠点としてニュースを発信し続けました。 ・同盟の存在抜きに戦前のメディアを語ることはできないと言われながら、これまで、同盟を含めた通信社に関する研究は乏しく、 同盟の正史とされてきた『通信社史』は、同盟出身者によって書かれた客観性に欠けるものでした。 共同通信出身の著者は、在野でありながら「メディア研究の過疎地帯」とされてきた同盟の研究と歴史的位置づけに挑み、 5年の歳月を費やして本書を書き上げました。 ・800頁を超える大変な労作は、著者の情熱と尽きることのない探究心の結晶です。 ここでしか読めない事実の数々が子細に記録された本書の内容は、メディア史のみならず日本近現代史の史料として 一級の価値を有しています。また、個性豊かな記者たちの群像、日本の戦時情報戦略を扱った壮大な歴史ドラマは、 知的好奇心を刺激してやみません。研究者やメディア関係者はもちろんのこと、歴史ファンの読書人にも自信をもって おすすめできる渾身の一冊に仕上がっています。(出版社(花伝社)からのコメント)

 著者・鳥居英晴氏については、鮮やかな記憶がある。半世紀ほど前、東京都立川市で開催されていた「多摩中国語講習会」で私は彼と出会った。当時、鳥居氏は慶応義塾大学の4年生で、就職は共同通信に決まっていて、中国語とベトナム語を学んでいると話していた。色白の物静かな人で、記者よりも学者の方が相応しいという印象だった。

 この中国語講習会は、新左翼系の労働団体の人が始めたものらしかった。講師は、世田谷日中学院の清田始呂先生で、ずいぶんと熱心に教えていただいた記憶がある。ただ、教材が毛沢東の「老三篇」だったりしたので、政治力?ばかりを培うだけで、会話力、読解力は二の次だった。今どきの大学生が中国語のことを「チャイ語」と言うことになろうとは、当時想像だにできなかった。「慕情」の著者でもあるハン・スーインが書いた「2001年の中国」という本を「なるほど」と鵜呑みにしていた私であったから、今日の中華帝国の再興は、悪夢、いや悪い冗談としか思えない。

 この講習会で思い出すのは、日本電子に勤めていた簑島さん。彼は蝶の収集家で、台湾に蝶を採集するために、中国語を習いに来たと話していた。これこそが、正しい外国語学習の姿。政治性の強い講習会だったので、三里塚闘争に参加していたMさん、後に日産労組をバックに都下の市長選に出馬したOさんなど、政治運動家と目される人たちもいた。

 著者・鳥居英晴氏は、53歳で共同通信を退社したという。今はどのような生活をされているのか。ホラ吹きの青山繁晴とは対極の人だろうから、地味な分野で実証的な仕事を続けられているのではないか、と思う。

 あまりの大著なので、感想を記すほどに読んでいない…。昔話が先になってしまった。嗚呼…。

 


「ミュージック・ライフ 東京で一番売れていたレコード 1958~1966」

2019年02月01日 23時38分15秒 | 

 「ミュージック・ライフ 東京で一番売れていたレコード 1958~1966」(澤山博之 監修・著 シンコー・ミュージック・エンタテイメント 2019年1月)を読む。



 出版元であるシンコー・ミュージックが本書の内容を次のように紹介している。

あの頃はどんな洋楽が日本で流行っていたのか?
オリコン以前のポップス黄金時代を刻んだMLの連載が復活!

音楽雑誌「ミュージック・ライフ」編集部が、当時の主要なレコード店の売り上げ集計を元に構成し掲載していたヒット・チャート「東京で一番売れているレコード」(1958年〜66年)。ポール・アンカがヒットを連発した1958年から来日公演実現によってビートルズ人気が爆発した1966年まで、オリコンが登場する前の洋楽ヒットの具体的な状況が唯一わかるこの企画を初めて完全復刻し、今の目で見て考察したテキストも加えて再構成。更には、ランク・インした曲を新たにアーティスト別にリスト・アップ。曲別のチャート・アクション分析を加えた資料も作成した。

この一冊があれば、これまで「何となく」語られていた当時のヒット曲の具体的な動きがわかり、往年のポップスを愛するファンも、これから知りたい入門者も、大満足間違いなしだ。」

 以前、マントヴァーニに関する記事を書いたとき、最も参考になったのが「ビルボード・トップ40アルバム 1955-1986」(ジョエル・ホイットバーン編集 音楽の友社 1989年11月)だった。インターネットがまだ普及していなかったので、私はようやく東大駒場前の古書店でこの本を見つけ、ビルボード・チャートの中でマントヴァーニ(楽団)がどのような位置を占めていたのかを正確に知ることができた。



 一方、2019年になって刊行された本書「ミュージック・ライフ 東京で一番売れていたレコード 1958~1966」は、オリコン・チャートが始まる以前のシングル盤チャートを記録した唯一の本だ。私がマントヴァーニのアルバム(LP盤)チャートを調べたように、もし当時のシングル盤チャートを確かめようとするのならば、この本は基本資料となるだろう。

 資料としてなどと肩ぐるしいことを言わなくても、本書をめくるだけで、様々な記憶、シーンがよみがえってくることは間違いない。
 

 


 

 


「日本国紀」と「愛と暴力の戦後とその後」

2019年01月04日 09時51分49秒 | 

 いま、「日本国紀」(百田尚樹著 幻冬舎)がベストセラー。さらに続編の「日本国紀」の副読本 学校が教えない日本史 (産経セレクト S 13) 新書 もベストセラーになっている。私は、「虎の門ニュース」の視聴者で、とりわけ有本香のファンなので、副読本の方はぜひ読んでみたいと思っている。

 「日本国紀」は、書店で立ち読みはしたものの、買いたいとは思わなかった。「虎の門ニュース」で毎回、百田尚樹の自画自賛的PRを見ていると、何だかもう読んでしまったような気になったからだ。でも、「日本国紀完全レビュー」というYouTube映像を見ると、東大生らしいユーチューバーが「日本国紀が問いかけている問題は、歴史の筋道を理解するという点で、東大入試の日本史に共通することが多い」と評価している。近現代史のもつれた糸を特定の史観でほぐして見せたという点では、大いに評価されるべきなのだろう。





 実は、年末年始に私が読んだのは、「愛と暴力の戦後とその後」(赤坂真理著 講談社現代新書 2014年)だった。私がキライな高橋源一郎がこの本の推薦文を書いていて、著者のことも知らなかったのだが、実際に読んでみると共感することが多々あった。保守を自認する百田尚樹は、「朝日」「岩波」に象徴される「戦後民主主義」「進歩的文化人」が日本を貶めてきたと主張する。これには、今や多くの人が首肯できるだろう。しかしながら、百田や青山繁晴の言説の中で、「普通の」人びとがついていけないこともある。例えば、皇室への無条件な称賛のように。
 
 昭和天皇はなぜ戦争責任を免れたのか、なぜ原発事故の原因追及が進まないのか、大震災の可能性が高まる中でなぜ東京五輪が強行されるのか等々、この国には「反対」を唱えられないタブーがいくつもある。その原因は「同調圧力」にあると説明されることが多いのだが、果たしてホントなのだろうか。「愛と暴力の戦後とその後」の著者は、こういった疑問を散文的に取り上げつつ、自分の考えを深めていく。これは「日本国紀」とは対照的な、「個」の思考だろう。サヨクと言ってしまえば、それはそうであるけれども…。

 まあ、今の私にとっては、こういった本もある種の解毒剤として必要なのかも知れないと思う。

 

 

 


「赤い星は如何にして昇ったか」(石川禎浩著)

2018年11月30日 00時18分06秒 | 

 「赤い星は如何にして昇ったか~知られざる毛沢東の初期イメージ」(石川禎著 臨川書店 2016年)を読む。



 エドガー・スノー著「中国の赤い星」(Red star over China)は、世界に初めて毛沢東の素顔を伝えた著作として有名だ。本書は、この「赤い星」、すなわち毛沢東のイメージが如何にして形成されてきたかを、様々な資料を駆使し明快に分析する。

 その昔、中高の社会科教師に勧められて「中国の赤い星」を読まされた世代の一人である私は、本書を読んで苦笑することしばしばだった。当時、我が町の図書館には貧弱な蔵書しかなく、仕方なく「中国の赤い星」を書店で購入、まるで要約文のような感想文を書いたことを思い出す。毛沢東と中国共産党の「中国革命」の実相は、今でこそ明らかになっているものの、40年も前には、この「中国の赤い星」に感銘を受け、何がしかの影響を受けたという若者が少なからずいた。インターネット、ケータイで自由に情報検索ができて、図書館にも読みたい本が揃っている現代では考えにくいことだが、教師に勧められた本の影響力は絶大だった。
 「中国の赤い星」には毛沢東がE.スノーに語った「自伝」が含まれている。毛が個人史を語ったのはこれだけなので、後発の数々の毛沢東研究、中共(=中国共産党)研究の自伝的部分はすべてこの本に拠っている。大昔、中国史家の貝塚茂樹が書いた「毛沢東」(岩波新書)は、人道主義者・毛沢東のイメージがあふれていた。それは、この「自伝」部分の曲解によるものとしか思えなかった。

 著者は、この「中国の赤い星」の初出から改訂版、日本語、さらに英・独・露・中国語の様々な版を比較検討する中から、コミンテルンの横暴、ご都合主義を描き出す。コミンテルンの関与については、ひと時代前の研究者は「大甘」だったように思われる。すなわち、岩波文化、進歩的文化人が花盛りの時代にあっては、コミンテルンの暗部については、見て見ぬふりだったのかもしれない。

 我が息子が小さいころ、書棚にある毛沢東関連本をみつけて、「なんで”けざわひがし”の本がたくさんあるの?」と私に訊いた。その頃から、私はその種の本を読まなくなったが、本書だけは稀に見る面白さで、一気に読了してしまった。
 
 



 


白井聡「国体論」「永続敗戦論」を読んでみた

2018年09月16日 04時06分19秒 | 

 暑い夏がようやく終わり、「読書の秋」がきたと言うのに、なかなかその気分になれない。

 「国体論 菊と星条旗」(白井聡著 集英社 2018年4月)が話題になっているので、早速買ってみたが、ちょっと読んだだけで投げ出していた。八月の初め、「プライムニュース」(BSフジ)に出演した白井聡を見て、「お坊ちゃまサヨク」だなあと感じた。お若いのに、旧岩波知識人みたいな物言いが多かったからだ。早大総長のご子息だとかで、早大政経→一橋大大学院社会学研究科博士課程修了(社会思想史)という、典型的なコース。学歴ロンダリングだなどとは言わないが、反東大、反権力という一橋大の「学風」(ただし社会学部・社会学研究科のみ)をしっかりと身に着けた人だ。京都精華大学専任講師という、現在の職も、典型的な「進歩的文化人」のポストだろう。

 「国体論」、「永続敗戦論~戦後日本の核心」(2013年 太田出版)、さらには「偽りの戦後日本」(2015年 角川書店 カレン・ヴァン・ウォフレンとの共著)で繰り返されるのは、戦後日本はずっと米国の属国であり、日本の「国体」は戦前の「菊=天皇」から「星条旗=米国」に変換されたという主張である。属国論は、左右両翼から手を変え品を変え出されてきた主張だ。「国体」変換論については、菊から星条旗に「国体」を切り替えた張本人は誰なのか明示されていない。 
 
 「国体論」でも取り上げられている「昭和天皇の戦後日本~《憲法・安保体制》にいたる道」(豊下楢彦著 岩波書店2015年)について、私はすでに感想を書いたことがある。その中で、「昭和天皇は、自らの戦争責任を免れるため、本書のサブタイトルでもある《憲法・安保体制》を受け入れ、米国への従属、属国化を積極的にすすめた。戦争責任を免れた後においても、共産主義勢力による「革命」を恐れ、自らの保身のために、米国にへつらい続けた」と記した。
 著者は何度もこの本を引用しているので、もしかしたら、上記と同様の結論を得ているのかも知れない。すなわち、昭和天皇こそが戦後日本を米国の属国に変換させた張本人なのだ、と。

 トランプ大統領の登場によって、「属国論」にも変化が生まれた。宗主国である米国が、未来永劫に渡って、日本を”護って”くれる保障などありえない。そのことをトランプは教えてくれている。

 著者の経歴や物言いなどは、正直好きではないが、対米従属のこの異常さを考える意味で、面白い本だった。




 
 
 

 


「日航123便 墜落の新事実」(青山透子著)

2018年05月06日 13時28分05秒 | 

日航123便 墜落の新事実~目撃証言から深層に迫る」(青山透子著 河出書房新社 2017年)を読む。



 33年前(1985年)に起きたこの航空事故の原因について、今なお疑問が投げかけられていることを、この本を読むまで私は知らなかった。当時は、修理不備により圧力隔壁が壊れたことに起因する事故としてしか報道されなかったからだ。その後、週刊誌などでは、いろいろな「噂」が流布されたと思うが、それを鵜呑みにするほどヒマではなかった。ところが、本書の著者である青山透子氏は、事故当時、日航客室乗務員であり、123便の亡くなった機長、乗務員、生還した乗務員とも面識、交流があった。いわば、「内部」の人であった著者が、32年を経た昨年夏、本書を著したという事実は、軽々に看過できないと思われた。

 読後の印象を言えば、事故の「核心」を衝く著作ではない、ということ。つまり、周辺事実を重ね合わせて、在日米軍と日本政府による、ある種の「謀略」「隠蔽」を匂わせる結論になっているものの、いまひとつ説得力に欠ける。

 だが、興味深く、驚くべき記述がいくつも示されている。

 
「人間は、世間の常識とは別の不可思議なことや思いもかけないことを知った時、二とおりの反応があることを学んだ。…一つは、多くの疑問を追究しようとする精神を持つ人間で、研究者的な視点で情報収集や分析に取り組むタイプだ。しかしながら一般的に見ると、公の発表とは異なることを言う偏屈な人、荒唐無稽な話をする人、とレッテルを貼られやすくなる。…もう一つは、事実を聞いた瞬間に、自分は関係ないと知らないふりをする人間で、その振る舞いは実に滑稽だ。例えば、ある新聞記者に知り得た事実を話したところ、自分だけの胸に収めておくからと言い、”明日からは電車の乗り降りに気を付けた方がよい、ホームは端っこを歩かないで”と逆に脅されるようになった。さらに別の記者は調査報道が日本は遅れているので米国並みにしなければならない、と熱く語っていた割には、事実を知るとメールも無視され”原発事故で忙しいから無理”という返事がやっと送られてきた。…別のテレビプロデューサーは”誰も後部圧力隔壁が事故原因だなんて、いまさら信じている人はいない。ただし、決定的証拠がなければテレビ局全員の首が飛ぶ。日米戦争になるという人もいる。戦争になってもいいのですか?”と、いきなり戦争の話が出てきたりした。」(
p.74)

 著者が暗示するように、日航機墜落事故の原因は米軍機のミサイル誤射であったかも知れない。だが、上記のエピソードからも自明のように、日本のマスメディアがその事実を報道することなどあり得ない。横田基地に鎮座する在日米軍は、神聖不可侵のタブーなのだから。
 福島原発事故当時、枝野官房長官は「現時点では、何の問題もない」としらじらしいウソをつきとおしたが、これに真っ向から対決するマスメディアは皆無だった。そのことを思い出すだけで十分だろう。

 タブーを見て見ぬふりをする国民性、「真実」を追究する気などサラサラないマスメディア。これでは、日航123便の墜落原因は、未来永劫分からないだろうな、と感じた。
 
 

 


 


気になる二冊の新刊書~西部邁と山本義隆

2018年02月03日 21時32分12秒 | 

 久しぶりにいい天気だったので、書店を二件はしご。

 西部邁の遺作となった「保守の真髄 老酔狂が語る文明の紊乱」(講談社現代新書 2017年12月)を買おうと思ったが、どちらの書店にも見つからず。結局、ネットで購入することにしたが、さすがのアマゾンでも2月16日以降の配送だという。現時点で、この本はアマゾンのベストセラーNo.1だというから、西部の死は予想外の波紋を投げかけているのかも知れない。

 

 新書コーナーで見つけたもう一冊は、山本義隆著「近代日本150年 科学技術総力戦体制の破綻」(岩波新書)。岩波書店編集部のツイッターは、本書を次のように紹介している。

【1月新刊その1/山本義隆『『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』】西洋近代科学史の名著や、全共闘運動、福島の事故をめぐる著作で知られる山本義隆さん。その両者を結ぶ著者初の新書がとうとう登場です。科学技術振興・信仰に基づく軍事、経済大国化を問う渾身の一冊。

 山本義隆は、元東大全共闘議長。ほぼ半世紀前、「知性の叛乱」という著書で東大闘争の正当性を主張したりした。「東大紛争」収束後は、予備校講師として密やかに暮らしていると伝えられたが、最近は名前を聴くこともなかった。



 その山本義隆が、こんな大仰な著作を、しかも岩波新書から出したというのは、ちょっとした驚きだ。さすが、「東大」全共闘のトップだっただけのことはある、と皮肉りたい気分。「市井」のひとりなの
なら、現代社会を批判したりせず、静かにその一生を閉じてほしかったね、と思う。同じ全共闘でも、日大全共闘の秋田明大だったら、「素人車検の方法」てな本しか書けないだろう。秋田明大は現在、自動車修理工をやっているらしいから。

 全共闘運動は、負の遺産しか残さなかった。その最悪の見本は、菅直人。それだけ言えば十分だろう。
 学園紛争が最高潮に達した1969年3月、東大、東教大(現・筑波大)の入試が中止になり、東外大では一教科あたり30分の変則入試が行われた。そのときの受験生は、まるで玉突きのように下位大学へと突き落とされる結果となった者も多い。最近、京大・阪大で入試出題ミスが続き「受験生が可哀そうだ」という声が起きているが、それなら1969年はどうだったんだ、と言い出す人はもはやいない。

 山本義隆の名前は、当時の忌まわしい記憶を思い出させる。私がこんな本を買うことは金輪際ありえない。

 


「英霊の聲」(三島由紀夫)と金王朝

2017年11月14日 11時55分49秒 | 

 あの三島由紀夫が自決した日、私はたまたま1km未満の場所にいてその騒ぎを知った。同時に、大学紛争の渦中、図らずも入学してしまった大学の同じクラスには、三島由紀夫が主宰する「盾の会」の会員であるIという人物がいた。私には、三島由紀夫の存在そのものがおぞましく思われた。それ以来、三島の小説を手にすることはなかった。

 最近、「新大東亜戦争肯定論」(富岡浩一郎著 2006年)の中で、三島由紀夫が短編小説「英霊の聲」で二二六事件と太平洋戦争末期の特攻で散った英霊たちの声を借りて、天皇制、あるいは天皇とは何かを問うていることを知った、そこでこの本を手にしてみた。



  三島は鋭く問いかける。昭和天皇は、二二六事件の兵士たち、「特攻」で散った兵士の前でだけは「現人神」であられるべきだった、と言う。

 「陛下がただ人間と仰せ出されしとき、神のために死したる霊は名を剥奪せられ。祭らるべき社もなく、今もなおうつろなる胸より血潮を流し、神界にありながら安らいはあらず。…などですめろぎは人間(ひと)となりたまいし」

 三島が単純な昭和天皇崇拝者ではなく、「近代日本」および天皇制の宿命について、深く理解していた。このことだけはよくわかった。

 ひるがえって、私が考えてしまったのは、北朝鮮人民軍の兵士たちのこと。彼らの今の心理状態は、帝国陸海軍兵士に通じるものがあるはずだ。いざ、米国との戦争になれば、特攻精神で史上最強の軍隊に立ち向かうだろう。
 昭和天皇は、戦後、さっさと「人間宣言」をして、英霊たちを裏切った。この小説が示唆することでもある。では、金正恩は朝鮮人民軍の英霊と「正しく向き合える」のか?つまり、「現人神」であることを貫けるのか。

 日米戦争の開戦と終戦の経緯を顧みると、天皇が今少し決断力と指導力を備えていれば、また違った展開もありえたはずだ。北朝鮮は、ある意味では、天皇制国家のコピー。金王朝の「現人神」は、天皇が直面したのと同様の試練に立ち向かわなければならない。孤独な独裁者は、今抜き差しならぬ決断を迫られている。
 



 


「属国民主主義論」~敗戦しなかったイタリア

2017年07月29日 08時04分15秒 | 

 遅ればせながら、「属国民主主義論~この支配からいつ卒業できるのか」(白井聡、内田樹著 東洋経済新報社 2016年)を読む。いわゆるリベラルな学者、評論家の対談集。盤石にみえた安倍政権がマスメディアの世論誘導によって危機に瀕している今、本書を読むとこの国の「民主主義」のあり様がタイムリーに浮かび上がってくる。

 

 私が特に興味深かったのは「敗戦しなかったイタリア」(本書p.43-49)の部分。

内田「安倍首相がいくら敗戦を否認しようとしてみても、結局は戦争を終結した場合は”私たちがが間違っていました”と言わなければならない。敗戦国はみなそうですけれども、その点では、日独伊三国の中では、イタリアが比較的恵まれているように思います。というのも、イタリアの場合、第二次大戦は形式的には勝って終わっているから。」

白井「自分でムッソリーニを始末しましたからね。」




内田「…国際法上は戦勝国として終戦を迎えたことになる。ただ、実際には、勝ったとはとても言えない。…だから、戦後も敗戦国のような顔をして、ぐったりと戦後世界を生きてゆきましたね。…”勝ったような負けたような…、まあとにかくえらい目に遭いました”という曖昧な、その分だけリアルな感じで戦争体験を受け止めた。」


内田「…戦争の負け方にイタリアは”味”がありますよね。ドイツや日本のように、国内が一丸になってしまうとダメですね。挙国一致で国論が一致してしまうと、負けるときにもバケツの底が抜けたように徹底的に負けてしまう。戦時でも、国内に拮抗する勢力があって、絶えず戦争指導者と葛藤している場合には、負けるときも総崩れ的な負け方はしない。…”負けしろ”を残そうと思うのなら、国内にそこそこの”まつろわぬ勢力”が存在することが必要なんです。それが敗戦から僕らが学んだ教訓の一つですね。」

 日独伊三国軍事同盟の一員だったはずのイタリアは、1945年4月28日独裁者ムッソリーニを処刑し、連合国側に寝返った。4月30日には、ヒトラーが自殺し、ナチスドイツの敗北が決定的となった。一方、同盟国をすべて失った日本は、沖縄戦(1945.3.26~6.23)、広島・長崎への原爆投下を経て、敗戦(8.15)を迎える。驚くべきことに、この間の1945年7月、イタリアは連合国の一員として日本に対し宣戦布告さえしている。

 一昨年、「日本の一番長い日」というリメイク映画が公開された。戦争の原因を追究するような作品ではなく、「玉音放送」の音盤をめぐる支配層の内輪もめを描いたに過ぎなかった。昭和天皇の「ご聖断が日本を救った」というコピーがずいぶんと流されて、日本の「敗戦」はとうとう「ご聖断の美談」にすり替わってしまった。この日本と独伊の鮮やかな対比は見事なまでだ。

 イタリアと日本の生きざま(政治過程)の違いは、何に由来するのか。宗教、人種、民族性、地政学的相違など、いくつも考えられるが、ここでは追求しない。ただ思うのは、ありふれた国民のひとりにとって、どちらの国に生まれるのが幸運なのか?

 季節柄、盆踊りのように恒例となった、戦争回顧番組がTV・ラジオに溢れている。どれも、「平和」「人権」「市民」といった現在のキーワードで、史実を解釈し、ある意味では「戦前」を断罪する番組だ。今いる自分は、戦前とは無関係なのだという無意識の主張が見て取れる。TV製作者は、戦争体験者が激減したので、些末なエピソードをこねくり回して「感動物語」として放送することが可能になった。例えば、今夜、放送される近衛秀麿をめぐる「ユダヤ人を救ったマエストロ」という「物語」もそのひとつ。

 そんな番組を鵜呑みにするような人達は、まさに一蓮托生で従順な日本人そのもの。イタリア人なら、誰も鵜呑みにはしないだろう。「東京五輪」「おもてなし」と囃し立て、「森友」「加計」と大騒ぎのこの国は、一方で福島原発事故の現状、近未来の大震災への対応においては、意図的に情報をコントロールし、国民に「見て見ぬふり」を強要している。こういう国はやはりしたたかな世界を相手にするには幼稚で、ひ弱すぎる。それだけは確かだろう。 

  


「朝鮮総督府官吏 最後の証言」を読む

2017年05月21日 13時05分27秒 | 

  「朝鮮総督府官吏 最後の証言」(西川清 述 「桜の花出版」編集部編 2014.8)を読む。
 証言者である元・朝鮮総督府官吏・西川清氏は、本書が出版された時点で99歳だった。今もご健在なのだろうか。



 本書の内容に沿っていると思われる西川氏の証言は、幸い、映像でも見ることができる。(下記参照)

 西川氏は、本書の中で、「従軍慰安婦」は絶対に存在しなかったということを強調し、日本統治下朝鮮における朝鮮総督府の組織・機能、官吏の役割、郡役所における仕事、日本人の朝鮮人の関係などを詳述している。日本統治時代の朝鮮についてわからない点があれば、「朝鮮は戦場ではない」「行政の幹部に朝鮮人がいる」という二点に留意してほしいと、西川氏は指摘する。(本書 p.99) 

 前書きに相当する「取材記」には次のような一文がある。

 「従軍慰安婦問題などは記憶が鮮明なはずの終戦直後には話題にすらならなかった。何故なら当時は実態を知っていた人が日韓で数多くおり、強制連行などが嘘であことがすぐに分かってしまうからである。初代大統領の李承晩や日韓国交正常化時の朴正煕・元大統領も問題にしていない。この事実が何より真実を雄弁に語っている。」(p.7)

 本書における西川氏の証言は、実体験に基づいて、その真実を語っている。戦争体験者が激減した現在、このような証言は大事に語り継がれるべきだろう。
 
 私自身、朝鮮半島にはさしたる関心もなかったのだが、台湾の歴史に興味を持つにつれ、台湾総督府の統治が近代的合理主義(科学技術を尊重する合理主義)、法治主義に基づく、真摯な統治だったことを知った。台湾総督府がそうであれば、朝鮮総督府が正反対のことをやったなどとは、到底考えられない。そこで本書を読んで、改めて朝鮮近代化に果たした朝鮮総督府(すなわち日本)の役割を認識した。

 なお、本書のシリーズには、NHKスペシャル「アジアの”一等国”」でインタビューを受け、その発言の一部を都合よく切り貼りされたとして、NHKを名誉棄損で訴えた徳三氏(台湾日本語世代の医師)の自伝も入っているので、本書の内容も十分に信頼に足ると考えられる。本書を「朝日」の読者にもぜひ読んでいただきたい。 

 


「田中克彦 自伝」を読む

2017年04月07日 12時36分00秒 | 

 「田中克彦 自伝~あの時代、あの人びと」(田中克彦著 平凡社 2016年12月)を読む。
 著者・田中克彦(1934.6.3~ )は、著名な言語学者で一橋大学名誉教授。モンゴル学者でもあり、言語や歴史など幅広い分野で大きな足跡を残してきた。
 
 3年前、私は東京外国語大学で「モンゴル近現代史」(二木博史教授)の授業を聴講した。受講生(学生)が15名程度、教授の手作りのレジュメ、資料で進められる、極めて密度の高い講義だった。そのとき、かつてこの大学のモンゴル語学科卒業生であり、一時期、同学科の専任講師を務めたことのある著者・田中克彦の名前は、授業の中にもたびたび表われた。このモンゴル語学科は、1911年、大陸進出という国家目標を念頭に設置された。(当時は東京外国語学校蒙古語科)だが、戦後、東西冷戦が先鋭化して、モンゴル人民共和国が「鉄のカーテン」の向こう側にいってしまった関係で、モンゴル語の有用性が問われる時期が長く続いた。それでも、東京と大阪の外国語大学に設置されたモンゴル語学科は廃止されることはなく、研究、教育活動は地道に続けられてきた。都立戸山高校に在籍していた著者が東京外国語大学モンゴル語学科を受験すると決めたとき、高校の教諭は「どうしてそんな言語を選ぶのか」「本校始まって以来だ」と言ったという。



 当時の国立大学には一期校、二期校の区別があり、旧帝国大学、旧制大学に由来する大学は一期校(3月3日から入試)、旧制の高等専門学校に由来する大学は二期校(3月23日)とされた。東京外国語大学はその出自からして二期校であったが、問題だったのは、二期校が一期校に落ちた人が初心貫徹できずやむを得ず入る大学という位置づけだった点にあった。田中克彦は本書の中で「一期校は東大に願書を出し落ちた」と書いてあるのだが、対照的に故・中嶋嶺雄(前国際教養大学学長、元東京外国語大学学長)は、自分が一期校のどこを受験したのか一言も触れていない。あたかも、東京外大中国語学科を第一希望に入学したかのように、その著書には書かれている。中嶋嶺雄が一期校である東大や一橋大を受験せずに、東京外語大だけを受けたなどとは、だれ一人思わないだろうにもかかわらず…。

 田中克彦はモンゴル語学科を選んだ理由を次のように書いている。

「ぼくがモンゴル語科を選んだ理由は、他の語科の案内に比べて最も学問への道を強調していることだった。就職に有利だとか、そんなハシタナイことは書いていなかった。書こうにも書けなかったからであろう。…モンゴル語とは対照的に、もうかる商業言語であることを強調して目立っていたのはスペイン語である。…スペイン語科というところは、モンゴル語科というところに比べて何という下品なところだろうと思った。」(本書、p.130-1)

 モンゴル語の需要はゼロという時代が続き、著者が入った年は学生が四人。それが教授、助教授、助手、外国人講師に教わったのだから、なんというぜいたくであろうか、と著者は言う。この状況を、坂本是忠(元東京外語大学長 モンゴル学)は、「一期校を落とされた学生たちは、親に金があれば、早稲田か慶応にいくはずだ。金もなく、力もないやつが来るのが外語なんだよ」と言っていたという。(p.133)

 著者はモンゴル語学科を卒業した後、一橋大学大学院社会学研究科に進学する。当時の二期校には、大学院が整備されていなかった。研究者を志すとすれば、一期校の大学院に行くしかなかったが、一橋大社会学研究科は二期校の優秀な学生の入学を受け入れていた。二木博史、佐藤公彦教授(現在は名誉教授)も同じような足跡をたどったようだ。もっとも最近、一橋大はSEALDsの奥田某を明学大から入学させたりしているが。

 このように、ユニークなコースをたどった著者のエッセイ(本著)は、文句なしに面白い。大学紛争については、次のように書く。

「1968年から69年にかけて発生した大学紛争は、東京外語にも、かなり激しい形をとって及んだ。……ぼくが最も失望したのは、たとえばインドネシア語学科では、それまで教えられてきた、オランダ語の授業をやめろという要求である。なぜなら、オランダ語はインドネシアを支配してきた植民地権力の言語だからというのである。この要求の理由は、学生が単にラクをして、外国語を学ぶ時間をなるべく減らしてもらいたいというのが動機である。考えてみれば、東京外語の学生のかなりの部分が、一期校に入れず、こころならずも、外国語学習を主な目的とする大学に入らざるを得なかったという、みずからの不満を訴えていることになるのだから、つまり、大学のあり方と、彼らの要求との間にずれがあるのだから、彼らが東京外語にいることじたいが間違っていることになる。…そのばあい学生がやるべきことは、みずからすすんで大学を去るか、その誤った存在である東京外語を解体して廃校にすべきだということになる。」(p.236-7)

 著者の立場は、学生に十分に同情的だったと思われる。大学紛争のしこりがのこったためだろう、その後著者は岡山大学に移るが、そこでのモンゴル関係プロジェクトは、東京外語の学長、日本モンゴル学会会長だった坂本是忠に潰されてしまう。そのとき、「東京外語のH君に参加させるという提案をのみ、そこでHを通訳として付けた」(p.255)と書かれているH君とは、二木博史先生のことかもしれないと思った。

 他にも面白いエピソードがたくさんある。
 著者は、西ドイツに留学中、ボンで篠原一(故人 東大名誉教授 ヨーロッパ政治史)とアパートの部屋を引き継いだ。留学を伸ばしたいと相談したら、篠原は「二年なら大丈夫だよ、もっとも東大法学部なら三年だっていられるんだがね。ただし東大でも、ほかじゃだめだよ。法学部じゃないとね」と言ったとある。これは好意的に書かれている一文なのだが…。篠原一の授業は、(兼任講師として来ていた某私大で)聴いたことがあるので、いい先生だったと付け加えたい。

 また、モンゴル史の大家・岡田英弘とボン大学で会った時の話だが、「岡田さんは、ぼくがソ連に行こうとしているのを知って、ぼくを車に乗せて、ソビエト大使館に連れていってくれた。岡田さんがぼくを自分の車に乗せてくれたのは、これが最初にして最後であった。…かれには当時若い奥さんがいた。その奥さんはぼくを一目見て毛嫌いしてしまったらしく、あんな下品な人を、あなたは乗せるべきではないと言ったらしい。家柄のいい女だとかで、岡田さんはその若い妻のいいなりだった。その後、岡田さんはずいぶん長い年月をかけて、離婚を達成し、今の宮脇淳子との結婚をとげたのである。」(p.192-3) 

 東京外語出身者のホープだったのかも知れない中嶋嶺雄については、「東京外語の紛争中に、中嶋嶺雄が勤務評定法を考え出した。教員の評価は、管理、教育、研究と三つの領域に分け、それぞれ三分の一とし、研究には極めて低い評価しか与えなかった。こういう人は、根っから、学長になるために大学に勤めているような人である」(p.257)と一刀両断にしている。

 様々なエピソードからは、著者の反権力的な自由人たる人物像が浮かび上がってくる。

 


 

 

 

 


「毛沢東~日本軍と共謀した男」(遠藤誉著)

2017年02月20日 01時34分09秒 | 

 遅ればせながら、「毛沢東~日本軍と共謀した男」(遠藤誉 新潮新書 2015年)を読む。



 本書の書評については、国際政治学者である藤井厳喜氏の映像があるので、下記に貼り付けた。

 著者の遠藤誉には「卡子(チャーズ) 出口なき大地」(1984年)という自伝的著作がある。二十年以上も前、私はこの本を読んで、大きな衝撃を受けた。新京(長春)における生き地獄のような実体験が、そこには記されていた。

 毛沢東や中国共産党について、私たちの世代が読まされた本と言えば、ルポルタージュでは「中国の赤い星」(エドガー・スノー)、「中国紅軍は前進する」(アグネス・スメドレー)、通史では「中国現代史入門」(岩村三千夫)を筆頭に左翼学者が書いた本が推奨されていた。E.スノーなど米国人ジャーナリストのルポは、今から見れば、中共(=中国共産党)のプロパガンダを鵜呑みにした内容であることは明らかなのだが、当時はそんなことは夢にも思わなかったのである。

 私は、宇野重昭先生の「毛沢東」「中国共産党史序説上・下」を熟読した。客観的に書かれた名著で、講義も聴講した関係上、今でも記憶に鮮やかだ。さらに「中国共産党史研究」(石川忠雄)も米国の中国研究の影響を受けた「客観的」研究としてよく知られていた。

 だがしかし、従来の研究のほとんどは、多かれ少なかれ路線闘争の道筋を描き、その勝者の正当性を主張するという中共党史(中国共産党の公認史観)に依拠して書かれているので、コミンテルンとの関係を筆頭によく分からない点が多かった。
 
 その点、遠藤誉「毛沢東」は、類書とは全く違う。中共を持ち駒と考えるコミンテルンの謀略性、さらにコミンテルンさえも手玉に取った毛沢東の冷酷非情が描かれる。国民党政府軍が日本軍と戦うように仕向け、中共の軍隊である八路軍の温存を図り、大衆に対しては巧妙なプロパガンダを仕掛ける。ただ待つのは日本の敗北のみ。本書の帯に書かれている毛沢東の言葉「日本軍の進攻に感謝する」がすべてを物語っている。